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2015年2月1日 - 2015年2月7日

2015年2月 7日 (土)

2015 「第9回雲仙市美術展覧会」&「全国訪問お話し隊」

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市展も9回目を迎えました。

雲仙市は、多目的ホール(椅子席を収納すると、ご覧のようにホールになりま

す)か公民館でしか、展覧会は開けず、あまり広いとは言えない会場ばかりで

 す。


出品作品は、洋画、日本画、デザイン、写真、書。工芸が今年は1点出ていまし

たが、各町、パッチワーク、押し花等をしている方もいるのですが、遠慮されたの

か、会場が狭いせいか・・・・残念ながら彫刻は出ていませんでした。彫刻は、他

市の展覧会を見ても少ないですね。私、全裸のモデルになっても良いんですが、

芸術のためなら。(これ、去年も書いたかな?)


チョーク絵で有名になったO氏の作品。最近は、チョーク絵と、油絵を組み合わ

せた絵が多いようです。

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左の絵は良いですね。プロ並みかな。私好みの女性なので載せました。右の絵

「妻となる人」。幸せになれれば良いのですが、ウチの例もあるし・・・

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水彩画のコーナーですが、水彩画も良いですね。柔らかく、癒やされる感じ。

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日本画は、教える人も少ないせいか、出品数は少なかったですが、なかなか良

い作品でした。とくに、右側。、この女性も、私好み。いいな、舞妓さん。

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写真は、県展レベルの良いのが沢山出ていました。デジタルカメラで、誰でも撮

りやすくなったせいかな?私達の頃は、フイルムで、出来上がるまで、どのように

撮れているか分からなかったのですが・・・最近は、機械に弱いはずの高齢者の

女性も、凄いカメラを持っています。老カメ女の時代かな。

写真は、外へ出て、画角を考えながら、絞り、シャーター速度なども考えなけれ

ばならないので、体にも、ボケにもいいので、お薦めします。

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意外と書道(習字でなく)を習う方が多いようで、こちらも年々、レベルアップ。

プロの方も出品していました。

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上手なのは、分かるのですが、読むのに苦労して・・・

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今年初めての木工のクラフト。右はデザイン、多分高校生なのかな?

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他市の市展では、選考もあるようですが、雲仙は無選考です。でも、人に見て

ことで上手になるんじゃないですか?


私も音楽をしていた頃、先生から「一人で100回練習するより、舞台で1回演奏

する方が効果がある」といわれましたが、これ、本当でした。来年は、恥ずかしが

らずに、ドンドン出品を・・・


と思っていたら、「今から、お話し会をします」との放送。この日、「図書館祭り」の

日でした。


「全国訪問おはなし隊」の車が来ていましたが、端っこに目立たないように、小さ

 く「KODANSHA」と書かれていたので、ネットで調べると、講談社の企画で、スケ

 ジュールを見ると凄いハードスケジュール。


明日は上五島(離島です)、その後、佐世保、平戸、松浦、西海等々、保育園

小学校、図書館を休日無しで巡回。

でも、講談社さん、利益還元だという面では良いですね。

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お話し隊の隊長さんと、地元の方の「お話し会」ボランティアの方の読み聞かせ

で、長年やっておられるので、子ども達を上手に笑いに誘ったりで、私も思わず

最後まで聞いていました。

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昔のように「一寸法師」とか「金太郎さん」のお話しはなく、今の絵本、本当に楽し

くできています。皆さん方もたまには、絵本の世界へ・・・・



【訂正で~すm(_ _)m


上に

>この日、「図書館祭り」

と書いていましたが「第10回 雲仙市図書館祭り」は2月14日(土)・15日(日)

です。日程・内容は下記の通りです。ヒマのないかたも是非お越しのほどを。

会場は、国見町の雲仙市図書館・文化会館です。

 


