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2014年8月31日 - 2014年9月6日

2014年9月 6日 (土)

「喜ぶべきか?悲しむべきか?」★昼食は「長崎Wスーパーポーク丼(全国ご当地グルメ選手権・優勝)」

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先日、映画で確かめたいことがあったので、一年ぶりくらいに、某レンタルビデオ店に行っ

てみました。確認したいのは、一本だけだったので、一本だけ選んでカウンターへ。


若い女の子が、右のようなカードを見せて、「こんなの持っておられませんか?」。そういえ

ば、一年ぶりだから、いつか貰った記憶があるなと、財布の中を見たら、ありました。


それを見た女の子。「今日は、60才以上の方、金曜日で旧作は一本無料ですから、代金

はよろしいです。」


何というか、ロハは嬉しいけど、「60才以上の方」は、悲しいですね。歳取ると、時間が早く

感じられるそうです。「そうです。」ではなく、本当に実感ですね。古人曰く「老人、老いやすく

学成り難し。」、ああ!実感!。


さて、島原まで行った帰り、面倒臭いので途中で昼食を。少し思い出したことがあるので、

「仲よし」へ。

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こんな感じの店です。左側の「がぶ丼」、牛もも肉のローストビーフが大盛りで、こちらも食

べたかったのですが、今日は右側の「長崎Wスーパーポーク丼」を。

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なにせ、「全国新ご当地グルメ選手権★優勝★」。日本テレビ、朝の情報番組「スッキリ!!」で

も隠れたご当地料理として紹介されたもの。


一番上が、雲仙スーパーポークの生姜焼きと、雲仙スーパー目玉焼き。その下が、地元産

のパリパリきゃべつ。その下にご飯。一番下に、雲仙スーパーホープの角煮風味。という、

豪華なもの。

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審査委員長の、テリー伊藤さんの賞状。テリー伊藤さんの実家というと、築地の卵焼き店。

築地に行った時に、食したことがありましたが・・・・

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美味しかったかって?何時もの如く、自己責任で食べて、評価して下さい。

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2014年9月 5日 (金)

「米粉de島原びわタルト」・県立島原農業高校&「タヌキのケーキ」

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島原農業高校、頑張ってますね。ローソンとコラボで、「シチューパン」「じゃGaパン」の発

売。今度は、「米粉de島原びわタルト」。地域で学校の評判も、かなりいい話を聞きました。


最近、小麦粉アレルギーの子が増えていること、米の消費が減っていること、ハウスビワの

約二割が、規格外で廃棄されているような事から、3年の月日をかけて、食品加工部と果

樹部が協力して、商品化し、特許を取得したそうです。製造は市内の菓子店(グランパ)が

協力をしているそうです。


この事、7月の新聞で知って、学校へ電話したら、一般にはまだ売ってなく、イベントの時し

かやってないとのこと。ちょうど、今日、島原にいって、思い出して、店に寄ったら置いてあり

ました。


ケースを見ると、「タヌキ」のケーキも置いてあって、「あさイチ」でやっていたから、作ってみ

ましたとのこと。「タヌキ」のケーキは、もう一軒作っているところがあって、昔、子どもが小さ

い時買っていたので、ついでに寄って見ました。


左の前の方が、新作のタヌキさん、後2つが、必勝堂の昔からのタヌキさん。中のクリーム

等、違っていますから、そこは、買って来て食べ比べて下さい。

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結局、タルト三個、タヌキさん三個買ってきたわけですが、カミサンが見たら、離婚ものなの

で、カミサンのためにタルトをひとつだけ残して、あと全部食べたら、腹一杯になって、夕食

が食べきれない、食べきれない。

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ボリュームも意外とあって、ビワの味もマッチしてます。何より、小麦アレルギーの子には嬉

しいですね。




2014年9月 4日 (木)

益田四郎屋舗!?

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天草四郎、元和7年(1621年)とか、1623年生まれとか、説がありますが、まあ出生届も

ない時代。大体ここらあたりが生まれた年でしょう。(天草四郎の本名は益田四郎です)


父が小西行長の家来、益田甚兵衛。天草の大矢野島(現在の上天草市)とか、宇土郡江

部村(現在の宇土市)とか、長崎で生まれたとか諸説あるようですが、長崎とは関係がある

ような事は、種々の本に書いてあります。(天草は行長の領地でした)


さて、以前、長崎文献社から、長崎文献叢書と云うことで、長崎について書かれたものを集

め、出版されたものがあり、「長崎土産」「長崎不二賛」「長崎萬歳」「長崎名勝図絵」とか、

集めてあり、「長崎土産に」には、遊女の感想まで書いてあって、



「一 渡邊新左衛門内」

「一角  年十八  心あくまでつよし りはつよきほと也 初心のおとこにハ ちとあふま

じか」、なんとことも書いてあり、読んでいたら?


