「昭和天皇100の言葉」~別冊宝島研修部編
昭和天皇が崩御され27年。現在「昭和天皇実録」が4巻まで発売されましたが、
まだまだ、不明な部分もあるようですが・・・
天皇陛下といっても、公式の発言は耳にするものの、実際のお言葉は、聞くこと
が少なく、この本は、昭和天皇の不断聞かれなかった言葉が書いてあり、もちろ
ん、戦前、戦中、戦後にわたるもので、虚心坦懐に読めば、昭和天皇のお人柄
が分かります。
本は、二ページで一つの言葉について書いてあり、右側が昭和天皇の言葉、左
が、その言葉の説明になっています。少しばかり、ご紹介を。
■貴下は私についておもうままになされてよい。
貴下は私を絞首刑にしてもよい。
しかし、私の国民を飢えさせないでほしい。
・(注:説明文が長くなるので、私の方で、大体の事をまとめます)
9月27日、占領軍マッカーサーを訪問。会見は35分。一人の通訳以外に他
の人は立ち会わず、実質的に一対一。
自分より国民の事を案じている言葉に、マッカーサー元帥は、日本国民に
寛大な措置を取る方針を決めたという。
■指導的地位はこちらから押し付けてもできるものではない。
指導者と仰ぐようになって初めてできるのである。
・1939年第二次大戦が勃発。イギリス、フランス、オランダ等の連合軍はヨー
ロッパ戦力に注力。これに乗ずる形で、日本陸軍はアジアにおける”指導的
地位”を唱え、「大東亜共栄圏」の建設を主張、それに対する、昭和天皇が諫
めた言葉。
■外交と戦争準備は平行せしめず、外交を先行せしめよ。
・日中戦争の勃興後、アメリカと日本の関係は悪化。昭和天皇はぎりぎりまで、
外交交渉による事態の打開を支持。1941年9月6日の御前会議に先立ち
近衛首相、陸軍杉本参謀総長、海軍永野軍令部総長に対し述べた言葉。
(防衛法制案が成立した今、誰かに聞かせたい言葉ですが・・・・)
■私のパンだけ白いのは困る。国民の配給のと同じにしてくれ。
・終戦直後、配給パンは固くて質が悪かったが、貴重な食料。その時のお言
葉。関東大震災直後にもほぼ同趣旨のご発言。
■自分は戦争を阻止できなかったから、自分の後継ぎを育てる資格がないと思
う。
・戦後、昭和天皇は皇太子にアメリカ式の教育をする事を望み、アメリカ人の
エリザベス・ヴァイニングを家庭教師に。エリザベス・ヴァイニング夫人が「一
家離れて住むのは、よくない」と言った事に対する、言葉。
■文化勲章というのは、家が貧しくて、研究費も足りない。にもかかわらず、生涯
を文化や科学技術発展のために尽くした。
そういう者を表彰するのが本来のやり方とは違うのか。
・1971年砂防工学の権威赤木正雄氏が文化賞を受賞。赤木氏は旧内務省
官僚、貴族院議員。工事の予算に不自由したことがなく、昭和天皇は赤木氏
の功績を認めつつ、「より苦労した人間が受章するのがふさわしいと考えて
ことが伺える。」
■鮮魚を祝いとして送るというが、これらは水中にありてこそめでたけれ。
・皇室関係者の間では宮中の祝い事に鯛を送る習慣があり、1934年、貞明
皇太后が50歳を迎え、祝いに多くの鮮魚が送られたが、「生物学者として生
命を重んじた昭和天皇は、本田繁侍従武官長にこう苦言を漏らした。」
■雑草という草はない。
どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んで
いる。人間の一方的な考えで、これを雑草として決めつけてしまうのはいけな
い。
・自然を愛した昭和天皇は、皇居の庭園でもむやみに除草することを好まず、
1937年にゴルフをやめ、吹上御苑にあったゴルフ場を自然のままに放置。
何となく、時代がきな臭くなってきています。昭和天皇の言葉を読んで、もう一度
あの戦争は何だったのか、これから先、平和とはどうあるべきか、考えさせられ
る本でした。
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