「飯岳城(いだけじょう)」のこと~雲仙市千々石町
近年、城がブームみたいで、いままでは、大阪城とか、熊本城とか、有名な城を
皆さん見に行っていたのですが、先日のNHKで、山城に登り、石垣を鑑賞する女
性が増えたとか。段々、マニアテックな方向に行っているみたいですが、今度
は、ほとんど城とも思えないところに潜り込んで、調べるのが流行るのではない
かと思っています。
長崎県教育委員会において、2010年と2011年に「長崎県中近世城館跡分析
調査報告書Ⅰ・Ⅱ」を出しています。
読んで見ると、千々石町では、「釜蓋城」「浜手城」「野田城」「飯岳(いだけ)城」と
なっていますが、町(現在は雲仙市)でも調査をしていません。
「浜手城」は、上山となっていますから、商店街の横の丘陵でしょうが、ここも、3
分の一ほどはゲートボール場になっています。「野田城」は多分現在の、野田神
社あたりだと思われます。釜蓋城は、橘神社の後の山です。
この、県教委の報告書では、「浜手城」「野田城」は、遺構等が少ないせいか、実
測調査は省かれていますが、「野田城」については、「遺構内容」として、「土塁・
石垣」遺構内容」となっていますから、今度行ってみますか。
本来は、「千々石ミゲル」が生まれた、「釜蓋城(かまぶたじょう)」を調査しなけれ
ばならないのですが・・・・調査が始まりかけた、平成16年には、山の上部が削ら
れて、グラウンドになり、主要部分が調査できなくなったせいだと思いま す。
調査がされたのは、「飯岳城」のみです。
一番上の写真の山が「飯岳城」ですが、報告書を、簡略に書くと
時期・・・・・・南北朝(14世紀後半)に築城、領主は有馬氏。
立地条件・・山頂
文献・・・・・・①古文書・・・「北肥戦誌」
歴史・・・・・・南北朝の1372(文中元)年ごろ、九州探題今川了俊が千々石浜に
進入、城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷いてこれを防
いだ。
遺構・・・・・土塁(石累)・石積
と、あと、曲輪、の状況が書いてあり、
残存状態・・・自然石が多く、平場の形成としては良好ではない。ただし、文献や
表採資料としては比較的古い時代(南北朝)の城郭と考えており、
その時期の城館の形態が見られる事は貴重な資料である。
ということで、「北肥戦誌(九州治乱記)」をザッと(本文で865ページあるので)み
ると、千々石(千々岩との標記)が二ヵ所ばかりありました。
「同三年(觀應三年・北朝にて使用の年号)壬辰二月、探題一色入道等獻、肥前
國高來・彼杵お宮方退治として、小俣少輔七郎連を差遣わす。氏連先づ彼杵へ
打越え、矢上の城に入りて、高來の味方を相催すに、有馬・安富以下の武家方
共、閏二月二八日千々岩の津へ馳せまいる。氏連、同十七日千々岩へ陣を移し
野井(現愛野町野井)の城を攻め、又西郷次郎が杉峰城をせめて合戦し・・・・」
「應安(南北朝の時、北朝にて使用)六年癸丑(1373年)三日、初、探題今川入
道了俊・太宰右衛門佐頼泰、彼杵軍へ發向し、伊佐早・宇木(現在の諫早市有
喜)の兩城を攻めけるに、城主伊佐早右近五郎・西郷藤三郎やがて降参す。了
俊・頼泰、その後高來へ打越え、七月七日、神代(現雲仙市国見町神代)、大隅
を攻め、九月六日、千々岩に至り濱手に於いて、宮方の輩と打戰ひ、一戦に利
を得柏崎に陣す。」
30年ほど前、3~4人で、この山登りました。頂上には、低い石垣が積んであり
ましたが、あの頃は、全然興味が無く、今考えると残念です。
今ですか?到底登れないでしょう。ウロウロしていたら、徘徊老人と間違われま
す、というより、この山も、猪の館になっているでしょう。
以上書いたようなこと、多分、この城の役割を、千々石でも知っている人はいな
いと思います。城があったことは知っていますが・・・・
調査報告書とは、多少違うところがありますが、そのうち調べ直したいとは、思っ
ていますが・・・・
【おまけ】もうボチボチ本格的な春。
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