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2015年3月8日 - 2015年3月14日

2015年3月14日 (土)

「バーマジック」~ヒロ・サカイ著

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今日は、カミサンがお泊まりとかで、消えたので、「鬼の居ぬ間の夜遊び」という

事で、お出かけするので、簡単に。


戦後、マジックブームが何回かあり、デパートのおもちゃ売り場の一角に、マジッ

クコーナーがあり、実演などをしていたものです。


現在は、TVでスマートな手品をやっていますが、私も、一時かなり練習したので

すが、指が硬くて、止めました。女の子にもてたいという、下心はあったのです

が・・・・


さて、上の本、ステージでやるのではなく、気楽に友だちとか、家族に見せるよう

なマジックが載っています。もちろん若干の練習は必要ですが・・・・


マジックではなく、頭の体操などのようなものも載って
いるので、二つばかりご紹

介を。



■ネズミのしっぽ


鏡文字というのがあり、普通に書いた文字をひっくりかえしたやつですが。

さて、下の文字を読んでください。

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「ねずみのしっぽ」「ねこのみみ」。良いですね。「いぬのちんぽ」、誰ですか、「ち

ぽ」って読んだのは。


この字、鏡文字ですから、本当の文字は

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ではなく、

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の文字が正解で、「いぬのちんぽ」ではなく「いぬのさんぽ」が正解でした。

いま、パソコンで鏡文字すぐに作れますから、試して見てください。要領は「さ」の

字を上のように、くっつけて書くことだそうです。


もう一つおまけに・・・


■三男の名前は?


100円と10円玉と1円玉を用意します。相手に手の平を出してもらって、(まだ、手

を握ったったことがない男性の方はチャンスです)次のように言います。



「3枚のコインを人だと考えてください。彼らは3人兄弟です。すべて男の子

でした。太郎君のお母さんには3人の息子がいます。」


手の上に100円玉をおいて

「これは、長男で名前を『ひゃくえん』と言います」

次に10円玉をおいて

「これは、次男で名前を『じゅうえん』と言います。

最後に、一円玉をおき

「これは、三男です。名前は?」と聞きます。


多分皆さん、「いちえん」と答えるでしょう。

残念ながら×です。



これ、実は、私も分からず、一時間ほど考えて、やっと分かりました。とにかく、上

の文句をきちんと言いながら、やってみると、分かります。


答えは「太郎」です。


ちゃんと、説明の文句に「太郎君のお母さんには3人の息子がいます。」と

「太郎君」と言っています。


3人兄弟で、長男が「ひゃくえん」、次男が「じゅうえん」なら、残る一人の名前は

「太郎」が正解でしょう。これ、100人以上の方に演じて、一回で正解した方はい

なかったそうです。


とまあ、少し知っていると、場所をなごやかにできますから、読んで見てはいかが

でしょう。



(参考・文引用:「バーマジック~ヒロ・サカイ著」より)




2015年3月13日 (金)

「藩」の名称について~常識とは?

Photo

島原藩のお城、島原城です。


昨日、南島原で観光ガイドとして、活躍しておられるM氏から電話で、「古地図を

見ていたら島原領と書いてあって、島原は藩じゃないか?」との事で、これ、何か

にあったなと探したら、ありました。

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左の「歴史をつかむ技法~山本博文著」。「藩」について、下のように書いてあり

