「島原街道について」~駄賃・特に千々石街道について
島原半島ですが、左手のピンクの上の四角が「土井口番所」、下の四角が「原口番所」で、島原藩と諫早領の境になります。
赤丸印が島原で城下です。島原半島は昔、北目、西目、南目の三筋に分かれていました。
島原から逆時計方向に、島原、杉谷、三会(みえ)・・・・・・会津(愛津)、これが、北目筋になります。島原から時計方向に、中木場、安徳、深江・・・北有馬(大体青の丸印)、これが南目筋になります。青丸の所から、北有馬、隈田・・・・千々石(大体黒の丸印)、これが西目筋になります。
これを結ぶ線、黒い線が街道です。もう一つ、島原から山越えで千々石に至る道があり、これが千々石街道。
さてよく時代劇で、人足が荷を運ぶ様子がありますが、先日、古文書研究会で「島原領道法駄賃覚」(寛文十三癸丑歳六月一日)というのを頂き、「右の通り、吟味の如く、先規定候。壱里に付き、駄賃銀四分宛て、山越は、八分宛てに相極まり候間、此通り相心得べく事也」、という事で、壱里が銀四分、山越えはその倍になります。
この、「銀四分」というのが、今の「円」に換算するといくらになるか、専門の方の話では、なかなか難しいところがあるのですが、ネットに換算のページがあり、これを利用すると→こちらをクリック 。で計算すると、一里だいたい4キロで440円。
現在のタクシーだと、会社で違うようですが、長崎では、初乗り1000mで510円、以後188mごとに50円のようですから、人間と荷物を運ぶ違いはありますが、随分とお安いものです。
さて、この千々石街道が険しく、天保三年の地図に、「此一里山之間坂有難所附き馬不通」。難所の坂があり、荷物を背負った馬は通れないという事です。
「長崎市史・資料2・島原藩」の所にも
一 村繼之道法、貞享二年丑相改、別紙書付出置候、駄賃銀壹里に付四分、
千々石山越本道二五割増、(以下略)」
千々石山越えは、本道より五割増しですから、いかに厳しい道かという事が分かります。
松平忠房(丹波福知山城主)は島原に移り城主になりますが、この時、「・・・将軍召公使就新封言曰、与大久保忠朝(加賀守唐津城主)同監長崎事務・・・」。要するに江戸時代、長崎は唯一の貿易港で、天領でしたから、唐津城主と共に長崎の事務を監視するように命じられ、島原のお殿様は、島原と長崎を行ったり来たりするわけですが・・・「殿さんが、あん険しか山道(千々石街道)ば行くもんか。(訳:お殿様が、あの険しい道を行くはずがない)」と言う人がおりましたが、「永代日記」(原典は島原市松平文庫蔵)というのがあり、横浜の方がルーツ探しをしているとき、出会ったようで、解読をされており、それによれば、
一 殿様天明四年辰四月十日長崎江御越被為遊候節、千々石道通、千々石村
御昼休ニ付(以下略)とか
「・・・・然者此度千々石道御通行ニ付、道筋普請等仕候処・・・」とか、お殿様が通るので、普請をさせられたりで、明らかに、この厳しい千々石街道を、お殿様が通ったことが分かります。理由としては、「藩主が長崎に出るのに海岸道より、この方が近いので整備させたものであろう。」という事です。(北目筋を主に使ったようですが・・・)
ただ、あの道を多分馬に乗ったのではなく、駕籠に乗ったのでしょうが、担ぐのも難儀なら、乗ったお殿様も大変だったと思います。
(参考・文引用:「島原半島の歴史~松尾卓次修」「永代日記~角田義雄解読
「・・・・然者此度千々石道御通行ニ付、道筋普請等仕候処・・・」とか、お殿様が通るので、普請をさせられたりで、明らかに、この厳しい千々石街道を、お殿様が通ったことが分かります。理由としては、「藩主が長崎に出るのに海岸道より、この方が近いので整備させたものであろう。」という事です。(北目筋を主に使ったようですが・・・)
ただ、あの道を多分馬に乗ったのではなく、駕籠に乗ったのでしょうが、担ぐのも難儀なら、乗ったお殿様も大変だったと思います。
(参考・文引用:「島原半島の歴史~松尾卓次修」「永代日記~角田義雄解読
「長崎県史・資料2」「島原半島史~林銑吉」)
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