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2014年6月8日 - 2014年6月14日

2014年6月14日 (土)

センゴク一統記 第8巻~宮下英樹著

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やっと8巻目が出ました。


日本史を高校の時、一所懸命勉強された方は、結果は分かっていると思いますが、私、当

時は全然興味がなく、特に年号を覚えるのが不得意で、覚えているのは、昭和33年4月1

日、売春防止法の完全施された日、のみです。


さて、今になって、歴史を勉強していくのは、面白いもので、読み続けているのですが・・・

(歳で、字は読みにくいので、漫画を捜して読んでいます)。


今回は、信長亡き後、後継者をどうするか、領土、いわゆる国分けをどうするかの問題で

す。柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀、羽柴秀吉の家老により、話し合いが始まります。


この会議は清洲(清須)会議と呼ばれ、清州会議については、映画化された、三谷幸谷著

の「清須会議」の事を以前取り上げました。


三谷氏の本では、後継ぎを、次男の織田信雄にするか、三男の織田信孝にするかが主題

になり、結局は、嫡男の、まだ幼児の三法師が後継ぎとなり、三男の織田信孝が後見人に

なりますが、この「センゴク一統記」では、すんなりと、決まってしまします。資料の読み方、

考え方の違いでしょう・・・・


さて、あとは、国分けですが、駆け引きもありながら、意外と、順調に決まってしまいます。

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我が主人公の仙石権兵衛は、淡路を平定したものの、まだ、宛行状(あてがいじょう:主君

から家来に,知行の割り当てを示し、その権利を保障した文書。要するに、この領土を与え

る、ということを保証した文書)が、主君の秀吉から来ていません。正式には、淡路はまだ

権兵衛の領地ではないというです。


権兵衛は

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淡路にいますが、長宋我部が動き出します。その兵、二万三千。秀吉から黒田官兵衛が権

兵衛の所へ派遣され、淡路衆と共に四国に渡ることに。


最後に、気になる人物の登場です。長宗我部弥三郎、後の長宗我部元親です。さて、この

人物が何を考え、どう行動するのか?


本編には、TVドラマ「黒田官兵衛」に出てくる、毛利家の僧、恵瓊も登場します。あと、いろ

いろあるのですが、本を買ってお読みください。


【耳より情報】

千々石の商店街を通っていたら、ウォーキングの看板が。多分、旧鉄道跡のウォーキング

かなと思って、追いかけて見ましたが、終わった後でした。


小浜に来たついでに、久しぶりに、シェ・ダムールさんへ寄ったら、父の日用のクッキーが置

いてあり、どうせ、誰もくれないから、自分で買って、あちらこちら見ていたら、「切れはし」と

いうのが置いてあり、ケーキの切れはしが沢山入っていて、200円。お得ですよ。特に、子

供のおやつには、良いですね。もちろん生クリームです。

綺麗なケーキの方が良い?お腹に入って、ウンチになれば、一緒の事ですヨ cake


クッキーの方は、塩とカレー風味の、今までにはない味のクッキーでした。ビールにピッタ

リ。是非お父さんのプレゼントに。

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2014年6月13日 (金)

日本の棚田百選(清水棚田)~長崎県雲仙市千々石町岳地区

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昨年も書きましたが、岳地区は雲仙の麓にあり、上の方は下よりかなり涼しく、また、水が

良いので、良い米が取れます。ウチの米もここから買っています。


毎年、他の地区より田植えが早く、もう終わっているかなと思いながらも出かけて見ました。

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入口の所。右に雲仙に登る道路があります。この看板から左に行くと、岳地区になります。

岳地区の上の方から、雲仙に登る道路と合流します。


「日本棚田百選の地」「清流と石積みの里」のフレーズ。なお、この道を、どんどん上がって

いくと、ヤマメの里に行きます。


予想どうり、田植えは終わっていていましたが、「石積みの里」というだけあって、見事な石

積み。機械がない時代、石の一つ一つを手で積み上げた石垣。

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苗は大きく育ち始めて、左は岳地区の苗、右は、他の地区で今日植えた苗。

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途中、看板が2枚ほどあって、岳地区では、米作りのアイディアを出していますが、岳棚田

