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2015年6月24日 (水)

「高山右近」マニラに泣く~「踏絵」之事★ちょっと一服、番外編

Img_20150624_0001

「踏絵」の事にハマッてしまい、会を重ね、今日最終回を、と思っていたのです

が、資料が揃わず、チョット一服。


新聞記事は、23日の長崎新聞記事。今年が高山右近の没後400年の記念の

年で、日本カトリック司教協議会で、大名の位を捨てて、信仰に命をささげた殉

教者として、福者(カトリック最高崇拝の対象が「聖人」、その前段階が「福者」)に

申請。


ローマ法王庁が認定する手続きを了承し、枢機卿が会議で認定。法王の承認を

経て来年、「列福式」が日本で行われるそうです。


私の没後400年、誰が覚えているかと思うと、寂しくもあります。もっとも、
極楽で

キレイなおねえちゃんと遊んでいるでしょうが。


高山右近と言えば、名前だけは、誰でもご存じだと思いますが、世界史を取っ

て、日本史に弱い方は→こちらをクリック


「踏絵」のことを「長崎縁起略」で調べていたら、高山右近のことが書いてありまし

たので、ご紹介を。


高山右近は、号が南坊等伯(みなみのぼう・とうはく)。キリシタン大名でもあり、

お茶の方でも、利休の高弟、七哲の一人です。七哲は、蒲生氏郷、細川忠興(三

斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/

南坊)、牧村利貞(兵部)だそうです。私、お茶はしないので、よく分かりません

が・・・・・コーヒーはしますが 。オンナの子は、最近失敗しましたから、しませ

ん。


この高山右近は、キリシタン禁教令が出ているにもかかわらず、棄教せず、徳川

家康によって国外追放をうけます。高山右近は、長崎まで下向。


「右の外諸國之伴天連長崎の伴天連共(人数)百余人慶長十九年十一月上旬

に唐船造りの船一艘に乗組せ 浦五嶋町波戸口より出帆有しハあハれむへし

(あわれ成哉) 是等の輩数万里の波濤越渡りて生國を捨て 知らぬ國の土地と

ならん事浅ましき次第なり・・・・・・・南蛮西洋國と申ハ呂宋(注:ルソン)アマカハ

(注:天川・マカオ)之邊なり 杳の後松倉豊後守(注:島原藩主)より万屋町糸屋

右衛門と申者故ありて西洋國に渡り 南ノ坊(注:高山右近)に對面茶ノ湯等

致しけるに 七十余歳(64歳?)迄存命有しとかや 邪宗門に落入し事返すが

すも無念の泪(注:なみだ)かハく間もなきとの事共隋右衛門帰朝して物語致

せし也」(下線は、私)


とあり、高山右近さん、涙が乾く間もなかったといいますから、どうも、キリシタン

に入ったことを後悔し、日本が恋しかったのでしょうか?


最もこの「長崎縁起略」の副題が「正覚寺隠居蓮池院会釈聞書」となっています

から、どこまでがホントの話か、私には保障できません。


ウィキペデアでは、「船旅の疲れや慣れない気候のため、老齢の右近はすぐに

病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64」とはなっ

ているのですが・・・・ネ


(参考・引用:「長崎文献叢書・長崎縁起略~校訂 丹羽漢吉」より)


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