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2014年6月22日 - 2014年6月28日

2014年6月28日 (土)

長崎の石橋★桃溪橋(ももたにばし)・高麗橋~長崎市 ④

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        (「長崎事典・歴史編~長崎文献社刊」より)

忘れていました、上の写真は、昨夜紹介した、大手橋の昔の写真。明治時代の風景だそう

ですが、昨日の現代の写真と比べてみて下さい。昔の面影は全くありません。


さて、下の写真が、本日紹介する桃溪橋。大手橋、鎮西橋の下流にあります。

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横から見たところ。

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この橋については「九州の石橋をたずねて」に、「この橋は狂僧『卜意』が架けたもので、

別名『卜意橋』とも云う。人は狂僧と云うが、それ程彼を突き詰め必死にさせたものはなに

だろう。僧侶としての何か大きな誤ちがなかったろうか。ここに卜意の妄念と云おうか強い

執念を感ずるのである。」という事で、附近の人は川に挟まれ、不便であるので橋を架け

ることを決心し、浄財を求め回ったそうです。


宮本安氏「中島川遠眼鏡」では、「狂僧」に関し、橋の左手の撞巻石の中に


長崎僧卜意募    長崎僧と彫る 狂僧ではない

十万之諸檀越

建造石橋済津

功徳無量矣

   旹         旹は時

延宝柒歳次己未   柒は七

  仲冬吉旦書    仲冬は十一月


とあるそうで、長崎僧であって、狂僧ではない。と書かれてあります。

「これを長崎図志が橋銘に狂僧卜意うんぬんと書いてあるとしたのに続いて、港草も橋銘

に狂僧と書くとし、名勝図絵も橋銘に狂僧としてある。この三者ともに狂僧うんぬんと彫って

あると書いているので、現地調査をしないで本の転写をかさねていったとみるほかはな

い。」とあり、ここらあたり、ネットの情報を調べないで、転記しているのと一緒ですね。私も

よくやりますが・・・・


続いて、「若し假りに狂僧と彫ってあったとしても、本当の気ちがいにしなくてもいい。狂者

には風雅の意味もあるように辞書は書くし、むかし花月(注:長崎の有名料亭)の名物であ

った頼山陽の屏風はその末尾に『山陽狂客』と山陽自身が書いていた。」とあります。


さて、この橋は「長崎図志がすでに桃溪橋または卜意橋の名をあげ、港草も同様、古今集

覧は卜意橋と名勝図絵は桃溪橋(もものきかわはし)または卜意橋とする。西道仙は桃溪

橋と名付けたと書く。」とあります。


この橋は二つの川が合流する附近ありますが、川へ下って見ると、左の川に見えるのが桃

溪橋。この上流に、鎮西橋、大手橋があります。右手の川に、次に紹介する高麗橋、阿弥

陀橋があります。回れ右をすると、眼鏡橋方向の石橋群。


右と左、手入れが違いますね。一の瀬橋、古橋(中川橋)、大手橋も歴史的に重要な橋な

のですから、少しは目をむけて欲しいものです。

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明治後期の写真です。この川沿いの橋は、何回か洪水に見舞われ、壊れますが、この橋

は壊れたことがないそうですが、寛政七年の大洪水で少し破損したことが港草の記事に見

えるそうです。


なお、山口氏によれば、下流側の勾欄は昔のままで、上流側の勾欄は何回も修理した跡

があるそうです(昭和五十年現在)。延宝七年(1679)に完成。


写真は明治後期の桃溪橋。

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          (「長崎事典・歴史編~長崎事典」より

 


高麗橋

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横から見たところと、川沿の手すり、コンクリー製みたいですから、新しいものでしょうが、な

かなか風情があります。

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承応元年(1652)に架設。宮田氏によれば、図志、志稿、名勝図絵に明人平江府等建と、

記事がなっているそうで、平江府が架けたように感じますが、「平江府」は中国の蘇州であ

るらしく、興福寺の檀徒である蘇州府の人達の寄附で造られたものとも考えられるそうで

す。


宮本氏によれば、「異説としては、市中明細帳の伊勢の神主が惣町勧化(長崎の全部の町

の寄附)もって架けたとか、長崎市史の陸手(くがて)二十八町の乙名(世襲の町内会長)