■2月14日(土) 10:30~12:00

  おりがみに挑戦!「ジャバニャンのしおりをつくろう」。ジャバニャンのおりがみ  

  を作って、ラミネートをかけて、しおりにするそうです。

■2月14日(土) 14:00~15:00

  新沢としひこさんと、山野さと子さんの「親子で楽しむ絵本コンサート」。新沢

  さんの「にじ」は、つるの剛士さんも歌っています。YouTubeで見られます。「と

  もだちになるために」「さよならぼくたちのようちえん」は、幼稚園、保育所で

  も、よく歌われているみたいですが・・・・「世界中のこどもたちが」は、小学校

  の教科書にも載っているそうです。

  山野さと子さん、映画、TVで「ドラえもんのうた」(2代目オープニング主題歌) 

  を歌っているみたいですね。

  整理券がいるので、市内の各公民館等で貰って下さい。

■2月15日(日) 10:00~11:30

  「回転木馬おはなし会」。市内の美人の、おばさま (_ _*)失礼、お嬢様方の

  「おはなし会」。どなたでも自由に。

■2月15日(日) 14:00~15:30

  スーツデコに挑戦!「メモスタンドをつくろう」。キャンディーやアイスクリーム 

  のスイーツデコを盛りつけて、メモスタンドを作るそうですが、どんなんかな? 

  申し込み不要。材料費100円。先着30名です。


余分なことですが、会場で、ヒゲをはやして、素敵なロマンスグレーの男性がい

たら、それは、私です lovely 。

 

 

2015年2月 6日 (金)

「剣術修行の旅日記」~永井義男著 其の三(最終回)

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(「剣術修行の旅日記~永井義男著」より)


上の写真は、幕末から明治期の稽古の様子だそうです。ほとんど今の格好と変

わりませんね。


さて、当時「技は千葉、力は斎籐、位は桃井」と言われたそうです。牟田文之助

は、安政元年一月二十五日に、斎籐弥九郎の神道無念流の練兵館に入門をし

ますが、神道無念流を習うわけではなく、練兵館で一緒に稽古をさせてくれとい

うものだったそうです。


この当時、斎籐弥九郎はほとんど長男の新太郎が事実上の道場主だったそうで

すが、二十七日に、立ち会いをし、「大ニ吉し、外は数人無限事也」と書いてある

そうですが、「新太郎の技はすばらしいし、門弟にも数人、傑出した者がいる、

ということであろうか。珍しく手放しでほめちぎっている。」と解説してあります。


二月五日、桃井春蔵の鏡新明智流の士学館に、練兵館の同輩五名と手合わせ

に行ったそうですが、道場主の桃井春蔵に申し込んだところ、体調が良くないと

のことで断わられたそうです。


代わりに、高弟の上田馬之助らと立ち会い「各勝利を得大慶ニ及候。(中略)余

程面白有之事也。」と「自分たちの方が勝っていたことに大いに満足した。なんと

いってもあいては三大道場の一つ志学館である。」とあります。


なお、三月二十五日には、三名で直新影流の男谷清一郎の男谷道場に出向

き、男谷とも立ち会ったそうですが、このとき、男谷は五十七歳。


手合わせの結果
「尤老人男様始手合致し、実ニ老人の稽古誠ニかんしん仕

候。」と書いてあり、著者によれば、「文之助も高齢の男谷に剣技には感心した。

とても自分の優勢だったと書けるような状態ではなかったのであろう。男谷には

『様』づけをしているほどである。」と書いてあります。


この後、各道場、また、福島あたりまで、各道場で手合わせをしますが、帰りが

け再び江戸に滞在をし、千葉周作の北辰一刀流、玄武館(千葉道場)に申し入

れをしたそうですが(当時は千葉周作の次男で、実質上の道場主は栄次郎)、の

らりくらりと断られ、「尤流石之栄次郎行掛かり尾逃げかき候段腰貫極。」と痛罵

をしたそうで、「栄次郎は尻尾を巻いて逃げ出す始末で、腰抜け(腰貫)の極み、

ということであろう。」だそうです。


さて、この文之助、力量があって性格も良かったのか、各地で、歓待を受けてい

ます。それでは力量がないものはというと、

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昭和三年は戊辰六十年にあたり、幕末維新に関する史談、幕末維新を背景とし

