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2016年3月23日 (水)

「山崎教清(のりきよ)」~諫早・近代干拓の祖

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以前から、ここには一回行ってみたいと思っていたのですが、諫早は長崎県でも

穀倉地帯として有名ですが、佐賀県みたいに平野ではなく、ほとんど干拓の地で

す。


小野地区河内の開祖山崎教清、江の浦干拓の松本四郎左衛門、長田海面埋め

立ての小宮藤馬、河内町北方の新開地造成に貢献した安政年間の早田良平等

が干拓事業で有名な人物だそうです。(「諫早史談」~田中為市編集・諫早市教

委員会発行より)。


ザッと言えば、赤○印の所が干拓地、
黄色の矢印が、山崎教清が祀られている

河内町。水色の所が、新聞等に良く載っている、現在の諫早干拓の堤防になり

ます。

Photo

干拓については、山崎教清が特に有名で、時代は豊臣秀吉が、九州平定に来た

時になります。


当時、諫早地方を治めていたのが、西郷信尚(のぶひさ)。秀吉の元に参陣する

ようにの呼びかけに、家老山崎丹後守(山崎教清の父・教清は四男)等が加わる

う勧めるも、どういうわけか頑として応ぜず。「西郷記」によれば、「(家臣は)何

涙を流し退出す。丹後は其夜一家一族船に乗り行衛(行方)も不知逐電

す。」と書いてあります。


その後、西郷氏は佐賀の龍造寺に滅ぼされ、教清は伊佐早(現・諫早市)に戻

り、当時の領主家晴(いえはる)は教清の才能を見込み、家臣になるよう話しま

すが、自分は西郷氏の家臣であり、「二君にまみえず」ということで辞退し、代わ

りに、河内町の干拓を申し出、家晴はそれを承諾し、75名の家臣まで付けてや

ったそうです。


ただ、干拓といっても今のように重機があるわけでなし、まして、堤を築き干拓に

しても、塩分を含んだ土地では塩分を抜かなくては使えるわけではなし、困難な

事業だったことは、言わずとも分かると思います。


山崎教清を祀った社は、川内町の外れにあります。

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社の横に石碑が並んでおり、なにかなと思っていたのですが、これが、その時の

家臣の碑だそうで、この中に「釈教清不退位」と刻んである碑があるそうで、多

分、社のの左手にあるのが、この石碑ではないかと思います。字が薄く、読み

にくいのすが、「釋」と「不」という感じでした。

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なお現在でも、毎年2月15日に祭典をしているそうで、私が行ったのが20日で、

少し遅すぎました。近所の方に聞くと、「自分は行けなかったが、班長さんから連

絡があり、皆さん集まっていたようですよ。」と言うことでした。


天正時代といえば、400年(天正元年は1573年)以上昔で、その頃から、地元

で慕われていたかと思えば、感無量でした。

(注:河内町は現在の川内町。石碑に河内町とあるので、これで統一しました。)


(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早史談」「諫江史料拾録第一集」

 「市制50周年記念 『いさはや』」より)



 

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