のオーナー制をとっているようで、オーナーの名前が書いてありました。

なお、長崎の調理師学校K学園と連携で、米で作った食品の開発もしているところです。


この地区は、千々石第二小学校が校区ですが、2011年といえば、東北地方太平洋沖地

震が起こったときですから、その時、石巻小学校に、義援米を送ったときの記念の看板でし

ょう。

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なお、雲仙に登る道の途中、展望台が作ってあります。

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手前の方の木がなかったら、もう少し広々見えるのですが、残念。

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途中崖下に、ヤマボウシが咲いていました。家のヤマボウシは散ってしまいましたが、ここ

あたりは、涼しいのでまだ咲いているのでしょう。ヤマボウシはやはり、上から見るもんです

ね。

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帰りがけ、田んぼを見たら、近くの小学校の体験学習でしょう、田植えをしていました。一番

上の写真です。

この地区も、後継ぎが、だんだん少なくなっていますが、この子たちが、あとを継いでくれる

と良いんですが・・・・





2014年6月12日 (木)

病院にて★今津神社~大村市

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あと、122日で長崎で国体が始まります。


きょうは、半年に一回の某総合病院に診察へ。9時40分ぐらいに行って、血液検査。結果が

出るまで一時間程度。これはどこの病院に行っても同じこと。


そのあと、お医者さんの検診。はやり、夏が暑く、ゴロゴロしていたのが原因か、肝臓の値

が上がっていて、半年後の検査によっては、外から針を刺し、細胞をとるとか。少し前、前

立腺に針を打ったばかりなのに・・・・・あと、半年は節制、節制。


あと、支払い。清算が終わった人の番号がでてきますが、なにか、高校の合格発表を見る

ようで、まだかまだか、ドキドキ。支払いは、自動支払機。慣れないと、多少面倒で、患者さ

んは高齢者の方が多く、ウロウロ。もちろんアシストの方がいて、困っていると、お手伝いし

てくれますが。

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ちょうど昼なので、いつもの、展望がいいレストランで、食べようと思ったのですが、たまに

は目先をかえて、一階のパンを焼いて、その場で食べられる、カフェエなんとかへ。左の所

へ焼きたてのパンがでてきますから、チョイスして、右のカウンターで支払いと、お飲物を。

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ピザパイ、どっこい薩摩、有機野菜のジュース。どっこい薩摩には、お芋さんが一杯。ゴマも

入っていて、おいしかったですよ。野菜繊維も取れるし。

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普通、大きな病院には売店があるのですが、なんと、ファミリーマートです。郵便局まであっ

て、使う予定があったので、80円切手を10枚ばかり。800円出したら、「820円ですよ。」

「え?」「消費税の関係です。」

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銀行のATM、これは、普通になりました。以前、2万円ばかり出そうと思ったら、200万円

出てきました。私の金額の押し間違いでした。(もちろん冗談)。あと、マッサージルームまで

あるんですね。ソー○○○ドはありませんでした。

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さて、まっすぐ帰っても面白くないので、どこか、ないかと思ったら、竹松駅の近くに神社が

あるとか。駅の近所で、「竹松神社はどこですか」ときくと、「はあ?」。竹松駅の近くだから

「竹松神社」と思ったら、「今津神社」でした。


鳥居が二つありますが、一の鳥居は新しく、奥の二の鳥居が昔のものでしょう。字は彫って

ありましたが、風化して読めません。二段継ぎですが、下の方は、後年、作りなおしたみた

いな感じ。

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私が見たかったのは、この石。「黒山権現腰掛石」と標柱、説明板が建ててあります。

天正二年、諫早の西郷純堯(すみたか)の先手として、大渡野弥三郎が萱瀬村に攻め入っ

た時に、手傷を負い今津海岸の黒山権現まで逃れ、石に腰を下ろして休息、さらに五十メ

ートルばかり下って、石に腰をおろして休息しているところを、百姓某が竹槍を突き出し、討

ち取ったという事で。これがその石だと云われています。

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話は、これだけに終わらず、すぐに今津村の集落に赤痢が流行り、集落は全滅の危機に

