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2015年6月25日 (木)

「踏絵」之事⑥~その他之事・これでおしまい・・・多分

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「踏絵」之事④で、「踏絵」が紙とか木では、たくさんの人が踏むため、傷んでいく

ために、長崎古川町の鋳物師の「裕佐」に20枚の踏絵を作らせたことを書きまし

た。このうち19枚は国立博物館に所蔵されているそうです。左がその1枚です。


「重要文化財 真鍮踏絵 キリスト像(エッケ・ホモ) 萩原裕佐作 長崎奉行所旧

蔵 江戸時代・寛文9年(1669)」となっております。

右は信徒から押収した大型のメダイ(キリストやマリヤを表したもの)を板には

込んだもの。裕佐の作ではありません。これについて、こうコメントしてあります。


「大量の人に踏まれて摩滅もしたのでしょうが、もともとはっきり表現していなかっ

た可能性もあります。それは別として、真鍮踏み絵のキリストはプロポーションが

変です。顔があまりにも小さい。茨の冠はさざえの角のようです。もちろん正確な

描写や造形の優秀さを求められていなかったのですから仕方ありません。」と書

いてあります。


この鋳物師「萩原裕佐」について小説にしたものがあり、長与善郎著「青銅の基

督ーーー名南蛮鋳物師の死」。筋を書くと長くなり、今は古本屋でしか手に入ら

ないみたいですが、「青空文庫」で、ロハで読めますので、興味あるかたは、お読

み下さい。


なお、後書きに、著者が次のように書いています。

「寛文の頃長崎古川町に萩原といふ南蛮鋳物師がゐた事、そしてその踏絵の

神々しく出来すぎた為信者と誤られ殺されたことは事実である。又拷問の仕方

や、始めの歴史叙説は無論、沢野忠庵と云ふ転び伴天連が踏絵を発明したこと

も事実であり、アントニオ・ルビノ(注:小説の登場人物、裕佐と同時に死罪になり

ます)と云ふばれてんが殺された事も事実である。但しそれらが同時代であった

かどうかは自分は知らぬ。」と書いてありますが、確かに殉教者のなかに、「寛永

20年 ルビノ神父等八名」(長崎の殉教者~片岡弥吉著)との記述があります

が・・・


沢野忠庵が踏絵を発明したことは、年代的に合わないということで、片岡弥吉氏

は否定をしております。大正12年作ですから、キリシタンの研究は現在ほどに

んでいない時です。


この小説は昭和30年に映画化をされており、監督が渋谷実、主演がなんと岡田

英治、ほかに、香川京子とか、山田五十鈴さんの名前も見えます。音楽が黛敏

郎、そして、考証が「広辞苑」の新村出(しんむら・いずる)氏。新村氏は南蛮文

化、キリシタン研究でも有名です。なお、この映画はカンヌ国際映画祭で上映さ

れたそうです。テレビ化もされています。


近くの、ビデオレンタル、ツ○ヤさんに借りにいったら、予定どうりありませんで

た(田舎だから)。


さて、芥川龍之介はキリシタンについて多くの小説を残しています。その中で、

「おぎん」という短編小説を書いています。大阪から父母とともに長崎に流浪し

きます。父母は亡くなり、キリシタンの、ジョアン孫七に引き取られ、育てられ

が、孫七夫婦と共に捕まり、焚刑になりますが、直前に、おぎんは「わたしはおん

えを捨てることに致しました」と言い、その理由は


「わたしはおん教えを捨てました。訣(わけ)はふと向こうに見える、天蓋のような

松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに、眠っていらっ

しゃるご両親は、天主のおん教えもご存じなし、きっと今頃はいんへるの(注:地

獄)に堕ちになっていらしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいそ(注:天国)

の門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の

へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜずす様や

マリヤ様のおそばへお出でなすって下さいまし。その代わりおん教えを捨てた上

は、わたしも生きてはいられません。・・・」


なお、妻は孫七のお供はするが、それは天国に行きたいからではなく、ただ、お

供をしたいだけだと。


要するに、妻も、イエスの教えを理解しているのではなく、夫の供をしたいだけだ

ということです。これを聞いて、孫七はついに堕落(棄教)してしまいます。


読んで見ると、日本人の宗教感、家族の繋がりの違いが、キリシタンとは違うの

がよく分かります。


もう一つ、「おしの」という短編小説もあり、これも、日本人とキリシタンの価値観

の違いがよく分かり、これも「青空文庫」で読めます。



【追伸】

「踏絵」之事④~踏み絵の歴史を載せましたが、これに寛永六年説がありまし

た。


「長崎実記同根元記合書」。これ、実は私が参加している、古文書研究会が出版

されたものに書いてあり、すっかり見落としていました。


「寛永六己巳年長崎奉行水野河内守様変わりとして・・・」で始まる文章で、島原

藩主松倉豊後と新奉行が会い、キリシタン弾圧の一つとして、雲仙の地獄責め

の事を話しますが、「・・・宗旨を改メ釈門尓人墓を祭り佛像を拝し正法に成候に

絵を踏セらる是より踏絵始る」とあり、寛永六年説もあるということです。


今回は、片岡弥吉氏の「踏絵・キリシタン」と、長崎文献出版の「長崎文献叢書」

に世話になりというより、ほとんど、引用させていただきました。ありがとうござい

ました。


ところで、「長崎文献叢書」は、全10巻で廃刊になっていて、入手も困難なので

すが、10巻揃いで、某古書店に売ってあるのですが、これが、20万円。二週間

ばかりどうするか、悩んでいます。


まあ、酒もだめ、バクチもしない、女にはもてない・・・せめて本代だけは自由に、

思ってはいるんです・・・・・が・・・・




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