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2014年6月29日 - 2014年7月5日

2014年7月 5日 (土)

「カモメのジョナサン(完成版)」~リチャード・バック★五木寛之創訳

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先日のNHKTVのニュースで、この本の事を紹介してました。「東京の本屋に並べられ

て・・・」


6月27日(金)のことで、早速近くの「TSUTAYA」さんに行ったら、予定どおり、置いてあり

ません(田舎だから)。


6月28日に行っても、まだ置いてありません。6月29日は日曜日で、雑誌等の送配はあり

ません。6月30日、この日はあるだろうと思ったら、まだでした。7月1日、まだです。7月2

日、おかしいですね。7月3日、諫早の本屋さんに行っても、ありません。7月4日、まだま

だ。7月5日、本日ですが、ありませんね。でも、この本読んじゃいました。


以前、村上春樹氏の「1Q84」の時も同じ状態で、どうせ、こちらに来るのは遅いと分かって

いるので、6月28日、Amazonに予約注文を入れていたのですが、それでも、お届け日

が、7月2日~7月4日。今日、予約注文を見たら、「2014年7月13日入荷予定です」。売れ

ているんですね。


ちなみに、私の本の奥付を見ると、「2014.6.30発行」となっていましたから、6月28日発行

は、勇み足ですね。


さて、この本、「Part One」から「Part Four」までの四部構成で、「Part Three」までは、

40年ばかり前、出版され爆発的な売れ行きをした本です。


中身については、「ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以

上のことをあえて学ぼうとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるとこ

ろまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。・・・・重要な

のは飛ぶことではなく、食べることだった。」


これに対して、「この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食

べることより飛ぶことそれ自体だった。」という事で、飛ぶことに、熱中して、カモメの群れか

らも追いだされますが、その後・・・・・・という物語なのです。


この物語、1970年代に売れた本で、あの頃は、70年安保、大学紛争、ベトナム戦争、反

戦デモ等があっていた時代で、今の若い方には、また、別の読み方もあると思いますの

で、先入観なしで読んでもらう為に、これ以上の粗筋の紹介は避けます。


NHKニュースでは、キャスターが「Part Fourでは、・・・・・・」と中身の紹介をしていました

が、あれは、反則ですね。流行している推理小説を紹介しながら、「この本の犯人は

○○○○です」、と言うのと一緒で、おかげで、「Part Four」の中身が大体判って、面白さ

が半減しました。NHK9時のニュースの男性のキャスター、デリカシーというものがありませ

ん。


さて、五木寛之氏、今回の後書きと、1974年の後書き、二つ載せてありますが、じっくり読

むと、氏の若い時と、現在の考えの違いがあって、興味深いものです。


この、「Part Four」を発表したいきさつについては、2年ほど前、自ら操縦していた飛行機

で事故に遭い、九死に一生を得たことがきっかけで、旧作を見直した、という説明をあちら

こちらで見かけますが、前書きの、「完成板への序文」を読むと、以下のようであったようで

す。


妻のサブリナが、ごちゃごちゃの紙くずのあいだから、ぺちゃんこになった「Part  Four」

の原稿を引っ張り出し、読んだ事がきっかけらしく、その中で、


「あんたのいる二十一世紀は、権威と儀式に取り囲まれてさ、革紐で自由を扼殺しようとし

ている。あんたの世界は安全にはなるかもしれないけれど、自由には決してならない。わか

るかい」そして、最後にこう言った。「おれの役割は終わった。次は、あんたの番だよ」


「ついにあるべきところに置かれた最終章Part Fourは、そうは言わないだろう。誰も未来

