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2014年7月27日 - 2014年8月2日

2014年8月 2日 (土)

水虫注意!

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何となく、ムッ~という臭いがしますね。


思えば、30年ほど前、下宿屋さんに住んでおり、風呂が共同で、足拭きも協同。誰か水虫

の者がいたらしく、移されました。


ただ、皮膚の方はなんともなく、数ヶ月して、親指の爪のみが、厚くなり、表面がガザガザ。

おかしいと思って、皮膚科に行ったら、先生が「見事な水虫。こんなの滅多に見られないか

ら、みんな来てごらん」と、看護師さんに呼びかけ、皆さんからご観覧いただきました。


昔は、水虫は治療困難らしく、「水虫の薬を作ったら、ノーベル賞」とまで言われ、私の知人

も、酢が良いと聞くと、ぬるま湯の中に酢を入れて、足を漬けていましたが、あれ、効果が

あったのかな?


今は、良い薬ができて、飲み薬、付け薬で、ほぼ完治します。私の場合は、半年くらいで元

のようになりました。「ほぼ完治します」と書いたのは、薬を根気よく毎日飲んで、付けるとい

うことで、これ、適当にやるといつまでも直りません。


さて、あれから30年。水虫は、しつっこいですね。1年ほど前、おかしいと思ったのですが、

たいした事は無いだろうと、ほっておいたら又再発、薬を付け、随分良くなったかなと思った

ら、巻爪になっており、これが皮膚を傷つけ、化膿しており、親指の先が何かに当たると、

痛い痛い。


そのうち直るだろうと、我慢をして二週間。歩くのも、しんどくなったので、治療に行ったら、

はやり、見事な巻爪だと言われ、治療。殺菌液に足を漬け、その後、赤外線かな?紫外線か

な?をあて、薬の付け方の指導。

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水虫の注意です。


女性の方は、水虫というと、恥ずかしがる方がおられるようですが、ほっておいても、良くは

なりません。市販薬もあるようですが、専門医の方がベストです。根気よく治療すれば完治

します。彼氏がいる方は、「あなたから、移されたのよ」とか何とか言って誤魔化すか、相手

にも移すこと。


風呂の足ふきは、一緒のものを使わない。なお、水虫は夏、と思いがちですが、冬もコタツ

などで、足が蒸れ、菌が繁殖しやすいそうですから、ご注意を。


さて、あまり病院にかかってない方のために。病院に行く時の心構えです。


①必ず、保険証を持って行くこと。これがないと、自己負担で大変な金を取られます。後で

  保険証を持って行くと、払い戻しがありますが、遠くの病院だと、行ったり来たりが大変   

  です。私は、運転免許証と、保険証と、コ○○○ムはいつも持ち歩いています。

②必ず、専門医に行くこと。歯が痛いのに、産婦人科に行くような、馬鹿なことはしないこ  

  と。以前、泌尿科に行って、「内科の先生から、この薬を貰いました」と言ったところ、「そ

  んな薬を使って!専門外は素人と一緒だからな」と言われました。

③「お薬手帳」を持って行くこと。最近は、薬に対して、副作用、効き過ぎ、同じような薬を服

  用する事に注意をしています。「お薬手帳」は、薬局でロハでくれます。なお、中をコピー

  していくと、説明の時間が省け、看護婦さんも、コピーの手間が省け、非常に喜ばれま 

  す。

④お医者さんが聞くことに、的確に答えること、「症状(しょうじょう)はどうですか?」「はい、

  いままで賞状(しょうじょう)は貰った事がありません」等と、外れた事は言わないこと。 

  (伊奈かっぺいさんの話です)  

⑤病院は、予約制であっても、待たされます(ひどい時は、予約制で三時間待たされまし

  た)。好きな本を持って行くこと。間違っても、空手の型の練習、シャドーボクシングなど  

  はしないこと。精神修養の時間だと、前向きに考える事。

⑥患部、特に局部になると恥ずかしいですが、お医者さんは、治療の対象としか見ていま

 せん。男性は、小さいオ○○○ンであっても、堂々と見せること。

⑦女性の看護師さんには手を出さないこと。ウチのカミサンも看護師をやっていましたか

 ら、これは絶対的に、忠告をします。女性の看護師さんは、病院と家庭では態度が違い

 ます。(ウチのカミサンだけかな?) 