の寄附で架けたとかの説がある。」また、古賀十二郞の長崎名勝古蹟誌には、石欄に「承

応元年十一月二十一日、嶋千太夫、嶋讃岐 が寄進奉る」と書いてあったそうですが、現

在では残っていないそうです。


慶応二年四月(1866)麹屋町の池島正助が私費で架け替え、大正四年に(1915)斜め

にコンクリーで橋面を増設したそうです。


なお、昭和五十七年の長崎大水害で被害は免れたそうですが、河川改修工事に伴い、平

成五年に西山ダム下に移築復元されているそうです。


長崎くんちの時、傘鉾が高麗橋を渡っているところ。撮影は上野彦馬だそうです。この近く

に、上野彦馬の撮影局と居住地跡があります。


青の矢印が笠鉾。赤の矢印が、橋の擬宝珠ですが、擬宝珠は、大事な橋にしか使わなか

ったと言うことで、眼鏡橋、袋町橋、大手橋、高麗橋だけにしかなかったそうです。


写真手前に写っている造作物は、何なのか、よく分かりません。木橋のような感じもするの

ですが・・・・


阿弥陀橋にも擬宝珠はありますが、これは後で付けたものみたいな感じがします。高麗橋

の方も、作り替えていますから、こちらの方も・・・・・

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      (「ふるさとの思い出 写真集 長崎」より)


参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック」

「長崎事典」各説明版より)



2014年6月27日 (金)

長崎の石橋★大手橋~長崎市 ③

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(「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック~総監修 越中哲也・原田博二・(財)長崎地

 域政策研修所・長崎商工会議所刊」より)  


長崎市内に住んでない方には、なかなか分かりにくいと思いますが、丁度良い本があった

ので・・・・表紙裏の「長崎版画『享和二年肥州長崎図』(1802)」の地図の一部です。


青色の線が長崎街道。下の赤丸印より、「一の瀬橋」。真ん中の赤丸印が「古橋(中川

橋)、一番上が今日ご紹介する「大手橋」になります。


こうして見ると、長崎市内までの出入りには、3つの橋が、重要な役割を持っていることが

分かります。


今日は、黒の矢印間、新大工町商店街を紹介しながら、大手橋まで。


赤の矢印が「眼鏡橋」です。多分。この辺りの橋は皆さん、観光に行かれると思いますの

で、あと、黒丸印の上から「桃渓(ももたに)橋」「高麗橋」「阿弥陀橋」。こちらまでは足を伸

ばさないと思いますので、次回に紹介します。


さて、大手橋に向かう新大工町商店街。何年かぶりに行ったら、そのままの所、変わったと

ころいろいろありまして・・・・・・ここは、以外と賑わいがある所で、もちろん長崎街道です。

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こちらは、一階がいろんな店が入っている、新大工町市場で、二階から上は、デパートの

玉屋でしたが、一階はいつも、買い物客が多いのですが、デパートはお客さんが少なく、

先日、閉店しました。

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あと、近くに、二つほど市場があります。

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左が、昔は長崎で一番大きかった本屋「好文堂」の支店があったところ。病院に変わってい

ました。建物の形は変わっていないので、内部だけ改装したのかな?

右は、「トルコライス」で有名な「ツル茶ん(つるちゃん)」の支店があったところ。

「ツル茶ん」については、「トルコライス マニアックス」をご覧下さい。

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お菓子屋さんのウィンドーに「長崎街道への入り口」として、「舞鶴座」の説明が。

なんと、右の写真あたりになるそうですが、明治23年、開設された劇場だそうで、横の旧玉

屋デパートから、表通りの電気軌道を越えるほどの大きさで、敷地約1700坪、建坪600

坪、総檜造り、吊り天井、せり上げがあり、収容人数3,800名(当時の歌舞伎座が、建坪

457坪、収容人数約2,000名)。長崎にも凄い劇場もあったんですね。

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お酢屋さんです。お酢を造っています。左ののれんは、パチンコ景品交換所。

覗いたら、懐かしい電話機がありました。もっと古いのは、右の方にハンドルがあって、交

換手さんを呼び出していましたが・・・・

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もう少し行くと、大手橋です。もはや、石橋の面影もありません。

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横から見て、やっとアーチ橋だということが、分かります。むこうに見えるのは、鎮西橋。


この橋は、長崎への出入り口として、重要な橋なのですが、手すりにしても、もっと情緒が

あるようにできなかったのでしょうか?