「長崎古今集覧 上巻」。この本は、松浦東渓が書いたものです。唐人番であったそうです

が、長崎に関する資料を集め、寛永元年(1789)、38才で仕事をやめ、この著述に没頭

したそうです。


内容は、故森永種夫氏が「序にかえて」に書いてあるように、「彼は私意を以て長崎の歴史

を書くという方法をとらなかった、時代を追ってある項目を立て、それについては甲書には

かく述べ、乙書にはかく記してあるという風に並列に記した。」と云うものですが、ザッと見て

いると、あれ?

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「長崎古今集覧巻之五」の「旧蹟」の所。「城屋墳墓等、今若シ可徴アラバ、裨益ノ一助タラ

ン為ニ記シ置ク」と書いてありますから、ハッキリした場所等、分からないところがあるので

しょう。読みにくいと思いますが。赤の線の所。

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「益田四郎屋舗 日記伝、今ノ西浜町(にしはまのまち)」と、書いてあり、この「益田四郎」

といえば、「天草・島原一揆」の指導者と同じ名前です。


「天草・島原一揆」の勃発は1637年で、この本が書かれ、松浦陶が「長崎古今集覧序」を

書いたのが、文化8年(1811)、松浦東渓が本格的に書き始めたのが、寛永元年(1789)

で、随分時間がたっていますから、店舗があった場所、時期、商売の内容は不明なのでし

ょうが、四郎は長崎と関係があったそうで、全く同じ名前ですから、ひょっとしたら・・・・・


商売はナンデショウ?あれだけの人間を指導したカリスマ、人望もあったのでしょう。おまけ

にイケメンだったという話ですから、ひょっとしたら、ホストクラブだったりして。「四郎さん~

五番テーブルお呼びよ」、なんて話はないですよね。


長崎の古地図を調べましたが、時代が新しいもので、残念でした。どなたか、ご存じの方は

お教え下さい。天草四郎が、長崎で商売をやっていたら、面白いんですけれどネ。






(「長崎文献叢書第二集第二巻~長崎古今集覧・校訂 森永種夫」「長崎文献叢書~第二

 集第四巻~長崎土産・長崎不二賛・長崎萬歳 丹羽漢吉 校注」より)


2014年9月 3日 (水)

遺蹟に思う

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故外山幹夫氏の最後の本になりました。外山氏は、長崎大学教授、名誉教授を務められま

したが、県文化化財保護審議会長、長崎市編さん委員長などを歴任され、長崎の歴史に

ついて造詣が深い方でした。


この本にも、長崎に関わるエピソードが沢山載っています。この本の中に、こう書かれてい

ます。


「近年の地域開発の波の中にあって、城郭の遺跡、遺構の大半が破壊される事態が生じ

ている。・・・・・・深江城(南島原市)跡は、本丸跡を道路が貫通し、寺中寺(島原市)跡には

市営住宅が建っている。千々石氏ゆかりの釜蓋城(かまぶたじょう・雲仙市)跡の前面は運

動公園となり、前面は削り取られ、跡は城郭風の展望台がつくられ、往時の姿はわずかに

後半部に残されているばかりである。神浦城(長崎市外海町)跡もあっさりと公園になり、も

はや往時を彷彿させるものはない。」


ここに書かれている、釜蓋城。天正遺欧少年使節の一人、千々石ミゲルが生まれたところ

です。


大きな○印が釜蓋城のあったところ。黄色の矢印が、千々石中学校。ここの右側の少し上

に、橘神社があります。赤の矢印の凹んだ所が、町民公園になっています。

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本に書かれているように、前面が削られています。複数の方に聞いたところ、鎧、刀等が出

