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2016年4月 8日 (金)

「甲石(かぶといし)」その他の事について~長崎県雲仙市南串山町

Photo

重政(松倉重政)公の「甲石」の場所だそうです。


地元に残る古文書、郷土誌の中で、17世紀の島原藩主、松倉重政が休息のた

めかぶとを脱いで置いたと記述されている「甲石」の場所を、南串山町史談会長

茂和夫先生が特定されたそうです。


古文書によると1629年4月、長崎へ向かう際、南串山を通り、農民の利水のた

め水路「大井手百間(おおいでひゃっけん)」を築くよう指示。休息のため地蔵が

近くにある石の上にかぶとを脱いで置き水の川を水を飲んだ。その川を『甲川』

と呼ぶようになったという(長崎新聞2016年3月17日)。で、同地区を調べ特

し、看板を設置したそうです。残念ながら、甲石は水の中で見えません。

Dsc_0367 2_2

Photo_5

ここの近くには、諏訪の池があり、国民休暇村がある所です。

赤○印の所が「甲石」の場所、矢印が諏訪の池で、上から上池、中池、新池にな

ります。

「甲石」の場所が少し分かりにくく、223号線を行くと、写真の所があり、左の赤

の矢印に行くと諏訪の池、看板があります。青の矢印の方向に行き、左に曲がる

と少し狭い道になり、今回の話題の場所になります。

Photo_6 Photo_7

さて、実はこの諏訪の池については、昭和53年刊の「小浜町史談」には次の様

な記述があります。


「(略)上池・中池・新池にわかれ上池がもっとも大きく一周およそ四キロ㍍余、元

和二年(1616)奈良から移された島原領主松倉氏が、小浜入浴のためここを通

るとき、水田の干害対策を村民から陳情され築堤を命じたという説がある。」、た

だし、「あるいは有馬城主時代にも貯水池があったかも知れない。」との記述もあ

小浜町のガイドブック「おばま 史跡巡りガイド」には、


1653年(承継2) 赤峰山の東南盆地にせきを築いて池(上)にする。この時「諏

            訪の池」と名づけられる

1669年(寛文9) 諏訪二ノ池(中)を構築

1752年(宝暦2) 大亀名山川池より助井手をとおして諏訪二ノ 池(中)に注ぐ。

1797年~1822年 山川下池の井桶を悉く改装。

1822年(文政5) 諏訪持土手を築き新助井手(水路)を疎して、山川下池の水

            を引き諏訪の池に注ぐ。


諏訪の池を、下池方面から撮った写真、右は新池ですが、今は木に覆われて、

自動車道路からは見えません。

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松倉重政の没年が1630年(寛永7年)という事を考えると、諏訪の池の松倉説

は少し無理かなとは思いますが、原資料を見ていないのでなんとも言えません

が・・・


さて、松倉重政といえば、「島原・天草の乱」で、島原半島は以前は、キリシタン

大名有馬晴信が治めていますが、岡本大八事件で死を命ぜられます。継いだの

が、その子の直純ですが、キリスト教を捨て慶長19年(1614)に日向国(延岡)

に国替え。その後2年ばかり、幕府の公領になり、鍋島・松浦・大村の管理に置

かれますが、元和2年(1616)松倉豊後守重政が領主として迎えられます。


松倉氏は最初、キリシタンに寛容であったものの、幕府より叱責を受け、厳しい

取り締まりを始めます。なお、重政公の死後、子の勝家が後を継ぎますが、こ

れが又悪政で、住宅を建てれば建築税、窓を作れば窓税、鑪を設ければ鑪税、

畳を敷けば畳税、出産には頭税、死亡埋葬には穴税、加えて重政公時代に禄高

にも合わぬ大きな島原城を築き、島原半島の住民は大変な負担を強いられ、

「島原の乱・天草の乱」を招き、松倉氏と言えば悪名高くなるのですが・・・

Photo_9

千々石の海岸ですが、赤○の所が、堤になって、松林になっています、これが無

ければ、ご覧の通り、後の畑は潮風の吹きっぱなしになります。


この堤を築いたのが、松倉重政であり、島原城築城の折、千々石の和田四郎左

衛門義長(橘氏三世・橘中佐の祖先)が招かれ、この時、千々石のこの一帯が困

っているのを聞き、「千々石ノ地 海水害甚シク比年田稼捻ラズ聞ク 弧甚ダ之ヲ

苦慮ス仍テ封内ヲ検地シテ郷民ト協同シテ堤防ヲ設ケヨ」ということで、この堤防

ができたわけです。(前にも書いたかな?)


松倉重政といえば、悪人の代表みたいですが、意外と農民の方にも目がいって

いるのが分かります。前述の茂先生も「重政はキリシタン弾圧などマイナスイメー

ジがあるが、南串山にとっては大井手千間を築いてくれた恩人でもある。その功

績に光を当てたい」と話しているそうです。

歴史というのも、良く調べないと分からないところがある、という事を学んだ事柄

でした。


(参考・文引用:「島原の歴史(藩政編)」「島原半島史(上)」「おばま 史跡巡りガ

 イド」「小浜町史談」「長崎新聞(3月17日)」「千々石町郷土誌」)






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