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2015年6月19日 (金)

「踏み絵」之事③~考えたのは誰?

Photo

           (「島原城展示品図録」より)


左が踏絵(複製)、右が、踏絵帳(宗門改影踏帳)。


さて、この踏絵を誰が考えたか。もちろん、踏絵は禁教と関係がありますが、この

禁教については、広義には豊臣秀吉が出したもので、天正15年(1587)6月

18「覚」として、翌19日には「定」として出しています。一般に「伴天連追放

令」呼ばれるのは者の方です(「キリシタンの世紀~高瀬弘一郎著」)。


これについては「若干のイスパニア人が、無謀な陳述をした。幾隻の船が、新イ

スパニア(即ちメキシコ)からフィリピンに来たが、その荷物は何かとイスパニア

人に質ねた所、彼らは愚かしき虚榮からモルッカを占領しするために、兵隊と彈

とを積み、全艦隊を率ゐて来たのだと答へた。この征服は、實に正當な動機から

着手されたもので、侵略の精神から出たものでは決してなく、同年中に実行され

た。公方様(注:豊臣秀吉)は、この言葉をきいて大いに怒り、直ちにイスパニア

人を全部國外に追放しようとかんがえた。同時に彼は、江戸のフランシスコ會の

修道者を数名の大名に預けることにした。(「日本切支丹宗門史~レオン・パジェ

スタ著」)という事で、禁教令が出て、踏絵と続いて行くのですが。


なお、片岡弥吉氏は「発案者はだれか」という事で、3つ上げています。オランダ

人説、沢野忠庵説、日本人説です。


オランダ人説については、ジャン・クラッセ「日本西教史」、また、薩摩から長

に送致された漂着オランダ人は、出島蘭館長立ち会いのもと踏み絵をさせら

れたそうですが、その蘭館長は絵踏みをしなかったし、絵板を見たのも初めてだ

ったそうです。


また、「翁草」に、「初めて長崎に来る異国人には絵踏みをさせるが、毎度来る者

は、それ及ばす、オランダ人は之を除かれる」とあるそうです。


なお、カトリック宗教史家シャールウォアも18世紀中期に否定、シャウォアの「日

本史」の中でも否定、といことで、オランダ人説は否定しています。


❷沢野忠庵説については、(フェレイラは、拷問で棄教し沢野忠庵と名乗る)、踏

絵道具が、忠庵と後藤了順の二人の転び伴天連方に保管されている事が理由

だそうですが、踏み絵は寛永5年(1628)から始まったそうですが、1633年に

転んだのが明らかですから、これにはあたらないということだそうです。(寛永5

年説は他にもあり、これは後日)


❸日本人説については、「室町時代、一向一揆、法華一揆などの戦争の間に、

武将が宗徒をとらえたとき彼らが持っていた信仰対象を足蹴にして一揆の威勢

をくじいたことが有り得ると考えられる」という事で、日本人が切支丹に対して絵

踏みをさせはじめたのではないか、と越中氏が、「教育長崎」(昭和36年1月)に

書いているそうです。


さて、これを読みながら、何か頭の中に、ひっかかるなと思い出したのが、日野

江城の階段遺構。

Photo_2

以前にもこの写真出しましたが、大体の所ですが、赤の所が、五輪塔、宝篋印

塔の地輪、塔身、基礎石を使っている所です。五輪塔、宝篋印塔は供養塔、墓

塔です。築造は16世紀後半と考えられるそうです。


五輪塔・地輪76点、宝篋印塔・基礎石7点、宝篋印塔・塔身11点、柱石2点の

96個の墓石を使用しているそうです(「原城と島原の乱~長崎県南島原市[監

修」)。


城主キリシタン大名有馬晴信は、永禄10年(1567)~慶長10年(1612)。岡

大八事件に連座し、甲斐国初鹿野に改易され、死罪になります。

なお、有馬晴信は、島原半島の寺院をほとんど破壊してしまっています。


跡継ぎの、有馬直純は何らかの罪が負わされるのでしょうが、妻の「国姫」が、

本多忠政の娘、曾祖父徳川家康の養女のためだったのでしょう、おとがめ無し

で、慶長19年(1614)年に、日向延岡に5万3千石にて移転をし、寛永18年

(1641)に亡くなっています。


また、有馬直純は父とその後妻(洗礼名・ジェスタ)の子供、異母弟(8歳、6歳)

