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2014年6月1日 - 2014年6月7日

2014年6月 7日 (土)

今日は真面目にお勉強~雲仙市の歴史を学ぶ会・「キリシタンが弾圧に耐えて守り続けたのはキリスト教信仰だったのか」

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いつかも書きましたが、雲仙市は、国見町から南串山町までの7ヶ町の合併。昨年から、一

緒に勉強しようと、「雲仙市の歴史を学ぶ会」が発足。今日は定例会の講演会で、演題が

「キリシタンが弾圧に耐え守り続けてきたのはキリスト教信仰だったのか」。


講師は、長崎純心大学 宮崎賢太郎先生。自分でも、話されましたが、祖先はカクレキリシ

タンだったという事です。


普通、カクレキリシタンと言う言葉を使いますが、日本におけるキリシタンの流れです。宮崎

先生の資料からのコピーです

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1549年に、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸。1563年、大村藩の大村純忠が、日本

で初めてのキリシタン大名となり、各大名も洗礼を受けます。


高山右近は領地を捨て、キリシタンとして生きる道を選びますが、マニラに国外追放になり

ます。後の大名は棄教します。大名で、キリスト教を本当に信仰していたのは、高山右近だ

けのようです。


1644年、正式に叙階された日本人最後の司祭、小西マンショが殉死します。これ以後、

日本には、神父等がいない状態で、正式にキリスト教を教える者がいなくなり、キリスト教を

教える書物等も見つかると、刑罰が科せられますから、無くなり、キリスト教の教えなどは

ほとんど口伝になります。


1859年、米国聖公会からプロテスタントの宣教師、ジョンリ・リギンズ、チャニング・ウィリア

ムズが来日します。


1873年、明治6年、キリスト教が解禁されます。一概に「カクレキリシタン」と言いますが、

この間の事を「潜伏キリシタン」と言います。


この後、「潜伏キリシタン」の人々が、キリシタン教会に戻って、正式に受洗を受けた者、教

会に戻らず、先祖からの「キリシタン」の教えを守る者が出てきますが、この、後者を「カクレ

キリシタン」と言います。


さて、少し戻って、大名の大村純忠等がキリシタンになったのは、ポルトガルから期待され

る収益のためで(ヴァリアーノ「日本巡察記)、家臣、民衆はキリスト教に改宗されます。


大村領内、6万人の全領民がキリシタンになり、87の教会が存在したと言います。

現在、日本で、カソリックになる方は、洗礼を受けた方から亡くなった方を引くと、3000名

程度だそうで、この6万人と言う数字には驚きますが・・・・


1578年から36年間神父を務めた、アフォンソ・デ・ルセナは、以下のように書いているそ

うです。


「私が大村に来る2,3年前に、この殿は全民衆キリシタンになること、もしそれを希望しな

いならこの領地を出ていくことを通知し、命令した。・・・・・・・それだから私が大村にきたとき

にはすでに全領民がキリシタンであった。しかし、彼らはキリシタンの諸事については洗礼

を受けるのに必要なこと以外は何も知らなかった。」

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最近出版された宮崎先生の本と、長崎県教育委員会が調査した「長崎県のカクレキリシタ

ン」。宮崎先生が、主任調査委員になっています。


宮崎先生は、書物に出るような、キリシタン関係者ではなく、庶民のキリシタンがどうであっ

たかを書いています。すなわち、上に書いたように、「彼らはキリシタンの諸事については

洗礼を受けるのに必要なこと以外は何も知らなかった。」


庶民が本当に、キリシタンのことを理解していたかどうか。そして、カクレキリシタンの事に

ついて語られましたが、結論として、キリシタンにはキリシタンである事の定義があり、カク

レキリシタンは、その定義に当てはまるところがなく、本来のキリシタンではない、という事

でした。


さて、この考えと同じような本が、遠藤周作の本にもあります。

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「したがって日本切支丹たちがキリスト教の教義をどの程度まで学び、それを理解しえたの

