« 2014年11月16日 - 2014年11月22日 | トップページ | 2014年11月30日 - 2014年12月6日 »

2014年11月23日 - 2014年11月29日

2014年11月29日 (土)

「島原藩南串山村馬場庄屋・古記録抜書帳」~雲仙市南串山町古文書研究会

Img_20141129_0001_2

雲仙市の南串山村(現雲仙市南串山町)は、島原の乱後、万治元年、馬場庄左衛門が庄

屋に就任し、それ以降、馬場家が庄屋を継いでいきます。南串山と言っても、ご存じない方

がおられるので、左図は江戸時代の島原の村の様子ですが、矢印の所が、南串山村にな

ります。

Img_20141129_0006_2 Img_20141129_0005

        (「島原半島の歴史~松尾卓次監修より」)

この馬場庄屋のご子孫の方が、町外に移るにあたり、屋敷を解く時、古文書が出てきたそ

うで、それを、教育委員会に寄贈され、現在、これを、古文書研究会で解読中であり、その

一部が、一番上の写真のように、発行をされました。


今回の発行は、「古記録抜書帳」と、隣町、小浜町の本多宣章(小浜湯太夫~島原藩から

派遣され、小浜温泉の管理を任せられたご子孫)氏所蔵の「元御巡見之部」「追鳥猟之部」

を解読したもので、現在「定書等控帳」「免許の品覚書」を解読中だそうです。


この、古記録集は、馬場庄屋が入手、あるいは色々な文献等から、島原、南串山に関する

事を、抜き書きしたもので、「有馬左衛門家日記抜書」「鍋島家譜」「長崎根元記」「日記、覚

書」「長崎実記」「旧記・日記類聚集」「隈部杢左衛門覚書略書」「享保明細書」「大変記」

「起立帳・金蔵庵覚書・歓喜庵日記」「落穂集」からの抜き書きの記録です。


島原・天草一揆の折、南串山も参加をしますが、串山村人口1962名に対し、1962名、

100%が参加したことになっていますが、他町では、年寄り、小さい子供等、山奥の穴に逃

れていたという、言い伝えもあり、参加人数も研究者によって、まちまちの所がありますが、

ほとんど参加と言って良いでしょう。上の地図右側、色の濃い所が全村参加、少し薄いとこ

ろが一部参加、薄いところが不参加です。


一揆後、人口が少なくなり、幕府は移住政策をとり、特に小豆島からの移住が多く

Img_20141129_0002_3

この冊子は、上段が原文の印刷、下段が読み下し文、後の方に、現代語に直してあり、少

し見にくいので、書き写してみると

Img_20141129_0004_2

多喜弥覚書①

一  小豆島より、三十軒引越し候内、当村京泊名田の平十七軒住居。

   歓喜院と申す真言宗の僧同道、浦分に仮庵を取り補理(しつらえ)、之を入れ置き、岡

   分に志自岐(しじき)権現を勧請仕り候。


多(太)喜弥は、乙名か筆者(びしゃ)の役の人であろうという事だそうです。小豆島からの

移住の方の墓も残っており、これは次回という事で・・・


島原・天草一揆の事、寛政四年の雲仙噴火、又、島原城主二代目の松倉勝家について

も、「松倉長門守は、父に似合ず、武を忘れ諸士を愛(いつくし)まず、女色を好み、酒に

酖(ふけり)て領内の仕置正(たださ)ず。・・・・・」とあり、この後、四十八人が脱藩されたこと

も書いてあり(鍋島家譜③)、なかなか面白いものでした。


なお、古文書研究会の方は、ボランティアで平成22年から解読をされているそうですが、

まだまだ古文書があり、次回の出版が待たれます。










2014年11月28日 (金)