て来たそうですが、工事はそのまま進められたそうです。


右の上の所、城みたいなのがありますが、単なる展望台です。ここには、このような天守閣

はありませんでした。こんなのつくると、立派な天守閣があったのかと、誤解されるのです

が・・・・・公園は、ほとんど使われなく、中学校の野球部の専用になっていて、野球部が使

わなければ、草ぼうぼうでしょう。

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赤の矢印の所が、宇木城(諫早市・有喜)ですが、多分青の矢印の所と繋がっていたのでし

ょうが、真ん中を国道が通っています。後、諫早を支配した西郷氏の居城だと言われてい

ます。


城跡は、学校になっていて、何かないかウロウロして見たのですが、怪しげなオジサンと間

違われたらいけないので、そうそうに退散。


最も、この城は、諫早の西郷氏が亡ぼると同時に、廃城。天正15年(1587)。大正8年

(1919)に、有喜尋常高等小学校ができたそうですから、文化財に対する重要性の考えは

無かった時代でしょう。

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キリシタン大名、結城氏の居城、結城城(金山城)。ここも登って見ると、グラウンドゴルフ場

に変わっていました。

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その他、先ほどの西郷氏と関係のある、杉峰城に行ってみたら、竹林で、本丸までは行き

着けませんでした。これについては、後日書くつもりです。


なお、千々石から別所ダムに行く途中、「白雀の乱」で有名な「稚児落しの滝」(宝永四年に

「白雀の乱」を題材にした謡曲有り)がありますが、行ってみたら立入禁止。


なぜか聞いたら、自動車道路を拡張したため、滝に行く道がなくなり、危険なため立入禁

止。まったく、ナニを考えているのか、歴史も知らない、知能指数オタクが図面を引いたん

でしょうが。


この間の、腹切坂を調べる時、公民館の先生と話をしていると、「もう、90以上の方でない

と、昔の事は分からないでしょう」と云われましたが、自分の地域の小さな史蹟、古い話は、

今のうちに残しとかないと、みんな歴史の中に埋まるでしょう。


私も、少しずつ話を集めているところですが、相手が、お爺ちゃん、お婆ちゃんばかりで、少

しは若い女性と・・・・・heart04






2014年9月 2日 (火)

「レモン」が消えた日

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え~、「レモン」ですね。こうすると、何かに似てますが・・・・見ているだけで、唾液が湧いて

きます。


最近、世の中の健康志向が強くなり、アレが良いとなればアレを、コレが良いとなればコレ

をという感じになってきました。


多分、「あさイチ」だったか?新聞を読みながら、耳だけTVに傾けると、レモンの話。流行り

始めている、レモン塩(田舎ではまだ)の話。また、レモンが脂肪肝に良いとか。


私も、脂肪肝に関しては、お医者さんに嫌というほど言われているので、さっそくレモンを買

いに行ったら、これが無いんですね。レモンが店から消えた日です。五軒目に行って、やっ

と見つけてきましたが・・・・


考えれば、ココアダイエットが流行ればココアは売り切れ、粉寒天ダイエットが流行れば粉

寒天は売り切れ、ドラッグストアーに行けば、サプリメントがズラリ。


全く、健康に気を使う世の中になりました。好きなだけタバコを吸って、酒飲んで、暴飲暴食

して、夜更かしして、それで、元気なのが、本当の健康なのでしょうが・・・・無理でかネ。


さて、私も、ナニが良いといえばナニを試し、コレが良いといえばコレを試しですが・・・

ヨーグルトに、日野原重明先生お薦めのオリーブオイルを入れ、腸に良いオリゴ糖を入れ、

密かに流行っている、ココナツオイルを入れ、これに、今度は、レモンを六分の一ほど刻ん

で切れることに。昼食だけですが、お陰で、便通は順調です。

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さて、いま藤田紘一郎さんの「脳はバカ 腸はかしこい」等、2,3冊を読んでいますが、

「腸」は意外と、大切な臓器ですね。そのうち、ご紹介を。


【おまけ】

稲がなり始めましたが、今年は日照時間が短いため、稲の生育が心配です。お札は、温泉

神社から配られたもので、豊年を祈って、田んぼに祀ってありました。

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野菜の生育も心配ですが、私の庭にいつの間にか、カボチャと白のゴーヤがなっていまし

た。白ゴーヤは普通のゴーヤより苦みはありません。カボチャはともかく、ゴーヤは、あま

り好むものではなく、これを、二人で食べるかと思うと、憂鬱です。





2014年9月 1日 (月)

「地名」を考える

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2014年8月27日付け、第一面、赤の四角で囲んだところ。産経新聞の「産経抄」です。さ