 

以上、私の経験から。老婆心ながら。


【おまけ】

諫早方面の方ならご存じの、八江種さん。2階を見てください。見事な緑のカーテンです。ウ

チでもやりましたが、こんな見事には作れませんでした。さすが、プロ。

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2014年8月 1日 (金)

両子岩【兩子岩石】(ふたごいわ)~南島原市加津佐町

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島原半島がジオパークに指定をされましたが、ここ両子岩ももちろん、ジオサイトとして指

定されています。


この左側の岩、もと総理大臣の岸信介氏に似ているため、千々石では「あら、この間、信介

岩の近くを通ったら、痩せとらすばい」などと、話をしています。


岩の大きさは、釣り人が写っていますから、推測できると思います。左右に岩があります

がこれが、両子岩というわけではありません。


この、近くの道端に説明版が設置されています。

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この中に、昔の図面が描いてあります。

即ち、現在の二つの岩の近くに、もっと大きな岩があり、これが「両子石」の名の由来だそう

ですが、一番大きな岩は大正11年(1922)の大正地震や、波の力で崩れてしまったそう

です。

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図の右上には、「長㟢縣第六区三小区肥前国髙来(來?)郡加津佐村雜社字津波見(つば

み)名二鎮座」。石祠の名前が「二岩神社」となっています。


どうも「国」という字が「國」でなく、気にかかるのですが・・・・昔は、南高来郡、北高来郡が

一緒で、高来郡という由緒ある名前だったんですが、合併市になって、「高来郡」という名前

がなくなってしまいました。中央官庁、県庁の、学校の成績だけが良い、お馬鹿さんが、歴

史を知らないんでしょうね。


さて、第六区という文字がありますが、廃藩置県により、明治時代目まぐるしく、地区の入

れ替わりがおこなわれます。


明治4年7月、島原藩を廃止、島原県になります。同11月島原県を廃し、長崎県となり、島

原に出張所を置きますが、長崎県は肥前国(松浦郡ノ内・彼杵郡・高来郡)壱岐国(壱岐

郡・石田郡)であり、この時、対馬は伊万里県に属していたそうです。


明治6年に、第六区として、高来郡加津佐村(南串山・北串山・加津佐町・口ノ津)としたそう

です。この後、島原半島内では、村の合併がおこなわれています。(有家町郷土史より)


さて、上の絵ですが、明治の内務省が寺社、寺院の明細帳を作成したそうで、有家町の郷

土史にも、その絵が載っています。

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神社には、社格があり、「長崎県神社庁」のホームページから、皆さんの神社の社格がわ

かります。


明治政府は社格制を分けます。一番下が、無格社で、「雑社」とも呼ばれたそうで、明治政

府は、神社合祀(神社の合併整理)をおこないますが、多分上の絵は、それを目的としたも

のではないかと思います。「有家町郷土史」では「明治8年神社報告令 第七区神社明細

帳より 熊野神社 絵図」となっています。


さて、上の図の「二岩神社」、今も残っており、「双子岩」も説明版によれば、「下半分に補強

工事を実施」となっています。

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まあ、長崎の時津で有名な、「鯖くさらかしの岩」も補強しているそうで、これは、近くまで登

って確認した人がいて、ブログに書いていますから、この岩も、このままだと危ないので、補

強しても良いんじゃナイデスか。


「鯖くさらかし岩」の秘密は→こちらをクリック







2014年7月31日 (木)

「砂原キリシタン墓碑」~南島原市加津佐町&「十字紋」について

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数日前、有家町で講演会があり、帰りがけ時間が早かったので、海沿いの道を。

時々、気にはなっていたのですが、「砂原キリシタン墓碑」に寄ってみました。

看板の通り行くと、綺麗な松林と、砂浜。

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その松林の中に、風化しないように覆いがあって、二つの墓碑が並べて置いてありました。

