「ひな祭り」~昨日の訂正、追加について
昨日「男雛」と「女雛」、「ひな祭り」の事を、偉そうに書きましたが、眠る前に何か
チェックし忘れたなと。
思い出したのが、上の本。前にも紹介しましたが、宮内庁の侍従が書いて、入江
相政(いりえすけまさ)氏が監修したもので、宮中内の行事、動植物等の事が書
いてあります。本棚から出して、読んで見ると、ありました。三月のところに「雛祭
り」。
簡潔かつ詳細にご紹介すると・・・
「現在のような雛祭りが行われるようになったのは江戸時代に入ってからであ
り、それ以前、三月三日は別個の行事が行われていた。」
顕宗天皇のとき(五世紀末)三月の上巳(じょうし)の日に、曲水宴(きょくすいの
うたげ(えん))(ごくすいのうたげ(えん))が催された、行幸があったそうです。
曲水宴は、時々TVのニュースで放映していますが、庭に曲がりくねった水の流
れを作り、酒杯を流し、盃の通り過ぎないうちに歌を詠むものです。
「三月上巳は、月の初めの巳の日のことで、中国でも三月上巳の日に水辺で汚
れを祓う風習が行われていたが、その後三月三日に改められた。わが国でも文
武天皇(在位六九七~七〇六)の頃から三日に曲水宴が行われていることから
、両者の結びつきが考えられる。」
なお、平安時代に入って、官女たちが人形を作って雛遊びをすることが、「源氏
物語」にありますが、これは、正月の習俗で三月の節句とは関係ないそうです。
また、源氏物語「須磨」に、光源氏が陰陽師をを呼んで、水辺の祓いをさせ、舟
に人形をのせ、流したとあるそうですが、この場合は祓いとしての道具で、紙や
土で作られた質素なものであり、現在も、この「流し雛」が残っている地方もあり
ます。
「曲水宴、水辺の祓い、さらに雛遊びの風習が、宮廷から公家へ、そして武家社
会へと引き継がれ入りまじりながら、雛飾りという遊びに転化してきたのは江戸
初期といわれる。」
大奧では、雛飾りに贅を競い華美になったので、しばしばこれを戒めるお触書き
が出されたそうですが、効果はほとんどなかったそうです。大奧といえば女性の
世界、お触書きの効果がなかったとは、この頃から、女性上位だったのかな?
明治に入って、この雛祭りが農山村まで浸透し、全国的に定着したそうです。
宮中では、吹上御所に飾られたそうですが、戦時中に空襲で明治神宮が焼失し
た際、お雛様も一部を失い、残ったのは内裏雛と五人囃子。官女も隋身もいない
けれど、皇后様(香淳皇后~こうじゅんこうごう・昭和天皇の皇后)は「本物の女
官がそばにいるから」と笑い、補充はされなかったそうです。
さて、「男雛」と「女雛」の並べ方ですが、「とくに男雛と女雛の右か左かで一年前
の記憶をたどるのが実際である。一説に、明治までは向かって右が男雛、左が
女雛だったが、大正以降はその逆に変わって現在にいたっているという。」
「御所では、向かって右に親王、左に内親王だから、この説によると明治方式と
いうことになる。参考までに、宮中の儀式行事において両陛下がお立ちになる場
合は、向かって左に天皇陛下、右に皇后陛下となるのが原則である。このため
内裏雛の飾り方について陛下(昭和天皇)から『物言い』がつくこともあるとか。」
ということで、少しはスッキリしたと思います。
なお、私の先生は、珍説を持っておられまして、
「一ト月も、美男、美女が並べられとったら、我慢できんじゃろ。といって、雛壇の
一番上で、くんずほぐれつするわけにもいかんじゃろ。せめて、『お○○い』でも、
○みとうなっやろ。ところで、和服は左前じゃろ、そしたら、男が右にいるのと、左
におるのとじゃ、どっちが、胸元に手を入れやすいか、考えて見ろ。」といわれ、
納得。納得できない方は、奥様又は彼女に和服を着せて実験を。
なお、遠くからでは手が届かないので、「良いではないか、もちと近くに。」「殿、ご
無体な」と遊びながら、いかがでしょう。?楽しいスよ。私ですか?この歳になっ
て・・・キャバクラでは良くやりましたが・・・
(参考・文引用:「宮中歳時記~入江相政編」1979年発行)
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こんにちは。
この辺も調べだすと色々と出て来そうですね。幕末の農書である「広益国産考」には、農書なのに雛人形の作り方が書かれていて、高価な雛人形を京都などから求めるのではなく、地元で作る様にして金が他地域に流出するのを防ぐべきと説かれているのを先日見つけたんですが、その頃には既に雛人形が全国的に広まるベクトルがかなり強くなっていたんでしょうね。
投稿: kanageohis1964 | 2015年3月 4日 (水) 22時57分
コメントありがとうございます。
遅くなりましたが、「公益国産考」、国立国会図書館のデジタルライブラリーで見つけたので、多少読んだら、今の政治家にも読んでもらいたいものでした。
雛人形の歴史は、庶民のもの、上流階級のものがあって、歴史的には面白いものの、なかなか難しいですね。
「押し絵雛」は、人形が高価なので、紙に絵を描いて、裏に綿など貼って作った物で、和服屋のお祖母さんだったかな、昔、考えたものだそうです。今は、勿論販売もしていませんが、庶民の知恵でしょう。
投稿: sugikan | 2015年3月13日 (金) 23時31分