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2016年9月22日 (木)

雲仙市の歴史を学ぶ会~「栗原玉葉」★吾妻町出身の女流画家

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今日は雲仙でお勉強。「雲仙市の歴史を学ぶ会」で、内容が、「雲仙市吾妻町出出身の女流画家 栗原玉葉の美人画の世界」。講師が長崎文化博物館の研究員・五味俊晶氏。内容が内容なので、参加者が少ないかと思ったら、満席でした。

この会に参加しようかどうか迷ったのですが、私の知り合いが実物を持っており、それを見せられ、どのような人物なのか知りたく参加をしました。

「吾妻町史」に2ページわたって紹介してあり、生まれが明治16年4月19日山田村馬場(現在、雲仙市吾妻町)、酒造業栗原宰(つかさ)の長女(兄四名の末っ子で一人娘)として生まれる。本名「文子(あやこ)」。

小学校の頃、父が亡くなり、梅香崎(うめがさき)女学校を明治39年卒業(在学中洗礼を受けクリスチャンへ)、東京女子美術学校(現在の女子美術大学)へ入学。在学時に寺崎廣業へ師事。この寺崎廣業がかなりの影響を与えたらしいのですが、苦労しながら、大正3年第7回文部省主催展覧会(文展)に出品した「さすらい」が出世作となり、第8回、第9回と連続入選をしますが、第9回文展の日本画部には2146人が応募し、入選が204点。狭き門です。

この時の会場の部屋分けで、第3室に「美人画の部屋」があり、34点展示され、もちろん、栗原玉葉の日本画もあったわけです。

ところが、この事に関し批判があり、「次に吾人の快とするは所謂美人画の殆ど影を潜めたる事である。昨年の文展は美人画室をこしらえて如何わしき芸術をかけ並べ、識者の指弾を蒙れる事は世間の周知の事実である。(略)」(社説「文部省展覧会(第十回)」(「中央美術」第2巻第11号、1916年、3頁)。

という事で、絵画作品は生計を成り立たせる「モノ」ということで、美人画家は主題を変更していきますが
○「美人画」に地域的な付加価値を与えるもの~栗原玉葉等
○女性の内面に更に踏み込んで描く~島成園等
○官展や画壇とは離れた活動を行う~甲斐庄楠音等
となっていったそうです。

なお、栗原玉葉の評価については、「栗原玉葉女史は、女子美術学校の出身で、後寺崎廣業に師事した人、焦園女史亡き後は東京に於ける閨秀画壇の第一人であると云えよう」(小川治作「洋画日本画閨秀作家評伝」・「審美」第3巻第2号、大正9年)。

なお、日本画の大家、伊東深水も次のように述べています。「美人画はおそらく前の文展時代に端を発したものだろうと考えられるのです。と申しますのは、当時清方先生をはじめ池田輝方、焦園、
栗原玉葉、関西の上村松園、北野恒富といったような諸先輩が描いた婦人風俗画が文展を賑わし、其画風を景欽する作家が盛んに排出されまして、ある年の美人の画が満場を圧するの趣を呈した年がありました。今日の美人画の名称はけだしこの時あたりにおこったものかと考えられます。」(伊東深水「風俗画について」)

なお、「その門下生は『銀葉会』の名のもとに八十名にもおよび多くの女流画家を出したが、大正九年六月に生まれた『月曜会』は玉葉を中心とした当時の女流画家のほとんどが入会していた。」(「吾妻町史」)

ということで、故郷でもほとんど忘れられている優秀な人物の掘り起こしが、現在必要なのではないでしょうか。

玉葉は歌人としても有能であったらしく、故郷を偲びつつでしょう。

思い出は芋の畑にあぜみちにとんぼ追ひたる古里の秋

(資料:当日のレジメと講演・吾妻町史より)


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