かは私たちにとって大きな問題である。・・・・・教義書を日本人の一般の切支丹たちが充

分、理解しえたかはどうかはまた別問題である。」


教義書として作られた有名なもので「ドチリイナ=切支丹」があります。弟子と師の問答形

式ですが・・・


弟子  みいさ(ミサ)とは何事ぞ。

師    御主ぜず・きりしと(イエス・キリスト)の御色身と御血とともに、さきりひいしょ(犠

牲)としてでうす・ぱあでれ(父なる神)に生きたる人死したる人のために捧げ奉らるるさきり

ひしょ也。これ即ち御主ぜず・きりひとの御一生涯の御所作と御ばしょむ(受難)とを思ひ出

させ給わん為に、定めをき玉ふ者也。<(  )内の訳語は遠藤)(切支丹時代~遠藤周作

著より)

これ、分かりますか。まして、当時の庶民は。


「私は今日のかくれ切支丹の宗教は一見、基督教からその形を取っているが、内容におい

ては基督教とはあまり関係の無い土俗宗教だと言った。」しかし、この土俗宗教が興味と意

味があるのは、「宣教師や教会という肥料を絶たれると、どのように変形しているのかと言

った。」という事で、


「・・・・・その変形は日本的であり、日本人の宗教意識に即したものであったゆえにかくれ

切支丹の宗教は彼らにとって仮物ではなく本物となったものである。・・・・・神父も教会もな

い地の果てで彼等が守りつづけたこの宗教を基督教から批判するのはやさしいが、しか

し我々は彼等から学ぶ点があるのである。彼等は我々に基督教が土着化するためにはど

のような変形をするのかの良所と欠点を共に教えてくれたからである。」

遠藤周作氏の結論です。


さて、「潜伏キリシタン」が、解禁されたにもかかわらず、なぜ教会に戻らなかったのか、宮

崎先生は次のように書いています。要約すると


❶ 先祖が命をかけて守り続け、意味が分からなくとも、忠実に継承して行くことが、先祖の

供養になること。

❷ カクレをやめて他の宗教に変わりたくとも、従来からの人間関係を良好に保って行くた

め。(同地区の人々が、同じカクレキリシタンです)

❸ カクレキリシタンの役職者は高い地位を有しており、カトリックに改宗すれば、ただの信

徒になり、何らメリットがない。

❹ 潜伏時代にカクレであることを、知らぬふりをして助けてくれた仏教に対して大きな恩義

があるので縁をきることはできない。(だから、キリスト教会には戻れない。)

❺ カクレを止めたり、カクレの神様を捨てればタタリがある。


「最も本質的なものは、先祖崇拝、奇跡信仰、タタリ信仰にあるのではないかと考えていま

す。」と書いてあります。


質問の時間、カクレキリシタンで有名な所で、宴会に出た人からの話で(その人は、それま

で、カクレキリシタンの地域と知らなかったそうですが)、宴会前に仏壇に「アーメン」と祈る

ので、ビックリしたところ、仏壇の中から、十字架を取りだして見せたそうです。


「あんた方は、二つも信仰しているのか」と言ったところ、「あんたの家も、仏壇と神棚と、二

つ祀っているだろうが、同じ事だ」と言われたそうです。やはり。日本には八百万の神がい

る所ですかネ。


話が、どうも纏まりませんでしたが、詳しくは、上記の本をお読みください。




2014年6月 6日 (金)

島原「IHS」キリシタン墓碑~島原市

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やっと、という事で、見ることができました。


この墓碑は、個人のお宅の中にあり、二回ほど訪ねて行ったのですが、二回とも留守。一

応、外から標柱、看板は見えるようにしてはあるのですが・・・・・前は、行ったのは、冬でし

たから、草は生えてませんでした。

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多分、この看板の下あたりにあると思い、玄関のピンポーンを押し、「ごめん下さい」と大声

で言いながら、それとなく看板のあたりを見たのですが、無い。


今日、三回目。三度目の正直だと思って、ピンポーン、大声で「ごめん下さい、ごめん下さ

い」。又もや留守。庭を見ても、それらしきものは、はやり無し。


ヤケになって、「ごめん下さい」と言い続けながら(黙ってウロウロしては、泥棒と間違われ

るから)、裏に回ったら、ありました。感動の一瞬ですね。


さて、この墓碑の価値は、正面小口面(正面向かって左側)に「IHS」の文字が彫り込まれて

いること。

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「H」の横棒の所に縦線が入っていますが、「日本キリシタン墓碑総覧」によれば、熊本県天

