2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事③~長崎県雲仙市吾妻町
また、昨日の続きです。
吾妻町史を参考に三體地蔵の事を書いたおり、「南北町時代は野井城(愛野
町)、飯岳城(千々石町)の戦いに南朝・北朝の軍勢が、何回となくこの古道を往
来(いきき)している。」と書いてあり、この部分に少し興味があり・・・
これも、以前、飯岳城の事を書きましたが→こちらをクリック 。上の写真が「飯岳
城」の跡です。
「長崎県近世城館跡分布調査報告書Ⅱ(長崎県教育委員会刊)」において、「飯
岳城」、「(6)歴史」の所に「南北朝の1372(文中元年)ごろ、九州探題今川了俊
が千々石浜に侵略、城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷いてこれを
防いだ。」とあり「文献」として「古文書・・・北肥戦誌」としてあります。
この時期は南北朝時代で、九州、島原半島もこの争いに引きずり込まれるので
すが、書けば本一冊分になるので、ざっくり書けば、島原半島の豪族は、宮方
(天皇側南朝勢力)に、多比良、神代、西郷。九州探題一色範氏を中心とした武
家方(幕府北朝勢力)に有馬、安富、伊佐早氏に別れるのですが、(参考・千々
石郷土誌)、島原半島の有明海側が宮方になります。有明海を挟んだ熊本に、
南朝方の菊池氏があり、「肥前有馬一族~外山幹夫著」によれば、「・・彼らが有
明海を通して、一衣帯水に肥後国に接し、同国における南朝の有力な支柱に気
脈を通ずることができる状況にあったと思われる。」という事のようです。
さて、「北肥戰誌(九州治乱記)」によると、千々石関係では「同三年(觀應三年・
北朝にて使用の年号・1352年)壬辰二月、探題一色入道獻、肥前國高來・彼杵
お宮方退治として、小俣少輔七郎氏連を差遣わす。氏連先づ彼杵へ打越え、矢
上の城に入りて、高來の味方を相催すに、有馬・安富以下の武家方共、閏二月
十六日千々岩の津へ馳せまいる。氏連、同十七日千々岩へ陣を移し野井(現愛
町野井)の城を攻め、又西郷次郎が杉峰城をせめて合戦し、三月二日、神代へ
打ち通るの時、西郷出会ひて相戰ふの間、安富深江孫三郎泰治等、散散合戦
し、西郷を追拂ひ、氏連暫く國府へ帰陣す。」とありますがイメージ的に捉えると
下のようになります。
緑の矢印が有明海干拓の堤防。①が飯岳城、②が千々石海岸、少し右側に、島
原藩の郷倉があったところで、ここから船で島原まで年貢米等を運んでいまし
た。ここらあたりが「千々石の津」に当たるところでしょう、地名も「南船津」になり
ます。③が野井城があった愛野町、④が「三體地蔵尊」がある所、⑤が神代。④
と⑤の間に西郷氏の杉峰城があります。
上の地図、正確な場所が取れないので、大体の所で、あくまでイメージとして、と
らえてください。
なお、もう一ヵ所「應安(南北朝の時、北朝にて使用)六年癸丑(1373年)三日、
初、探題今川入 道了俊・太宰右衛門佐頼泰、彼杵軍へ發向し、伊佐早・宇木
(現在の諫早市有喜)の兩城を攻めけるに、城主伊佐早右近五郎・西郷藤三郎
やがて降参す。了俊・頼泰、その後高來へ打越え、七月七日、神代(現雲仙市国
見町神代)、大隅を攻め、九月六日、千々岩に至り濱手に於いて、宮方の輩と打
戰ひ、一戦に利を得柏崎に陣す。」とあります。(千々石岩は千々石の事です。)
さて、ここで、県の報告書では、「城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷
いてこれを防いだ」とありますが、この「林田隠岐守」が誰であるか、千々石町誌
には載ってなく、吾妻町史には、二ヵ所ばかり書いてあり、「南北朝時代には(日
本城郭大系新人物往来社)、林田隠岐の名が見え、林田氏は南朝方に属した
為、しばしば北朝の進攻を受けている。」とあり、もう一ヵ所は「昭和八年刊行長
崎県庁内長崎県史談会発行『長崎県郷土誌』」に「文中二年(1373年)、九州探
題今川貞世の軍が島原半島に攻め入り神代山田(朝廷方)を攻略した時、千々
石村民は、神代山田軍に呼応して、千々石の戦を開いた、主将林田隠岐守は、
飯岳の丘陵に塞を備えて防いだが、遂に敗れた」と記してあるそうです。
で、「肥前有馬一族」には、「『藤原有馬世譜』一は、続いて峯・鬼塚・馬場・林田
の四氏を『有馬の四天王』と呼ぶが、彼等は始終有間(有馬)氏に従ったものとす
る。」とあります。が、「島原半島史~林銑吉著」の「藤原有馬世譜」の部分を読ん
で見たのですが分かりません。この林田が「林田隠岐守」なのか誰なのかは?で
す。
でもって、考えてみると、攻めてきたのは武家方であり、「林田隠岐守」が有馬家
の家臣なら、有馬家氏も武家方であり、同士討ちになるなと。
おかしな、と思いながら、「肥前有馬一族」読むと、「動乱当初有馬氏は北朝につ
いた。しかし、その後暦応元年(一三三八)十一月、肥後の菊池武重が力を得て
筑後に発向した。佐竹氏義以下の者は敗走した。この時有馬彦五郎入道は竹重
の南朝方に転じた」(『歴代鎮西要略』三)、とあり、これなら「林田隠岐守」が有馬
家の家臣で、千々石の防禦をまかされた可能性も十分に考えられるなと言う事
ですが、残念ながら、資料がないので、詳細不明ですが。
もう一つ、大正七年発行の「千々石郷土誌」には、「千々石村飯岳ノ東方ニ丘陵
アリ郷民称シテ城山ト謂フ 往昔城塞ノアリシ所ニテ林田隠岐守ト云エル人城主
ナリシト云エドモ史蹟詳ナラズ・・・」とはありますが、有馬氏との関係は分かりま
せん。長崎県郷土誌、人物往来社さんは、これを参考に書いたのでは?
なお、この時代、城が(山城でしょうが)必要となり、山田城、野井城等々が作ら
れ、千々石にも、野田城、飯岳城が作られたようです。
「吾妻町史」には、「南北朝の頃、度々侵攻した北朝に備えた防禦の山城、そして
逃げ場ではなかったか。」と記してあり、たしかに、この山に登った時、急斜面ば
かりで大変でした。
後年になりますが「釜蓋城」が築かれ、佐賀の龍造寺が島原半島に侵攻し釜蓋
城は落城しますが、この頃のことを、ルイス・フロイスが次のように書いていま
す。
「有馬殿には小浜という城しか残されていなかったという事実を知らねばならな
い。それは隆信(注;龍造寺)が高来の支配者になるために押さえていた二つの
高来への入口の一つである千々石城に向き合ったところにあって、貧弱、かつ防
禦施設がほとんどない城である。」
千々石城は、もちろん「釜蓋城」のことですが、「飯岳城」の事が一言も記述がな
いところをみると、「飯岳城」は、吾妻町史に書いてあるように、「北朝に備えた防
禦の山城で、逃げ場だった」、言わば仮の山城ではなかったかと思えるのです
が・・・
(これでおしまい。長々と書きましたが、失礼致しました m(_ _)m )
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