落ち入ったそうですが、長老の「百姓万五郎」に神のお告げが有り、「思い知ったか!我を

殺した祟りであるぞ、この疫病を鎮めたくば、我に詫び、神として祀るべし」とのお告げ。


村の者が供養をし、社を建て手厚く祀ったところ、赤痢も収まり、平和な村に戻ったそうで

す。これが、今津神社の起源だそうです。


この後、黒山の地名をとって黒山様として、疫病の神として近郷、近在から、たくさんの参拝

者が参りに来たそうです。


諫早史には、大村記として、同様な話が書かれてありますが、こちらは「尾和谷彌三郎」に

なっています。


母親がこの話を聞いて憤り、「直ちに萱瀬村に至り、禿小七(大渡野弥三郎を殺した百姓)

の近所に逗留して、境の尾の合戦など物語る。折しも小七其の席にあり、その時の模様を

委しく物語り、やがて其の折彌三郎を討ち取りたるものは自分なりし事まで告ぐ、彌三郎の

母一々之を聞き届け、其後小七に毒饅頭を食せて之を殺し、その身は尾和谷に歸けり。」 

とあります。名前、地名少しずつ違っているようですが・・・「尾和谷に歸けり。」と書いてある

のを見ると、「尾和谷彌三郎」が本当のような気もするのですが・・・・


神社の奥の方に、古びた標注があり、昔はこちらにあったような感じです。

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神社改修の寄進者の名を記銘した碑がありますが、地元のみならず、佐世保、長與村(長

与)、日見村、長崎市の名前まで刻んでありました。意外と遠くから信心をしに来たことが分

かります。


普通の神社に見えますが、調べるといろいろあるんですネ。

なお、この神社は明治23年神社改革(ママ)で祭神を、大渡野弥三郎、大山祇大神、少彦

名大神、大巳忌大神を合祀され、今津神社と改称。昭和34年海上自衛隊大村航空隊買収

になり、現在地に遷宮されたそうです。


なお、この腰掛石は、旧今津神社より山手に百メートル付近と、この石より八十メートル付

近にあったそうです。


さて、帰りがけ、高速をとおりパーキングに入ったら、売店はコンビニになっており、制服が

サッカームードになっておりました。クマモンが可愛かったので、買って来ましたが、なかな

かのお味でした。一緒に買った、「忍者めし」。ナンデショウ。まだ食べていません。

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長崎県立総合運動公園、通り通りかかったら、上のカウントダウンの表示がしてありまし

た。追い込みですね。

(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早市史第一巻」 説明版 より)



 




2014年6月11日 (水)

隠し十字入地蔵・即非筆の書「高岳山」及び同扁額~島原市青雲寺

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お地蔵さんが、潜伏キリシタンの信仰の対象として、細工をされ、作られるのは、あちらこち

らで、見聞される所です。私の家の近くにも、三体ばかり「キリシタン地蔵」といわれるもの

があります。


島原の青雲寺にも、あるということで、用事のついでに、寄ってみました。山門を入っても、

標柱と説明版はあるのですが、場所が良く分からず、右側を見たら、祠があり、その横にあ

りました。ガラスのケースに入れてありました。

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この地蔵さんの後ろ側、十字紋がはっきりと刻まれています。

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地蔵さんの前面は石がもろいせいか、かなり崩れていた感じです。説明版です。

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ここは、寺の土地の中でもあり、地蔵さんが、最初からここにあったのか、他から移設してき

たのか、書いてありません。どうだったのでしょう。


この寺にはもう一つ、明(中国)の即非の書と扁額があります。説明版を見ていただいた方

が早いので。

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山門の扁額と、書です

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      (「島原市の文化財」~島原市教育委員会刊より)

さて、この寺の参道には、ずらっと石仏が並んでいて、圧巻でした。

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青雲寺は曹洞宗で、禅宗のお寺です。


なお、青雲寺は、加藤清正臣下の庄林隼人が叔父、青雲真高居士の菩提を弔うため慶長

6年(1601)に肥後熊本に建立したそうです。


開山は一峰玄鉄和尚。庄林家が政変により没落。縁あって、島原に移転。当初は杉谷杉

山寺跡にあったそうですが、松倉重政から現在地に土地を賜り、玄鉄和尚自ら山野を開墾

し、青雲寺を再興したそうです。堂宇の完成は寛永5年(1628)。(広報しまばら平成25年

3月号~「ふるさと発見」より)




