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2015年4月14日 (火)

願心寺の天井絵~南島原市北有馬町

Photo_2

天井絵については、八坂神社矢上神社熊野神社小浜神
と紹介をしてき

ましたが、今回は、願心寺の天井絵です。


北有馬町(現南島原市)広報誌によれば、絵の枚数が267枚、・・・分野別枚数

で見ると、動物が64種類125枚、植物が56種類102枚、風景が5種類36枚、

書が30枚だったそうです。合計が293枚で、上の枚数とチョット違いますが、

まあ、気にしないで・・・

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蝦蟇に蛇

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犬とソーメンを食べる猿。この地方は、ソーメン業が盛んですから描いたのか

な?写真が良く撮れてません。スミマセン。

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菊にタケノコ

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なんとなく、意味不明

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書も何枚かありましたが、多分、経文なのかな?

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落款も所々に押してありましたが、調べても良く分かりませんでした。

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伊東豪健氏の「絵馬は語る」によれば、この天井絵は、お寺が明治24年火災で

全焼し、同30年、本堂が再建された時、製作されたもので、作品の数枚に年号

と落款があり、明治27年、2人の絵師によって描かれたものだそうです。比較的

新しいものといえます。


描いたのは、原賀良蔵と飛永喜代七。

原賀良蔵の祖先は、原城・天草の乱の時、幕府軍に同道し移住し、紺屋を享保

12年に開業、後年、良蔵が後継者となったそうです。


飛永喜代七の祖先は越前から来たといわれているそうですが、越前は伝統的な

絹織物の産地で、染料技術をもって移住してきたものと思われる。と書いてあり

ます。


さて、このお寺、

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説明版が本殿脇にあり、簡略に書けば、本来は有馬家歴代の菩提寺台雲寺跡

で、昭和初期の発掘で、供養塔碑に永禄13(1570)年の刻字があり、その事

が寺跡であったことを物語っているそうです。


寺は、キリシタンに転教した、有馬晴信が領地の寺院を破壊しているので、この

お寺の前身の台雲寺も破壊されたのでしょう。


なお、この本堂の左を見ると、代官鈴木重成の墓があり、鈴木重成(初代天草代

官)といえば、乱後に巡視したおり、あまりの惨状に、南有馬町(原城がある町)

禅僧100余人を集め、慰霊の読誦を行い、碑文(今も残っています)を建てた

いわれています。


鈴木代官は、各所に寺院を創建し、北有馬に願心寺、口之津に玉峰寺等を創

建。願心寺は、寛永16年(1639)年に創建されています。


また、天草の石高が高く、そのため、住民が苦渋をするため、石高が半減するよ

う幕府に上申したそうです。そのために自刃したとの説もありますがこれは不

明です。


上の写真右の方には、鈴木重成公と書いてありますが、北有馬町の「ふるさと発

見」をみると、墓ではなく供養塔で、一番高い塔の左の方が供養塔みたいです。


思わず、脱線しましたが、近くをお通りの節は、住職さんにお断りをして、寄って

見てください。


さて、私が訪れた日には、お寺は住職さんをはじめ留守でしたが、玄関に「お金

を持って来られた方は、○○商店にお預け下さい」と書いてあったので、寺の下

にその商店があり、「天井絵を見に来たのですが、誰もいなくて、見て良いでしょ

うか?」、「よかでしょう」、「写真を撮りたいのですが」、「よかでしょう」、「ブログに

したいのですが」、「喜ばすでしょう」、という事で、入らせていただいて、写真を撮

ったものですが、住職さんの話を聞きたいものでした。


なお、商店のおばさんと天井絵の話をすると、「もう潰れたばって
ん、染めもの屋

さんがあって、そこん人が描いたげな(多分、祖先の方)」という
話が聞け、染め

もの
屋さんが潰れてなければ、そこでも話を聞きたかったナ、という一日でした。



■参考・文引用

「絵馬は語る~伊東豪健著」「南有馬町郷土誌」「北有馬町史 ふるさと再発見」

「島原半島の歴史~監修 松尾卓次」 説明版より



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コメント

その染物屋、私の母方の実家で、その血を引く子たちも当地でいらっしゃいます。(染物屋はもう営んでおりませんが)
お盆のお墓参りで願心寺にいくと御本堂の天井絵の事はよく聞かされていました。
まさに享保年代に日向の国から幕府軍に帯同してきたと聞いております。
母の兄までは染物業もなんとか続けておりましたが田舎町では和装染物の需要も乏しく廃業せざるを得なかったようです。
「良蔵」の名は母の兄にその名を持つ方がいらっしゃいます。そのご先祖様に頂いたのでしょうか?
こうしてご先祖様の仕事が世に紹介されることに大変うれしく思いコメント入れさせていただきました。

お体ご自愛下さいませ

コメントありがとうございました。

天井絵を見ましたが、よくこれだけ書いたものだと感心しました。
子孫の方がおられたら、少しお話を聞ければ良かったのですが・・・

将来も大事に、保存して欲しいものです。

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