「山崎教清(のりきよ)」~諫早・近代干拓の祖
以前から、ここには一回行ってみたいと思っていたのですが、諫早は長崎県でも
穀倉地帯として有名ですが、佐賀県みたいに平野ではなく、ほとんど干拓の地で
す。
小野地区河内の開祖山崎教清、江の浦干拓の松本四郎左衛門、長田海面埋め
立ての小宮藤馬、河内町北方の新開地造成に貢献した安政年間の早田良平等
が干拓事業で有名な人物だそうです。(「諫早史談」~田中為市編集・諫早市教
育委員会発行より)。
ザッと言えば、赤○印の所が干拓地、黄色の矢印が、山崎教清が祀られている
河内町。水色の所が、新聞等に良く載っている、現在の諫早干拓の堤防になり
ます。
干拓については、山崎教清が特に有名で、時代は豊臣秀吉が、九州平定に来た
時になります。
当時、諫早地方を治めていたのが、西郷信尚(のぶひさ)。秀吉の元に参陣する
ようにの呼びかけに、家老山崎丹後守(山崎教清の父・教清は四男)等が加わる
よう勧めるも、どういうわけか頑として応ぜず。「西郷記」によれば、「(家臣は)何
れも涙を流し退出す。丹後は其夜一家一族船に乗り行衛(行方)も不知逐電
す。」と書いてあります。
その後、西郷氏は佐賀の龍造寺に滅ぼされ、教清は伊佐早(現・諫早市)に戻
り、当時の領主家晴(いえはる)は教清の才能を見込み、家臣になるよう話しま
すが、自分は西郷氏の家臣であり、「二君にまみえず」ということで辞退し、代わ
りに、河内町の干拓を申し出、家晴はそれを承諾し、75名の家臣まで付けてや
ったそうです。
ただ、干拓といっても今のように重機があるわけでなし、まして、堤を築き干拓に
しても、塩分を含んだ土地では塩分を抜かなくては使えるわけではなし、困難な
事業だったことは、言わずとも分かると思います。
山崎教清を祀った社は、川内町の外れにあります。
社の横に石碑が並んでおり、なにかなと思っていたのですが、これが、その時の
家臣の碑だそうで、この中に「釈教清不退位」と刻んである碑があるそうで、多
分、社の中の左手にあるのが、この石碑ではないかと思います。字が薄く、読み
なお現在でも、毎年2月15日に祭典をしているそうで、私が行ったのが20日で、
少し遅すぎました。近所の方に聞くと、「自分は行けなかったが、班長さんから連
絡があり、皆さん集まっていたようですよ。」と言うことでした。
天正時代といえば、400年(天正元年は1573年)以上昔で、その頃から、地元
で慕われていたかと思えば、感無量でした。
(注:河内町は現在の川内町。石碑に河内町とあるので、これで統一しました。)
(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早史談」「諫江史料拾録第一集」
「市制50周年記念 『いさはや』」より)
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