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2015年7月18日 (土)

チョット違うよ、フロイスさん

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さて、少し昨日の話の続きになります。昨日、「上井覚兼日記」のことを書きまし

たが、フロイスの「日本史」に少し、ひっかかりがあるので・・・・


戦国時代。大ざっぱにいうと、龍造寺隆信、大友宗麟、島津義久の三氏が九州

の大きな勢力でしたが、龍造寺が今山の戦いで、大友宗麟を破り、さらに、島津

義久が耳川合戦で大友宗麟を破り、九州は二強の地区になります。


ここで、龍造寺が肥前国島原方面に進出してきますが、キリシタン大名であった

有馬晴信は薩摩の島津義久と手を結ぶことになります。


兵力は有馬側が3,000~5,000名。対して龍造寺が60,000名という説もあ

りますが、実際は20,000名くらいという説も有ります・・・


フロイスによると、「中務(注:島津家久)が、当時すでに四千人近くに達している

兵を率いて位置につき、他方、有馬殿が、千人前後の兵を率いて陣を構え

た。」


対して、龍造寺は「彼は一万二千の戦闘員を率いていたが、彼らは豪華に装

い、また清潔で気品があり戦場で鍛錬された兵士たちであった。」


という事で、沖田畷(おきたなわて)の戦いが始まり、圧倒的な数の差にもかか

わらず、龍造寺は、有馬、島津の連合軍の計略により、敗れて、死亡します。

時は、天正12年3月24日(1584年5月14日。日にちは西暦と和暦の違い)


さて、ここからですが、フロイスによれば、「日本六十六ヵ国のいずれを見渡して

も、この薩摩の人達ほど偶像(仏像の事か?)を崇め、その儀式を遵守し、した

がって悪魔を崇拝するところはない。」というくらいの所。かたや、有馬氏はキリタ

ン。(悪魔は仏教のことです)


フロイスによれば、「彼ら(注:島津氏)はまず折にふれてドン・プロタジオ(注:有

馬晴信)にキリシタンの教えを捨てるようにと勧告してやまなかった・・・彼が必要

もないのに信奉しているデウスの教えを棄てるならば、収入をふやし、種々の援

助をしようと口説くところがあった。だが、ドン・プロタジオからは予期していたのと

は異なる返事に接した。」ということになります。


さらに、「薩摩の人がドン・プロタジオにさらにつけ加えて言うには、薩摩の国主と

その弟中務は、温泉(ウンゼン)とよばれ、日本では巡礼をもって知られる豪華な

神殿の再建を、神仏に対して盛大に誓っいて、と。」


有馬晴信は、「ドン・プロタジオは、ごくしばら前に薩摩の援助によって旧位に復

帰できた身でいますぐ彼らの支配から脱却することは懸命なことではなかったか

らデウスの御加護を祈りながら、談合によって自領に異教徒や仏僧がいないよ

うにできることを期していた。」そうですが・・・チョット考えが甘いですネ。


薩摩勢は、「城の正面にあって、キリシタン達が死者を葬る墓地に建てられてい

たきわめて美しい十字架を焼却」したり、有家の教会では無礼を働き、口之津か

ら船で、志岐(天草郡苓北町)の教会に向かいますが、これは、キリシタンが抵

抗したので、退散し、他の教会を略奪していったそうです。


さて、薩摩の島津氏としては「日本では巡礼をもって知られる豪華な
神殿の再建

を、神仏に対して盛大に誓っいて、・・・」という事ですから、天正12年4月8日

に、話し合いをもちます。天正12年3月25日が沖田畷の戦いですから、戦後処

理を考えると、随分早いみたいですが・・・・


「八日、於神代(注:現雲仙市・こうじろ)御談合候、衆、忠長・忠棟・光宗・新納武

州・川上蔘州・頴娃殿・比志嶋殿・山田新介殿・鎌田出雲守殿・拙者、右之衆也、

此表御行之事、當郡中南蛮宗にて、温泉山坊中(満明寺)無殘破滅候、然者御

再興の御立願此度被成候、左様の儀は」御神領過分ニ候ハてハ難成事候間、

此等之御談合也・・・」


「廿二日・・・・・今度温泉御再興之御願候、本領の事ハ被仰ニ不及候為修造料

一、二ヶ所寄同々、此方より可被知せ候、其餘者悉鎭貴(晴信)御校量専一之由

候、殊更從神代山田(注:山田は現雲仙市吾妻町)までハ、先䂓も有馬殿自

とハ不聞得候、西郷(信尚)殿挌護之通申者共有候、・・・・」


という事で、昨日の根井氏によると雲仙を誰が支配しているか、もめたそうです

が、結局、島原と三会から出費するようになったそうです。この後、上井覚兼

すぐに熊本に戻り、結局は雲仙は再建はならなかったそうです。


フロイスはここの所、「薩摩の連中は、ドン・プロタジオがすでにキリシタンであ

り、異教徒たちの神殿(満明寺等)の再建にたずさわるはずがないと思ったの

で、既述の誓いを(再建の誓い)を理由としてこの仕事を引き受けることにした。

ところで彼らは普請の費用や便宜のために、三会と島原の城を接収して、その

収入と人員をこれに当てた。」


と、いかにも完成したように書いていますが、満明寺は有馬氏によって荒廃して

いますが、寛永14年の島原の乱で、堂宇すべてを焼失、壊滅したそうです。


高力摂津守忠房公が島原藩主に着任した時、家臣の善左衛門の兄、
弘宥法印

(遠州浜松松鴨江寺出)が高力氏の守護を賜り、寛永17年(1640)大定院の旧

地を賜り再興し「温泉山一乗院」として復興したそうです。


「温泉山起立書」によれば、山号が「温泉山」、寺号が「満明寺」です。(一乗院

刊・「温泉山縁起」より)


という事は、フロイスは、如何にも沖田畷の戦いのあと、再建したように書いてい

ますが、チョット勘違いという所ですネ。


しかし、フロイスの「日本史」を読むと、フロイスさん、スパイ顔負けの情報通です

ね。情報源はどこだったのでしょう?


(参考・引用:「根井浄氏講義」「上井覚兼日記」「フロイス日本史」「温泉山縁

 起」より)


 

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