た時代小説が多く刊行されたそうです。この本も、その一つです。


作者は明治四年生まれですが、報知新聞に入り、古老から話を聞き、一面に掲

載し好評を呼んだそうですが、これをまとめ、明治三十八年に出版しています。


内容は、学術、系統だったものではなく、市井の面白い話を集めたもので、「八

十一人斬」なんて載っていて、「岡部菊外」という百石取りの人物が、「人を斬る

のが飯より好きで、新刀を求めると七人斬らねば本当の斬味がわからないとい

っていた。」なんて、物騒な話もあり、「今でこそ言えるが」という話「安政の地震」

なども、載っています。


この中に、「撃剣修行の道場」で「修行の帳簿」というのがあり、「その頃有名な

先生方の道場はというと(いずれも師範役)、番町の斎籐弥九郎、蜊川岸の桃井

春三、お玉ケ池の千葉周作、子息の栄次郎・・・・・」とあり、大体、文之助と一緒

の頃だと思われます。


まず、剣道の道具を持って、「一本願うと申し入れる。・・・『拙者は何々藩士、師

匠は何の某でござる、剣術修行のため罷出ました。何分共御教授を願いたい』

と望みますと、その帳面へ先生の名義を記載してくれます。・・・・・その代わりひ

どい目に遭うことといったらお話しにならぬ。・・・・サテ他人の道場へ前(ママ)い

うた修行に参るてえと、場合により一命はないものと覚悟を極めて行くから、なか

なかまいらない。道具を外れを喰らって気絶なんかはノベツで・・・・・・」


という事で、文之助の場合とは、随分違いますが、文之助はよほど強かったので

しょう。


文之助は、明治七年の「佐賀の乱」に加わりますが、敗れさり、判決は懲役三

年。明治九年釈放。明治二十三年十二月三日病死、六十一歳。

剣道修行に明け暮れた青春時代、佐賀の乱に破れたあとの人生。文之助はどう

思って生きたのでしょう。


時代劇が好きな方、是非お読みを。今までのイメージが変わってきます。

 


【参考・文引用】
 

「剣術修行の旅日記~永井義男著」「増補 幕末百話~篠田鉱造著」より





2015年2月 5日 (木)

「剣術修行の旅日記」~永井義男著 其の二

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       (剣術修行の旅日記~永井義男著より)


さて、剣術の防具が発達する前は、刃引きした刀や木刀を使っていましたが、こ

れとて、場合によっては大怪我の危険性があり、いわゆる「形」の練習が主だっ

たようですが、これでは、単純で、退屈なだけみたいですが・・・


江戸の中期、竹刀と防具が工夫され、これによって、危険性が少なくなり、一子

相伝、口伝が崩れ、互いに打ち合っても、危険性は少なくなり、新流派の勃興が

あり、自流の宣伝のために文政年間頃から、積極的に他流試合をおこない、天

保年間末から、ほとんどの道場で他流試合が解禁になったそうです。


これに伴い、諸藩の修行人が全国の藩道場や町道場に、他流試合をするよう

に、なったそうです。


が、ただ一人で他道場に乗り込むのではなく、修行の許可が下りると、藩から修

行人に手札が渡され、これがないと藩校道場は修行人を受け入れなかったそう

です。


藩の役人は、江戸の藩邸に連絡をし、修行人の予定を藩校に知らせ、これを藩

邸宅で留守居役が各藩の留守居役に連絡をし、これを、各国許の藩道場に連絡

がいき、「○月なかばころ、佐賀藩の牟田文之助という鉄人流の修行者が行く」

と分かるようにしてあったそうです


ただ、修行人は武名録(姓名習武録ともいう)をもって、立ち会った相手に姓名を

記して貰ったそうで、今で考えれば、出張復命書ですね。


さて、旅の途中、当時は参勤交代、藩士の往来が頻繁で、各宿場には各藩の指

定旅籠屋があり、各藩の城下町には修行人向けに修行人宿(修行者宿、修行人

定宿)があり、修行人には無料で、現地の藩が負担をしていたそうです。


修行人宿で、手形と希望を確かめると、宿の主人が、藩校道場、個人道場に出

向き、立ち会いを頼み、その日のうちに、藩校の役人が宿に来て、予定を決めた

そうです。当日は、わざわざ道場から、門弟が迎えに。


当時の道場は、文之助の日録によると、広さは十坪(三十三平方メートル)から

二十坪(六十六平平方メートル)。いまの試合場は、八十一平方メートルから、百

二十一平方メートルですから、狭かったことが分かります。しかも、床は土間に稲

わらを敷いたり、筵を敷いたり、青天井の道場もあり、雨の日は試合ができなか

ったり。江戸あたりでは、板張りがしてあったそうですが・・・・

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                 (同 上)


