「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の三
前日の写真と同じで、申し訳ないのですが、赤丸の所、「常土(浄土宗)のちやう
老」と書いてありますが、これが幡随意上人のことですが、幡随意については、
下の機関誌に、根井浄氏(元龍谷大学教授)が「浄土僧のキリシタン改宗施策ー
運誉上人から幡隋意上人へー」、「有馬 島原に派遣された幡隋意上人『幡隋
意上人諸国行傳』」に詳しく書かれています。
読まれたい方は、南島原市教育委員会に問合わせれば、事務局を教えて貰え
ると思いますので、興味のある方は一読を。
さて、幡隋意上人の成果について根井氏は「また文化八年(1811)年鷹矢純芳
編『国乗遺聞』(巻五)は、やや潤色性があるとはいえ、北有馬日野江にあった観
三寺(浄土宗寺院につき『白道寺縁起』に伝くとして幡隋意上人の動向を次のよ
うに伝えるとして、長文なので、関係ある所だけをかくと
「我カ黨ヲ窮地セシムル者ハ、幡隋意ナリト恨ヲ上人ニ結ビ、数十人鉄砲ヲ提
ヘ来テ、道場ヲ囲ミ師ヲ害セント欲ス・・・」、と闘争ががおこなわれたみたいです
が、その後、幡隋意上人は「闘諍ハ僧門ノ業ニアラズ」という事で、「端座シテ合
掌ヲシテ十念ス」という事で、「此時邪徒等鉾ヲ倒(さかさ)ニシテ着座シ説法ヲ聴
聞シテヨリ、皆悪心ヲ翻シ、此宗ニ和シケルトソ・・・」と上手くいったようですが。
「耶蘇天誅記」によれば
「郡中所々ニ於テ、数日説法アリケレトモ、耶蘇ノ先入更ニ不転故ニ信心聴聞ノ
者無リシカハ、和尚モ恍惚果テ申サレケルハ・・・」とこちらは、失敗したように書
いてあります。
また、「肥前国有馬古老物語」には
「左衛門佐殿(有馬直純ー根井註)関東より幡随和尚という碩徳を申請、嶋中の
人員を集め、十七日説法談義成され候共、一人も信心聴聞する者これ無し故、
和尚仰せられ候は、何事を教化いたし候ても役たたず」と書かれているそうで
す。(根井浄氏~浄土僧のキリシタン改教施策・嶽南風土記より)
さて、西洋の記録は、探してみたら、レオン・パジェステの「日本切支丹宗門
史 上巻」、第十五章、1613年(慶長18年)の所「左衛門佐(注:有馬直純、有
馬晴信の子)は、やがて浄土宗の佛僧『幡随院』を政廳から連れて来た。彼は、
この佛僧に領内の住民を堕落させる任に當らせた。然し、一人として地獄の手
先の説教を聽きに來るものはなく、子供等は往來に來ると彼を馬鹿にするので
あった。・・・」
なお、パジェステは1814年(文化11年)生まれであり、この事を実際に見たこと
もなく、原典は?と思ったら、あれと、あれしかないんで、あれとは「イエズス会報
告書」か、神父の書簡類ですが、調べると、「十六・七世紀 イエズス会日本報告
書第Ⅱ期・第2巻」、「六 セバスティアン・ヴィエイラのイエズス会長宛、一六一
三年度・日本年報」の所に、「(有馬)ドン・ミゲル(直純)が政庁から連れて来た
仏僧(幡随意上人)の到来に生じたこと」のなかに
「・・・殿は皆が説教を聞きに行くように命じた。そしてたとえ何人かが(その命令
を)実行するために彼(の説教)を聞きに行ったとしても、それはその仏僧の愚か
な言葉を聞くためというよりも、(路傍では子供たちがしていたことだが)かれをか
らかい冷やかすためであった。・・・」
という事で、ほとんど同文で、特に子供の表現に関しては、ほぼ、「イエズス会日
本報告書」を参考にしたことが分かります。
で、幡随意和尚の努力は、あまり効果が無かったようで、もっとも、イエズス会日
本報告書は、宗教的対立する宗教ですから、これは割り引く必要があります
が・・・・
(まだまだ続く、以下次号)
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