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2015年6月14日 - 2015年6月20日

2015年6月20日 (土)

「踏み絵」之事④~踏み絵の歴史

Img_20150617_0001_4
         (シーボルト著「日本」~「踏絵」)


踏絵を考えついたのは誰か?この前、書きましたが、結局は、誰かはハッキリ

いのですが・・・・


「踏絵」の歴史も、いろいろ説があり、はっきりしません。根拠になっている長崎

旧記録は後年偏されたものだからです。


ただ、クラセの「日本西
教史」、パジェスの「日本切支丹宗門史」に次の様に書い

てあります。


フランシスコ・神父が、雲仙で拷問を受け転宗を頑として拒否しますが、「そこ

家来(サテリスト)が、神の像(イマージ)をもってやって來て、それを冒瀆せよ

と命じた。神父は、彼らに腫れ上がって血まみれの足を示し、「そんな瀆聖をさせ

るより、私はこの足を切り落としてしまひませう。」といえば、役人は、「お前を縛

って、聖像を足の下におしつけるぞ。」と叱った。


これが、1631年、寛永8年。ですから、この年には、踏絵が使われていたという

ことになります。これが、西欧の文献における「踏絵」の最初だそうです。


さて、あとは例によって、片岡弥吉著「踏絵・キリシタン」に、書いてあるのを基に

して、書きますが、片岡氏は現代文で書いてあるので、できるだけその時代の雰

囲気を味わっていただくため、原典に忠実に書いて見たいと思います。


なお、「踏絵」と同時に、密告者には報奨金を与えたらしく、


長いので前略しますが・・・


一 伴天連の訴人尓          銀三〇〇枚

一 入満(注;いるまん)の訴人尓  同弐百枚

一 同宿宗門之族訴人尓同弐百枚

   又者三十枚品ニよるへし


長いので後略しますが

                    奉行

「寛永十六年二月廿一日馬場三郎左衛門 大河内善兵衛江被下候御御条目」

とまあ、密告制度ですね。


さて、踏絵ですが


❶ 寛永三(1626)年説は「長崎記」「長崎縁起略」大村家覚書附録」にあり。

片岡氏の本によれば、「切支丹仏を踏ませ、転び帳に判をつかせて許された。」

とありますが、私の本を読むと、「轉ひ候者は帳面に印形を取 轉さるものは召

捕らえて糾明さるるとあります。」とあり、「切支丹仏を踏ませ」は載ってありま

せんでした。本が違うのかな?


ただ、片岡氏は、「『長崎記』の文書も『寛永三年水野河内・・・・』というところは、

同年水野河内守がその年に開始されたという意味ではなく、水野河内守の在任

中におこなわれはじめたという意味に解釈すべきだと思う。」と述べています。


❷寛永5年については、「長崎港草」にあり、
「蹈繪ノ始マリシハ寛永五戊亥年水

野君ノ御時ニ轉ビシ者ヲ試ン為切支丹ノ尊信スル掛物ノ繪像ヲ持テ之ヲ蹈マセ

ラル・・・・」とあり、最初は私たちが見ているような鋳造品ではなく、「掛物の繪

像」だった事が分かります。


なお、踏み絵については、各種の本に同じように、書いてありますが、「長崎蹈繪

鋳造之事」として、次のように書いてあります。少し違う所もありますが、大体・・


邪宗門御禁制ノ趣 慶長元和ノ此ヨリ年々嚴密ニ被仰付、正道に期歸誠シ改宗

スル者ニハ、其寺ヨリ宗旨改ノ證文ヲ出サセ、猶又切支丹ノ仏像ヲ紙ニ繪書(え

かき)テ、一人宛ニ蹈シメラル。是ヲ蹈繪ト云。然ニ數人ニ蹈シムル事ナレバ繪

紙破裂故、其後ハ木版ニ佛像ヲ彫込テ蹈シメラル。是ヲ繪板ト云。是モ數年ノ後

木板ヲ蹈破ル。依之寛文九年(1667)當地本古川町ニ祐佐ト云鋳者師有之、

此者ニ唐銅ニテ彼繪像二拾枚令鋳ラレ後年マデ是ヲ用ラル。」


なお、この「踏絵像」は、島原、平戸、大村、五島、久留米、木付、竹田、臼杵、

日田、延岡の十ヵ所から借用されたそうです。


なお、20枚作られた内の19枚が、東京博物館に所蔵されているそうです。一枚

は行方が分からないとのこと。



2015年6月19日 (金)

「踏み絵」之事③~考えたのは誰?