さて、道場に着いても、一対一で審判が付く試合ではなく、長州藩明倫館では、

師範として柳生新蔭流の馬来勝平と片山流の北川弁蔵がおり、嘉永六年十月

十七日、門弟八十七、八名と立ち会い。次の日も、午前中四十名、午後からは

四十二、三人と打ち合い。これ、一対一では無理ですよね。


当時は、上の図絵のように、現代の「地稽古」で、お互いに向き合い、打ち合うと

いうものだったらしかったのです。「『他流との合同稽古』だったと言ってよい」形

式だったそうですが、他流との稽古を通じ友情が芽生え、夜はとにかく、試合相

手と飲む話ばかりです。


二刀流が珍しいためか、稽古を多く申し込まれたり、見物人がドット来たそうです

が、島原藩では稽古に来ると人数が少なく。これには、江戸で島原藩主松平忠

精(ただよ)の前で行われた試合で、その強さが伝わったらしく、「そのときの牟

田殿の刀流のあざやかさが当地にも伝わっており、藩の重役も興味を示しま

した。そため、高弟は貴殿を敬遠したのです。・・・・」との打ち明け話。


我が島原半島を納めていた、島原藩の武士は、意外と腰が引けていますね。文

之助が、如何に強かったが分かります。


さて、文之助は神道無念流の斎籐弥九郎の道場、練武館に入門、修行をします

が、この間、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の至学館、男谷道場の男谷清一郎

の道場にも、出向いていますが、結果はどうだったか、以下、最終号に。


(参考・文引用:「剣術修行の日記~永井義男著」より)

2015年2月 4日 (水)

「剣術修行の旅日記」~永井義男 其の一

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今日はバタバタしているので、ほんのおさわりです。


剣術修行とか、他流試合とかいうと、すぐに映画の、一対一で、審判がつき、と

うのを思い出しますが、この本読むとイメージが全然違います。著者の永井

男氏が、20年ほど前「諸国廻暦日録」を入手。


同書の著書は、佐賀藩鍋島家の家臣牟田文之助。嘉永6年(1853)9月~安

2年(1855)まで、2年間にわたって、諸国武者修行をした日記。


牟田文之助は天保元年(1830)生まれ、父は吉村市郎右衛門。宮本武蔵の二

刀流の流れを汲む鉄人流の剣術藩士。


当時、佐賀藩の武芸はタイ捨流、柳生流、直心影流、戸田流、無限流、新影流、

時極流等々あったそうですが、二刀流は異色であったそうで、文之助が各地で

修行をする際も、興味を持って見られています。


文之助は、その後牟田家に養子に行きますが、同じく、鉄人流藩士の内田正右

衛門に、同じく鉄人流の手ほどきを受け、父と内田から免許皆伝を受け、佐賀藩

から諸国武者修行を許可されます。

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上が、文之助が剣術修行に回った道場です。同じ道場に数日滞在した所もあり

ます。


もちろん、江戸の千葉周作の北辰一刀流の玄武館、斎籐弥九郎の練兵館、桃

井春蔵の士学館といった有名な道場でも、手合わせをしています。


さて、読んで見て、まさに著者が「はじめに」で書くように、「緊張と苦難の連続

や、命がけの修行とはとても思えない。その雰囲気は和気藹々と形容するにふ

さわしい。まるでスポーツ選手同士の交流、交歓といおうか。・・・・・・・世の中に

は剣豪や剣技、剣術流派について解説したノンフィクションは多い。しかし、諸国

武者修行の実態について詳説したノンフィクションは皆無である(研究者による

論文はあるが)。

けっきょく、時代小説や時代劇に描かれた武士の諸国武者修行や他流試合のあ

りさまは、すべてがフィクションではないのだろうか。そして、フィクションがフィク

ションを拡大再生産せてきたのではないだろうか。」


という事で、実際の武者修行、他流試合のありさまはどうだったのか、著者永井

義男氏の本をもとに、ご紹介を少ししたいと思います。目からウロコです。では、

回。



(参考・文引用:「剣術修行の旅日記~佐賀藩・葉隠武士の『諸国廻暦日録』を読

 む~永井義男著より)