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向かって左の墓碑は、風化して途中から割れていますが、右側の墓碑は、基壇の上に乗

せてあり、綺麗な花十字が彫りつけてあります。

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いつもお世話になっている、「日本キリシタン墓碑総覧」を読んでみたら、、片岡弥吉氏によ

れば、「今日附近に共同墓地のあることから考ふるに、ここが往事のキリシタン墓地であっ

たと推測される」(片岡弥吉著「長崎縣下發見キリシタン墓碑總覧」昭和17年刊)としている

そうです。


実際、砂浜を(砂丘)をキリシタン墓地として選定している事例は、南島原市の須崎墓地(加

津佐町)、白浜墓地(口之津町)、古川墓地(南有馬町)、須川墓地(西有家町)があり、この

地も、キリシタン墓地が形成され、17世紀初期に、キリシタン専用墓地として、開発された

可能性が高いということです。


なお、右の墓碑については、正面小口(花十字がある面)は整形され、小口裏面、両面も正

面に比べ粗面であり、花十字が上方に刻まているところから、地中にわずかながら埋めら

れて配置された可能性が高く、この墓碑を置いている基壇は、建碑当時からのものではな

いと思われるそうです。


左の墓碑については、風化破損が激しく、判別しにくいそうですが、十字紋等確認できず、

又、石材の玄武岩質堆積岩も、他のキリシタン伏碑では使用されておらず、本碑をキリシタ

ン伏碑と断定できる資料がなく、県指定ではあるものの本稿(キリシタン総覧)では、類例

資料としてあげておく、と書いてあります。(「日本キリシタン墓碑総覧」より)


さて、十字紋の事を。いつものように長くなりますが、十字紋が刻んであるというと、すぐに

キリシタン、特に潜伏キリシタンに結びつける方が多いのですが、そう簡単なものではなさ

そうで、松田毅一著「キリシタン研究 第二部論攷第三章 キリシタン宗門と十字の記号」

に詳しく書いてあります。


多くの十字架の図が描いてありますが、最初に「十の字の記号は太古から世界各地に存

在しているので、その起源は明らかではない。十字は、生命、日輪、神聖等、種々の表徴と

もなり、蒸餅の異名ともなった。」と書いてあり、「蒸餅(じょうへいと十字」については、何だ

ろうと思っていたら、「とらや」のホームページに書いてありました。


「十字とは蒸餅のことで、饅頭の異名だと、江戸時代の図説百科事典『和漢三才図会」にあ

るそうで、「食べやすくするために、蒸した餅の上を十文字に切り裂いたからだといいま

す。」と書いてあるのでさっそく、「国立国会図書館デジタルコレクション」(これ、誰でも見

れます。)を見ると、饅頭の絵が描いてあって、その下に「饅頭」と書いてあり、その下に「十

字」と書いてありました。これ、キリシタンとは関係ナイデスね。

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          (「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


横道にそれましたが、松田氏が収集した十字紋です。全部載せきれないので、ほんの一部

を。

松田氏の説明によれば、左が「ヨーロッパ・キリスト教界の十字。

右が「キリシタン墓碑の十字。「砂原キリシタン墓碑」と同じ花十字が見られます。

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「日本紋章の十字」

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この中に、島津一門の紋がありますが、これについては、「十字紋は、島津氏に代表され

るものであるが、その意義については定説がない。島津氏の十字紋もキリスト教と関係が

あるという説があるが、その家紋は、フランシスコ・ザビエルの来朝以前からのものである

から、その点は否定される。十字紋を一種の呪符として用いる風習は、支那伝来のもの

で、日本では全国各地で古くからおこなわれている。十字符は、また太古から各民族のもと

で用いられ、世界普遍のものであり、その関係、性質を究め尽くすことは容易ではない。」と

松田毅一氏は述べられています。


こうしてみると、単なる十字紋があったからといって、簡単にキリシタンと関係ある、とはい

えないみたいですね。

(参考・文・写真引用:「日本キリシタン墓碑総覧」「キリシタン研究 第二部論攷編~松田毅

 一著」「国立国会図書館デジタルライブラリー」「とらやホームページ」より)











2014年7月30日 (水)

「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」 その2~福沢諭吉?