Photo

           (「島原城展示品図録」より)


左が踏絵(複製)、右が、踏絵帳(宗門改影踏帳)。


さて、この踏絵を誰が考えたか。もちろん、踏絵は禁教と関係がありますが、この

禁教については、広義には豊臣秀吉が出したもので、天正15年(1587)6月

18「覚」として、翌19日には「定」として出しています。一般に「伴天連追放

令」呼ばれるのは者の方です(「キリシタンの世紀~高瀬弘一郎著」)。


これについては「若干のイスパニア人が、無謀な陳述をした。幾隻の船が、新イ

スパニア(即ちメキシコ)からフィリピンに来たが、その荷物は何かとイスパニア

人に質ねた所、彼らは愚かしき虚榮からモルッカを占領しするために、兵隊と彈

とを積み、全艦隊を率ゐて来たのだと答へた。この征服は、實に正當な動機から

着手されたもので、侵略の精神から出たものでは決してなく、同年中に実行され

た。公方様(注:豊臣秀吉)は、この言葉をきいて大いに怒り、直ちにイスパニア

人を全部國外に追放しようとかんがえた。同時に彼は、江戸のフランシスコ會の

修道者を数名の大名に預けることにした。(「日本切支丹宗門史~レオン・パジェ

スタ著」)という事で、禁教令が出て、踏絵と続いて行くのですが。


なお、片岡弥吉氏は「発案者はだれか」という事で、3つ上げています。オランダ

人説、沢野忠庵説、日本人説です。


オランダ人説については、ジャン・クラッセ「日本西教史」、また、薩摩から長

に送致された漂着オランダ人は、出島蘭館長立ち会いのもと踏み絵をさせら

れたそうですが、その蘭館長は絵踏みをしなかったし、絵板を見たのも初めてだ

ったそうです。


また、「翁草」に、「初めて長崎に来る異国人には絵踏みをさせるが、毎度来る者

は、それ及ばす、オランダ人は之を除かれる」とあるそうです。


なお、カトリック宗教史家シャールウォアも18世紀中期に否定、シャウォアの「日

本史」の中でも否定、といことで、オランダ人説は否定しています。


❷沢野忠庵説については、(フェレイラは、拷問で棄教し沢野忠庵と名乗る)、踏

絵道具が、忠庵と後藤了順の二人の転び伴天連方に保管されている事が理由

だそうですが、踏み絵は寛永5年(1628)から始まったそうですが、1633年に

転んだのが明らかですから、これにはあたらないということだそうです。(寛永5

年説は他にもあり、これは後日)


❸日本人説については、「室町時代、一向一揆、法華一揆などの戦争の間に、

武将が宗徒をとらえたとき彼らが持っていた信仰対象を足蹴にして一揆の威勢

をくじいたことが有り得ると考えられる」という事で、日本人が切支丹に対して絵

踏みをさせはじめたのではないか、と越中氏が、「教育長崎」(昭和36年1月)に

書いているそうです。


さて、これを読みながら、何か頭の中に、ひっかかるなと思い出したのが、日野

江城の階段遺構。

Photo_2

以前にもこの写真出しましたが、大体の所ですが、赤の所が、五輪塔、宝篋印

塔の地輪、塔身、基礎石を使っている所です。五輪塔、宝篋印塔は供養塔、墓

塔です。築造は16世紀後半と考えられるそうです。


五輪塔・地輪76点、宝篋印塔・基礎石7点、宝篋印塔・塔身11点、柱石2点の

96個の墓石を使用しているそうです(「原城と島原の乱~長崎県南島原市[監

修」)。


城主キリシタン大名有馬晴信は、永禄10年(1567)~慶長10年(1612)。岡

大八事件に連座し、甲斐国初鹿野に改易され、死罪になります。

なお、有馬晴信は、島原半島の寺院をほとんど破壊してしまっています。


跡継ぎの、有馬直純は何らかの罪が負わされるのでしょうが、妻の「国姫」が、

本多忠政の娘、曾祖父徳川家康の養女のためだったのでしょう、おとがめ無し

で、慶長19年(1614)年に、日向延岡に5万3千石にて移転をし、寛永18年

(1641)に亡くなっています。


また、有馬直純は父とその後妻(洗礼名・ジェスタ)の子供、異母弟(8歳、6歳)

