「剣術修行の旅日記」~永井義男著 其の二
(剣術修行の旅日記~永井義男著より)
さて、剣術の防具が発達する前は、刃引きした刀や木刀を使っていましたが、こ
れとて、場合によっては大怪我の危険性があり、いわゆる「形」の練習が主だっ
たようですが、これでは、単純で、退屈なだけみたいですが・・・
江戸の中期、竹刀と防具が工夫され、これによって、危険性が少なくなり、一子
相伝、口伝が崩れ、互いに打ち合っても、危険性は少なくなり、新流派の勃興が
あり、自流の宣伝のために文政年間頃から、積極的に他流試合をおこない、天
保年間末から、ほとんどの道場で他流試合が解禁になったそうです。
これに伴い、諸藩の修行人が全国の藩道場や町道場に、他流試合をするよう
に、なったそうです。
が、ただ一人で他道場に乗り込むのではなく、修行の許可が下りると、藩から修
行人に手札が渡され、これがないと藩校道場は修行人を受け入れなかったそう
です。
藩の役人は、江戸の藩邸に連絡をし、修行人の予定を藩校に知らせ、これを藩
邸宅で留守居役が各藩の留守居役に連絡をし、これを、各国許の藩道場に連絡
がいき、「○月なかばころ、佐賀藩の牟田文之助という鉄人流の修行者が行く」
と分かるようにしてあったそうです。
ただ、修行人は武名録(姓名習武録ともいう)をもって、立ち会った相手に姓名を
記して貰ったそうで、今で考えれば、出張復命書ですね。
さて、旅の途中、当時は参勤交代、藩士の往来が頻繁で、各宿場には各藩の指
定旅籠屋があり、各藩の城下町には修行人向けに修行人宿(修行者宿、修行人
定宿)があり、修行人には無料で、現地の藩が負担をしていたそうです。
修行人宿で、手形と希望を確かめると、宿の主人が、藩校道場、個人道場に出
向き、立ち会いを頼み、その日のうちに、藩校の役人が宿に来て、予定を決めた
そうです。当日は、わざわざ道場から、門弟が迎えに。
当時の道場は、文之助の日録によると、広さは十坪(三十三平方メートル)から
二十坪(六十六平平方メートル)。いまの試合場は、八十一平方メートルから、百
二十一平方メートルですから、狭かったことが分かります。しかも、床は土間に稲
わらを敷いたり、筵を敷いたり、青天井の道場もあり、雨の日は試合ができなか
ったり。江戸あたりでは、板張りがしてあったそうですが・・・・
(同 上)
さて、道場に着いても、一対一で審判が付く試合ではなく、長州藩明倫館では、
師範として柳生新蔭流の馬来勝平と片山流の北川弁蔵がおり、嘉永六年十月
十七日、門弟八十七、八名と立ち会い。次の日も、午前中四十名、午後からは
四十二、三人と打ち合い。これ、一対一では無理ですよね。
当時は、上の図絵のように、現代の「地稽古」で、お互いに向き合い、打ち合うと
いうものだったらしかったのです。「『他流との合同稽古』だったと言ってよい」形
式だったそうですが、他流との稽古を通じ友情が芽生え、夜はとにかく、試合相
手と飲む話ばかりです。
二刀流が珍しいためか、稽古を多く申し込まれたり、見物人がドット来たそうです
が、島原藩では稽古に来ると人数が少なく。これには、江戸で島原藩主松平忠
精(ただきよ)の前で行われた試合で、その強さが伝わったらしく、「そのときの牟
田殿の二刀流のあざやかさが当地にも伝わっており、藩の重役も興味を示しま
した。そのため、高弟は貴殿を敬遠したのです。・・・・」との打ち明け話。
我が島原半島を納めていた、島原藩の武士は、意外と腰が引けていますね。文
之助が、如何に強かったが分かります。
さて、文之助は神道無念流の斎籐弥九郎の道場、練武館に入門、修行をします
が、この間、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の至学館、男谷道場の男谷清一郎
の道場にも、出向いていますが、結果はどうだったか、以下、最終号に。
(参考・文引用:「剣術修行の日記~永井義男著」より)
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