島原城「幻の廊下橋」復元~島原市島原城
新聞を読んでいると、「島原城下ひなめぐり」(1月30日~3月8日)に合わせて
「島原城天守閣復元50周年記念」で、「幻の廊下橋」を復元するとか。もちろん、
本物でなく、パネルに絵を描いたものでしょうが。
パンフレットの中の絵図をみると、赤の矢印、橋が「筋違橋(すじちがいばし)」
(攻めてくる敵が、直進しにくくなるように、門から見て斜めに架けられた橋)にな
っています。
島原城は、本丸、二の丸、三の丸とあり、二の丸から本丸を攻められた時、敵を
入らせないように、橋を架けておいて、それを落として、敵の侵略を防ぐようにし
てあります。
なお、二の丸に入るには、石組みのものであり、これは壊せません。
上の写真の横が現在、島原第一小学校、島原高等学校になりますが、これが三
の丸になります。
この橋を渡ると、現在、島原文化会館と、森岳公民館が建っています。
右の矢印が「森岳公民館」、左の矢印が「文化会館」。この「文化会館」の裏側が
「廊下橋」があったところです。
文化会館の裏側ですが、掘りの下、二の丸と本丸を結ぶ通路(赤の矢印)があり
ますが、これはあとから作られたものです。
足場が組んであるところ、ここが、「廊下橋」があったところです。あと、パネルな
どに絵を描いて、貼り付けるのかな?
良く見ると一直線で、上のパンフレットのように「筋違橋」ではなく、まっすぐ一直
線です。
おや、と思ってほかの絵図をみると、水色が本丸、緑色が二の丸。赤が「廊下
橋」になります。分かりにくいですが、まっすぐです。
島原市図書館内にある、寛文8年の絵図の写し(島原半島の歴史~監修・松尾
卓次より)だそうですが、これも直線です。
島原図書館で開かれている、「郷土史を学ぼう」の土橋啓介氏の発表資料で、
寛永4年の状況だそうです。原本は滋賀県甲賀郡水口町の河井氏が水口図書
館に寄託してあるそうです。長崎県立長崎図書館に「幕府隠密復命書」として
写本があるそうです。
分かりにくいですが、橋の所に三角形が書いてありますが、多分、上のチラシの
ように、橋に屋根がかかっている事をあらわしているのでは?橋は直線です。
赤の四角の所。「ろうかはし」と書いてあります。
ほか、国立国会図書館デジタルライブラリー等を調べても、はやり直線になって
いました。
で、この橋、「筋違橋」だったのか、普通の橋だったのか、分からないので、教育
委員会に聞いたところ、この「幻の廊下橋」の復元プロジェクトは、「森岳商店街」
が主催で、この絵図の出所は分からないとか。
また、島原城はまだ充分に発掘調査ができていないとかいう事ですが。ただ、ほ
かの島原城の絵図を調べてもらったところ、全部直線で書いてあり、多分、絵図
を書く時、「廊下橋」の下の方に、柱が書いてあり、この柱がある事を分かるよう
にするため、デフォルメして描いたのではないか、という事でした。
さて、何回も書きましたが、皆さんが島原城に入る所。これ、築城時には無く、観
光客用の出入り口として作ったものだそうです。大手門と誤解されないように・・
「島原城下ひなめぐり」と共に「幻の廊下橋」もお楽しみ下さい。きっと、迫力ある
「廊下橋」が見られますよ。
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コメント
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釜蓋城に石垣が残って無いのは、島原城築城の際に使われてしまったからと聞きました。
島原城のどのあたりに釜蓋城の石が使われたか分かる資料は有りますか?
投稿: チヂイワヒロシ | 2017年6月 4日 (日) 01時15分
釜蓋城のみなららず、島原半島のほとんどの城から持って行ったそうです。
釜蓋城にどれくらいの石垣があったのか、多分、山城であまり石垣は組んでなかったのかとは思いますが、グラウンドができたため、城郭調査もできず、全貌が分かっておりません。
島原城の石垣には、〇、△、□等の印がところどころ見られるそうですが、これは、そこの石垣を組んだ石工さんのものではないかとの事でした。
残念ながら、資料はまったくありません。
投稿: sugikan | 2017年6月 4日 (日) 18時38分