親柱が、近くにあるというので、捜しましたが、分かりませんでした。「おふて橋」と刻んであ

るそうです。


宮田氏の「中島川遠眼鏡」によれば、この大手橋の擬宝珠親柱一本を眼鏡橋に補充活用

したという事が、長崎談叢第二十三輯に載っているそうです。なお、橋は、中島川支流の堂

門川(西山川)にかかっていたので、堂門橋と呼ばれていたそうです。


昔は、石橋でなく、壮麗な木廊橋が架かっていたそうですが、痛んで、竹橋になっていたそ

うです。これを、唐通事の高一覧が石橋として、慶安三年、完成させたそうです。


高一覧は、、山口氏によれば、生まれは薩州、父は「鎌田新右衛門」。幼い頃中国人の養

子となり、養父の福建省に渡り、後日本に戻り、通事になったとあり、宮田氏によれば、高

一覧は福建漳府の人、高寿覚の子で、高寿覚は鹿児島に渡来し、一覧は鹿児島県の川

内で生まれたとなっています。唐通事は不便なので、各々日本名を持っていたそうで、どう

なんでしょう?


なお、「大手」については、宮田氏は、長崎から江戸に向かう街道の重要地点なので、長崎

の大手に当たるという意味と思われる。とあり、山口氏によれば、この辺りは、「諏訪神社」

長崎の領主「長崎甚左衛門」の屋敷を始め、昔の古い町が片渕や中川付近にあったので、

その入り口には大手門があったのであろう、と書かれています。


なお、大手橋に平行するように「鎮西橋」があり、昭和9年の築造。電車軌道が走って、長

崎市内から郊外に行く大動脈の一つです。電車の停留所がある所が橋です。

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横から見ると、アーチ橋という事が分かります。

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参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック」

各説明版より」)








2014年6月26日 (木)

長崎の石橋★古橋(中川橋)~長崎市 ②

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昨日の続きですが、道が分からず、電車の停留所近くのファミマ近くから、直角に、横道に

入ったら、正面に「長崎街道」の看板で、「食違」の説明版。


「・・・・・・この辺りで突き当たりになって、ほぼ直角に道が曲がって、この下の道へと通じて

いました。以前はこのような道の形態から『食違』と呼ばれ、享和2年(1802)の古地図《肥

前長崎図》にも『クイチガイ』と記載されています。」と書いてあり、なるほど、右側は突き当

たり、左にしか道はありません。

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とくかく、道を行ったら、「遠山左衛門尉景普」の説明版。文化9年に第84代の長崎奉行。

遠山の金さん、遠山金四郎の父親です。ここら辺りに住んでいたのでしょうか?

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また、歩いていると、地図と案内図を持った2人連れがウロウロしているので、ここが、古橋

(中川橋)ということが、すぐ分かりました。この橋は、鳴滝川に架かっています。


市の看板の英語の説明には、「Nakagawa Bridge」となっていますが、宮田安氏の「中島川

遠眼鏡」には「中川橋(古橋)」となっており、読み方は「なかごばし」で、「図志は中渓橋、港

草は中河橋、古今集覧は中渓(なかがわ)橋、名勝図絵は中川橋(なかがうはし)、長崎史

略は中川(なかご)橋と呼んでいる。」とあります。

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なお、大正7年に、この橋の30m下流に新しい橋ができたため、新しい橋を中川橋と命名

し、こちらの橋が「古橋」と呼ばれるようになったそうです。ですからこちらの方が、正式な中

川橋なのでしょうが。

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この橋は、1mばかり、かさ上げをしてあるそうで、親柱などそのままに埋め込んでありま