を知らなかった時に書かれたものなのだから。」少し分かりにくいと思いますが、全文読む

と、なぜ、今になって「Part Four」を出したのかが良く判ります。


読みながら感じたのは、日本も集団自衛権の問題で、大きく変わろうとしています。我々は

安全を選んでいくのか、自由を選んでいくのか、どちらが良いのでしょう。


ふと、ジャニス・ジョプリンの「Me and Bobby McGee」の一節、「Frrdom's just another

word.For nothing left to lose.」、「自由とは、別の言葉で言うと、失うものが何もないこと」を

思い出しました。心身共に、自由を得ることは、努力を要し、困難で、ある面不自由な事を

招きます。自由とは何か、そして、自由を得るためにどうすれば良いか、この本はそれを問

うているのではないかと思います。


最後の一行が、グットくるくらいカッコ良いんですが、これはお読みください。


【おまけ】

本を読んで、海にカモメを見に行ったのですが、いつも溜まり場になっているところには、一

匹もいず、岩の上に一匹だけ。群れを離れた、ジョナサンで、今から飛ぶ練習をするかと

30分ばかり見ていましたが、動きもせんでした。どうも、ジョナサンとは違うみたいでした。

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(文引用:「かもめのジョナサン 完成板」より)



2014年7月 4日 (金)

有明フラワー公園&番所跡~島原市有明町

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有明のフラワー公園。天気が悪い日も、ボチボチとお客さんがやって来ます。現在は、サル

ビアが主で、ラベンダーが少々。天気が良ければ、雲仙岳も見えるのですが・・・・

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ここのフラワー公園の少し上に、番所跡があります。島原半島は、愛野が昔は要所になっ

ており、地図をご覧になればすぐに分かると思います。

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(「島原半島の歴史 監修・松尾卓次」より)

赤の○印、上の方が土井口番所、下の方が原口番所。有明町誌によれば、この関所は古

くからあり、宝永四年(1707)、島原藩士団竹右衛門、種村新兵衛による「島原大概様子

書」にすでに載っているそうです。


青の矢印の道は、「北目道」と呼ばれ、平坦な道です。赤の矢印の道は「千々石道」で、山

越えの急な道ですが、上に登ってしまえば、後は下り道になり、距離的にも北目道より短く

なります。


さて、番所の位置です。黒丸が、フラワー公園。青丸が、植樹祭がおこなわれ、今年の長

崎国体のサッカー会場になる、百花台公園。赤の○印が番所跡です。

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   (「島原藩主 長崎監視の道~島原殿さん道の会著」より」

番所跡です。説明版があります。

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現在は、番所跡と分かるような所は、わずかに石垣が残るのみです。

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有明町史に載っていた、昔の様子です。番所屋敷と下番所屋敷。番所屋敷の石垣。

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                  (「有明町史」より)

番所屋敷とそれに付随する下番所屋敷があったそうで、敷地は二百坪。この番所の意義

については、説明版に分かりやすく書いてあります。クリックすると大きくなります。

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一つは、この千々石道は、雲仙が修行の場であり、その参道であると言うこと。


根井浄氏によると、参道口は主に4つあったそうで、その一つが北目から、この千々石道を

利用し、大三東(おおみさき・現島原市)の一本松→舞岳の麓→多比良(たいら・現島原市)

