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2015年12月6日 - 2015年12月12日

2015年12月12日 (土)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の五(おしまい)

Photo

Photo_3

長い文書なので、二つに分かれています。PC画面を、そのままコンパクトカメラ

撮っているので、見にくいと思いますが、バチカンにある「口之津連判状」で

す。


あちらこちら調べること一カ月あまりでしたが、ある日、ネットで調べていると、「N

T DATA」の所に、「バチカン教皇庁デジタルアーカイビング」というのがあり、

こちらを→クリック


バチカン教皇庁図書館の約3000冊の手書き文献を、4年間でデジタル化する

ためNTTデーターが参加しているそうで、将来的には約8万冊、約4千万ページ

をデジタル化するそうです。その一部が現在ネットで公開され、その中に、この連

判状が公開されています。


クリックした後、上の方に「代表的な文献」がありますからクリックすると、9つば

かりの文書が出ています。「口之津のキリシタン教徒の連判状」がありますから、

それをクリックし、「閲覧する」をクリックすると、表紙から中身まで、上の写真の

ようにみることができ、拡大、縮小出来ますから、文字の細部まで見る事が

き、また、裏側から見た部分も見る事が出来ます。


あちらこちら、クリックしまく
ると、他の文書も沢山見られますが、日本のものは、

まだ、数点しかありません。


さて、この中に、この連判状が何故バチカンにあるかも書いてあり、解説を読む

と実にあっけないものでした。


「3段からなる封と署名付きの文書(かな、アルファベットでそれぞれ名を表記し、

さらに日本氏名を記載)。

折りたたまれた文書の中には、密着した一葉(22.9×211㎜)のドイツ語の翻訳が

あり、「J.loseph Dahlman S.J. 8 nov, 1923 with the collaboration of

Prof.Anesaki」とサインされている。

この連判状はイタリア人の学者かつ収集家および通訳、後に20世紀初頭の在

中国イタリア領事にもなるCav.Giuseppe Ros(1888-1948)によって京都の古物商

から購入された。そして彼の手によりローマ教皇の中国使節団である司祭

Celos Constantiniにもたらされた。その後、図書館かバチカン秘密文書館に保

存されていたが、1923年6月4日にバチカン図書館に納入された。

日本では、1614年徳川幕府の将軍がキリスト教信仰を禁止し、17世紀中頃か

ら250年の間キリスト教徒は自らの信仰を秘匿することを強いられた。この文章

は、最初の迫害(1597年の日本の26聖人の殉教死)の後、日本キリスト教徒

の信念を表している。」


ということで、この連判状が古物商経由でバチカンに行ったとは、夢にも考えて

なく、あぜんとしたものでした。


なお、松田毅一氏「キリシタン研究 第二部論攷編」によれば、松田毅一氏がこ

れを見たのが、1960年。「イエズス会員ダールマン氏の添え書きがあり、姉

教授の協力を得たとか、本年来訪された新村出教授が完訳されることを期待

る、と記されていたので」、日本の学会で発表がされたと思い込んで、すぐに返

却されたそうです。


なお、1970年にヴァチカン図書館を訪れた際、本書の閲覧と、写真版を入手し

たという事です。なお、「ダールマン氏によるドイツ語の解釈は誤って居り・・・」と

書いてあります。


こちらが、公開されている「ダールマン氏」の添え書きでしょうが、

Dsc03329

良く見ると、一番下の方に、新村とか、姉崎の文字が見え、ダールマン氏の署名

があり、「8 nov.1923」これが、解説にある「密着した一葉」で間違いないでしょ

う。

Photo_2

良く見ると「42」、「Kuchinohsu」の文字が読め、口之津の連判状の42名の事な

かな?ドイツ語、全然読めません。

2_4

さて、この公開された文書を拡大して見ていって、気になるのが

Photo_3

筆頭に書かれた人名ですが、「まん所 Mancio 峯彦兵衛」。


普通、連判状などには、上位の者から書いていくのですが、○印の所、最初は

食いかなと思ったのですが、ここには印影があるはずなのですが・・・全部虫

の所を見ていったのですが、このような形の虫食いはなく、何となく人為的

なもを感じます。


さて、今回で「口之津連判状」を終わりますが、私が興味を持ったのは、なぜ、こ

の連判状がバチカンにあるかということでしたが、これは解決。ただ、何のために

写真版にし、マリア観音の中に入れてあったのかは謎のまま残りました。

                            
                             (「口之津連判状」おしまい)