すが、大新聞、目のつけ所が違いますね。


町村合併、新興団地の建設、道の整備、区画整理のたび、地域の名前が変わりました。

「平和町」「幸町」「~丘」「~台」等々、ありふれた名前ばかり。町ではなく、市の名前も変わ

りました。


島原半島は、以前は1市16ヶ町、16ヶ町は「南高来郡」という由緒ある名前でした。奈良

時代初期、現存する貴重な5つの風土記、「肥前風土記」にでてくる名前です。


簡単に言えば、景行天皇が巡幸された時、島原半島をみて、「あれは、島か、陸続きか、知

りたい」と。


神大野宿祢(みわおほののすくね)に見せに行ったところ、人が迎えに来て、「僕者此山神 

名高來津座 聞天皇使之來 奉迎而巳 因曰高来郡」(私は此の山の神、名は高來津座

(たかつくら)といいます。天皇のお使いが来られると聞いて、お迎えに来ました。)と申し、

「因りて高来(たかく)の郡(こほり)と曰ふ。」(昔は、南高来郡、北高来郡は一緒で「高来

郡」でした)


と言った歴史のある名前だったのですが、「南島原市」「雲仙市」。小学生でも名付けられる

ような安直な名前になり、歴史的「高来郡」の名は、歴史の中に消えてしまいました・・・・・


佐賀の方も、大和武尊の巡幸のおり、樟が茂っているのを見て、「栄郡(さかえのこおり)」と

名付け、後に「佐嘉郡」となったそうです。


さて、このように地名には、それぞれ、意味があるのですが・・・・産経新聞に戻ります。

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「地名は『地名の精霊』だとする民俗学者の谷川健一さんは、『ほしいままの命名が横行

している』と嘆いたものだ。・・・・・▼「東日本大震災の後地名があらためて脚光を浴びてい

る。大震災を経験した先人たちが、『ここは危ないぞ』とのメッセージを後世に残したという

のだ。たとえば、地図コンサルタントの遠藤宏之さんは、岩手県の釜石や宮崎県の塩竃に

みられる『カマ』に注目する。「古語の『嚙マ』に通じ、津波により湾曲型に浸食された地形を

意味する」(『地名は災害を警告する』技術評論社)・・・・▼「広島市北部の土砂災害で、とり

わけ被害が大きかったのが、阿佐南八木地区だった。フジテレビの「とくダネ!」はきのう、

この地区がかって「八木蛇落地悪谷(やぎじゃらくじあしだに)」と呼ばれていた事実を伝え

ていた。蛇が降るような水害が多かったので、悪い谷の名前がついたと、古くからの住民は

説明する。やがて、「八木上楽地芦谷」と改名され、現在は地名に八木だけが残った。▼遠

藤さんによると、確かに蛇をあてることが多い『ジャ』は土砂の流失を表す『崩壊地名』のひ

とつである。八木の「ヤギ」だけでも岩石が流されて転がっている場所をを示している▼『土

地の精霊』たちは、ちゃんとヒントを残し、警告してくれていた。・・・・」


と言うことで、はやり、自分が住んでいるところ、特に小字名などは、チックをした方が、良

いですね。

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私が住んでいるところの、小字名の地図です。役所か、図書館で見られます。

四角の所が「城山」で、「釜蓋城」があったところ、近くに「北城平」「東城平」「本城平」「牧の

内」、多分、馬を放牧していたのでしょう「馬場」もあります。「古屋敷」、普通の家には「屋

敷」なんて使いません。「下狩場」、「上狩場」、多分、お殿様が、狩りをやったところでしょ

う。こうして見ると、城があったことがよく分かります。海岸付近「瀬々尾(ぜぜお)」とありま

すから、この辺まで、瀬が来ていたのでしょう。「交合平」ってのもありますが、デート場所だ

ったのか?多分「弘法平」の間違いでしょうが、えらく、あからさまな。


こんな本もあって、参考になりますヨ。

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さて、自分が住んでいる所の昔の地名、言い伝え、調べると面白いですよ。夏休みの自由

研究にどうぞ。来年の夏休みになりますが・・・・


ところで、前にも書きましたが、ウチの近くの「大操子」、なんで、「ウグルス」ナンデショウ?

カクレキリシタンの地蔵があるので「クルス」が付いていると言いますが、「クルス」だった

ら、「来栖」もあるし、大体この漢字「ウグルス」と読めますか?