の魚洗川(イワラゴ・イワレゴ・イヲアライガワ)→長者屋敷(地名のみで現存はしていませ

ん)→九千部と国見岳の麓(ここは千々石道と離れ、雲仙岳に向かいます)→池の原(雲仙

ゴルフ場があります)→温泉(うんぜん・昔は温泉を、「うんぜん」と読んでいました)と登って

いた道。番所はこの道あたりになります。


なお、現在ではセクハラになりますが、雲仙岳には女性は登れず、麓で祈っていたそうで、

千々石には女人堂と言われる所があります。


あと、説明版に書いてあるように、千々石道は南北朝の合戦の間道、江戸時代は島原城

への裏手の進入道路としての重要拠点でもあります。


島原藩主は、雲仙の自然を大切にし、地域内の殺生、つつじの堀取り、野火等禁止をし、

山奉行の下に、山留め、山番人がおかれていたそうで、山留めの役料として、勤めの日数

によって、一日二合の扶持米と、田六段、畑五段が与えられており、当時の庄屋が七段、

乙名が四段だそうで、山留めの役料が大きかったことがうかがえます。


江戸時代に入ると、北目道が島原藩主の参勤交代の道路であったそうですが、幕末、長崎

に、特に外国船の入港等があり、長崎へ出かけるため千々石道を、何回となく利用したそ

うです。


この道は、千々石から、魚をのトロ箱を担いで、有明、島原方面へ魚を売りに行った庶民

の道でもあります。


なお、伊能忠敬もこの道の測量をおこなっていますが、後日、千々石で測量していった道を

紹介したいと思っています。


この道も、山の中に埋もれて、分からなくなっているところが、多くあります。代わりに、自動

車道路の立派な道ができていますが、歴史的な道です。何とか、再調査して、整備してもら

いたいものです。


(参考・文引用「有明町史」「島原半島の歴史~監修・松尾卓次」「修験道とキリシタン~根 

 井浄著」「新島原街道を行く~松尾卓次著」「長崎藩主 長崎監視の道~島原殿さんの道 

 の会」、説明版より)






2014年7月 3日 (木)

ヒマワリはどこを向くのか?★「獏の檻~道尾秀介」より

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今日はこちらも土砂降りで、よせば良いのに諫早にでかけたら、下の通り。

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本明川の側を通ったら、ご覧の通りで、ここの両岸は、晴れている時は、良い散歩道なので

すが、植えてある木まで溺れていました。


本明川は、「暴れ川」と言われるくらいで、江戸時代の記録に残る洪水が9回起こっている

そうです。河川工事をおこなったので、今ではこれで済むのでしょうが・・・・・・

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さて、本題になります、ヒマワリは、どこを向くのでしょうか?ひまわりは、「向日葵」または

、「日輪草」「日車草」と言うくらいですから、花は、太陽の動きにつれて回っていく。と思って

いたのですが、たまたま本を読んでいたら、違うんですね。

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三十二年前、農業組合の代表者が殺害され、その体に、主人公の父親の小刀が刺さって