す。矢印は親柱。一番上の写真をみると、かさ上げされているのが分かると思います。

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この橋を作ったのは、「林守壂(りんしゅでん)」。

昨日書いた「一の瀬橋」を架けたのが、「陳道隆」。次に書く「大門橋」を架けたのが、「高一

覧」。あと、この橋ができれば、長崎市内まで、川を渡ることなく、不自由しないで、出入りす

ることができます。


「林守壂(りんしゅでん)」は、陳道隆と同じ唐通事で、道隆が妻を亡くした翌年に「一の瀬

橋」を架け、守壂は母を亡くした翌年に「古橋(中川橋)」を架けています。ライバル同士の

意識と、亡き人への追善供養の気持ちもあったのではないかと、宮田安氏の「中島川遠眼

鏡」には書かれています。承応3年(1654)に完成。


さて、また歩いて行くと、

右へ曲がると、シーボルト邸跡、シーボルト記念館があります。ここら辺り、見るところが沢

山あるんですが、今日のところは、パス。

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桜馬場中学校、古くからこの地方を支配した、「長崎甚左衛門純景居館跡」。甚左衛門が

去った後、森田彦右衛門が長崎村の初代庄屋となります。

もと、長崎県尋常師範学校。もちろん、庄屋の跡地です。

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「長崎四国八十八ヶ所霊場 85番桜馬場観音。綺麗にしてますね。

関係無いけど、可愛い置物だったので・・・・

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桜馬場天満神社の二の鳥居。隣のビルとの関係が微妙。

天満宮は菅原道真公が祀ってあり、牛との伝承が多く伝わっているらしく、道真公が牛を可

愛がり、牛が天満宮をお守りしているとか。


頭部を撫でれば、知恵がつくという信仰があると、書いてあったので、もちろん、撫でて来ま

した。悪知恵がつかなければ良いのですが・・・・暑い日だったので、「牛も冷やしてやらに

ゃ」という事で、水かけの最中でした。

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どんどん歩いて行くと、やっと新大工町の商店街。数年ぶりだったので、あちらこちらブラブ

ラと、ここを抜けると、いよいよ長崎の入り口、大手門橋になります。

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参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、各説明版より」)






2014年6月25日 (水)

長崎の石橋★一の瀬橋~長崎市 ① 

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先日、「石橋をつくるの図」を書きましたが、これを書くについては、何冊かの本を読んでみ

ましたが、読んでみると、なかなか面白く、橋の一つ一つにも物語あると思いました。

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私、生まれも育ちも(19歳まで)長崎市内だったのですが、もう少し勉強しようと、長崎街道

にある石橋を歩いてみました。


観光客の方は、ほとんど眼鏡橋付近の石橋群を見るだけなので、観光客のあまり行かな

い、橋を紹介したいと思います。


「中川遠眼鏡」の著者、宮田安氏は、石橋の歴史に関し下記のように書いています。


長崎のアーチ石橋の歴史を簡単に述べると次の三つのパターンに分けられる

一 中国人の寄附で架けられはじめた。

二 日本人の寄附がつづいた。

三 洪水で落ちた時は公費によって掛け替えられた。


なお、「九州の石橋をたずねて」の、山口祐造氏は、熊本の古文書より、「この古文書で分

かったように、アーチの技術を初めて習得したのは『末次一族』であり、彼は一家の秘伝と

して誰にも教えなかった。

と書いておられ、御両人、他にも色々書かれておりますが、これを書くと長くなるので、省略

して・・・・・・長崎に入るときは、普通長崎街道を使いますが、日見峠を通ります。

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(「長崎古今集覧名勝図絵 越中哲也注解」より)

急坂を登って、下ると、一の瀬川に行く手をさえぎられます。


話が少し変わりますが、大正13年、この峠に日見トンネルができ、長崎への自動車の乗り

入れが楽になります。

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左の写真は、「故郷の思い出写真集 長崎~越中哲也・白石和夫共編」より、おかげで、今

は右の写真のように、交通量が多くなりました。ただ、日見トンネルは、別にバイパスができ

たため、あまり使われなくなりました。


さて、私、この道が長崎街道と思っていたら、大違い。右の写真の、右手の裏の方が長崎

街道でした。


さて、話を元に戻して、一の瀬川に橋が架けられますが、これは、「九州の石橋をたずね

て」によれば、橋を架けたのは、中国出身で唐通事の「陳道隆」、別名「穎川藤左衛門」。


同唐通事仲間の、高一覧が「大手橋(後で説明します)」を架け、住民も喜んでいるのを見

て、自分も橋を架けようとという事で、みんなが難儀しているのを救うため、この橋を架けた

そうです。承応2年(1653)に架けられています。


なお、ここ一体は、昔は蛍の名所で、料亭があり、蛍茶屋と呼ばれています。

場所が、最初はわからず・・・・電車の終点、蛍茶屋の車庫の裏側でした。

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市指定で、重要な橋なのに、こんな感じで良いんですかね?