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先日、忘れたことを。「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」、これが、福澤諭吉の

言葉で無い事は昨日書きましたが、この事は、「慶応義塾大学」のホームページ、「慶応義

塾を知る・楽しむ」の「慶應義塾豆百科 22 考証・天は人の上に人をつくらず・・・」に載っ

ております。自分の学校の事ですから、本当の事でしょう。


余談ですが、「福沢諭吉は謎だらけ。~清水義範」。


「一 世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つということです。」「一 世

の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。」・・・・・・・という「心訓」も、実

は、福澤諭吉の言葉では無かった、と言うことを中心に書かれていますが、これも、大学の

ホームページの同ページに載せてあり、「98 福沢心訓」をご覧下さい。


さて、昨日の続きですが、男女同権、夫婦敬愛、女性自立等を述べた福沢諭吉が、「人民

の移住と娼婦の出稼ぎ」を書くはずがあるまい、と調べていたところ、出会ったのが「福沢

諭吉の真実~平山洋著」。


この本は、「福澤諭吉全集」を徹底的に分析をしていますが、「福沢諭吉全集」といえば、全

文、福澤諭吉が書いたものと思いますが、これが、違っていて、詳しくは、同書を読んでい

ただきたいのですが、全集に含まれいる、「時事新報」論説は、下記のようカテゴリーに分

けられるそうです。


Ⅰ 福沢が全てを執筆した「福沢真筆」

Ⅱ 福沢が立案して社説記者が下書きをし、さらに福沢の検閲を経た「福沢立案記者起   

   稿」

Ⅲ 記者の持ち込み原稿に福沢が添削を施した「記者立案福沢添削」

Ⅳ 全面的に記者が執筆をして福沢は全く関与していない「記者執筆」


という事で、現行版「福澤諭吉全集」に納められている「時事新報」は、全部が全部、福澤

諭吉」が書いたものでは無いと言うことです。


福沢諭吉の「新版現代かな常用漢字 福翁自伝」にも「しかし私も次第に歳をとり、いつま

でもコンナことに勉強するでもなし老余はなるたけ閑静に日を送るつもりで、新聞紙のこと

も若い者に譲り渡してだんだん遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀川

帰一などがもっぱら執筆して、私は時々立案して、そのできた文章を見てちょいちょい加筆

するくらいにしています。」と述べています。


では、「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」はどうなのか?


意外なところから、答えが出て、「福沢諭吉は謎だらけ。」に「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」

の事も書いてありますが、これを「福澤諭吉の真実」の著者、平山氏が読んだらしく、平山

氏が清水氏に書簡を送っており、それが、blechmusik氏のブログの資料集→平山洋関連

→「2006年10月23日付 作家清水義範氏宛て」に触れてあります。


以下は要約ですが、「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」は、昭和版で福沢の自筆原稿は残存

せず、下書きは石河と断定はできるものの、そのアイディアを福沢が出したかどうかについ

ての証拠はまったくない。


この時期、仕上げにかかっていたのが「福翁百話」で、その中には海外移住をテーマの話

は無く、明治28年11月から明治29年1月の書簡にも、海外移住に触れたものは無かった

そうです。


また、社説掲載の明治29年1月18日は、帝国ホテルで開催予定の立食パーティーの準

備に忙殺されていたようです、と書いてあります。


要するに、この論説は、石河自らの関心から執筆して、満蒙開拓のブームにのって、福沢

先生が書いたものとして、「続全集」に採録したもののように見える、と述べられています。

なお、この論説には、著者の「福澤諭吉」の署名は書いて無く、無署名になっています。


現行版「福澤諭吉全集」出版については、「慶應義塾豆百科  No.55 『福澤諭吉全集』」に

触れてあり、この全集は「慶應義塾設立百年記念出版」ですが、平山洋氏は、「おわりに」

の最後の所に「現行版『福澤諭吉全集』の『時事新報論集』をこのまま放置しておくことは許

されぬことであろう。」と結んであります。


「全集」と名前が付いていれば、全部、福澤諭吉が書いたものと誤解し、ネット、本等を見る

と、「全集」の「時事新報」を前提として書いてあるものが、随処に見受けられたました。

なお、平山洋氏の著書は「福澤諭吉と慰安婦」などもあります。    (この項 終了)



(参考・文引用:「福沢諭吉の真実~平山洋著」「福諭吉は謎だらけ。~清水義範著」「福翁 

 自伝」、現行版「福澤諭吉全集」、ブログ「blechmusik」「慶応義塾大学ホームページ」)






2014年7月29日 (火)

「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」 その1~福沢諭吉?