ました。



「江戸時代で言えば、時代劇でも当たり前のように使われている『藩』という用語

も、やはり同時代ではほとんど使われていません。まったく存在しなかった語で

はなく、幕府が編纂した歴史書『徳川実紀』などにも『藩』や「『藩邸』と言う言葉は

でてきます。しかし、一般的には各大名の統治機構=家臣団は『家中』と言い、

たとえば薩摩藩であれば、実際には島津家家中(しまづけかちゅう)で、町人など

からは薩摩様のご家中などと呼ばれていましたが、この場合の場合の薩摩は藩

の名ではなく、単に領地の地名を言ったものにすぎません。

 つまり、これも研究上、各大名が支配する領域やその組織機構を示す言葉が

必要になるので、『藩』という用語が便利に使われているのです。実際に、藩とい

う言葉が一般社会で頻繁に使われるのは、幕府がなくなった明治初年から明治

四年の廃藩置県までの間のわずかな期間です。しかも、この時には、藩主の居

所である城や陣屋の所在地名を藩名とすることになったので、薩摩藩の正式名

称は鹿児島藩でした。・・・」



試しに、ウィキペディアで調べると「薩摩藩は通称で、藩政奉還後に定められ

正式名称は鹿児島藩」とあるではないですか。


時代劇をみて、いままで「藩」と何気なく思っていたのに、ほんまかいな、と言う気

になり、もう一冊、「日本史大事典~平凡社」で調べると、下記のように書いてあ

りました。2ページにわたるので、最初だけご紹介すると、


「江戸時代、将軍より一万石以上の領地を与えられた大名の所領、あるいは、そ

の所領支配の組織・機構を藩と呼ぶ。藩の呼称は江戸幕府の大名領に対する

公称ではなく、当時は「領知(りょうち)あるいは「知行所」と呼ばれていた。藩が

行政単位の名称として公式に使用されたのは、1868年(明治元)明治維新政

府が旧大名領を藩と呼び旧幕府に府県をおいた時から71年の廃藩置県までの

わずかの期間である。

 江戸時代の中ごろから、漢学者たちが、中国において皇帝から領地を与えら

れた諸侯を藩王(はんおう)あるいは藩鎮(はんちん)と言ったのにならって、日

本の大名領をそう呼ぶようになった。新井白石が、1702年(元禄15)六代将軍

となる徳川家宣の命で諸大名の実績を著した『藩翰譜(はんかんふ)』は藩の用

例の早いものである。しかし、この時期には、藩という用語は漢学者などきわめ

て限られた人々にしか使用されていなかった。江戸時代後期にはいると藩という

用語の使用例は多くなり、大名自らの領地を藩と呼び、その家臣達は藩士と自

称することがみられるようになる。・・・・」



とここで思い出したのが、藩境石。島原半島は、佐賀藩(領)と接していました。

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ご覧の通り、「從是西佐嘉(注:佐賀のこと)領」(是より西佐嘉領)、「佐嘉藩」と

は書いてありません。


試しに、Googleの映像で検索すると、見やすいのを書くと「従是東尼崎領」「従是

西南尼崎領」「従是東北大村領」「従是東唐津領」等々。


珍しく平戸は「從是西 平戸藩支配所(?)」とありますが、上の本に従えば、江

戸後期のものでしょう。「從是西筑前國」と言うのもありますが、これ、資料がない

のでよく分かりませんが、「領」がほとんどであり、「藩」と刻んだものは、あまりあ

りませんでした


さて、常識的に「藩」だと思い、学校でも「藩」と習いましたが、少なくとも、江戸中

期以前では「藩」はないと・・・・


今回のことは、もう一度、自分が持つ常識を考え直し、勉強のやり直しが必要だ

と思ったしだいで、良い経験でした。M氏に感謝。


2015年3月12日 (木)

腹立ち日記~「キマイラ~夢枕獏著」に注意

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自分のことを少しアホだな、と思っていたら、ホントにアホでした。

夢枕獏を愛読していますが、Amazonで「夢枕獏」で検索をしていると

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キマイラ(11)の文字が・・・確か、「キライマ10」は、昨年9月に出版されたばか

りで、以前、紹介したと思いますが、このシリーズ、「文庫版1『幻獣少年キマイ

ラ』」が出版されたのが、昭和57年。長年にわたる作品です。


「キライマ 11」が出版されるのが、早すぎるなと、少し疑えば良かったのです

が、夢枕獏さんも、寿命を感じて、少し早書きしたのかな、と思いつつ注文したの

ですが、読み始めたら、なんとなく読んだ感じ。


おかしいな思って、最後のページを読むと

「本書は2001年9月に朝日ソノラマより刊行され、2009年1月に朝日出版よ

り、刊行された作品を分冊のうえ文庫化されたものです。」


と、あるではありませんか、現在新しいものは、朝日新聞出版で発行されていま

すが、私が購入した「キマイラ11・胎蔵変」は角川文庫で、朝日新聞出版で発行

されたものは、すでに、平成3年出版で、第6巻で、読んだものでした。


という事で、確かめずに買った私は、ほんとアホでした。が、角川文庫も、同じも

のを出版しなければいいのにと思いつつ、自分のアホさ加減に腹が立ち、今日

お休みなさい。


なお、皆さんも、本を買う時はご注意を。元凶はというと、夢枕獏さんの執筆量の

多さだと思うのですが・・・・・「餓狼伝」と「東天の獅子」も急いで書いて pen






2015年3月11日 (水)