の2名を殺害しています。


さて、もう一度上の写真を見ていただきたいのですが、登城するにはこの階段を

登る事になりますが、城主がキリシタンなら、家臣もほとんどキリシタンだったこ

とは充分に考えられます。


墓石を使ったこの階段を、踏みつけて歩いて行くのは、自分が仏教徒ではなく、

キリシタンであるとの証なら、「踏絵」を踏むのは、この逆で、自分はキリシタンで

はなく、仏教徒だという証になります。


年号的にも、踏み絵は寛永5年(1628)です。直純はこの階段の事を知ってい

たはずで、まして、妻が徳川家と関係あり、年代的にも考えると、これが「踏絵」と

関係ありそうな気がするのですが・・・・自分では、以上のように考えているので

すが、珍説ですかね、新説ですかね?


2015年6月18日 (木)

「踏み絵」之事②~金唐革とは?

Img_20150618_0001

今日から、「踏み絵」の歴史について書こうと思ったのですが、明日の病院検査

が、朝早いので簡単に。分からない事が出てきたので、その事などを。


上の「長崎町人誌」は、長崎の昔の事を一般的に分かるように書いてあるのです

が、その中に「絵踏みと金唐革(きんからかわ)」という文が載せてあり、


「絵踏みの行事が宗教的信仰心を確認する手段として強制的に実施されると、

これはそのまま殉教者を選別する方法となったが、もとを質すと、アフリカ北海岸

地方の金唐革の原形がスペイン、ポルトガルから伝わり、いわゆる信者の御絵

して室内装飾用品となるものであった。この金唐革の原形は、踏ませることに

って、スペインの宗教裁判長トルケマダがユダヤ教徒、イスラム教徒選別に利

したものに外ならない。日本では、その選別の対象がカトリック信者選別の手

に逆用されたことになる。・・・・」


なお、金唐皮の説明として、「薄いナメシ革に金泥で種々の模様が描いてある

(革に似せた紙製の金唐紙もあり)。江戸時代の舶来品だが日本製も輸出され

た。」そうです。なお、調べて見ると、「長崎記」の「細物道具ノ覚」の中に、「一 

金唐革」とあります。この、金唐革は日本では「金唐革紙」という伝統工芸品で、

高級品だそうです。ネットで「金唐革」と探すと、たくさん出てきますので、ご覧の

ほどを。


他に大辞典を調べると(ブリタニカだったかな?)「金唐革・金泥(金泥)で種々の

模様をおいた薄いなめし革。またはその革に似せてつくった紙の模造品。」

「金唐素革」として、「(『素』は純粋の意)まがい物でない本物の金唐革」となって

おり、参考として「*我が輩は猫である〈夏目漱石〉二『金唐革の煙草入れから煙

草草をつまみだす』」とあります。


なお、佐枝衆一氏の「江戸の商魂」の「金唐革
の煙草入れー戯作者商人 山東

京伝」にも、出てきます。


話が横にそれましたが、この、「金唐革」、「トルケマダ」、「異端裁判(宗教裁
判)」

を、百科事典、キリスト教事典、ネットで調べましたが、「金唐革」=「トルケマダ」

=「異端裁判」=「絵踏」の関係は、どこにも書いてありませんでした。この「長

崎町人誌」は、内容がしっかりしたものなのですが・・・・「トルケマダ」=「異端裁

判」はありましたが、これと、「踏み絵」の関係は分かりません。


なお、「異端裁判」を調べているとひどいですね。イラストが描いてあって、説明

が、「心臓摘出、教皇絶体主義者がそれを歯で噛む」、「赤熱した鋏で鼻や乳房

を引きちぎる人」、「拷問台の上で腸が出るまで引き伸ばされる人」、「80人が殺

されたその体が30マイルにわたって串刺しに並べられた」、「串刺しにされてとろ

火で焼かれる人」、「野獣の爪で片足を引き裂かれる人」等と書いてあります。


前書きには、「魔女の抑圧はほんの一握りの罪深い人間の考えではない。そ

はローマカトリックとプロテスタントを問わず、教会の公式見解であった。」

(「悪魔学大全~ロッセル・ホープ・ロビンズ著、松田和也訳」ですが)、魔女裁判

中心にした、いったて真面目な本です。


日本で、キリシタンというと、「禁止令」、「殉教」、「隠れキリシタン」などのイメー

ジがありますが、これ読むと、日本のキリシタン弾圧もひどかったが、真面目な

信徒、殉教者、魔女にされた犠牲者にとって、キリスト教とは一体何だ、という感

じでした。


さて、「金唐革」
と、「踏み絵」が関係あるのか、無いのか、もう少し調べて見る予

定です。ご存じの方がおられたら、コメント欄にてお知らせを m(_ _)m


「踏み絵」之事①~ガリヴァ旅行記・日本キリシタン宗門史・ベトナム民俗小史・長崎古今集覧より

Photo

しつこいですね。例の史料展覧會のチラシですが、この出品に「切支丹資料目

録」というのがあって、加津佐町の郷土史家、元山元造氏の出品目録があり、見

ていたら、「嘉永元年宗門改影踏帳」、「影踏帳」、「繪踏帳」があり、確か「踏み

絵」と言ったんではなかったかなと?大体、誰が、いつ頃からと知りたく、(止めれ

ば良かったと反省してますが・・・・)


ここから、調べはじめたら、はまってしまって、あれやらこれやら出てきて、調べ

本が

Dsc_0728_2

図書館やら、無い本は自分で入手したり、図書館の帯禁(館内のみの閲覧)