おり、それと同時に、一人の女性が行方不明になり、それも、主人公の父親が殺したと見な

され、父親は死体となって発見されるが、女性の死体は、発見されない。


主人公は大きくなり、東京で働き、母親も引き取るが、事件のことがトラウマになったのか、

離婚して、子供は母親に引き取られる。


月に一度会うことが決められ、その日、子供と別れた後、電車に乗るため駅に行くが、向か

いのプラットフォームに、行方不明だった女性が現れるのだが、電車にはねられて死亡す

る。


そこから、物語が始まるが、結局、一人一人の思いが少しずつ食い違い、悲劇を起こす原

因となります。


という、物語なのですが、今日はそれとは関係無く、この物語に書いてあるヒマワリのことで

す。私も、ヒマワリは、太陽の方を向いていく、と思っていたのですが・・・


一枚の写真に、ヒマワリをバックに、子どもたちが写っていて、主人公だけが、どんなわけ

か、そっぽを向いていて、どこを見ているかの推理。


「見たところ、花の周囲に太陽を遮りそうなものが何もありませんね。こういう場合、向日葵

というのは東を向いて咲くんです。向日葵は蕾のときに太陽を追いかけて首を回しますけ

ど、花が咲いてからは太陽を追いかけなくなります。だから、たとえば西側に太陽を遮るも

のがある場所では、花の向きは最終的に東に固定されますし、東側に太陽を遮るものがあ

れば西に固定されます。そっちの方が光の量が多いからです。でも、西側も東側もひらけ

ている場合、真ん中に咲くかというと、これがじつはそうじゃなくて、東を向いて咲くんです

よ。夕日というものがあるせいで。」


「でも・・・・・夕日が射すのは西からですね。」


「植物が感じるのは青い光なんです。それ以外は光として認識しません。一方で、夕陽がど

うして赤く見えるかというと、空気中で青い光が吸収されるからですよね。だから、夕陽は、

我々には眩しく感じられれますけれど、植物にとっては光じゃないわけです」

・・・・・・・・・

「つまり、夕陽が射す西側は、向日葵にとっては暗い方向なので、花はみんな東を向いて

咲くわけです。で、あなたはその向日葵の向きにたいして、左に顔を向けているから・・・」

「北を向いている?」


という事で、ミステリーを読んで、向日葵の勉強をするとは、思いませんでした。


ただ、この小説にひとつ問題が

「九州長崎の、普賢岳にほど近い村から・・・・・・」。普賢岳は雲仙岳の一つで、普賢岳にほ

ど近い村はありません。一番近いのが、小浜町雲仙で、温泉街です。まして、普賢岳といえ

ば、火砕流が起こった所。また、「村」はありません、みんな「町」です。「普賢岳の麓の町」く

らいで良かったのではと思いますが・・・・


ちなみに、ヒマワリの花言葉は「私はあなただけをみつめる」「愛慕」「崇拝」「いつわりの富」

「にせ金貨」等だそうです。・・・・・「そんなに、見つめちゃイヤ」。言われてみたいな heart04 heart04


【おまけ】

雨のため、庭のバラも、ずぶ濡れでした。

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(文引用:「獏の檻~道尾秀介著」より


2014年7月 2日 (水)

「ばらかもん」~ヨシノサツキ著

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先月、28日の長崎の地方新聞、「長崎新聞」です。

赤の四角の所、何かと思ったら、「ばらかもん」という、テレビアニメーションの宣伝で、7月

12日から長崎で放映されるそうです。


最近は、「ビッグコミック」系統しか読んでいないので、まあ、新聞一面使っての宣伝なら、

売れてる作品かなと思って、本屋さんに行ってみたら、9巻まで出版されていて、試しに2巻

ほど買って来てみたら、最初の台詞が、


「こら!!なる(注:登場人物の名前) そんなトコで何(なん)ばしよる。危なかけん登ったら

ダメち言ったろう?」


これ、長崎弁ですね。目次を見ると、「ばらかこどん」「やなわっ」「どんくどん」「ひとっくるま」

「おんなんこどん」「しゃ」「よそんもん」「郷長がいのむしこ」「ひとんもち」「だんぽ」。分かる

所はありますが、長崎市内、長崎南部の方言とはチト違いますね。


あとがきを見ると、「作者のヨシノ先生が生まれ育った、長崎県は五島列島。」と書いてあ

り、これで納得。


ちなみに、「ばらかこどん」は「元気な子」。「やなわっ」は「引っ越し」。「どんくどん」は「かえ

る」。「どんく」は「かえる」。「どん」は「一郎どん」とか、映画などで出てくる、名前に付ける

「どん」。「ひとっくるま」は「一輪車」。「おんなんこどん」は「おんなのこども」。


「しゃ」は「おかず」、千々石でも、使いますが、千々石に来た当時、「しゃはなんが良かね」

と訊かれ「?」。「よそんもん」は「都会の人」と書いてありますが、他の土地から来た人。「郷

長がいのむしこ」は「郷長の息子」、「郷長」は地域のまとめ役。こちらでは、少し都会風に「

自治会長」。


主人公は、書道家。書道展の受賞パーティーで、浣腸、失礼しました、漢字変換で浣腸と出

ました。浣腸ではなく、館長に「手本のような字と言うべきか、賞のために書いたものという

べきか、実につまらん字だ」と言われ、館長をぶん殴り、父親(書道家)に、頭を冷やしてこ

いということで、五島にやらされます。

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書道が関係するとは言っても、ビッグコミックスピリッツ「とめはねっ!鈴里高校書道部」(N

HKでドラマ化された作品)のように、本格的な書道漫画ではなく、島での人間の付き合い

が主になった作品。

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一番最初に仲良しと言うか、押しかけられるのが「なる」ちゃん。みんな優しい人ばかりで

す。


さて、少し話が重くなりますが、五島と隠れキリシタンとは関係が深く、寛政9年(1797)

