「踏み絵」之事④~踏み絵の歴史
踏絵を考えついたのは誰か?この前、書きましたが、結局は、誰かはハッキリし
ないのですが・・・・
「踏絵」の歴史も、いろいろ説があり、はっきりしません。根拠になっている長崎
旧記録は後年偏されたものだからです。
ただ、クラセの「日本西教史」、パジェスの「日本切支丹宗門史」に次の様に書い
てあります。
フランシスコ・神父が、雲仙で拷問を受け転宗を頑として拒否しますが、「そこ
へ家来(サテリスト)が、神の像(イマージ)をもってやって來て、それを冒瀆せよ
と命じた。神父は、彼らに腫れ上がって血まみれの足を示し、「そんな瀆聖をさせ
るより、私はこの足を切り落としてしまひませう。」といえば、役人は、「お前を縛
って、聖像を足の下におしつけるぞ。」と叱った。
これが、1631年、寛永8年。ですから、この年には、踏絵が使われていたという
ことになります。これが、西欧の文献における「踏絵」の最初だそうです。
さて、あとは例によって、片岡弥吉著「踏絵・キリシタン」に、書いてあるのを基に
して、書きますが、片岡氏は現代文で書いてあるので、できるだけその時代の雰
囲気を味わっていただくため、原典に忠実に書いて見たいと思います。
なお、「踏絵」と同時に、密告者には報奨金を与えたらしく、
長いので前略しますが・・・
一 伴天連の訴人尓 銀三〇〇枚
一 入満(注;いるまん)の訴人尓 同弐百枚
一 同宿宗門之族訴人尓同弐百枚
又者三十枚品ニよるへし
長いので後略しますが
奉行
「寛永十六年二月廿一日馬場三郎左衛門 大河内善兵衛江被下候御御条目」
とまあ、密告制度ですね。
さて、踏絵ですが
❶ 寛永三(1626)年説は「長崎記」「長崎縁起略」大村家覚書附録」にあり。
片岡氏の本によれば、「切支丹仏を踏ませ、転び帳に判をつかせて許された。」
とありますが、私の本を読むと、「轉ひ候者は帳面に印形を取 轉さるものは召
捕らえて糾明さるるとあります。」とあり、「切支丹仏を踏ませ」は載ってありま
せんでした。本が違うのかな?
ただ、片岡氏は、「『長崎記』の文書も『寛永三年水野河内・・・・』というところは、
同年水野河内守がその年に開始されたという意味ではなく、水野河内守の在任
中におこなわれはじめたという意味に解釈すべきだと思う。」と述べています。
❷寛永5年については、「長崎港草」にあり、「蹈繪ノ始マリシハ寛永五戊亥年水
野君ノ御時ニ轉ビシ者ヲ試ン為切支丹ノ尊信スル掛物ノ繪像ヲ持テ之ヲ蹈マセ
ラル・・・・」とあり、最初は私たちが見ているような鋳造品ではなく、「掛物の繪
像」だった事が分かります。
なお、踏み絵については、各種の本に同じように、書いてありますが、「長崎蹈繪
鋳造之事」として、次のように書いてあります。少し違う所もありますが、大体・・
邪宗門御禁制ノ趣 慶長元和ノ此ヨリ年々嚴密ニ被仰付、正道に期歸誠シ改宗
スル者ニハ、其寺ヨリ宗旨改ノ證文ヲ出サセ、猶又切支丹ノ仏像ヲ紙ニ繪書(え
かき)テ、一人宛ニ蹈シメラル。是ヲ蹈繪ト云。然ニ數人ニ蹈シムル事ナレバ繪
紙破裂故、其後ハ木版ニ佛像ヲ彫込テ蹈シメラル。是ヲ繪板ト云。是モ數年ノ後
木板ヲ蹈破ル。依之寛文九年(1667)當地本古川町ニ祐佐ト云鋳者師有之、
此者ニ唐銅ニテ彼繪像二拾枚令鋳ラレ後年マデ是ヲ用ラル。」
なお、この「踏絵像」は、島原、平戸、大村、五島、久留米、木付、竹田、臼杵、
日田、延岡の十ヵ所から借用されたそうです。
なお、20枚作られた内の19枚が、東京博物館に所蔵されているそうです。一枚
は行方が分からないとのこと。
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