「持ってて重宝この二冊」

Img_20141128_0001 Img_20141128_0002

いつも、この時期、本屋さんに並ぶ二冊。これが並ぶと、もうすぐ新年かと思います。

この二冊、持っていると重宝する事があります。


長崎県民手帳。ただの手帳ではなく、他の情報も満載しています。


長崎の山で、昔一番高かったのが、普賢岳。現在は、平成新山で1,486m。その差、124

m。


国民休日。良く見ると、面白いですね。「こどもの日」に対して、「成人の日」と「敬老の日」

「熟年の日」がありませんが?「春分の日」に対し「秋分の日」。「体育の日」に対して「文化

の日」。「海の日」に対して「山の日」もありませんネ。「勤労感謝の日」。誰にも感謝されたこ

とがありませんが、「・・・国民たがいに感謝しあう。」とあり、誰かから感謝されるものではな

く「国民たがいに」でした。「年齢早見表」、便利だけど、自分の歳をみたら、ガックリ。


各月の初めに、その月の暦、郷土の主な行事も書いてあります。

■一月

一月~「睦月」、花暦~石榴石(ガーネット)。暦で、一日が元旦、年賀、初詣。二日が初

荷、初夢。よく、一月一日に見るのが「初夢」だ、と誤解している方がおられますが、二日に

見るのが初夢です。書初め。・・ミスプリがあります。二日の大事な行事、そう、「姫初め」が

抜けています。もう一つ、二十四日。私の誕生日が抜けています。


各地の行事、「上旬(諫早市)深海地区どんど焼き」「11日(松浦市)福島町一周駅伝大会」

「18日(五島市)へトマト」。楽しい行事で、全国のTVニュースにでるでしょう。「下旬~3月

上旬(島原市)島原城下ひなめぐり」等々。各地の行事が一目で分かります。


この手帳に、県の資料が別冊で付いています。長崎県は島が多いところですが、全部で

594島、そのうち、人のいる島が72島、人のいない島が522島。無人島が多いですね。


平成25年の統計、婚姻が6,559件。離婚が2,358件。意外と離婚が大いようで、多分

熟年離婚も増えているのかな?


「県内観光施設案内」。電話、所在地、料金、休日も書いてあって、便利です。「三菱重工業

(株)長崎造船所資料館」「陸上自衛隊佐世保資料館」「たびら昆虫館」「「”電力の鬼”松永

安左ェ門記念館」等、知らないところもたくさん書いてあって、どこかに行こうかなと思った

時、便利です。もちろん「軍艦島上陸観光」ものっています。


「衣類の染み抜き」「応急手当」「食品中の塩分・糖分」「県民相談コーナー」も、どういうわけ

か載せてあります。


「暦」の方は、各種出版されています。よく、TVで今日は「立春です」など放送しています

が、これは、「二十四節季(にじゅうしせっき)」の一つですが、その他、「九星」「干支」「六

曜」「二十八宿」「旧暦」「中段」等ものせてあります。意味ですか?買ってお読みください。


よく、結納は大安が良いといわれていますが、友引の日も良いそうです。弔事は友引を避

けていますが、この日は火葬場が休みの所もあり、要注意。この本、このような事を調べる

のに便利です。


なお、「結婚式」「葬儀」等のマナーも書いてありますので、特に若くて、経験の少ない方に

は便利です。


結婚式の挨拶で、「別れる」「離れる」など使ってはいけない、と言われていましたが、「かさ

ねる」「なおまた」「ではまた」「ふたたび」「かさねがさね」も、再婚を連想させるそうで、使う

なという事だそうです。


葬儀では、「重ね重ね」「いよいよ」「再び」は不幸が重なる事に通じるためNG、また、「生き

ている頃」は「ご生前」を使うと言うことで、皆さんも注意しましょう


この二冊重宝しますので、是非お手元に。なお、長崎県手帳は、東京では売っておりませ

んので、東京の方は、東京都民手帳があったらそちらを、お求め下さい。





2014年11月27日 (木)