2015年12月11日 (金)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の四

Dsc03287

「口之津連判状(キリシタン文書)」については、其の三まで書きましたが、「有馬

キリシタン記念館」で見るだけでは、納得できない所もあり、「口之津民俗資料

館」の館長さんに、お話しを伺いに出かけましたが、この資料館、館長さんの説

明が分かりやすく、面白いのでひっきりなしの見学者で、伺った日は朝から4組

もの団体が来所されたそうです。


で、新聞を読みながら不思議に思ったのが、新聞記事の「展示品の『マリア観音

像』(高さ19㌢)内に連判状の縮小コピーを発見。・・・」とあり、この「コピー」にひ

っかかりがあり、連判状の「書写」を発見なら分かるのですが、コピーとはなんぞ

や?と観音像を見にいったら、観音像の中に入っていた連判状の縮小版が、上

の写真のように展示してありました・・・「書写」なら分かるのですが、まったく本物

の縮小です。ただ、「ネガ」状態ですが。とにかく、ビックリしました。


本来は下のような大きさなのですが・・・この画像、YouT
ubeでも見られます。

館長さんの話によれば、観音像を振ってみたところ、カラカラと音がしたので、中

を出したところ、この写真版が出来たそうです。


で、コピー機は最近出来たばかりだし、はやり写真版でしょうが、慶長時代まで

かタイムマシーンで行って撮ったのかなと、そんなことはないし。

Dsc03327

なお、マリア観音の出所は、根井浄氏の「浄土僧のキリシタン改宗施策~嶽南

風土記 NO16」によれば、「口之津歴史資料民俗資料館にマリア観音像を寄

贈されたのは長崎市在住のT氏。元々T氏の父親が古物商から購入されたもの

という、2008年1月17日付『西日本新聞』長崎版、2008年1月16日付『島原

新聞』(参照)。」となっており、館長さんも詳しいいきさつは聞かなかったという事

でした。(注:名前はイニシャルにしました)


さて、これから少し複雑になるのですが、根井氏の同書によれば、「昭和47

(1972年)、松田毅一博士が当時の島原歴史懇話会(会長宮﨑康平氏)の

催で講演されたおり(私も出席)、懇話会の皆さんに提供されたものと思われ

写真の複製とも思われる。」とあり、寄贈されたのが008年頃、口之津の館

さんが発見されたのが2008年。


ということになれば、松田毅一氏が長崎かどこかで見たのか、もう一つ考えら

るのは、同コピーが複数あったのか?これ以上は、残念ながら追い切れませ

でした。


いずれにせよ、長崎で写真撮影所を開業したのが上野彦馬で、これが文久2年

(1862年)ですから、この写真版はそれ以降のものだといえますが、誰が、何の

ために写真を撮り、マリア観音像のなかにいれたのか、いろいろ推理は出来るで

しょうが、謎のままでした。


さて、この連判状、この一通だけではなく、「イエズス会日本報告書 第Ⅱ期3

巻」、「1613年(慶長18年)長崎発信、ジョアン・ロドゥリーゲスのイエズス会総

長宛、1612年、日本年報」、「口之津の司祭館について」の所に、「・・・さらには

自らの生命を棄てても我らのイエズス・キリストの信仰は捨てないでいることを認

めた。この覚悟をたしかなものとするために、一枚の紙にすべての者が署名をし

た。最初は聖母マリアの兄弟会の信徒であった六十六名。またその他の者も一

人残らずこうして署名をし名簿を保管して、そのような試練の時が来れば、殿お

よび吟味役たちに見せることにした」。


また、同書、第二期第2巻、「セバスティアン・ヴィエイラのイエズス会総長宛、

1613年度(慶長18年)・日本年報」、「有馬およびその他、高来の地域にお

ける布教について」の所、「・・・聖ヨゼフの庇護のもと、ある信心組(コンパニア)

