「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の二
上の文書は、なぜ連判状が書かれたかの最後の決意の部分です。
今度常土のちやう老
下向ニ突而組中ニさまたけ
出申来者十類一命可
棒覚悟候この為証拠
てうすは阿てれひいりよす
ひりつさんと三ッのへるさう
な御方をたてまつり候仍候而
各件候
右の人数四十二人
慶長拾八年 口津
三月廿二日 備中
(松田毅一解読による)
「常土」は「浄土(宗)」、「ちやう老」は「長老」、「てうす」は「デウス」、「は阿てれ」
は「バアテレ・父なる神」、「ひいりよ」は「ヒーリコ・世に現れた聖なる子、キリス
ト」、「すひりさんと」は「スピリッサント・信仰に経験に顕示された聖なる精霊」、
「へるそうな」は、「知恵と意思を備えた独立を備えた独立の主体者に殉教を誓っ
ている。」。(根井浄氏~嶽南風土記16号)
要するに三位一体の事を言っているのでしょう・・・・と思います。
五野井隆史氏(東京大学名誉教授)によれば、有馬直純が江戸に発ったのが
1613年1月(慶長18年)、帰領したのが同年6月。「将軍秀忠に命によって浄
土宗の碩学幡随意上人も有馬に下向した。これは長崎奉行長谷川が人選した
ようである(モレホン前掲書)。前期『日本年報』は、直純が一仏僧を帯同して領
主のきりしたん教界を破壊するためにきた、という。・・・・注目すべきことは、江戸
神田の新知恩住職幡随意の下向が直純の参府後まもなく決定し、そのことが早
速有馬に伝えられ、口之津のコンフラリアの組もすぐに対応して、全員一命を捧
げて殉教することを決意したことだ。」
なお、東京大学「大日本資料 第十二編の九」の慶長十七年三月二十一日の所
に(訂正増補 日本西教史下第十四章)の部分に幡随意のことが書いてあり、
多分、「日本西教史」は、ジオン・クラセ著、太政官翻訳係のものだと思います。
「幕府、耶蘇教ヲ禁ジ、所司代板倉勝重ニ命ジテ、京都ノ耶蘇寺院ヲ毀タシメ、
又、旗下ノ士等の耶蘇教ヲ奉ズルモノヲ罰ス、尋デ、肥前日野江城城主有馬直
純、長崎奉行長谷川藤廣ニ令シテ、ソノ教徒ヲ禁壓セシメ、マタ、僧幡随意ヲ有
馬ニ遣シテ、教徒ヲ誨諭セシム」とあります。
また、藤原有馬家世譜には(島原半島史上巻~林銑吉著より)
「同(慶長)十八年癸丑六月、駿府より、有馬日野江城へ帰りたまふ、・・・此時
台命に依て、浄土の碩学幡随上人、九月有馬へ下向ありて、道場を設て、耶蘇
の愚民を化度し、従はざる者は公武威を以て、此を成敗し、封内頗平治す・・・」
このほかにも幡随意については、各種の資料に書かれているのですが、慶長十
七年であったり、慶長十八年に有馬に来たと書いてありますが、いずれにしても
あの時代、慶長十八年三月には連判状が書かれたという事は、情報が如何に
早かったのか伺えるところです。キリシタンの情報網があったのかな?
さて、この幡随意の活躍がどうだったのかは次号にて。
(以下次号)
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