「津波境」★寛政四年島原大変による~雲仙市国見町正覚寺
平成2年(1990)から雲仙の普賢岳から、噴煙が上がりはじめ、段々それがひ
どくなり、溶岩ドームに成長し、平成3年(1991)に大火砕流をおこし、43名の
方が犠牲者となりました。
これに先立つ約200年前の寛政4年(1792)に、島原市の後に位置する眉山
が崩壊しました(前年から地震等の徴候あり)。これによって、大津波が起こり対
岸の肥後(熊本)にまで押し寄せ、3回ほど反復し、肥後にまで被害をおこし、「島
原大変肥後迷惑」と言われています。
島原市仏教会で、「たいへん~島原大変二百回忌記念誌」(平成4年刊)を発行
しており、読んでいると、国見町多比良の「津波境」の話が載っており、行ってみ
ました。
同書によると、熊本県三角町太田尾に、「津波境」の石碑があるそうで、標高十
五㍍。「津波境」「寛政四子四月朔日戌刻」「山本二十七金助立之」と刻んである
そうです。
島原半島にも、これに伴う慰霊碑は多いのですが、言い伝えはあるようですが、
はっきりした、「津波境」は聞いたことがなく・・・
多比良にある正覚寺。矢印のところに一番上の写真の階段があります。以前は
説明版はなかったようですが、「島原半島ジオパーク」と書いてありましたから、
この関係でしょう。なお、「島原半島観光連盟」とも書いてありました。
説明版には、「『島原大変』時に発生したの遡上高の分布図(赤木(2001)、郡
司・日野(1993)、郡司・村上(1997)を基に作成)。」と、津波当時の高さを表
す写真。
なお、「たいへん~島原大変二百回忌記念誌」によると、元国見町長松尾耕之助
氏が「津波境」の事を話された事が載っています。
島原大変のとき、津波は、石垣の上から三段目とも、石段の上から三段目とも言
われていますが、あまり、違いはなさそうです。せっかく写真を撮ってきたので、
なお、「国見町郷土誌」の「高力山正覚寺」のところに。「・・・寛政四年の大変の
時は一の波が寺の裏門口壇三段下まで上がってきたそうである。寺の境内には
小屋掛けをして避難民を収容した。」とあり、「多比良町郷土誌」には・・・
「本多三郎治の母はつは当時八歳であったが、親に手を引かれて正覚寺裏門か
ら逃げ登り一命を助かったの由、はつの物語に寄れば一の波は寺裏門石壇
三段下まで上り来たりと言う。正覚寺境内には船津名松本清左衛門(松本豊治
の祖先)の世話で焚きだし所を設け避難者に粥を与え且つ小屋掛けをして火を
焚き薬など煎じて避難者の手当を施したそうである。(南軒雑記)」とあるそうで
す。
なお、多比良町(現雲仙市国見町多比良)では、およそ千名の方が亡くなられた
そうです。
多少、表通りから入ったところですが、目に付きにくく、せっかくの史跡がもったい
ないような・・・
(参考・文引用:「国見町郷土誌」「たいへん~島原市仏教会発行」「島原半島の
歴史~松尾卓次監修)
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