作られ、そこで誓いがたてられ、歯を抜かれようと、爪をはがされようと、どん

に残酷な拷問にたえなければならなくとも、燃えさかる炎のに投げ込まれると

ても、信仰も守り続けることが約束された。その内容を私はここに明確に記し

た。彼らが一つ一つそれらを認め、誓約文の中に盛り込んでいったからであ

る。」


また、同書に「彼らは、イエズスを裏切ることはしないという誓いを、墨でなく、指

から出した血によって各自、書き記したのであった。」


「信心組にまだ入ってなかった四十名の者は誓いを定め、自らの血をもって署名

し、イエズスの愛のために生命を捨てるつもりであることを率直に示した。」


とあり、「口之津連判状」の他に、これに類するものが、複数作られたことが分か

ると思います。


で、これらは読んで見ると、バチカンに送るためのものではなく、自分たちの信心

の確認のための連判状だということが分かると思います。


では、なぜ、「口之津連判状」だけが、バチカンにあったのか。答えは意外なとこ

ろから分かったのですが、手品の種明かしと一緒で、「な~んだ」になるので、種

明かしは、次回に。とにかく、これ分かるのに一カ月ばかりかかりましたから。

                                       (以下、次号)








2015年12月10日 (木)

今日は一休み

Dsc03349_3

今日は朝から、通称、大村国立病院、正式名称、独立行政法人国立病院機構 

長崎医療センターへ。


昨今、高齢者の医療費が問題になっているようですが、私も、若い時は歯科以

外行ったことがなく、まあ、歳取ってこんなに病院通いするとは思いませんでし

た。若い方も歳取ったら分かることと思いますが・・・


前にも書いたように、行きつけのお医者さんの血液検査で異常値が出て、急きょ

検査に行ってくれ、という事で半年に一回行く事になりましたが、この病院ほとん

どが、他の病院からの紹介の患者さんばかりです。 患者さんの多いこと。


病院へ着いたのが9時10分、この間、血を採られたり、肝臓のエコーをとられた

り、お医者さんの診断を受けたりで、終わったのが、12時15分。


ところが、この間、持病の不整脈が頻発。頓服を飲もうと思って、検査室に「水を

いただけませんか」、「スミマセン、ないんです」と。2,3,別の部屋を尋ねてもあ

りません。検査室の階には水飲みが場ないので要注意して下さい。と、水を求め

て三千里。コーヒーの香りがそこはかとなく、で行ってみると自動販売機。


ミネラルウォーターを買って頓服を飲みましたが、結局は治まらず、家まで帰って

寝ていました。「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書」の続きを、しつこく書こう

と思っていたのですが、疲れ果てて、気力もなく、「今日は一休み」。


週刊誌ネタでもと思ったのですが、これも、情けなく気力無し。ただ一つ。

■「大もめ軽減税率 大新聞は『当確』でもう批判できない」

TVのニュースで軽減税率で揉めている放送をしていましたが、新聞は軽減税率

の対象品目に「当確」したそうで、対象品目外だったら、当然税金の値上がり分

かかり、新聞も値上する必要が出てくるでしょうが、今やネットを見るとニュ

スは分かりますから、新聞を止める人が増えるでしょう。


で、新聞社は一安心でしょうが、何となく、「記事をお手柔らかに」という事で、新

聞社が丸め込まれたのでは?軽減税率に、あまり深入りした記事を書くと、「じゃ

あ新聞は?」と聞かれると困りますから。大きな記事にはしないのでしょう。でも、

ぜ新聞が軽減税率の対象なのかな?私の愛読書の雑誌はどうなるんでしょ

う?