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え~、一万札です。財布の中には、一万円札しか入れない主義で、5000円札が、樋口一

葉だったかな、千円札が野口英世でしたか。以前の一万札は、確か聖徳太子でした。聖徳

太子の一万円札で、買い物したら、うさんくさい目で見られた人がいるそうです。


福澤諭吉(一万円札には「福沢諭吉」)といえば「學問ノスヽメ」。「學問ノスヽメ初稿」には、


「学問ノスヽメ  福澤諭吉 小幡篤次郎 同著」


となっており、小幡篤次郎がなぜ同著になっているか、調べていたのですが、本が行方不

明で、記憶喪失で書けませんが、小幡氏は、慶応大学の第3代目の塾長になります。


「福沢諭吉の真実~平山洋著」には「福沢が40代半ばの壮年時代に育成した、小幡篤次

郎・小泉信吉・馬場辰猪・朝吹英二・井上各五郎・犬養毅・・・・・」と書いてあります。


「學問ノスヽメ」の出だしは、「天ハ天ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云エリ・・・・・」

で、「天ハ天ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」の後に、「云エリ・・・・・」という言葉が入

っており、福沢諭吉の言った言葉では無い事が分かります。説としては、アメリカ独立起草

委員会トーマス・ジェファーソンの宣言案からのヒントだという説が有力なようです。


福沢諭吉というと、慶応義塾大学創始者ですが、今でこそ慶応というと、わ~っ、というよう

ですが、「福沢諭吉の真実~平山洋著」によれば、「慶応義塾に大学部が設置されたのは

90年のことであった。しかし普通部(旧制中学)からの進学者がきわめて少なかった事もあ

って、文学・理材・法律の三科合わせて三百名を予定した在学生数は毎年百名に満たない

ありさまであった。96年10月、大学部の累積赤字にたまりかねた協議員は、その廃止を

主張する中上川彦次郎の意見が多数を支配するところとなった。」とあり、当時はたいした

学校ではなかったことが伺えます。


さて、私が、福澤諭吉に少し興味を持ったのは、先日書いた「天如塔とからゆきさん」の講

演を聞いた時、福澤諭吉が海外の賤業婦人(からゆきさん)について、下記のように書いて

いると言うことを、講師の方が話され、本当かなと思った事です。


福澤諭吉は、1882年3月に「時事新報」を発刊しますが、「福翁自伝」によれば、発行の当

初は中川彦治郎、次いで伊東欽亮(きんすけ)、次男の捨次郎と続き、会計も本山彦一、坂

田実、戸張志知之助と続いて、担当をし、「私の性質として金銭出納の細目を聞いた事もな

く見たこともなく、その人のするがままに任せておいて、かって一度もまちがいのできたこと

はない。まことに安心気楽なものです。コンナことが新聞事業の永続するわけでしょう。」

と、なんともノンビリしか書き方をして、福澤諭吉の気質が伺えます。


さて、「時事新報」に書かれた記事は、「福澤諭吉全集」に載せてありますが、全集は、明治

版(「福澤全集)、大正版(福澤全集)、昭和版(続福澤全集)、現行版(福澤諭吉全集)と四

種類ありますが、長崎県内の図書館には、現行版しか置いて無く、借りて読んでみました。

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昭和36年4月1日発行、「福澤諭吉全集 第15巻 著作権者 慶應義塾、発行者 岩波雄

二郎」ですが、「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」(明治29年1月18日付け、362頁~364頁)