本を書き写したりと、大変でした、「踏み絵」に関しては、本の1頁くらいしか載

ってないので、探すのが大変でしたが、何となく分かりかけてきたので・・・


ちょうど手持ちの、片岡弥吉氏全集「踏絵・かくれキリシタン」を持っていたので、

これに、よく書いてあるので、この本と、「新長崎市史」を中心に調べて見ました。


よく、「絵踏」「踏み絵」「影絵」と言いますが、私、同じものだと思っていたのです

が、厳密にいうと違うんですね。


「踏み絵」は、絵を描いたもの(材料は後で説明します)。要するに絵を描いた

けのもの。「絵踏」は、その絵を踏むという行為。「影踏」の「影」は古語辞典

(小学館刊)で調べると、「❷物や人の姿」と書いてあり、「踏み絵」には、キリスト

とか、マリヤ様の絵が書いてありますから「人」(といって良いのかな?キリストは

神なんですが・・・)ですね。


さて、「ガリヴァ旅行記」に移ります。「第三編・第十一章」。ほんの数頁ですが、

「著者、ラグナダを去り、日本に航海すーついでオランダ船によってアムステル

ムに帰り、さらにアムステルダムを経て英国に帰る。」の所。


著者が1709年5月6日に、出港します。「われわれは日本の東南部のザモスキ

と呼ぶ小さな港町に上陸した。」。なお、神奈川県観音崎では、ここがガリヴァが

上陸したところだ、ということで2000年半ばから町おこしをしているそうです。


理由は"Xamoschi(ザモスキ)"と"Kannonsaki(かんのんさき)"の筆記体が似て

いるだからそうです。まあ、こういう事は先に言った方が勝ちですが、ちなみに、

私は光源氏のご子孫様です。


さて、ラグナグ王からこの国の帝王宛に親書がありますから、首府のエドまで国

賓扱い。陛下に会いますが、「陛下の兄君でおわすところのラグナグ国王のた

め」、何でも願いを聞いてつかわそうと・・・・


著者は、自分はオランダ商人(注:本当はイギリス人)だが、ナンガサク(注:長崎

でしょう)まで無事届けて欲しいと。日本は鎖国時代(注:一般的には1639年

1854年)で海外への窓はナンガサク(長崎)しかありません。通商の相手は、オ

ランダと中国のみで、英国人は入国を許されていません。


さて、続けての願いは、「そして、さらにつけ加えて、いま一つ是非お願いは、わ

が庇護者なるラグナグ王の名前に免じて、どうかわが同胞たちに課せられる、あ

の十字架踏みの儀式だけは免除していただきたい、・・・・・」、本当のオランダ人

か疑われますが、そこは無事に。


船長がいやな奴で、「わざわざ役人の所へ出かけ行って、我輩がまだ踏絵をして

いないことをいったのである。・・・」という事ですが、ここも無事に終わり、1710

年4月16日、船はダウンズタウンに入港します。


片岡弥吉氏の本によれば、「オランダ人はポルトガル、スペインに代わって日本

貿易を独占するため唯々として絵踏みをしたというので、非難された。英国人ジ

ョナサン・スイフトが『ガリヴァ旅行記』で、ことさらにガリヴァを日本にやり、長崎

の十字架踏みについて記したのも、オランダ人の絵踏を風刺するためだったらし

い。」のですが、出島商館にしばらく滞在した有名な植物学者スウェーデン人シ