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欄干です。四角の所。ローマ字が刻んであります。「ICHINOSEBASHI」。これは、明治20年

頃刻まれたものだそうです。

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近くに、「蛍茶屋」という標柱があるという事で捜したのですが、分かりませんでした、代わり

に昔の写真など・・・向かって右が料亭「蛍茶屋」だそうです。


欄干について、宮田氏は、「コンクリートで根巻工事が施されて景観を損じているが、崩落

の記録はなく、旧態を残していて、貴重なものである。」と書いておられます。

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      (「長崎県事典 歴史編~長崎文献社編」より)

さて、ここから次の中川橋(古橋)まで、どう行くのか、道が分からず、とりあえず大通りに出

て、ファミマの所から、裏通りに入る道があったので、行ってみたら、ビンゴでした。

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なお、この橋は、勝海舟、坂本龍馬、また、蘭学を志した者等が渡った橋です。


(参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、各説明版より」)

2014年6月24日 (火)

トルコで私も考えた:高橋由佳里著~割礼について 其の二

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皮なしポークウインナー。食べてみると、なにか、ぼそっとして、あのプリッとした、皮の歯ご

たえがありません。


今日は、皮といっても、「オチンチン」の皮の話です。真面目な話なので、「オ○○○ン」など

と書きません、堂々と、「オチンチン」。


さて、「割礼」といっても、知らない方もおられると思いますが、「(ユダヤ教で)男子の陰茎

の包皮を切り取る儀式」(新明解 国語辞典より)。と書いてありますが、ユダヤ教に限らず

イスラム教、又、成人の通過儀式、衛生上の問題から、各地でおこなわれています。


大きく考えれば、包茎手術の一種になりますが「包茎手術」は個人の意思によりますが、こ

の「割礼」は、そこに住んでいる集団、関係団体の規律、儀式によるもので、強制的な面が

あります。


女性に対する割礼もありますが、これは、健康上の問題、残酷だということで、毎年2月6

日が「世界女性器切除根絶の日」ということで、国連が後援する国際デーの一つです。


「トルコで私も考えた」の作者は、トルコ人が夫で、トルコに在住し、息子がおりますから、当

然の事、子どもは「割礼」、トルコでは「スンネット」を受けることになります(以下「スンネット」

で書きます)。


作者は、後書きで、「この巻の山場は『スンネット(割礼)』だとよく言われています。私も書き

ながらとても力が入りました。漫画で割礼の儀式を描くのは、おそらく日本で自分が初めて

だろうと思う(本当でしょうか?)ドキドキして気分が高揚しました。」と書いています。

が、漫画の方は明るく

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この漫画には、「割礼とは、男の子が小さいうちに、ペニスの先(包皮)を切って、将来病気

