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2015年6月18日 (木)

「踏み絵」之事①~ガリヴァ旅行記・日本キリシタン宗門史・ベトナム民俗小史・長崎古今集覧より

Photo

しつこいですね。例の史料展覧會のチラシですが、この出品に「切支丹資料目

録」というのがあって、加津佐町の郷土史家、元山元造氏の出品目録があり、見

ていたら、「嘉永元年宗門改影踏帳」、「影踏帳」、「繪踏帳」があり、確か「踏み

絵」と言ったんではなかったかなと?大体、誰が、いつ頃からと知りたく、(止めれ

ば良かったと反省してますが・・・・)


ここから、調べはじめたら、はまってしまって、あれやらこれやら出てきて、調べ

本が

Dsc_0728_2

図書館やら、無い本は自分で入手したり、図書館の帯禁(館内のみの閲覧)

本を書き写したりと、大変でした、「踏み絵」に関しては、本の1頁くらいしか載

ってないので、探すのが大変でしたが、何となく分かりかけてきたので・・・


ちょうど手持ちの、片岡弥吉氏全集「踏絵・かくれキリシタン」を持っていたので、

これに、よく書いてあるので、この本と、「新長崎市史」を中心に調べて見ました。


よく、「絵踏」「踏み絵」「影絵」と言いますが、私、同じものだと思っていたのです

が、厳密にいうと違うんですね。


「踏み絵」は、絵を描いたもの(材料は後で説明します)。要するに絵を描いた

けのもの。「絵踏」は、その絵を踏むという行為。「影踏」の「影」は古語辞典

(小学館刊)で調べると、「❷物や人の姿」と書いてあり、「踏み絵」には、キリスト

とか、マリヤ様の絵が書いてありますから「人」(といって良いのかな?キリストは

神なんですが・・・)ですね。


さて、「ガリヴァ旅行記」に移ります。「第三編・第十一章」。ほんの数頁ですが、

「著者、ラグナダを去り、日本に航海すーついでオランダ船によってアムステル

ムに帰り、さらにアムステルダムを経て英国に帰る。」の所。


著者が1709年5月6日に、出港します。「われわれは日本の東南部のザモスキ

と呼ぶ小さな港町に上陸した。」。なお、神奈川県観音崎では、ここがガリヴァが

上陸したところだ、ということで2000年半ばから町おこしをしているそうです。


理由は"Xamoschi(ザモスキ)"と"Kannonsaki(かんのんさき)"の筆記体が似て

いるだからそうです。まあ、こういう事は先に言った方が勝ちですが、ちなみに、

私は光源氏のご子孫様です。


さて、ラグナグ王からこの国の帝王宛に親書がありますから、首府のエドまで国

賓扱い。陛下に会いますが、「陛下の兄君でおわすところのラグナグ国王のた

め」、何でも願いを聞いてつかわそうと・・・・


著者は、自分はオランダ商人(注:本当はイギリス人)だが、ナンガサク(注:長崎

でしょう)まで無事届けて欲しいと。日本は鎖国時代(注:一般的には1639年

1854年)で海外への窓はナンガサク(長崎)しかありません。通商の相手は、オ

ランダと中国のみで、英国人は入国を許されていません。


さて、続けての願いは、「そして、さらにつけ加えて、いま一つ是非お願いは、わ

が庇護者なるラグナグ王の名前に免じて、どうかわが同胞たちに課せられる、あ

の十字架踏みの儀式だけは免除していただきたい、・・・・・」、本当のオランダ人

か疑われますが、そこは無事に。


船長がいやな奴で、「わざわざ役人の所へ出かけ行って、我輩がまだ踏絵をして

いないことをいったのである。・・・」という事ですが、ここも無事に終わり、1710

年4月16日、船はダウンズタウンに入港します。


片岡弥吉氏の本によれば、「オランダ人はポルトガル、スペインに代わって日本

貿易を独占するため唯々として絵踏みをしたというので、非難された。英国人ジ

ョナサン・スイフトが『ガリヴァ旅行記』で、ことさらにガリヴァを日本にやり、長崎

の十字架踏みについて記したのも、オランダ人の絵踏を風刺するためだったらし

い。」のですが、出島商館にしばらく滞在した有名な植物学者スウェーデン人シ

ュンツペリーによれば、「オランダ人は最も小心な良心が驚く様な儀式にすら要

求されたことはない」と釈明しているそうです。


モンタヌスの「雲仙地獄の殉教」図は、ご覧になったことがあると思います。

Photo_2

この絵は「クラッセ」著「日本教会史」にも転載されたそうで、英語版、ドイツ語

版、オランダ版等で出版され、明治11年に太政官訳「日本西教史」として出版

されたそうです。教会史、殉教史、雲仙等の殉教のことが書かれています。

1689年出版。


これを、大正12年だったか13年版を読んだのですが、読みたい所が見当たら

ず(帯禁で時間切れ)、1869年版の、レオン・パジェスタの「日本切支丹宗門

史」を入手して読んだら、載ってました。多分、クラッセの本を基にしたと思います

が、関係は分かりません。


この中で、オランダ人のことが書いてあり、「オランダ人は、日本との貿易を獨

せんがために、あらゆる事をした、・・・・」とありますから多分踏絵もしたのでしょ

う。


こうしてみると、「踏絵」は意外と世界に知られていた事が分かります。


さて、「ベトナム民族小史~松本信広著」には、喜隆14年(1815年)にサイゴン

の船が日本に流され、ベトナムの筏船の兵達から事情を聞き、張登桂が「日

見聞録」を明命9(1828)に記録をし、その中で、「長崎の役所でベトナム人が

四角の銅器の上に人形を陽刻したものを踏ませられたことが記してある。その理

由を知らず不思議がると、長官が昔西洋人が宗教のため乱をおこしたので、橋

や道路に西洋教主の形状を刻したものを同国人に踏ませ、西洋人が来ないよう

にしたのだと説明したという。」と書いてあります。


さて、「日本切支丹宗門史」にも、転宗者のフェレイラ神父が「足に踏ませて、切

支丹を發見するために十字架を偶像の寺の敷居に置いた。」

とあり、「道や道路に・・・」「寺の敷居に置いた。」と書いてあるところを見ると、西

洋人には、日本人とは別の形での踏み絵をさせたような気がします。


なお、唐人に対しては、「長崎古今集覧」、「躧銅(フミエ)板之事」として、「是緊

要ノ事ナリ、・・・・・因て漂着唐人ノミ踏ム事ナリ、其直に入港ノ唐船は此事ナ

シ・・・」とあり、唐人に関しては、漂流した唐人と、普通に船で入港した唐人は扱

いが違ったみたいです。


明日は、「踏絵」の歴史です。



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