ュンツペリーによれば、「オランダ人は最も小心な良心が驚く様な儀式にすら要

求されたことはない」と釈明しているそうです。


モンタヌスの「雲仙地獄の殉教」図は、ご覧になったことがあると思います。

Photo_2

この絵は「クラッセ」著「日本教会史」にも転載されたそうで、英語版、ドイツ語

版、オランダ版等で出版され、明治11年に太政官訳「日本西教史」として出版

されたそうです。教会史、殉教史、雲仙等の殉教のことが書かれています。

1689年出版。


これを、大正12年だったか13年版を読んだのですが、読みたい所が見当たら

ず(帯禁で時間切れ)、1869年版の、レオン・パジェスタの「日本切支丹宗門

史」を入手して読んだら、載ってました。多分、クラッセの本を基にしたと思います

が、関係は分かりません。


この中で、オランダ人のことが書いてあり、「オランダ人は、日本との貿易を獨

せんがために、あらゆる事をした、・・・・」とありますから多分踏絵もしたのでしょ

う。


こうしてみると、「踏絵」は意外と世界に知られていた事が分かります。


さて、「ベトナム民族小史~松本信広著」には、喜隆14年(1815年)にサイゴン

の船が日本に流され、ベトナムの筏船の兵達から事情を聞き、張登桂が「日

見聞録」を明命9(1828)に記録をし、その中で、「長崎の役所でベトナム人が

四角の銅器の上に人形を陽刻したものを踏ませられたことが記してある。その理

由を知らず不思議がると、長官が昔西洋人が宗教のため乱をおこしたので、橋

や道路に西洋教主の形状を刻したものを同国人に踏ませ、西洋人が来ないよう

にしたのだと説明したという。」と書いてあります。


さて、「日本切支丹宗門史」にも、転宗者のフェレイラ神父が「足に踏ませて、切

支丹を發見するために十字架を偶像の寺の敷居に置いた。」

とあり、「道や道路に・・・」「寺の敷居に置いた。」と書いてあるところを見ると、西

洋人には、日本人とは別の形での踏み絵をさせたような気がします。


なお、唐人に対しては、「長崎古今集覧」、「躧銅(フミエ)板之事」として、「是緊

要ノ事ナリ、・・・・・因て漂着唐人ノミ踏ム事ナリ、其直に入港ノ唐船は此事ナ

シ・・・」とあり、唐人に関しては、漂流した唐人と、普通に船で入港した唐人は扱

いが違ったみたいです。


明日は、「踏絵」の歴史です。



2015年6月16日 (火)

「踏み絵」~予告編

Photo Photo_2

今日もブログを書く予定だったんですが、テレビでW杯2次予選、対シンガポール

戦があっていて、とてもじゃないけど、気になって書けないので、予告だけ。


左は、片岡弥吉氏の全集第二巻「踏絵・かくれキリシタン」です。「踏絵」のことが

書いてあります。


右は、皆さんご存じの、「ガリバー旅行記」。


この「踏絵」と「ガリバー旅行記」の関係ですね。「ガリバー旅行記」を精読された

方はご存じですが、「ガリバー旅行」に「踏絵」の事が出てくるんです。

ウソだと思ったら、よく読んでください。という事で、明日はここらあたりからです。


ニッポン、点が入りそうで、入りませんね。もう、イライラ。


2015年6月15日 (月)