「これでおしまい」~加来耕三著

Img_20141127_0001

私のブログが、「これでおしまい」という事ではないのですが、昨日受診した特定健診・がん

健診の結果が来て、まあ、これが、目を覆いたくなるような、ひどい結果。


封筒の中に、もう一つ封筒が入っていて、「主治医様紹介状」と書いてあって、ホッチキスで

止めてあるものの、ざっとした止め方で、知らずに開けましが、心筋梗塞の恐れあり、要精

密検査の結果と、心電図が入っており、あとで、「紹介状の送付」に「開封せずに医療機関

へお持ちいただき・・・・」と、見ちゃったものは、しかたがなく・・・・


と言うことで、半日ばかりドットきて、もうぼつぼつなら、せめてカッコイイ言葉でも残そうか

と、上の本を借りていました。


加来耕三氏は、歴史家でもあり、作家でもありますが、二週間ほど前こちらへ来られ、講演

会をされましたが、これは、面白くもあり、ためにもなる話で、ブログに、まとめて書こうと思

っているのですが、なかなか時間が取れず、と言うところで、いつかご紹介したいと思いま

す。


辞世、最後の言葉いろいろありますネ。少しばかりご紹介を・・・・・


■余ハ岩見人森林太郎トシテ死セント欲ス

森鴎外のあまりにも有名な言葉ですが、小説家として、また軍医として、最高の陸軍軍医

総監になっています。

墓の文字は「森林太郎墓」の文字のみですが、ネットで見ると、案内の標柱には「森鴎外墓

所」となっており、「森林太郎」がみたらどう思うでしょう。

本の方では、「大正十一年七月九日の、死去の寸前には、『馬鹿馬鹿しいと』つぶやいたと

も伝えられる。」とも書いてあります。享年六十一歳。


■よ し

これまた、誰が言ったのかと思ったら、夏目漱石。

漱石は状態が深刻になった時、胸を開いて「水をかけてくれ死ぬと困るから」と訴えたそう

ですが、「掲出は、漱石の訴えに看護婦が応じた後に、つぶやいたとされる言葉である」。

鴎外と比べると、あっけない言葉ですが・・・享年五十歳。若いですね。


■僕本月本日を以て目出度死去致し候間此段謹告仕り候也

(ぼく ほんげつほんにちをもって めでたく しきょいたしそうろうあいだこのだん きんこく

つかまつりそうろうなり)

明治の評論家、作家。斎籐緑雨。

「掲出は、自ら考えた死亡広告」。死亡広告は、翌日付の「万朝報」と「朝日」に掲載された

そうです。これも、良いな。


■きょうはいよいよゆくぜ午後まではもつめぇ

河竹黙阿弥の言葉。いかにも、歌舞伎狂言作家にピッタリ。カッコ良いな。


■この世をばどりゃお暇(いとま)に線香とともについには灰左様(はいさよう)なら

「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九の言葉。「灰左様なら」。焼いた後の「灰」と「はい

さようなら」をかけているところは、如何にも戯作者の代表とされる、十返舎一九。


■葬るに分を越ゆるなかれ

このあと「墓や碑を建ててはならない。ただ土を盛り、わきに松か杉を一本植えれば足る」。

と続くそうですが、いかにも、二宮尊徳の言葉。


■これでおしまい

勝海舟。「明治三十二年一月十九日、風呂上がりに突然脳溢血に襲われ、二十一日に他

界した。

掲出は死の直前妹に洩らしたとされる言葉である。脳溢血という病いの性格上、はたして

意識があっての言葉だったのかどうかはわからない。」


きりが無いのでここらで止めますが、あと、上杉謙信、豊臣秀吉、石田三成、細川ガルシ

ャ、坂本龍馬、沖田総司等々の言葉と、その人物の知られざる面も書いてありますので、

興味ある方は是非ご一読を。読みやすく、面白い本でした。


さて、私はどんな言葉を残そうかな・・・・・「もっと女を」では露骨過ぎるか、これは却下。


(文引用:「これでおしまい」~加来耕三著」)








2014年11月26日 (水)

「心田庵(しんでんあん)」~長崎市

Photo

昨日は、長崎の漢方薬のお医者さんの所へ行って、どうして、こんなに若い女性の患者さ

んが多いんでしょう!


待ち時間、ふと、思い出したのが、「心田庵」の事。ここは、春と秋の年に二回、20日間ほ

どしか一般公開をしていません。今年は、11月14日~12月4日までという事で、まもな

く、公開終了になるので、病院通いの帰りがけ寄って見ました。観光客の多いこと。


この建物は、所有者が何度か変わり、平成24年に、増田水産株式会社から長崎市に寄贈

されたものだそうです。


入り口と、受付。入場料と希望によっては、お抹茶とおしるこがいただけます。(有料)

Photo_2 Photo_5

紅葉の本数は少ないながらも、ちょうどの見ごろ。

Photo_6 2

ここの、見どころは、広間のガラス張りの机に写った紅葉。これは見ごたえがありました。

Photo_7

下の写真は、飾ってあったのを写して来ましたが、青モミジの頃。

2_3

入り口の神棚の、金の玉はなに?略せば「金玉」。石垣の所のカッパ。長崎が大村領(昔は

長崎市は大村藩の領地でした)の頃からあったらしく、水神様だということですが、来歴はよ

く分からないそうです。

Photo_8 Photo_9

庭には、灯籠があちらこちらに置いてありましたが、灯籠収集が趣味なのか?なんと、織部

灯籠まで、一時はキリシタン灯籠と言われましたが、多分、関係無いでしょう。

Photo_11 2_2

さて、ここは荷兆晋(がちょうしん)が建てた別荘ですが、これについては、長崎市のホーム

ページをご覧下さい、詳しくかいてあります。→こちらをクリック


荷兆晋は唐小通事。「新長崎市史」には「唐通事」と「阿蘭陀通詞」とあり、「事」と「詞」が異

なっておりますが、これついては、説明がめんどくさいのでカット。ネットで調べてください。

※通詞、通事は「通訳」ですが、単なる「通訳」ではなく、その他にも役割があったそうで

す。


下の絵は、昔の「心田庵」の図。会場に飾ってあり、写真撮影禁止ではなかったので、写し

て来ました。説明は下に書いてあります。

Photo_14

下の図は、「長崎古今集覧名勝圖繪 長崎文献叢書第二集第一巻~越中哲也注解」より

この説明には・・・


別墅(注:べっしょ・別荘。別宅。)

