「藩」の名称について~常識とは?
島原藩のお城、島原城です。
昨日、南島原で観光ガイドとして、活躍しておられるM氏から電話で、「古地図を
見ていたら島原領と書いてあって、島原は藩じゃないか?」との事で、これ、何か
にあったなと探したら、ありました。
左の「歴史をつかむ技法~山本博文著」。「藩」について、下のように書いてあり
ました。
「江戸時代で言えば、時代劇でも当たり前のように使われている『藩』という用語
も、やはり同時代ではほとんど使われていません。まったく存在しなかった語で
はなく、幕府が編纂した歴史書『徳川実紀』などにも『藩』や「『藩邸』と言う言葉は
でてきます。しかし、一般的には各大名の統治機構=家臣団は『家中』と言い、
たとえば薩摩藩であれば、実際には島津家家中(しまづけかちゅう)で、町人など
からは薩摩様のご家中などと呼ばれていましたが、この場合の場合の薩摩は藩
の名ではなく、単に領地の地名を言ったものにすぎません。
つまり、これも研究上、各大名が支配する領域やその組織機構を示す言葉が
必要になるので、『藩』という用語が便利に使われているのです。実際に、藩とい
う言葉が一般社会で頻繁に使われるのは、幕府がなくなった明治初年から明治
四年の廃藩置県までの間のわずかな期間です。しかも、この時には、藩主の居
所である城や陣屋の所在地名を藩名とすることになったので、薩摩藩の正式名
称は鹿児島藩でした。・・・」
試しに、ウィキペディアで調べると「薩摩藩は通称で、藩政奉還後に定められた
正式名称は鹿児島藩」とあるではないですか。
時代劇をみて、いままで「藩」と何気なく思っていたのに、ほんまかいな、と言う気
になり、もう一冊、「日本史大事典~平凡社」で調べると、下記のように書いてあ
りました。2ページにわたるので、最初だけご紹介すると、
「江戸時代、将軍より一万石以上の領地を与えられた大名の所領、あるいは、そ
の所領支配の組織・機構を藩と呼ぶ。藩の呼称は江戸幕府の大名領に対する
公称ではなく、当時は「領知(りょうち)あるいは「知行所」と呼ばれていた。藩が
行政単位の名称として公式に使用されたのは、1868年(明治元)明治維新政
府が旧大名領を藩と呼び旧幕府に府県をおいた時から71年の廃藩置県までの
わずかの期間である。
江戸時代の中ごろから、漢学者たちが、中国において皇帝から領地を与えら
れた諸侯を藩王(はんおう)あるいは藩鎮(はんちん)と言ったのにならって、日
本の大名領をそう呼ぶようになった。新井白石が、1702年(元禄15)六代将軍
となる徳川家宣の命で諸大名の実績を著した『藩翰譜(はんかんふ)』は藩の用
例の早いものである。しかし、この時期には、藩という用語は漢学者などきわめ
て限られた人々にしか使用されていなかった。江戸時代後期にはいると藩という
用語の使用例は多くなり、大名自らの領地を藩と呼び、その家臣達は藩士と自
称することがみられるようになる。・・・・」
とここで思い出したのが、藩境石。島原半島は、佐賀藩(領)と接していました。
ご覧の通り、「從是西佐嘉(注:佐賀のこと)領」(是より西佐嘉領)、「佐嘉藩」と
は書いてありません。
試しに、Googleの映像で検索すると、見やすいのを書くと「従是東尼崎領」「従是
西南尼崎領」「従是東北大村領」「従是東唐津領」等々。
珍しく平戸は「從是西 平戸藩支配所(?)」とありますが、上の本に従えば、江
戸後期のものでしょう。「從是西筑前國」と言うのもありますが、これ、資料がない
のでよく分かりませんが、「領」がほとんどであり、「藩」と刻んだものは、あまりあ
りませんでした。
さて、常識的に「藩」だと思い、学校でも「藩」と習いましたが、少なくとも、江戸中
期以前では「藩」はないと・・・・
今回のことは、もう一度、自分が持つ常識を考え直し、勉強のやり直しが必要だ
と思ったしだいで、良い経験でした。M氏に感謝。
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