になるのを予防するためのイスラム教の習慣で、だいたい生後から12歳ぐらいまでの間に

しなくてはいけないらしい」とあります。


今では、病院でやっているみたいですが、旦那さんによれば、「オレの頃はスンネット屋が

カバン一つで家にやってきて、麻酔もなく3人兄弟まとめて、ちょんちょーんと・・・」という事

らしかったです。


義理の姉(トルコ人)によれば、息子がスンネットをするとき、一月がかりでお祝いをしたそう

で、要約すれば、


①息子たちにスネットの衣装を(上の漫画の絵)着せて親戚の家を一軒づつ訪問。

②後日、親族一同、車を連ねてチャーミ(寺院)詣で。

③帰りに写真館で記念写真。

④後日、結婚式と同じ会場にて、お祝いパーティ。

⑤後日、病院にて手術

⑥術後一週間、スンネット用に飾り付けたベッドで養生。


ということで、息子さんも無事、スンネットが終了したそうで、「どういうことをしたのかを、日

本の家族の人たちに見てもらうために」ビデオまで撮ったそうです。


作者の息子さんは、スンネットをするのを、すんなり受け入れ、親戚一同集まって、ハデな

パーティーをおこなって、手術をしたそうですが、麻酔が切れてから、3日ばかり苦しんだ

そうです。


なお、包茎手術は、性感染症、エイズに対して、感染率が少ないという話もあります。

また、遅漏になるとか、あそこが大きくなるという話もあるようですが、経験者の女性によれ

ば、関係ないそうです。

あなたも、試しにやってみますか?ジッパーに皮を挟んだだけで、あんなに痛いのに・・・


なお、中国の宦官は、棒も玉も全部取ってしまいますが、この様子は、浅田次郎の「蒼穹の

昴」に書いてあります。もちろん、昔ですから、病院などはなく、麻酔薬代わりにアヘンを使

ってたそうで、命を亡くした人も少なくなかったそうです。


「割礼」については、ネットで画像がでていますが、見ない方が良いですね。具合悪くなりま

した。日本に生まれて良かった、というのが実感です。    (この項終了)


【おまけ】

どういうわけか、庭にコスモスの花が一輪。私と一緒で、少しボケたのかな?

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 (参考・文引用:「トルコで私も考えた」、ウィキペディア等より)





2014年6月23日 (月)

トルコで私も考えた:高橋由佳里著~トルコライスについて 其の一

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この本、買う予定ではなかったのですが、裏を見ると、

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赤の下線。「トルコライスはトルコにはない!?」。トルコライスは、ちゃんぽん、皿うどんと

並ぶ長崎の名物料理。ピラフにトンカツとスパゲティを、一皿に盛ったもの。これが、基本形

で、あとは店によってバリエーションがあります。


本は、ピニールで包まれていて、これでは長崎県人としては、買わないわけにもいかず。

「トルコライスはトルコにはない!?」。これは、既に知られていることですが、一時、新聞に

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この記事が載って、長崎としては、多少パニックになりましたが、「心づくし」さんのブログ

正しい休日の過ごし方」。その中で、紹介されている、ブログの「やまけんの出張食い倒

れ日記」を読むと、新聞が騒ぐほどの事もなく、新聞の一人相撲というとことで・・・


なお、心づくしさんのブログの「トルコライスの名の由来」に「長崎町人誌に」には、次のよう

に書いてあるそうで、私も確認をしましたが


昭和20年代の後半に、長崎万屋町角にあったレストラン・マルゼンのコック長が創製者と 

いう」とあり「スパゲッティ、炒飯、サラダの上にシシカバブが乗せてあったがその後、トンカ

ツがシシカバブに代って作られている」とあり、シシカバブはトルコ料理のひとつですから、

これは納得。さすが「心づくし」さん。


「トルコで私もかんがえた」には、

「私に考えられるのは、トルコの『シシケバブ・プレート』に似ているので、昔、長崎出身の人

がトルコに行って見たか食べたかしたシシケバ・ブレートが脳裏に焼けついて、それを身近

な料理で真似てみた説。または、東西ごちゃまぜのイメージから深く考えずに『トルコ』とつ

けた説」と書いてあります。


さて、「心ずくしさん」のブログに「T.斎藤さんの『土耳古めし』の記事」とあるので、調べてみ

たら、「知識の金曜日 福沢諭吉のトルコライス」ということで載っており、


「福澤諭吉が創刊した新聞「時事新報」に、『何にしようね』という料理コーナーが連載され

ていた。そこに、土耳古プレートの元になった『土耳古めし』のレシピが掲載されていたとい

う。日付は明治26年10月21日。」

土耳古めし
先づ鶏か牛肉にてソップを取り置き此ソップにあっさり鹽味(しほあぢ)を附け之を水に代用して飯を焚く可し、飯の焚ける前、別に鍋を掛け置きてバタをぢりぢりと底一面に煎り散らし、焚けると直ぐに飯を其中に入れて充分に掻廻はしバタのまんべんなく廻りたるを見て之を御鉢に移す可しバタ餘り多ければしつこき故其所らが手加減の肝要なる所なり少し鹽味を含む上に其味ひ云ふばかりなければ別におカヅが入らぬ程にて香の物か前號鳥めしに用ひしかけつゆ位にて事足るべし