この別荘がどこであるかは不明であるが、長崎にある別墅としては泉水あり築山あり代表

すべき所であったに違いない。故林源吉老は小島にあった薩摩の別邸ですといわれてい

たし、また一説には片渕にあった何(が)氏の別邸心田庵であるという人もいた。心田庵と

すれば当時の大茶人神代松陰がこの家に住んでいた。

Photo_13

さて、この二つの絵、いやに風通しが良く、寒いだろうと思って見ていたら、思い出しまし

た。吉田兼好。


第五十五段

家の作様(つくりよう)は、夏を主(むね)とすべし。冬はいかなるところも住まる。

暑きころ悪(わろ)き住居(すまい)堪へがたきことなり、深き水は涼しげなし。浅くて流れた

る、はるかに涼し。・・・・・


第十段

家居(いへゐ)のつきづきしくあらまほしきこそ、かりの宿りとはおもへど、興あるあるものな

れ。よき人ののどやかに住みなしたるところは、さし入りたる月の色も、ひときわしみじみと

みゆるぞかし。・・・・・・


琴を弾いているのが、何兆晋だとしたら、「よき人ののどやかに住みなしたるところ」だった

のではないでしょうか。


私も「よき人」なので、上の図を参考に、家を建て変えようと思うのですが・・・・先立つもの

が・・・・あとは、養老院に入るばかりでしょうが・・・・

(参考・文引用:「長崎古今集覧名勝圖繪~越中哲也注解」、会場パンフレットより)










2014年11月25日 (火)

橘神社★日本一の「門松作り」始まる~雲仙市橘神社

Photo

いよいよ、橘神社の「日本一の門松」作りが始まりました。といっても、完成は十二月の月

末です。

作るといっても、「日本一の門松」ですから、手仕事だけでは出来るはずもなく、重機を使っ

ての作業。

2_3 3

一番大変なのが、竹を揃えることだそうで、まあ、よく、こんなに集めたなという感じ。竹の

大小を、分け行きますが、これが意外と重たく、3~5人での運搬。

Photo_2 2_2

土台の部分は、人間の背丈弱、上の3本の細い管に、竹をぐるりと巻いていって、クレーン

車に乗って、チェーンソウで斜めに切っていきます。土台の中には砂を詰め、固定していま

す。

作っている皆さん、それぞれに仕事を持っていますから、作業が出来るのが、土、日曜日

のみで、これからが一仕事です。

Photo_3 2_4

さて、昨日「長崎古今集覧名勝圖繪」を見ていたら、正月風景が出ていました。説明は「チ

ャーンメーラ」で「・・・本図は街中を歩くチャンメラ吹を画き屋外の注連飾(しめかざり)の様

子もよく書かれている」。

昔の長崎の門松、こんなんだったのですね。松だけで、竹、梅が無いみたいですが・・・

Photo_4

こちらは、「近世風俗志(守貞謾稿)」。


左の説明には、

「京坂、門松・注連縄のこと、武邸等は多く図のごとく製し、坊間(注:町の中。市中)にても

三井・大丸・岩城・小橋屋等、呉服現銀店は、必ず図のごとくす。しかも呉服店も右等の大

店(おおだな)にあらざれば、かくのごとくに飾らず。その他は、豪富・巨戸といへども、左図

のごとく、戸口、両端の上にあるひは下に門松を釘(てい)し、戸上に麁(そ)(注:おおざっ

ぱなこと、粗末・粗悪なこと)なる注連縄を張るのみ」


右の説明は、

「江戸、武邸は勿論、市中にても呉服大店のみにあらず、諸買(しよこ)とも大店にて、専ら

この制を持ふ。図の如く飾らざる門松には、竹を添へず松のみを専らとす。」

「松の根、専ら薪をもって囲む。あるひは松を中心に、その三方に薪を地に打ちて、ここに

縄をもって引き張るもあり、けだし家ごとに恒例ありて、一定ならず。」

「図の如く、太きそぎ竹に小松を添ふるもあり」「そぎ竹をたてたるには、注連縄は戸上に打

つなり。医師などこの制多し」

という事で、昔の門松と今の門松、違っていますね。

Photo_5 Img_20141125_0003

辞書を引くと、「正月に、家の門口に建てる松の飾り。本体は年神の来臨する依り代で、中

世以降、竹を一緒に飾ることが多い。」(大辞林)とあり、昔は、松だけだったのですね。


ところで、もうすぐ十二月、年賀状書きましたか?急いで書きましょう。

私?「歳のため、年賀状を書く気力も、体力もなくなりましたので、来年からは、失礼させて

いただきます」と、書きたいナ。




2014年11月24日 (月)