贈りものはなんですか?~ホワイトデー

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確か、昔はホワイトデーなんか、なかった覚えがあるのですが、お菓子屋さんの

戦略で定着したみたいです。


調べて見ると、「第一回のホワイトデー」が1980年(昭和55)だそうです。


1980年が「愛にこたえるホワイトデー」、1981年が「好きな女の子にキャンデ

ーを贈ろう」、1982年が「僕からも、愛」、1983年が「愛の数だけキャンディー

を贈ります」、1984年が「好きだよを包んであげる」。都々逸にもありました

ね、「君と僕とは卵の仲よ、僕が白身で君(黄身)を抱く」。


1985年が「あの子にキャンディーパンチ」、986年が「正々堂々ホワイトデー」、

1987年が「夢見ていますホワイトデー」、1988年が「キャンデーをあの子に贈

る!」、1989年が「Two Lips」。1990年からはホワイトデーが定着したせい

か、キャッチフレーズはなくなったみたいですが・・・・


以前のキャッチフレーズを見て分かるのは、ホワイトデーの贈りものは「キャンデ

ー 」。安上がりですみますが、いまや、倍返し、三倍返し。へたすると、エルメス

のハンドバックだとか、ブルガリの指輪だとか・・・


某日、お土産屋さんに入って見ると、「恋するラスク」というお菓子が置いてあっ

て、名前が気にいったので買ってみると、カステラの和泉屋さんのもの。


長崎で、昔は進物と言えば、カステラでした。和泉屋さんといえば、どこかで聞い

た名前だなと思っていたら、ウチから10分程度のところに、店と工場があるとこ

ろでした。工場を建てているのを覚えていますから、以外と新しい会社なのか

な?


カステラ屋さんだから、カステラにチョコレートをかけて、しっとりしているかと思っ

ら、カステラをサクッと焼き上げ、チョコレートをかけ、一口サイズで、サックリし

感触が、なんとも気持ち良く、今年は、これを「ホワイトデー」の贈りものにしま

た。「恋するラスク」。センスがある名前、「恋する」がいいな heart04


もちろん、エルメスのバックとか、ブルガリの指輪とかも一緒に入れて、14日の

期日指定配達で贈りました。人数が多いので、一人一人持って行くのが面倒だ

ら・・・happy01


チのかみさんには?貰ってないのに、やりませんヨ。昔は、5万くらいの、洋

の仕立券をプレゼントして、「好きなのを、作れば」なんて、言ってたんですがネ。

遠い昔の話です・・・・・


【おまけ】

中学校の満開の花。掲示板には、金子みすゞさんの「つもった雪」の詩。中学生

が、この詩を実感として、理解するのは、いつのことでしょう。

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2015年3月10日 (火)

「飯岳城(いだけじょう)」のこと~雲仙市千々石町

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近年、城がブームみたいで、いままでは、大阪城とか、熊本城とか、有名な城を

さん見に行っていたのですが、先日のNHKで、山城に登り、石垣を鑑賞する女

が増えたとか。段々、マニアテックな方向に行っているみたいですが、今度

は、ほとんど城とも思えないところに潜り込んで、調べるのが流行るのではない

かと思っています。


長崎県教育委員会において、2010年と2011年に「長崎県中近世城館跡分析

調査報告書Ⅰ・Ⅱ」を出しています。


読んで見ると、千々石町では、「釜蓋城」「浜手城」「野田城」「飯岳(いだけ)城」と

なっていますが、町(現在は雲仙市)でも調査をしていません。


「浜手城」は、上山となっていますから、商店街の横の丘陵でしょうが、ここも、3

分の一ほどはゲートボール場になっています。「野田城」は多分現在の、野田神

社あたりだと思われます。釜蓋城は、橘神社の後の山です。


この、県教委の報告書では、「浜手城」「野田城」は、遺構等が少ないせいか、実

測調査は省かれていますが、「野田城」については、「遺構内容」として、「土塁・

石垣」遺構内容」となっていますから、今度行ってみますか。


本来は、「千々石ミゲル」が生まれた、「釜蓋城(かまぶたじょう)」を調査しなけれ

ばならないのですが・・・・調査が始まりかけた、平成16年には、山の上部が削ら

れて、グラウンドになり、主要部分が調査できなくなったせいだと思いま す。


調査がされたのは、「飯岳
城」のみです。

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一番上の写真の山が「飯岳城」ですが、報告書を、簡略に書くと