さて、蛇足ながら、私の親戚が健康診断で初期のガンが見つかりました。雲仙市

は健康診断の受診率が低いようで、できれば受けておいた方が良いでしょう。老

婆心ながら・・・








2015年12月 9日 (水)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の三

5

前日の写真と同じで、申し訳ないのですが、赤丸の所、「常土(浄土宗)のちやう

老」と書いてありますが、これが幡随意上人のことですが、幡随意については、

下の機関誌に、根井浄氏(元龍谷大学教授)が「浄土僧のキリシタン改宗施策ー

運誉上人から幡隋意上人へー」、「有馬 島原に派遣された幡隋意上人『幡隋

意上人諸国行傳』」に詳しく書かれています。


読まれたい方は、南島原市教育委員会に問合わせれば、事務局を教えて貰え

と思いますので、興味のある方は一読を。

Img_20151208_0002_2 Img_20151208_0001

さて、幡隋意上人の成果について根井氏は「また文化八年(1811)年鷹矢純芳

『国乗遺聞』(巻五)は、やや潤色性があるとはいえ、北有馬日野江にあった観

寺(浄土宗寺院につき『白道寺縁起』に伝くとして幡隋意上人の動向を次のよ

に伝えるとして、長文なので、関係ある所だけをかくと


「我カ黨ヲ窮地セシムル者ハ、幡隋意ナリト恨ヲ上人ニ結ビ、数十人鉄砲ヲ提

ヘ来テ、道場ヲ囲ミ師ヲ害セント欲ス・・・」、と闘争ががおこなわれたみたいです

が、その後、幡隋意上人は「闘諍ハ僧門ノ業ニアラズ」という事で、「端座シテ合

掌ヲシテ十念ス」という事で、「此時邪徒等鉾ヲ倒(さかさ)ニシテ着座シ説法ヲ聴

聞シテヨリ、皆悪心ヲ翻シ、此宗ニ和シケルトソ・・・」と上手くいったようですが。


「耶蘇天誅記」によれば

「郡中所々ニ於テ、数日説法アリケレトモ、耶蘇ノ先入更ニ不転故ニ信心聴聞ノ

者無リシカハ、和尚モ恍惚果テ申サレケルハ・・・」とこちらは、失敗したように書

いてあります。


また、「肥前国有馬古老物語」には

「左衛門佐殿(有馬直純ー根井註)関東より幡随和尚という碩徳を申請、嶋中の

人員を集め、十七日説法談義成され候共、一人も信心聴聞する者これ無し故、

和尚仰せられ候は、何事を教化いたし候ても役たたず」と書かれているそうで

す。(根井浄氏~浄土僧のキリシタン改教施策・嶽南風土記より)


さて、西洋の記録は、探してみたら、レオン・パジェステの「日本切支丹宗門

史 上巻」、第十五章、1613年(慶長18年)の所「左衛門佐(注:有馬直純、有

馬晴信の子)は、やがて浄土宗の佛僧『幡随院』を政廳から連れて来た。彼は、

この佛僧に領内の住民を堕落させる任に當らせた。然し、一人として地獄の手

先の説教を聽きに來るものはなく、子供等は往來に來ると彼を馬鹿にするので

あった。・・・」


なお、パジェステは1814年(文化11年)生まれであり、この事を実際に見たこと

もなく、原典は?と思ったら、あれと、あれしかないんで、あれとは「イエズス会報

告書」か、神父の書簡類ですが、調べると、「十六・七世紀 イエズス会日本報告

第Ⅱ期・第2巻」、「六 セバスティアン・ヴィエイラのイエズス会長宛、一六一

年度・日本年報」の所に、「(有馬)ドン・ミゲル(直純)が政庁から連れて来た

僧(幡随意上人)の到来に生じたこと」のなかに


「・・・殿は皆が説教を聞きに行くように命じた。そしてたとえ何人かが(その命令

を)実行するために彼(の説教)を聞きに行ったとしても、それはその仏僧の愚か

な言葉を聞くためというよりも、(路傍では子供たちがしていたことだが)かれをか

らかい冷やかすためであった。・・・」


という事で、ほとんど同文で、特に子供の表現に関しては、ほぼ、「イエズス会日

本報告書」を参考にしたことが分かります。


で、幡随意和尚の努力は、あまり効果が無かったようで、もっとも、イエズ
ス会日

本報告書は、宗教的対立する宗教ですから、これは割り引く必要があります

が・・・・

                            (まだまだ続く、以下次号)








