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2015年5月 1日 (金)

「釜蓋城」(雲仙市千々石町)の曲輪・空堀~その一

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以前にも紹介しましたが「釡蓋城」を横から見たところです。矢印の所に、展望所

があります。


釜蓋城を裏から見たところです。正面はご覧の通り、グランドになっています。何

回も書きましたが、この城については、調査、古図等、一切ありません。

聞いたところでは、グラウンドになる前は、武者走りなども残っていたとか。

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天守閣ではなく、展望台で、当時はこんな物はなく、単なる山城です。表から見

たところと、裏から見たところです。

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某日、専門家のお二人を交え、町内史跡の見学に行ったところ、展望所の表は

工事をしてあるが、裏は工事をしていないとかで、裏に回っていると、


「あれ、これ曲輪でない?」

もう一人の城郭を研究している方も

「そうですね」


曲輪といっても、近世の城郭に見られるような、立派なものではないのですが、

素人目には分かりません。

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確かに、山の斜面が削られて平になっています。ここは、いつも見ていたので

が、戦争前後の食糧難で、山上まで畑を耕したところがあり、植林をした所な

で、その時に平にしたかと思ったら、やはり曲輪らしく、図面を描いていました。

専門家の見る目は、違いますね。


後日、確かめたところ、ずっと続いているんですね。ぐるりと山を回っていたみた

いですが、多分グラウンドの所で切れているでしょう。


最近暖かくなってきたので、そろそろ蛇さんが出てくる頃なので、ここは、また、今

年の冬にでも調べに来ることに。

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なお、この釜蓋城、以外と要所だったらしく、ルイス・フロイスの「日本史」にも出

てきます。「千々石(ちぢわ)城」と書いてありますが、「釜蓋城」のことです。


「同城(注・千々石城)の初代の指揮官で城主だったのは、(千々石)ドン・ミゲル

の父親で、そのドン・ミゲルは巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノがヨーロッ

パに派遣しようと連れていった四人の少年の一人である。(龍造寺)隆信はその

千々石城を有馬殿の弟ドン・エステワンから奪取していたのである。・・・・けだ

し、同城は、ドン・プロタジオ(注:有馬鎮貴)の髙来領における、二つの鍵ともい

うべき城の一つをなすものであった。」


「すでに、(龍造寺)隆信の命令で、多数の兵が千々石城に集結しており、他の

防衛権力が弱い地方や町村が襲撃されるであろうとの噂があったことである。」

要するに、龍造寺に乗っ取られた千々石城が、攻撃の拠点で、それだけ重要だ

った事が分かります。


「ドン・プロタジオが(龍造寺)隆信のために、いかに追い詰められた窮地に立た

されていたかを理解するためには、有馬殿には小浜(オバマ)という城しか残さ

れていなかったという事実を知らなければならない。それは隆信が高来の支配

者となるために押さえていた高来の二つの高来への入口の一つである千々

城に向き合ったところにあって、貧弱、かつ防御設備がほとんどない城であ

る。・・・・・」


という事で、この小さな山にあった「釜蓋城」は、意外と重要な城だったという事

が分かると思います。


次回は、私が見つけた、空堀(堅堀?)の事などを・・・・多分・・・



(参考・引用:「完訳フロイス日本史~松田毅一・川崎桃太訳(中公文庫)」)




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