のところ、少し長いですが、当時の世相、考えも伺えますので、全文載せます。なお、文章

が長いので、誤字、脱字等あると思いますが、ご了承を。


「世間一般の論者は賤業婦人の海外に出稼ぎするを見て甚だ悦ばす、此種の醜態は國の

體面を汚すものなり、是非とも之を禁止す可しとて熱心に論ずるものあり。婦人の出稼ぎは

事實なれども、之が為に國の體面を汚すとの立言は更に解す可らず。娼婦の業は素より

清潔のものに非ず。左ればこそ之を賤業と唱えて一般に卑しむことなかれども、共に、之を

卑しむるは人倫道德の上より見て然るのみ。人間社會には娼婦の缺く可らざるは衛生上に

酒、煙草の有害を唱えながら之を廢すること能はざると同様にして、經世の目を以てすれ

ば寧ろ其必要を認めざるを得ず。彼の廢娼論の如き、潔癖家の唱ふる所にして、或いは実

行したるの例なきに非ざれども、其結果を如何と云ふに表面に靑樓と名くる悪所の存在を

止めたるまでのことにして、實際に風俗を破り衛生を害するの弊は、公娼の營業を公許し

たる時に比すれば一層の甚だしきを致して其弊に堪へず、苦情百出の為めに遂に復舊し

たるの事實は世人の知る所なる可し。或は内の醜態は兎も角も、之を外に現すに至りては

國の體面に関係すと云はんかなれども、娼婦の醜態、果たして國の體面に関係するものな

らんには、之を内に存するも其體面は既によごれたるものなり。内には公行を許しながら外

出を禁ずる如きは、俗に云う臭き物に蓋の喩に漏れずして、其臭は到底掩う可らず。内に

置いて臭きものならば、外に出すも亦臭からざるを得ず。四面解放の世の中に、臭き物に

蓋して國の體面を維持し得たりと思ふが如きは、所謂井蛙の見にして、與に世界の事を談

ずるに足らざるなり。況んや論者の如き、娼婦の營業を以て體面に関係ありと論ずれども、

娼婦の公行は世界一般に同ふする所にして、現に文明の中心を以て自ら居る倫敦、巴

里、伯林、ニューヨークの如き大都會の眞中に於いてさへも、賤業婦人の数は計ふるに遑

あらざる程にして、公に私に其業を營めども會て人の怪しむものなし。論者は獨り我醜業

婦の外出を禁じて誰に讃められんとの考えるや。果たして井中の蛙なるを免れざるものと

云う可し。抑も我輩が殊更らに此問題を論ずる所以のものは他ならず、人民の海外移植を

奨勵するに就いて、とくに娼婦外出の必要なるを認めたればなり。移住民たるものは或べく

夫婦同行して家居團濼の快濼を共儘、外に移して、新地に案ずること猶は故郷に居ると同

様ならしめんこそ最も望む所なれども、多數の移住民、必ずしも妻帯のものヽみ限らず、否

な、最初の間は不知案内の海外にいくことヽて、移住の希望者は差當り係累のなき獨身者

に多きのみか、或は妻帯のものとても先ず一人にて移住したる上、國より妻子を呼寄せん

とするものもあらんなれば、移植地の人口は男子に割合して女子に乏しきを訴へざるを得

ず。人口繁殖の内地に置いてさへ娼婦の必要は何人も認める所なるに、況して新開地の

事情においてはますます必要を感ぜざるを得ず。往年德川政府の時に香港在住の英國官

吏より日本婦人の出稼を請求し來りしことあり。其理由は同地の兵士屯在すれども婦人に

乏しきが故に、何分にも人氣荒くして喧噪争論のみを事とし制御に困難なれば、日本より

娼婦を輸入して兵士の人氣を和げたしと云ふに在りき。又浦鹽斯德などにても同様の理由

を以て頻りに日本人婦人の出稼ぎを希望し、適ま々々出稼ぎのものあれば大いに歓迎し

て、政府の筋より保護さへ與ふるやの談を聞きたることあり。海外の移植地に娼婦の必要

なるは右の事實に徴するも甚だ明白にして、婦人の出稼は移民の是非とも相伴ふ可きも

のなれば、寧ろ公然許可することこそ得策なれ。且つ又當人の為めに謀るも、賤業婦とし

て外に出づるものは内地に於いても何れ同様の境界にあるものにして敢えて苦とせざるの

み。現に外に出稼ぎして相應の銭を儲け歸國の上、立派に家を成したる輩も多きよしなれ

ば、等しく賤業を營まんとならば寧ろ外にでヽ利益の多きを望むことならん、何れの點より

するも賤業婦の外出は決して非難す可きに非ざれば、移住の奨勵と共に其出稼を自由に

するは經世上の必要なる可し。」


「娼婦の出稼ぎ」を薦めている記事ですが、「からゆきさん」の実態を知っていたのか?借