2015年12月 8日 (火)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の二

5_3

上の文書は、なぜ連判状が書かれたかの最後の決意の部分です。



今度常土のちやう老

下向ニ突而組中ニさまたけ

出申来者十類一命可

棒覚悟候この為証拠

てうすは阿てれひいりよす

ひりつさんと三ッのへるさう

な御方をたてまつり候仍候而

各件候

       右の人数四十二人

慶長拾八年      口津

 三月廿二日      備中

(松田毅一解読による)



「常土」は「浄土(宗)」、「ちやう老」は「長老」、「てうす」は「デウス」、「は阿てれ」

は「バアテレ・父なる神」、「ひいりよ」は「ヒーリコ・世に現れた聖なる子、キリス

ト」、「すひりさんと」は「スピリッサント・信仰に経験に顕示された聖なる精霊」、

「へるそうな」は、「知恵と意思を備えた独立を備えた独立の主体者に殉教を誓っ

ている。」。(根井浄氏~嶽南風土記16号)

要するに三位一体の事を言っているのでしょう・・・・と思います。


五野井隆史氏(東京大学名誉教授)によれば、有馬直純が江戸に発ったのが

1613年1月(慶長18年)、帰領したのが同年6月。「将軍秀忠に命によって浄

土宗の碩学幡随意上人も有馬に下向した。これは長崎奉行長谷川が人選した

ようである(モレホン前掲書)。前期『日本年報』は、直純が一仏僧を帯同して領

主のきりしたん教界を破壊するためにきた、という。・・・・注目すべきことは、江戸

神田の新知恩住職幡随意の下向が直純の参府後まもなく決定し、そのことが早

速有馬に伝えられ、口之津のコンフラリアの組もすぐに対応して、全員一命を捧

げて殉教することを決意したことだ。」


なお、東京大学「大日本資料 第十二編の九」の慶長十七年三月二十一日の所

に(訂正増補 日本西教史下第十四章)の部分に幡随意のことが書いてあり、

多分、「日本西教史」は、ジオン・クラセ著、太政官翻訳係のものだと思います。


「幕府、耶蘇教ヲ禁ジ、所司代板倉勝重ニ命ジテ、京都ノ耶蘇寺院ヲ毀タシメ、

又、旗下ノ士等の耶蘇教ヲ奉ズルモノヲ罰ス、尋デ、肥前日野江城城主有馬直

純、長崎奉行長谷川藤廣ニ令シテ、ソノ教徒ヲ禁壓セシメ、マタ、僧幡随意ヲ有

馬ニ遣シテ、教徒ヲ誨諭セシム」とあります。


また、藤原有馬家世譜には(島原半島史上巻~林銑吉著より)

「同(慶長)十八年癸丑六月、駿府より、有馬日野江城へ帰りたまふ、・・・此時

台命に依て、浄土の碩学幡随上人、九月有馬へ下向ありて、道場を設て、耶蘇

の愚民を化度し、従はざる者は公武威を以て、此を成敗し、封内頗平治す・・・」


このほかにも幡随意については、各種の資料に書かれているのですが、慶長十

七年であったり、慶長十八年に有馬に来たと書いてありますが、いずれにしても

の時代、慶長十八年三月には連判状が書かれたという事は、情報が如何に

かったのか伺えるところです。キリシタンの情報網があったのかな?