2014年6月10日 (火)

「季節を知らせる花」~白井明大・著 沙羅・絵

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本屋さんで、ふと気になって、手に取った本。


以前、印刷会社に勤務し、作者、編集者、装丁者等の方と打ち合わせをし、本作りをしたせ

いか、本を手に取ると、本を作った方々の思いが、強く感じられる本があります。この本もそ

の一冊です。


「春となりのふきのとう」「余寒の梅」「春宵の沈丁花」「葉守の馬酔草」「椿の言祝ぎ」「桃に

乙女」等々、五十種類の草花が取り上げられています。それぞれに、

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花の絵、詩、短歌、俳句が紹介され、花にまつわる話、植物学的な話等が、分かりやすく書

かれ、花の本性が明らかにされます。


「なかにはレンゲツツジといって、致死性の毒を持つつつじもあり、・・・・・つつじは漢字で躑

躅と書き、その字には足踏みする、たたずむといった意味があるそう。羊がつつじの花を食

べたら毒がまわって足踏みしてもがき、ふらふらしたことが名前の由来とか。・・・・・・また花

の美しさに思わず足踏みして留まり、見惚れてたたずむことから躑躅というとも、・・・・・・」


「宵待の月見草」の所。

竹下夢二の恋に触れながら、「月の出を待つことと、恋人を待つことはよく似ています。月

も、恋も、待つ身にとってはただ待つしかないところが。」落ち着いた、いい文章ですね。


どこから読んでも良く、、あわてて、いっぺんに読まず、思い出した時に、その季節の花の

所を、一年がかりで読めば良いでしょう。



たんぽぽ     川 崎 洋


たんぽぽが

たくさん とんで いく

ひとつ ひとつ

みんな 名まえが あるんだ

おーい たぽんぽ


おーい ぽぽんた

おーい ぽんたぽ

あーい ぽたぽん

川に おちるな



皆さんも、本棚の片隅に、如何でしょう。






2014年6月 9日 (月)

褌・フンドシ・ふんどし

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無理して、ご覧にならなくて結構ですが・・・・左が、越中褌、右が六尺褌。モデルは私。六尺

褌は、締めると横から、何かが少し覗くので、切りましたが。バックは、Tバックになりますか

ら、後ろ姿は見せません。六尺褌は祭り等では、下着ではなく、正式の衣裳扱いになりま

す。


さて、褌を着けてみようと思ったのは、先日のNHKテレビ「あさイチ」で、「女性の褌」を特集

していたこと。


考えれば、日本男子として数十年。褌を締めたことは、一度としてありません。親父は若い

頃、褌だったのですが、いつの間にか、パンツ派になっていました。


という事で、死ぬまで一回は締めて見ようと思ったのですが、近所のお店屋さんにはなく。

いつものAmazonから、越中褌と六尺褌を注文。待つこと3日。

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両方とも、木綿製です。


右の写真、上の方が越中褌、下の方が六尺褌、さすが、六尺褌は長いので、二つ折りにし

ましたが、鯨尺で六尺(約228㎝)。さすが、長いですね。私の身長以上。


で、六尺褌は、どうして締めるのか?とりあえず、本で調べようと、本屋に行ってもありませ

ん。ということで、何時もの某図書館へ、司書のお姉さんへ、恥ずかしかったけれど、「褌の

本はありませんか?」「え?」「フンドシの本、時代劇に出てくるフンドシ」。という事で、しばし

待っていたら、二冊の本を持って来ました。

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「こと典百科叢書 第九巻 褌」は、福富織部著「褌 増補改版」(香蘭社 昭和8年)を収録