年、五島藩主による要請で、西彼杵郡半島から、多くの潜伏キリシタンが移住したそうで

す。


これは、福江藩(五島藩)では享保年間、暴風、干ばつ、害虫による飢餓、また、享保末か

ら寛政元年にかけて天然痘も流行し、農民が減少、村が全滅するところもあったそうです。


キリシタン追放と農村再興において大村藩と福江藩は利害が一致し、「百姓移住協定」を

結び、大村藩は移民を、外海地域のキリシタン村(三重、黒崎、神浦、瀬戸)に限定し、仏

教宗門の手形を発行しているそうで、外海から五島に移るとき、期待があったのでしょう、

「五島へ 五島へと皆ゆきたがる五島はやさしや土地までも」という唄も残っています。



最初の移住が、108人、その後、福江藩から千人の申し込みに対して、はっきりはしてい

ませんが、3千人が移住したと言われているそうです。(「五島・久賀島【ひさかじま】キリスト

教墓碑調査報告書 復活の島~五島・久賀島キリスト教墓碑調査団編・長崎文献社刊」よ

り)


以上のことはマンガには関係ありませんが、今日、又続きの3巻と4巻を買って来ました、

面白いので、多分9巻まで買うでしょう。主人公は、自分の書道にかなり、迷いを持っている

ようですが、どこで自分の壁を破るのか?多分、上の登場人物、五島の美しい自然との出

会いで、新境地を開いていくものとっています。


とにかく、明るく、面白いアニメーションになりそうですから、長崎の方は、長崎国際TV、7

月12日(土)10時からをお楽しみに。なお、ネットの「ガンガンONLIN」でも読めるそうです


(参考・文引用「五島・久賀島【ひさかじま】キリスト教墓碑調査報告書 復活の島~五島・

 久賀島キリスト教墓碑調査団編・長崎文献社刊」より)




2014年7月 1日 (火)

「梅雨三景」~2014 唐比ハス園・上井牟田溜池・ところ天屋さん

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日本三景といえば、「松島」「天橋立」「宮島」だそうで、行ったことはありません。興味は無

いし・・・・金はないし・・・・・一緒に行ってくれる、素敵な女性はいないし・・・・


沖縄は梅雨が明けたそうですが、こちらではまだまだ、といったところ。梅雨の晴れ間をぬ

って私の好きな、お近くの「三景」に行って見ました。


★唐比(からこ)ハス園(諫早市森山町唐比)

年々、見に来る方が多くなってきました。ハス園も、段々広がってきて、地元の方が手入れ

をして、お世話をしています。

今日は、平日にもかかわらず、意外と多くの方が・・・・高齢者の方ばかりかと思っていた

ら、若い方も結構来ていました。すごいカメラを持っている方も。腕は分かりませんが・・・・

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十三種類ほどのハスが植えてあるそうです。

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花の真ん中も、見れば不思議の世界。右は、花が散って、真ん中だけ残ったところ。あなた

も、早くしないと、散ってしまいますよ。少し凸になっているところが種になります。

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トンボさんも遊び来ていました。ここのお世話をしている、「唐比すいれんの会」のテント。メ

ロンを売っていました。試食をしたら、なかなかのお味。試食だけさせていただきました。

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なお、7月6日、10時から「唐比ハス祭り」があります。

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余計なことですが、ハスの花は大きいため、強い雨風には弱く、風雨があった次の日など

には、花が乱れていますから、特に写真を撮る方は、天気を見て、行かれた方が良いと思

います。


★上井牟田溜池のオブジェ(諫早市森山町上井牟田)

上井牟田の仲良しの方が集まって、考えて、四季折々楽しみながら、作っていいます。

時々、ご紹介していますが・・・

5月は、こどもの日で、兜だったのですが、今回は、梅雨時で、あじさい、長靴、傘。夏は何

ができるのか、楽しみです。

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★ところ天屋さん(雲仙市千々石町)