時期・・・・・・南北朝(14世紀後半)に築城、領主は有馬氏。

立地条件・・山頂

文献・・・・・・①古文書・・・「北肥戦誌」

歴史・・・・・・南北朝の1372(文中元)年ごろ、九州探題今川了俊が千々石浜に

        進入、城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷いてこれを防

        いだ。

遺構・・・・・土塁(石累)・石積


と、あと、曲輪、の状況が書いてあり、


残存状態・・・自然石が多く、平場の形成としては良好ではない。ただし、文献や

        表採資料としては比較的古い時代(南北朝)の城郭と考えており、 

        その時期の城館の形態が見られる事は貴重な資料である。


ということで、「北肥戦誌(九州治乱記)」をザッと(本文で865ページあるので)み

ると、千々石(千々岩との標記)が二ヵ所ばかりありました。


「同三年(觀應三年・北朝にて使用の年号)壬辰二月、探題一色入道等獻、肥前

國高來・彼杵お宮方退治として、小俣少輔七郎連を差遣わす。氏連先づ彼杵へ

打越え、矢上の城に入りて、高來の味方を相催すに、有馬・安富以下の武家方

共、閏二月二八日千々岩の津へ馳せまいる。氏連、同十七日千々岩へ陣を移し

井(現愛野町野井)の城を攻め、又西郷次郎が杉峰城をせめて合戦し・・・・」


「應安(南北朝の時、北朝にて使用)六年癸丑(1373年)三日、初、探題今川入

道了俊・太宰右衛門佐頼泰、彼杵軍へ發向し、伊佐早・宇木(現在の諫早市有

喜)の兩城を攻めけるに、城主伊佐早右近五郎・西郷藤三郎やがて降参す。了

俊・頼泰、その後高來へ打越え、七月七日、神代(現雲仙市国見町神代)、大隅

を攻め、九月六日、千々岩に至り濱手に於いて、宮方の輩と打戰ひ、一戦に利

を得柏崎に陣す。」


30年ほど前、3~4人で、この山登りました。頂上には、低い石垣が積んであり

ましたが、あの頃は、全然興味が無く、今考えると残念です。


今ですか?到底登れないでしょう。ウロウロしていたら、徘徊老人と間違われま

す、というより、この山も、猪の館になっているでしょう。


以上書いたようなこと、多分、この城の役割を、千々石でも知っている人はいな

いと思います。城があったことは知っていますが・・・・


調査報告書とは、多少違うところがありますが、そのうち調べ直したいとは、思っ

ていますが・・・・



【おまけ】もうボチボチ本格的な春。

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2015年3月 9日 (月)

「男はつらいよ・映画版」最終回

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TV版の最終回の事を書いたので、映画版の最終回の事も・・・


「男はつらいよ」第48作「寅次郎の紅の花」。第1作が、1969年「男はつらい

よ」。この第48作が1995年「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。最後の作品。


このあと、「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花特別編」がありますが、渥美

清さんが亡くなられたのが1996年8月で、この映画が作られたのが、1997

11月ですから、既存の映像、CGで作られた物で、この48作「寅次郎の紅の花」

が、実質上の最後の映画になります。


この映画には、ほとんど寅さんは登場しなく、昔のような、威勢の良いタンカも聞

かれません。渥美清さんはこのとき、癌がひどく、出演できる状態ではなかった

そうです。


42作目からは、渥美清さんの体の状態が悪く、さくらと博の息子「満男」と、想い

を寄せる「泉(後藤久美子)」の恋物語が、サブストーリーになってきます。


さて、寅次郎の事をみんな心配していますが、なんと、「阪神・淡路大震災」のボ

ランティアとして大活躍しています。TVでさくらが見つけます。


さて、さくらと博の子供、満男の所に、泉が訪ねてきます。この二人も、お互い惚

れてはいるのですが、どうもうまくいきません。泉は満男に、見合いのこと、結婚

するかも知れないことを告げますが、満男は気の弱さで何も言えません。


結局、結婚式の日、満男は結婚式の邪魔をしに。(ダスティン・ホフマンの「卒業」

みたいに、かっこよくありませんが・・・・)