2015年2月 3日 (火)

「節分の日に」~雲仙市橘神社

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今日は天気も良く、ブラブラ橘神社を歩いていると、なにやら、おばさんが二人ば

かり拝殿の前にいて、女性とあれば、声をかけないのも失礼だと思いながら、

ヒョッと拝殿の中を見ると、神官さんがなにやら、やっていて・・・

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よく考えると、今日は節分でした。千々石の氏神様「温泉神社」でも、やっていた

ようですが、時間が分からず、行けませんでした。


帰って、暦を読んで見ると、二十四節気の一つに、立春がありますが、節分は立

春の前日だそうです。


本来は、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことだそうですが、それが、次第に春

だけに用いられるようになったそうです。俳句の季語でいうと、明日からが春の

で、今日「節分」までは、冬の部になります。


旧暦では正月初旬、年末になることもあるそうですが、新暦では2月の3、4日に

るそうです。

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儀式のあと、鏑矢を四本ばかり引かれましたが、この儀式初めて見ました。意味

を聞くのを、うっかり忘れました・・・・


豆を撒く時、「福は内」だけで、「鬼は外」は言ってない感じでした。神殿の中

「鬼」がいたら、大変な事ですから。


そのあと、本殿の4つの角(かど)で豆まきですが、見物人が私も入れて、3人と

はチト淋しい。来年は、AKB48でも呼んだら、と思いましたが・・・

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儀式のあと、一番上の写真のように、豆を貰ってきましたが、これなら、ビニール

袋を持ってくれば、良かった。


二人の女性の方は、諫早と大村から来られたそうですが、節分の儀式が見られ

て良かった、と大喜びでした。今年は、良いことがあるでしょう。


さて、節分といえば「恵方巻」が流行ってきましたが、これは、ウィキペデイアによ

れば、大阪地方を中心におこなわれていたそうですが、1998年(平成10年)

に、セブンーイレブンが「丸かぶり寿司 恵方巻」と採用されたことにより広まっ

た。と書かれています。


なお、「恵方巻」と呼ばれていたという文献等は見つかってない。と書かれていま

すが、私が、数十年前、千々石に来た時、千々石の某寿司店が売っていて、最

初は「こらなんじゃ」と思った覚えがあるですが・・・名前は何て言ったか、忘れま

した。


さて、「恵方」のことですが、

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これ、方位図ですが、吉神、凶神等が書き込まれ、この図は、年、月で変わっ

て来ますが、この中で吉神として、「歳徳神(としとくじん)」と言われる神様がい

て、「歳徳神」の在泊する方を俗に、”あきの方””恵方”というそうです。今年の場

合は「西南西」の方角だそうですが、「恵方巻」の名前はこれから、考えられたの

では?赤の○印に「恵方」と書いてあります。


「歳徳神」の在泊する方向を選ぶと、家屋建設、移転、開店、転地、結婚等、すべ

て吉方向とされているそうですが、方位については、難しいので、自学自習して

下さい。


さて、私は、商業ベースにのりたくないので、コンビニでは買いませんでしたが、

少しヘソが曲がっているので、寿司の代わり、「西南西」を向いて「ロールケーキ」

一本、食べまた。また太るな。



節分の豆少し添へ患者食     波郷

あたゝかく炒られて嬉し年の豆  虚子

豆撒きやかりそめに住める人の家  波郷

節分の火の粉を散らす孤独の手  六林男

節分の貰ひし豆を妻と食ふ  sugikan    おそまつ (*_ _)ゴメンナサイ


思い出しましたが、俳句の季語に「恵方詣」がありました。「その年の明けの方に

あたる神社仏閣に参詣すること。その道を恵方道という。〈恵方・恵方道・明の

方・恵方拝〉」


恵方とて人の歩める方へ行く 多佳子

恵方とて海の上にも道を延べ 狩行



(参考・文引用:「神宮館百彩暦~髙島易断本部編纂」。他、俳句歳時記より)