7月1日から9月30日までしか開店していません。毎年、開店の時と、閉店の時紹介してい

ます。

一週間ほど前から準備をしているようで、今日が開店日なので行って見たら、開いてなく

て、

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なんと、「都合により、今年は休業させて頂きます、誠に申し訳ございません」の貼り紙。何

か心配です。

このところ天屋さん、レトロな感じで、ところ天食べていると、時間が止まっている感じがし

て、一番お気に入りの所だったのですが、戸口が閉められていると、寂しい景色です。

仕方がないので、代わりに、二番目にお気に入りの「白くま」くんを買って来ました。

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2014年6月30日 (月)

長崎の石橋★阿弥陀橋~長崎市 ⑤ 最終回

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阿弥陀橋(あみだばし)です。

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元禄三年に園山善爾が、私費で架けたと長崎図志・港草・古今集覧・長崎略史にあるそう

です。純粋の日本人町人の寄附で、初めて架けられた橋です。

園山善爾は、生まれは和泉。長崎へ来て、唐人と商売、貿易をして、大成功したそうです。


昔、市内引き回しの死刑囚が必ず渡らなければなかった石橋で、囚人達が来世は、極楽

に生まれ変わるようにという説。昔、この附近にあった囚獄を、桜町に移したという記録が

あるそうで、処刑された人を始末するところがあったらしいと云われている説もあります。


「中島川遠眼鏡」の宮田氏によれば、「近年、罪人ひきまわしうんぬんと説く人もいるが、手

元の資料には見当たらない。」とあります。

橋の側に阿弥陀像を造ったので、極楽橋とも呼ばれたそうです。


この橋は、昭和57年の長崎大洪水後、河川改修に伴って解体され、石材を保管し、移転

されています。

Photo_3

橋の横には、八幡町阿弥陀堂(長崎四国八十八カ所霊場 第64番霊場)があります。宮田

氏の本によれば、「近年になって左岸下流側にお堂が造られまつられている。」と書いてあ

りますが(著書は52年発行)、現地に行ってみたら、下流ではなく、上流にありました。ひょ

っとしたら、洪水前は、この橋は、本来もう少し上流にあったのでは?


昔の、阿弥陀橋です。

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       (「ふるさとの思い出 写真集 長崎」から)


一応、見て回る予定が終わったので、川沿いに歩いて行ったら、草むらに、何かあったの

で、覗いて見たら、カッパさんでした。座禅をするカッパさんは、初めて見ました。

「中島川 河童洞 水神社 八天坊」と書いてありました。

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川沿いに、車を停めているガレージに戻っていると。又何か。と思ったら、上野彦馬の日本

最初の営業写真館の跡で、説明版には「この地に接する道路を隔てた北側の地に撮影局

を設置した。」とあります。私、もっと下流の方かと思っていたのですが・・・勉強不足でした。

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上野彦馬は、坂本龍馬、高杉晋作、グラバー等も、この写真局で写真を撮っています。私も

坂本龍馬の格好をして、パチリと一枚。ではなく、当時の露出時間は約十秒で、息を止めて

写してもらいましたが、現像が遅く、まだ手元には届いていません。

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今回は、皆さんがあまり回らない、石橋を紹介しましたが、中川沿いには、まだまだ、大井

手橋、編笠橋、古橋町、一覧橋、芉原(すすきはら)橋、東新橋、魚市橋、眼鏡橋、袋橋、常

磐橋等あり、一つ一つに歴史があり、面白いのですが、また、機会があったら、ご紹介しま

す。

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     (「九州の石橋をたずねて~矢口裕造著」より」)

今回は、写真を撮りながらブラブラ歩いて行ったので、2~3時間ほどかかりましたが、史

跡は、車とか、観光バスで回っても、見ただけに終わりますネ。

やはり、きちんと調べて、足で歩いて見て歩くのが、一番良いですネ。最も、私も歳なので、

車で回ることが多く、今回は反省をし、勉強させていただきました rvcar 。


参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック」

「長崎事典」各説明版より)




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