したもの(これ、表紙には何も書いてありませんから、中扉です)。ほかに、福富氏が書いた

奇書として、「屁」「臍」があり、この「こと典百科叢書」にシリーズとしてあります。


さて、図書館からの帰りがけ、ふと思うと、あ~YouTubeがあったか、と。早速、帰って

YouTubeを調べると、ありました。


六尺褌は、難しいかなと思って、締めてみると、意外と簡単。締めてみると、なにかキリッと

しますネ。越中褌は簡単ですが、以外と風通しが良く、ゆったりした気分。


さて、せっかく借りてきた本ですから、本の紹介を少し。


「こと典百科叢書 第九巻 褌」に、「雲介(ママ)の典物(てんぶつ:注・質に入れること。そ

の品物)」の事が書いてあり、


「ふんどしを質に置くといふは雲介の事也、東海道筋の雲介はふんどしを一分(一兩の四

分の一)づヽに置きたり、その頃は切りたての晒し六尺の價は百文なるに、質屋は物言わ

ず一分づヽ貸したり、雲介は質受けせぬ間は何にても、ふんどしかくすことをせず、陽物を

露出せるまヽにて駕舁きて往來せし也、・・・・」「伊勢地方の雲介が、ふんどしを質に置き、

質受けの出來ぬうちは、竹の皮で的をつつみ、夏の炎天、丸裸體、平気な顔で、荷物や駕

籠を威勢良く舁て行くさまは實に滑稽なりしと・・・・・」


という事で、褌まで質草に、然も一分(一両の四分の一)で質草にしたとは、驚きです。その

間、陽物を露出していたといいますから、本当ですかね。この事実、映画で撮ったら面白い

だろうナ・・・最も、猥褻陳列罪で捕まるだろうけれど


「和の道具の使い方」より。

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(「和の道具の使い方~平山隆一著」より)


上が「割褌(わりふんどし)」。12世紀末から13世紀に描かれた、仏教の説話集に登場す

るそうで、最も古いタイプと考えられるそうです。

布を縦に切り、一度結びつけ、あとは越中褌と同じ要領で、締めます。


珍しいのが、下の褌、室町末期に登場した軍陣用褌(当時の呼び方は下帯)。


「軍用の小袴は尻の部分が割れて開くようになっているから、しゃがんで上体を屈めれば

褌は股間の覆いがゆるんで、横にずらして尻をすぐ出せる。排便後、立ち上がって体を伸

ばせば、輪が引かれて自然と褌は締まる。つまり、具足(甲冑)を身に付けたままで用便が

しやすかった」。また、寒い時期は、胸の所を二重にして、艾(もぐさ)等を入れて、保温剤と

し防寒に役立てたそうです。「黒田官兵衛」さんも、こんな事してたんですかね。TVにはこ

んな場面出て来ませんが・・・・・・・(「和の道具の使い方~平山隆一著」より)

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1600年頃、三尺手拭をつけた越中褌が登場するそうですが、越中褌は、活動のゆるやか

な老人等が着けたそうです。現在は、締めるやさしさから、越中褌が主流のようです。


越中褌を簡略させたのが「畚(もっこ)褌」だそうです。

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なお、先日紹介した、近世風俗志(二)にも、褌のことが載せてあり、「慶長以来、今製の六

尺褌を専用す」と説明書きがあり、本文には


「天正前は麻布等長さ四,五尺なるを、その半を二つに裂き分ち、これを腰に巡りらし前に

結び、股下を全幅の方を通して前に挟む、今の越中に似たり。」とあります。

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また、下記のような図が載せてあり、越中褌については


「松平越中守執政の時、倹約を専らとしてこれを製すと云うは非なり。大阪新町の妓、越中

と云う者、片袖を裁ちて鄙客に贈りて餞(はなむけ)とす。客これを褌に製して家に帰る。こ

れこの褌の始めとす。片端を筒に縫ひ、これに絎糸を通す。」

「もっこふんどし」については、「女形女優等にこれを用ふ由を聞く。」とあります。

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書物については、内容が少しづつ違う所があるようですが、これについては、各自、調べて

ください。


今日は着けたままにしていたら、意外と気持ち良いですね。「褌」、聞くところによると、以外

と着けている方が多いそうです。あなたもデスカ、失礼しました。


夜ですか?もちろん2,3年ほど前ご紹介した「脱パンツ健康法」実践です。


(参考・文引用:「こと典百科叢書第九巻 褌~福富織部著」「和の道具の使い方~平山隆

 一著」「近世風俗志~喜田川守貞著」から)




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