神社を遊ぶ~千々石町天満宮 その一
神社といっても、伊勢神宮とか、明治神宮とか立派なものでなく、近所の氏神様
です。
ここ、何回か取り上げた事があるのですが、時間があったので、カメラでも持って
ぶらっと行ってみました。
前にも書きましたが、この神社、千々石ミゲルの父、千々石大和守直員が佐賀
の龍造寺に滅ぼされた時、戦国の世の終結と平安を願って、天満宮菅原道真を
祀る事を願い、自刃したそうです。
大正七年「千々石村郷土誌」には「故千々石釜蓋城城主大和守澄籌及家老木
戸万五郎 仝町田兵七郎ノ三名 天正十二年甲申七月十二日切腹ノトキ當時ノ
社人福石右ェ門及乙名源之丞ト云フ者ニ天満宮ヲ奉祀セヨトノ」とあります。
それから半世紀後の、寛永二十年(1643)、新島原藩主高力忠房のもと、篤信
の方により創建され、貞亨元年(1684)には、島原藩主松平忠房が社領一石八
斗五升を寄進したそうです。
なお、大和守の名前が、直員、澄籌と違っていますが、ここらあたりは、はっきり
とした文献が残っていないので、混同しているみたいです。
なお、家老の二名も一緒に祀られていて、本殿の中には、以前本殿を掃除した
時、木彫りの座像の武将が三体あり、写真を撮ろうとは思ったのですが、畏れ多
くもあり、撮りきれませんでした・・・
一の鳥居になりますが、左に「享和三年癸亥年八月吉日」ですから、1803年に
なりますが杉田玄白(1733~1817)、伊能忠敬(1745~1818)、ほかに、北
川歌麿、鶴屋南北、十返舎一九、遠山金四郎などがいた時代です。
右側には「奉?建石華表一基」。この「華表」で悩んだのですが、中国語で、華表
の訳が鳥居だそうで、過去には「華表」と記したこともあるそうで、珍しいですね。
(この部分誤りがあったので、下に訂正をしています)
灯明。表に「献灯」と書いてあって、脇には「明治三十五年壬寅十一月納 一千
年祭紀(ママ)年建設」「小倉上峰名?先躍 子供?中?拾(?)名」とあり、あと
名前がズラリと書いてありました。「先躍」は現在祭りの時に奉納する「先踊り」。
「一千年祭」。何の事かと思ったら、菅原道真公の御神忌で、ここは天満宮で菅
原道真公を祀ってあるので、その時、お祭りをした時の記念ではないかと思いま
す。なお、他の所では、明治36年という記録もあるのですが・・・・
また、ここは小倉名という地区の氏神様なのですが、灯明には「小倉上峰」「子供
?中」というところを見れば、上峰名は小倉名のお隣ですから、一緒にお祭りを
したような感じです。
一の鳥居の階段を上がったところ、50㎝位の石柱があって、「一 石段」「施主
等敬白」かな?
二の鳥居ですが、これがちょっと・・・
千々石郷土誌には「一の鳥居奉納 1000年祭記念 明治三五年 二の鳥居奉
納 1025年祭記念 大正十五年」とありますが、ここは神社まで2本の鳥居しか
ありません。
上の写真は、大正十五年 一千二十五年祭記念」と記されてありますから、そし
たら、前の「享和」の鳥居はナンデショウ。また、明治三五年の鳥居はどこへいっ
たのでしょう?どうにも分かりません。また、調査を・・・・
この鳥居、小倉名の氏子さん方が作ったのですが、発起人は「小倉名石工中」と
なっていて、「中」は「そのメンバー全員」とあり、千々石は石工さんがあちらこち
らで活躍していますから、多分、小倉の石工の仲間、組合みたいなものと思いま
す。(邦楽なんかでも「○○社中」とか使ってますね)
まだ、半分位ですが、夜が遅くなったので、良い子は早く寝ることにして、又、こ
の次に・・・・
【訂正】
「中国語で、華表の訳が鳥居だそうで」と書いておりましたが、これは誤り。華表
については、中国の伝統的建築様式に用いられる標柱の事だそうで、詳しくは
漢和辞典で読みは「かひょう」、意味は「神社の鳥居。とりい。」(漢辞海~三省
堂)です。
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