 

2014年8月31日 (日)

日見の「腹切坂」~長崎市 その4

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歳取ったら、早めに眠くなって、昨日はどうにもならなく、眠ってしまいましたが、今日で最後

になります。


左の写真が、塔に向かって一番左の「一字一石塔」になります。右の写真が、中央にある

「六六(六十六)部」、右側の方に「奉納 大乘妙典六十六部日本洄國供養」と書いてありま

す。「六十六部」については、「長崎県文化財報告書」に次のように書いてあります。


■六部塔

六部塔は正式には六六部塔で、・・・刻印の通り大乗妙典とよばれる法華経を六六部を用

意し、全国六六ヵ国に一部ずつ納めて廻る納経塔で、廻国塔とも呼ばれる。弥勒下生まで

の間、経典を国々の霊場に保管しておくという信仰にもとづくもので、廻国の行をする人を

六部と呼んだ。


裏に「肥前州高来郡日見村庵主 □□院叔明誠□比丘□建立」と書いてあり、「庵主」とは

「三省堂大辞林」によれば、「①草庵の主人。特に、尼僧 ②庵室を構えている人。 ③茶室

の主人。亭主。」とあります。


なお、「比丘」は、① 出家して,定められた戒を受け,正式な僧となった男子。僧。苾蒭(び

つしゆ・ひつすう)。② 誤って,比丘尼をいう 。」となっておりました。ここの 庵主さん、男性

でしょうか?女性でしょうか?


「比丘」の下の「□」は「敬」みたいで「敬建立」になるようです。


下に台座があり、苔が生えて読めませんでしたが、ありがたいことに、「日見の史蹟」に記

録してあって、「石塔之施主 日見住民 重松喜平次」とありました。


さて、いよいよ右の碑ですが、これがどうも墓らしく。「居士」の字が彫ってありました。

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「元禄」は読めると思います。
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■「右の碑(墓)」です。これも、字が薄く読めないところがありましたが、「日見の史蹟」に、

  記録してありました。

①  白襌道由居士

②  元禄9年(1696)子丙 正月三日

     俗名 吉村忠衛門尉藤原重道

いずれにしても、名前から見て、偉い方みたいな氏名ですね。




さて、腹切坂の名称は、主に2つと、越中哲也氏の説がありましたが、年代順に見ると、



① 吉村衛門の碑  元禄九年(1696)

   (これは、村人が一応埋葬し、その後、供養のために建てたとも考えられます。何れ    
     にしても、元禄九年以前の果たし合いです。)

② 六部塔        宝永六年(1709)

④ 一字一石塔     正徳四年(1714)

⑤ フェートン号事件  文化五年(1808)


前に「腹切坂」の昔の絵を載せましたが、あの絵については、「長崎古今集覧名勝圖絵」か

ら取ったものですが、これについては、長崎文献社から出版されていますが、越中哲也氏

「長崎古今集覧名勝図絵について」の「はじめに」で、天保十二年辛丑石崎融志がつくった


長崎古今集覧序に「此書安永之比大塚良夫・・・・・・・」とあり、「此の書とは長崎古今集覧


絵図のことである。」とあり、なお、「融思は此書の編纂には老令より思い立ったというので


あるから、本書を融思が手がけたのは融思六五才のおり(天保三壬辰年臘月)唐絵目利本


役を辞し隠居した後に筆を起こしたのではなかろうか。」とあり、いずれにしても、天保時代


(1830~1844)であり、フェートン号事件については、すでに知られたこと思われ、十数


名の侍が腹を切りながら行ったものだけに、「腹切坂」という名称、「武士の立ち会いの切

腹なのか」、「「フェートン号」が絡むのか、本を書いた方も随分悩んだことでしょう。



と、夏休みの自由研究には書いておこう。さて、2学期が始まります。頑張りましょう。                       


                                           (この項、おしまい)



なお、日見公民館の先生、教宗寺の方には親切に教えていただき、心から感謝致します。


(参考・文、写真引用:「長崎街道 長崎県文化財調査報告書 第154集」「長崎街道~永  

 島正一著」「長崎古今集覧名勝図絵~越中哲也著」「長崎街道を行く~松尾卓次著」「日 

見の史蹟~日見地区公民館著」「長崎”街道周辺の史跡”~岩永弘著」、各説明版より)

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