 
(「知識の金曜日 福沢諭吉のトルコライス」より転記)


今で言う、ピラフの事だと思いますが・・・・・このブログの中に「また、明治時代の小説『食道

楽』(村井弦斎)にも土耳古めしの記述があるという。」ということで調べてみたら、ネットの

青空文庫にありました。「秋の部」の個所。


「第 二四八 ぺラオ飯」の所。「イイエ、パンは出しません。その代わり第五番目に手軽な

土耳古(とるこ)飯即ちペラオというお料理を出しましょう。それは米を二合先ずバターでよく

いためて、いまのプリスケを湯煮た汁がありますからその汁三合へ塩で味をつけて今のお

米と人参や玉葱の小さく刻んだのと一緒に入れてご飯のように炊きます。別に例の通りバ

ターでメリケン粉をいためてよく焦がして湯を少し注しますが万年スープならなお上等です。

それへ塩胡椒で味をつけてソースにして今のご飯へかけて食べますとなかなかけっこうで

す・・・・・・・」とあり、なお、「付録」の「西洋料理の部」にも


「第一 ペラオ飯」として

「第一 ペラオ飯 と申すは土耳古風の極くお手軽なお料理で我邦の上中流社会にもこの

頃大層流行します・・・・・・」

「第十 土耳古飯(とるこめし)」として、

「第十 土耳古飯 と申す料理には色々ありますがその手軽なものは前の通りにお米一合

をバターで入り付けた中へ牛肉四十目位を肉挽器械で挽くかあるは包丁で細かく叩いて加

えまして肉の色が変わるまで掻き混ぜながらよくいためます。それを深い鍋へ移してスープ

三合をさして塩胡椒で味をつけて煮ます。これには赤茄子ソースをかけると結構です。」と

書いてあり、現代のピラフとほぼ一緒の作り方です。


「我邦の上中流社会にもこの頃大層流行します・・・・・・」と書いてあることから推察すると、

「土耳古飯」というのは、かなり、知られた名前みたいですが、福沢諭吉の方は明治二六

年。「食道楽」は、初出が「報知新聞」で、明治三六年一月~十二月です。


トルコライスは、「土耳古飯」に誰かが、トンカツとスパゲティなどを加えて「トルコライス」と

言ったんではないでしょうか?しかし、他の所にも、少しあるみたいですが、「トルコライス」

のメニューが長崎だけ、なぜ多いのでしょう?


私は、あくまで以前書いた、「ソープランド」説をとりたいのですが・・・・こちらの方が、人間

の生活感があり、夢があるから。


ところで、新聞では、イスラム圏のトルコでは豚肉は食べない、と書いてありますが、なぜな

のか?ヒンドゥー教では、牛を聖なる動物みなし、食用にしませんが、イスラム教では、豚

を神聖な動物と聞いたこともなく、と思っていたら、この本に下のように書いてありました。


「イスラムでは豚は雑食で、他の動物の動物の肉やウンコまで食べるから、体内に細菌が

いて、それが人の健康に良くないと教えられているのだよ。だから豚は食べない。」

他に「コーラン」の教義とも関係があるようですが・・・・


余談ですが、NHKの「ごちそうさん」の、「脚本家×プロデューサースペシャル対談」で、岡

本幸江チーフ・プロデューサーはこう述べています。


「注目というか、他のキャストとは違う発想から生まれたキャラクターはいますね。一人は

『食道楽』の作者・村井弦斎さんにオマージをささげて誕生した、山中宗さんが演じる井村

幸斎。・・・・・・」


さて、この「トルコで私も考えた」、作者も後書きで言うように、山場は「オチンチン」に関する

ことです。


次回は「オチンチン」の話。お楽しみに、といっても、あなたや、あなたの御主人の、むくつけ

き「オチンチン」の事ではありませんから、御心配なく。


(参考・文引用:「トルコで私も考えた~高橋由佳里」「食道楽 秋の部~村井弦斎」「長崎町

人誌 第四巻 食の部Ⅱ~長崎文献社」。ブログ「正しい休日の過ごし方」「知識の金曜日」

「やまけんの出張食い倒れ日記」)





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