「神迎え」~千々石町天満神社

Dsc01526_2

先日、9月23日に、神送りの神事を行いましたが、今日は、神様が帰ってこられる、神迎え

の神事。町内の、他地区にも神社があり、来週から他の神社も、神迎えの神事をするとか

で、少し早めにという事で、23日に実施。


以前は、泊まり込みでやっていたそうですが、現在、天満宮では、夜10時~12時程度まで

で終わります。


8時頃神主さんが来られ、いつもの通りの神事。奥の方に本殿がありますが、この階段の

上り下りにも作法があるとか。


この間も書きましたが、ステージでの太鼓も良いですが、祭りの太鼓、夜のひっそりした、

林に囲まれた神社の太鼓の音、良いですね。

Dsc01537_2 Dsc01539_2

玉串奉奠。以前書きましたが、玉串の根元を右手の方に受け取りますますから、右(時計

方向に回して)方向に回し、根元を神様の方に向けるように置きます。あと、二礼二拍手一

礼で終わり。いきなり、神様の方に尻を向けないように、少し後に下がって、自分の席に。

Dsc01542 Dsc01547

あとは、いろりを囲んで、「直来(なおらい)」(神様にお供えしたお神酒等をいただくこと)。

話が、はずみますね。昔は、お参りする人が多く、振る舞いに、カシワ飯(ニワトリの炊き込

みご飯)をお握りにして、接待していたそうですが、子どもたちも、それを目当てに、たくさん

来て、それが楽しみだったそうです。


現在は、大人だけで、少人数になりました。今、自治会長さんが頑張っていますが、地域の

コミュニティーなど言っていますが、少し希薄になっているのを感じます。役所の人間が、自

治会に入っていない馬と鹿もいるし・・・・


さて、「神送り」「神迎え」、私、少し考え違いをしておりまして、神様も、いつも同じ所におら

れるので、たまには息抜きで、出雲に集まって、どんちゃん騒ぎかと思ったら、山本健吉編

の「最新俳句歳時記 冬 」(最新といっても昭和47年 第一刷)を読んでいると、次の様に

書いてあります。


「・・・もともと神送りは、稲の収穫終了とともに山へ帰還する田の神を送る行事が根底にあ

り、翌年の春ふたたび来臨するまで留守になるのだから、不在期間も一ヵ月以上に及ぶ地

方もある。例えば新潟県米山の薬師は、十二月八日に立って四月八日にお帰りと言い、宮

城県の村々では、同じ十二月八日に立って二月八日にお帰りと言う。ただし、もっとも多い

のは九月三十日に立って十月三十日に帰る例で・・・」とあり、稲作と関係あるとは思いませ

んでした。


皆さん、十二時前にお開きになりましたが、神主さんに聞くと、神様が帰られるのが、夜の

十二時くらいだとかで、誰もいない、ガランとした神社にお帰りになるかと思えば、少し、心

痛むものでありました。


【おまけ】

神主さんの祝詞、良く聴くと大体分かるのですが、長崎の諏訪神社で「諏訪神社拝詞」とい

うのをいただき、4、5つ祓詞(はらえのことば)等が書いてあるので、あまり、お読みになっ

た事がないと思いますので、一番短い「祓詞」を写してみます。これ、神棚がある方は、神

棚を掃除して、大きな声で読んで見ると、気持ち良いでしょう。(私、やったことないので分

かりませんが・・・・)


■祓 詞(はらへのことば)(神社及神棚の前で奉唱)

掛(かけ)まくも畏(かしこ)き 伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ) 筑紫(つくし)の日向

(ひむか)の橘小戸阿波岐原(たちばなのをどのあはぎはら)に禊祓給(みそぎはらへたま)

ひし時に 生坐(なりま)せる祓戸大神等(はらへどのおほかみたち) 諸々の禍事罪穢有

(まがごとつみけがれあ)らむをば 祓給(はらへたま)ひ清給(きよめたま)へと申(まを)す

事を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す


※天満宮については、以前書いているので→こちらをクリック






« 2014年11月16日 - 2014年11月22日 | トップページ | 2014年11月30日 - 2014年12月6日 »

フォト
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