「説経 小栗判官」~近藤ようこ著

Img_20150615_0001 Img_20150115_0001

土曜日に、近藤ようこさんの「五色の舟」の事を書きましたが、どうにも、この人

漫画が気になり、もう一冊注文してみました。


「おくり判官」「をくりの判官」でも呼
ばれるそうですが、「判官」はご存じの通り、

「判官贔屓(びいき)」の「判官」です。辞書で引くと、「①ほうがん②裁判官」で、も

ちろん「判官贔屓」のことも載っています。


古語辞典で引くと、「〈名〉はうぐぁん」とあり、「はうぐぁん」で引くと、「①律令制に

よる各官庁の四等官(=長官・次官・判官・主典)のうちの第三等官②多くは、検

非違使(けびいし)・衛門府(えもんふ)・兵衛府(ひょうえふ)の第三等官をいう③

(左衛門・さえもんの尉・じょう)であったことから)源義経の呼び名。」とあります。


なお、長官は
「かみ」、次官は「すけ」、判官は「じょう」、主典は「さかん」(石村貞

吉著「有職故実」より)と読むそうです。ですから、偉いわけです。


さて、物語は、漫画で説明しますが、公家殿上人(くげてんじょうびと)三十六人

の中でも、二条の館の大納言は生まれも位も高貴で、ただ、子供がなく、鞍馬寺

の毘沙門天に祈願をし一子を得ますが、長ずるにつれ、私が大嫌いな、眉目秀

麗、頭脳明晰な男に成長するわけですが、「十八歳の如月から、二十一歳の

まで」気に入った妻がいないため、別れた妻がなんと七十二名。タイガーウッ

は○E○依存症でしたが、この人も同じじゃないかな?七十二名ですよ!


某日、深沼ヶ池の大蛇に見初められ、大蛇は女に化け契りを結ぶわけですが、

これが、バレ(ざまみろ!)流罪の刑。


常陸の国に流罪になるわけですが、照手姫の噂を聞き、ちょっかいを出し、妻に

するわけですが、照手姫の父に断りもなかったため、父としては激怒して、つい

には小栗殿を死に至らしめます。


と、ここで終われば、私としては、万歳なのですが、いらないことに閻魔大王が、

小栗を復活させるわけですが、その時は、無残な姿。


ところが、熊野本宮の湯の峰に入れれば、体はもとに戻るとか。熊野に行く時、

家を追い出され、苦労をしている照手姫と会いますが、照手姫にも分からないく

らいな、無残な姿。


で、まあ、元の姿に戻り、父の所に会いに行き、また、希(この漢字の読み方、分

りますね。NHK朝の連続ドラマでやっています。)なことゆえ、帝に会いに行き判

官の地位を得、照手姫の父に復讐に行こうと思ったところを、照手姫に諭され、

これを中止。という物語です。


もちろん、この物語には、神仏が出てくるわけですが、当時の人には、お経など

を読むと分かりますが、理解できるわけではなく、普通に喋るのではなく、浪花節

のような感じで語り、人の心を掴み、仏の心を説経していったのでしょう。


ご存じの「山椒大夫」も、有名な説経節の一つです。あくまで、民衆性の高いもの

ですが、最近は演じる方が少なく、以前にも書いたように、小沢昭一さんなどが

追い求め、少しづつ復活をしているみたいですが・・・


前に書いたように、私も一回聴きに行き、昔はこんな風に、お説教をしながら、仏

の教えを説いていたのかと思ったものでした。


上の写真、右側ですが、昔はこんな風に、壇上に座り、お説教をしていたそう

す。いまは、立ったままで、マイクでやっておりますが・・・・


「説経節」とか「節談説教」と言いますが、違う所があるようで・・・

説経節は→こちらをクリック

節談説教は→こちらをクリック


(写真は小沢昭一「日本の放浪芸」より)


追伸:「説教」「説経」。ネットを見ると、二つあるみたいですが、この場合、お経を

説くと言う意味では「説経」が正解かな?漫画の題も「説経 小栗判官」です。

節談説教は「節談説教」で統一されているみたいですが、もう少し研究を・・・




 

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