さて、この幡随意の活躍がどうだったのかは次号にて。

                                  (以下次号)

 


2015年12月 7日 (月)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の一

1

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3

4_2

5_2

(「キリシタン研究・第二部論攷編~松田毅一著・口絵より・風間書店刊)


口之津のキリシタン42名が弾圧の中で書いた「口之津連判状」です。この文書

について調べてみると面白く、全体像は分からないものの、いずれまた調べるこ

ととし、一応分かったことを自分なりに「覚書」とし、書いてみることにしました。


なお、「連判状」は「口之津民俗資料館」と「有馬キリシタン遺産資料記念館」に

展示がしてあります。


上の写真のネガみたいのは、松田毅一氏が書いた、「キリシタン研究・第二部論

攷編」の口絵に載っていたもので、本物は新聞に載っているようなもので、縦

20㎝、横1m60程度の横に広いものです。

Photo

口之津民俗資料館に展示されたいきさつについては、新聞記事を要約すると、

資料館の館長さんが「マリア観音像」(高さ19㎝)をY氏から寄贈され、その中に

連判状の縮小コピーを発見。

松田毅一氏の著書に「バチカン図書館」で1960年、この実物を見たとあるのを

確認し、関係者を通し、バチカン図書館から複写画像と展示許可をもらったもの

だそうです。


ただ、本物の撮影はバチカンとの協定でNGです。上の写真は、その連判状の

しになります。これについても、後で述べます。


口之津資料館はお客さんがいつも多く、有馬キリシタン遺産資料館が静かに見

られるので、二回ほど行ってみました。実物(写真版)と一番上に載せている、ネ

ガ状のものは筆跡等、全く一緒のものでした。


連判状の中身は、最初の行に「組中 れん判」、その後、一番上に「洗礼名」。そ

の下に印影、竹を切って押印した○印が、3~4ヵ所。その下に洗礼名のポル

ガル語。この文字は、筆でなく、多分ペン字でしょうが、かなり、習熟した感じが

あります。五枚の紙をつなげ、赤○印が契印で4ヵ所。最後に、信仰を守って

いくとの決意の文章。


これを見ている時に、ふと、二つの疑問が湧いたのですが、一つは、この文書が

バチカン図書館にあるということで、日本からローマに送った文書で、信仰を守る

という文書が、コーロス徴収文書、コリャード徴収文書(これについては千々石に

も関係あり、調べている途中なので、後日紹介します)があります。

Img_20151206_0001

  (近代初期日本関係 南蛮資料の研究~松田毅一著)

上が「コーロス徴収文書、コリャード徴収文書」で、上の2段になっているのが、

大村からの文書ですが、右に(長いので写真が切れていますが)日本の状況、

信仰を守る旨等の事が書いてあります。この形式は、すべて一緒です。


「御主てうす乃御名誉の為又何国にても真の証拠阿らハれん為に左乃理を書記

す者也

一 此以前の事は不申及而内府様日本乃き里志たんたあてに対しへるせきさん

を・・・・・・」(近世初期日本関係南蛮資料の研究~松田毅一著)と文章が続き、

その後、署名、印か花押が続きます。


この、「口之津連判状」では、いきなり名前から始まり、最後に決意をする経過が

書いてあり、形式が違っています。


最初に「組中」となっており、普通は「ロザリオ組中」、「周防国岩国きりしたん」、

「有馬組中」等、どこかに書いてあるのですが、これについては、根井浄氏(元龍

谷大学教授)が、「連判の『組中』とは初期キリシタン信者の組織を示唆してお

り・・」と書いています。
   


さて、もう一点、あれ!と思ったのが、筆跡が非常に似た部分があること。

1 2 3

「るいす」(Lisu)という洗礼名が3名ほどあります。この「連判状」の筆跡につい

ては、根井浄氏によると、「・・・筆跡の鑑定はできないものの、個々一人ひとりに

よる署名とは考えがたい。清書された感じがあり・・・」(嶽南風土記16号~有家

史談会刊)とあります。


氏名については、42名中、姓と名があるのが35名、名のみが7名と、ある程度

上部の者と思われます。 

                                  (以下次回)


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