そのまま、一人、足に任せて、付いたところが、奄美大島。偶然に「リリー(浅丘

ルリ子)」に会い、ウチにも居候が一人いるからおいでよ、とついていった家に、

なんと、おじちゃんの、寅さん。毎日、快適に暮らしていますが、

2_6

追ってきたのが、破談になった泉。

海岸にいる満男の所にいって、「どうして、あんなことしたのよ?」と詰問します

が、満男は海の中へ後ずさりしながら、「愛してんだよ!」。泉はニッコリして「もう

度いってよ!」。満男は、海の中に尻餅を。二人の心が通じ合った瞬間です。


それを見ていた寅さん、「無様だね」。リリー「若いんだもの、いいんじゃない、私

たちと違うわ。」

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こうして、リリーも付いて、4人帰ってくるのですが、さくらは、「まだ夫婦じない

だから」と二人の寝るところを、別々の部屋にしますが、これを聞いて、リリー

「あら、一緒でよかったのに」。

Photo_16

リリーは、11作、15作、25作、そして、この48作、マドンナ役としては、一番多

く出演しています。


どの作品も、あと一息で、所帯を持つところまでいくのですが。妹のさくらが、リリ

ーに、寅さんとの結婚を頼んで、「いいわよ」といっても、寅次郎は「冗談だろう」。


寅さんが「リリー、おれと所帯をもつか」というと、「私たち、夢を見ていたのよ。ほ

ら、あんまり暑いからさ」


この作も一緒で、しばらくは仲良く暮らしますが、ささいなことで、リリーは奄美大

島へかえることに。さくらは、寅さんに止めるように言いますが、いうことを聞きま

せん。


タクシーに乗っていこうとするリリーの横に、突如寅さんが座ります。

「か弱い女を一人寂しく旅立たせるわけるにはいかないだろう」

「寅さん、どこまで送っていただけるんですか?」

「男が女をおくるって場合は、その女の玄関まで送るっていうことよ。」

いいセリフですね。ハンフリー・ボガードみたい。私も、このセリフ、いつか使いた

な。


さて、二人が、奄美大島へ帰って数ヶ月後、リリーからさくらの所に、手紙が届き

ます。また、ささいなことで、喧嘩をして、寅さんが出ていったとか。

Photo_17

寅さんは、災害地の神戸に来ていました。みんなから歓迎を受けるところで、映

画は終わります。

Photo_18

さて、寅さんの映画がなぜ、こんなに長く続いたのか、ユーモアもあり、セリフも

うまく、筋立ても良く、親戚のおじさんに、正論のお小言を言われるような感じも

あり、時として、哲学的なこともいいます。


「それを言っちゃあお仕舞いよ」。私も、カミサンに言いたいことが、山とあるので

すが、そのたび、この「それを言っちゃあお仕舞いよ」を思い出し我慢していま

す。


おかげで、離婚せずにすんでいるわけで
すが・・・寅さんのおかげです。もっと

も、こちらは、言われっぱなしですが・・・


山田洋二のコメントで、「寅さんあじさいの恋」で、寅さ
んが、かがり(マドンナ・い

しだあゆみ)の所へ訪ねていって、泊まりますが、かがりが、寅さんが寝ている子

ども部屋に、ランドセルを取りにいく所で、あわやという場面。とらさんは、お

なびっくりで、タヌキ寝入りをして、かがりは、ちょっとがっかりしたような顔で

いったそうです。


この映画で、大阪・天王寺松竹の支配人から、山田監督が聞いた話だそうです。

映画館は土地柄、酔っ払いや、フーテンが大勢いて、この場面になると、酔っ払

いが「いてまえ、いてまえ(やってしまえ)」と叫んだら、その声に対して、「アホ、

寅はそういうことをせんのがええところやないか」と反論の声が起き、場内爆笑し

たそうです。


高校生の初めてのデートの時、手を握って良いものかどうか、手の甲が触れ合う

と、稲妻に打たれたみたいに、どきっとしたものです。誰でも、そんな純情な時代

の事を覚えているでしょう。そんな、純情な時代の自分を、思い出しているので

はないでしょうか。


約30年間の間の作品ですから、さくらさんもふけました。夫の博さんも少し太っ

たみたいです。寅さんはもちろん亡くなり、おいちゃんも、森川信→村松達郎→

下条正巳と変わりました。おばちゃん(三崎智恵子)も少し細せたみたいで、白髪

が増えました。御前様も亡くなりました。タコ社長は、変わりません。


映画と共に、出演者も年月を経ていく、こんな映画、もう出ないと思います。ヒマ

でない方も、もう一度、是非ご覧下さい。


(参考・引用:「男はつらいよ 寅さん読本~寅さん俱楽部編」より)



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