 

【おまけ】

 神社の裏に、梅一輪

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2015年2月 2日 (月)

「ピーナッツと谷川俊太郎の世界」~チャールズ・M・シュルツ・谷川俊太郎

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今日もカミサンが留守で、焼き芋作りにハマッテ、朝から焼き芋を作って、昼から

公民館の図書室で、珍しや、チャーリー・ブラウンの表紙の本があって、ペラペラ

めくったら、「バレンタイン」の文字が目に入り、借りてきました。

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「今年はバレンタインの心配はやめよう・・・・」

「どうせカードは一通もこないんだ、心配することはないだろう?」

「とはいうものの、だれかが万が一送ってくれたら、配達されたとき、その場にい

いな・・・・」

という事で、郵便ポストの所で寝ることに。この分じゃ、チャーリー・ブラウン、バレ

ンタインのカード、いままで貰った事ないんじゃ無いんですか。


私の場合も、心配なんですが・・・オジサンモも欲しいんだヨ~ weep 。どうせ。カミ

ンからは貰えないし。


「ピーナツ」という題名は、最初「L'il Folks」の予定だったそうですが、著作権の問

題で「PEANUTS」になったそうですが、「PEANUTS」は「取るに足らない・つまらな

い」という意味があり、作者のチールズ・M・シュルツーとしては、不満を持ってい

そうです。


この漫画の魅力について、谷川俊太郎氏は、出てくるのは子どもばかりだが、

「彼らの世界がおとなの縮図かと云えばそうではない。彼らは小生意気なミニチ

ュアおとなではなく、多くの場合、現実の子どもよりもっと子どもらしく、無邪気

率直なのである。

 が、この子どもらしさが、単にかわいらしいだけでなく、時に人間の本質に迫る

意地悪さや、残酷さ、エゴイズムなどをはらんでいるところに、このマンガの一種

の深みとでも言うべきものがあると思う。」と書いています。


考えれば、このマンガのャラクター、スヌーピー、チャーリー・ブラウン、サリー・ブ

ラウン、シュローダー、ルーシー、ライナス等、意地悪な子、スポーツ万能な子、

音楽の得意な子、人生を少し斜めに見る子、哲学的な子、いろんな子が出て来

ますが、谷川俊太郎さんが書くように「人間の本質に迫る」面がたくさんでてきま

すね。といっても、優しさも沢山持っており、若すぎるからと、病院で面会を断ら

れた場面です。外で病室見上げています。

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かと思うと、含蓄に含む部分もあり、やはり、大人にも参考になりますね。

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谷川俊太郎さん、このマンガに出てくる人物を「『「ピーナッツ』のみんなに」という

誌を書いています。



■チャーリー・ブラウン


いつきみはひげが生えるの

丸い頭の子

ぼくらがみんなゲート・ボールしかしなくなっても

きみは相変わらず野球に夢中


ジャンパーのポケットに手をつっこんで

不死なる敗北を嘆きつつ歩むきみの姿に

スーパーマンは顔を赤らめ

ハムレットは顔をそむける


さて、これを読んで、もう一つ思い出したのが、谷川俊太郎さんの「いいこ」



■いいこ


となりのよっちゃん とってもいいこ

おやのいうこと なんでもきいて

しけんはいつも ひゃくてんとって

さけものまなきゃ たばこもすわず

いちんちろっかい はをみがく


となりのよっちゃん とってもいいこ

もらったこづかい みんなかえして

じゅくからじゅくへ わきめもふらず

てれびもみなけりゃ まんがもよまず

ゆめのなかでは といれのそうじ



(参考・文引用:「ピーナッツと谷川俊太郎の世界~チャールズ・M・シュルツ」「わ  

 らべうた~谷川俊太郎著」「魂のいちばんおいしいところ・谷川俊太郎詩集」よ

 り)





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