の2名を殺害しています。


さて、もう一度上の写真を見ていただきたいのですが、登城するにはこの階段を

登る事になりますが、城主がキリシタンなら、家臣もほとんどキリシタンだったこ

とは充分に考えられます。


墓石を使ったこの階段を、踏みつけて歩いて行くのは、自分が仏教徒ではなく、

キリシタンであるとの証なら、「踏絵」を踏むのは、この逆で、自分はキリシタンで

はなく、仏教徒だという証になります。


年号的にも、踏み絵は寛永5年(1628)です。直純はこの階段の事を知ってい

たはずで、まして、妻が徳川家と関係あり、年代的にも考えると、これが「踏絵」と

関係ありそうな気がするのですが・・・・自分では、以上のように考えているので

すが、珍説ですかね、新説ですかね?


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コメント

こんにちは。

どうでしょうね。織田信長の築城に際しても石段に仏像などを用いて踏ませる意図があったという説もある様ですが、非キリシタン系の城主の築城でも仏塔などの石材を再利用する例は多々あった様です。ですから、こうしたことが言えるためには、キリシタン系と非キリシタン系で石材の再利用のされ方に有意差があるかどうかが鍵になるのかなという気がします。

ご指摘ありがとうございます。

さて、さっそくですが、城には、言われるとおり、特に戦国、江戸時代の築城時、、石が足りなかったとか、石仏、墓石を使えば、城が壊れないとか、、逆修のためとかいろいろ説があり、仏石等を転用していますが、ほとんど石垣に使ったのが多いようです。安土城もネットで写真を見ましたが、日野江城の階段遺跡とは違う置き方で、このように、大きいとはいわれないような階段に、密集して使われたのとは違うようです。

なお、この城は、建保年間に建てられ、階段遺構の年代は、、調査報告書では、「使用されている石造物の制作年代は慶長年間にさかのぼれるものもあり、階段構築の動機、背景解明につながると考えられる」とあります。

有馬晴信がキリシタンに改宗したのが、天正8年。イエズス会、ヴァリアーノから、硝石、鉛、食料の援護を受け、龍造寺と戦ったことが、ルイス・フロイスの「日本史」に載っています。南蛮貿易、城内(付近?)にセミナリオを建て、島原半島の寺社を壊滅させます。

石造物専門の大石先生によれば、「切支丹の暴挙は挙げればきりがなく破壊された石塔類の階段の踏み石に転用するなどその破壊と見せしめは徹底していた。・・・・・旧大村領、有馬領では中世までの古い仏像や文書などはほとんど確認されず、また石塔類も破壊された状態で土中から出てくるのが一般的である」(「千々石ミゲル」より)。確かに、石塔等は、島原半島では破壊された寺社跡の、「土中」からでてきており、島原半島では、この階段遺構しか、仏塔石は使われていないようです。

なお、有馬晴信は岡大八事件に連座して、死罪になったのが、慶長17年5月6日。代わりに、島原の乱の原因となった、松倉重政が国替。しばらくは、日野江城に居住したものの、城のある地域が、キリシタンが多かったのか、自分の手で城を作りたかったのか、寛永元年に島原城を建てます。ですから、この階段遺構の事は知っていたはずです。

最初はキリシタンに甘かったものの、寛永2(3年説もあり)年、徳川家光にキリシタン制圧の甘さを指摘され、寛永5年島原に戻りますが、厳しいキリシタン弾圧に変ります。寛永6年「竹中采女正 次奉行として下り給ふ(豊後高田知行弐万石)近隣なれば嶋原松倉豊後守重正(政?)立越終に申談し切支丹断絶致し候様ニ斗ひ申せとの上意と也」(長崎縁起略)。この後、松倉、竹中の本格的なキリシタン弾圧が始まるんですが、なんとなく、階段遺構から糸がつながりませんかね? ( ^ω^ )


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