金の形、良い働き口があるとの詐欺まがいの誘い、拐かし、からゆきさんの平均年齢が

26.1歳。


この記事を読んでみて、本当に福澤諭吉が書いたのか?どうにも信じられない話です。

(明日に続く)


(参考資料・文引用:「福澤諭吉全集 第15巻 昭和36年発行版」「福翁自伝」「福沢諭吉 

 の真実~平山洋」より)





2014年7月28日 (月)

方言「島原ことば」・みなと島原のうつり変わり~今日は冊子作り

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「方言『島原ことば」』」です。内容は、島原の白山地区の方言と写真集です。


ここ、白山地区は、まとまりが良く、地域の運動会と、小学校の運動会も合同でおこなって

いるところです。


昨年、「方言と写真保存実行委員会」の代表、江川氏が中心となり、左側の冊子を出したと

ころ、評判が良く、白山地区の方が、こんな写真もある、あんな話もあると、いろんな事が集

まり、右の「続・方言『島原ことば』」を出すことに。


長崎新聞にも載りましたが、その数日前に、江川氏から、私の所に冊子が届いて、良かっ

たら、お手伝いにと。「昼食はウナギと冷やし汁」という事で、ウナギに釣られてお手伝い。

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                    (長崎新聞より)

中身は方言と昔の写真。ちなみに「方言体験」は、冊子の中に書いてありますが


・ 30歳ぐらいまで・・・・・・・・・・ほとんどなし。

・ 40歳前後・・・・・・・・・・・・・・・最近の方言。

・ 60歳前後・・・・・・・・・・・・・・・何とか昔言葉が使える。

・ 80歳前後以上・・・・・・・・・・・本格方言十分OK

という事だそうで、子供たちは、おじいちゃん、おばあちゃんがいないところは、方言をほと

んど聞いた事もないでしょう。


中身は、方言集と、昔の写真が、よく集めたなというくらい並んでいます。

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最初に、丁合作業で、95ページ分。みんな良く集まって、さすが白山地区。

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丁合作業は、簡単なものの、冊子を製本するのが、昔の古文書の方法。これ、島原図書館

の松平文庫で江川氏が習ってきたものだそうです。


製本風景ですが、大きな針を使って製本していきますが、針の穴に糸が入らない。皆さん、

老眼で、これが一苦労。

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製本の方法と、出来上がりです。最初は難しいですが、慣れても難しかった。やってみて、

昔の人は、良く考えたなという事。古文書を読む時も、見逃していた所です。

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さて、うなぎです。お代わり有り。冷し汁。漁師料理ですが、沢山作ってあるので、味が良く

で、夏の暑さの中、ヒヤリとして美味しかった。千々石から来た甲斐がありました。

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各市町、郷土史がありますが、身の回りの地区の方言、写真、言い伝え、民謡、民話等、

今の時代だから、残していきたいと、つくづく思いました。


なお、上の本は、売れてしまったら、増刷する予定はないそうです。ボチボチと買いに来る

方、電話でも問い合わせがあっているそうですから、。郵送希望の方は下記の通りです。

早めにした方が良いと思います。


材料代(冊子代) 300円 (注:儲けは全然ありません。本当に材料代のみです。)

郵送料(400円分の切手を同封の事)

材料代(300円)+切手(400円分)同封の上


〒855-0817

島原市浦田二丁目644-7

江  川  照  男  宛

☎ 0957-63-4439

まで、お願いします。




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