草市正覚寺等で、同様なものが見られ、下の左側に見られるように「H」の上に、罪標十字

架(干十字)が、刻印されていた可能性が高いと書かれています。


また、この「IHS」を刻んだものとしては、全国で、十基ほどしか確認されていないそうです。

この、墓碑は、このお宅の横の排水側面工事中に排水溝の底から発見されたそうです。


上が欠けているのは、禁教時代に破壊され、また上面が抉られているのは、手水鉢等に転

用するため、後世に作りなおし、その後、廃棄され、側溝などの石垣に使われたのではな

いかと思われる、という事だそうです。

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  (左は天草の正覚寺墓碑~「日本キリシタン墓碑総覧より)


この文様は、右の「イエズス会」の紋章とほぼ同じで、イエスズ会のものと考えられます。


「IHS」とは、ギリシャ文字でのイエズス(イエスのこと)、「IHΣOYΣ(IESUS)」の最初の文字

をとったもの。イエズスの名の略号。または、「Iesus Hominum Salvator」(ラテン語:人類の

救主なるイエズス)の略語だと言われています。(キリスト教百科事典:ヘンデル代理店エン

デルレ書店刊より)

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なお、文字が彫られているのは、正面左の小口のみです。この、「IHS」の文字を刻んだも

のは、長崎県では唯一のものだそうです。


「日本キリシタン墓碑総覧」によれば、全長が60㎝で、非常に短いという事で、子供用の墓

碑の可能性があるということです。


この墓碑は、個人宅内にあるので、許可を得てからにして下さい。多分、土、日曜日なら、

おられると思います。私の真似はしないように。


【おまけ】海岸近くを散歩していたら、見慣れない、きれいな花が咲いていました。おばあさ

んが手入れをしていたので、花の名前を聞くと、北九州の母の所からもらってきて、名前は

知らないとのことでした。

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(参考・文引用:「日本キリシタン墓碑総覧~南島原市教育委員会企画・大石一久編集」

 「島原市の文化財~島原市教育委員会発行」 説明版 より)





2014年6月 5日 (木)

「大村彦右衛門」★大村家家老~大村市

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大村彦右衛門について、初めて名前を聞いたのは、坂口安吾の「島原の乱雑記」で、長崎

奉行所へ潜り込んだり、江戸城へ入り込んで、小姓をキリシタンにしたりという、金鍔次兵

衛と言う神父のことを読んだ時です。


この、金鍔次兵衛が大村領根村脇崎に潜り込んでいるとの情報があった時、なにせ、相手

が大物で、佐嘉(佐賀)藩、島原藩、大村藩、領民15歳から60歳までかり集め、一歩一人

で追い込みますが、結局は逃げられますが、「大村藩はここに総動員を行った。大村藩所

蔵の『見聞集』によれば、家老大村彦右衛門を大将に、少数の城内留守居を残し・・・」と言

うことで、これで、「大村彦右衛門」のことを覚えていたのですが、調べると、どうして、どうし

て・・・・

「金鍔次兵衛(トマス・デ・サン・アウグスチノ)神父~神出鬼没の男」は→こちらをクリック



大村史談会発行、編集責任者・木下義春氏の「大村史談」の、大村彦右衛門を読んでみる

と、仙台の伊達安芸、黒田の栗山大膳、大村の大村彦右衛門は天下の三大名家老とされ

たそうです。


以下、「大村史談」から引用しますが、

彦右衛門は14歳で元服し藩庁に出仕したそうですが、16歳の時に初陣。

長与村地頭が反旗を飜した時、本拠の浜城を攻めた時、皆のどが渇いて急坂を登れず、

敵の火器に苦しめられた時、彦江門は「梅干し、梅干し」と叫んで喉を潤させ、浜城を攻め

落としたそうで、それ以来浜城を「唾呑城」というようになったそうです。


この墓地は、大村彦右衛門家墓所になりますが、実に立派な墓所です。

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さて、彦右衛門は、大村純忠、善前、純頼、純信の四代にわたる藩主に、家老として仕えま

す。


善前が48歳、純頼が28歳でなくなりますが、これにはキリシタンを弾圧したので毒殺され

たとの話が、大村家記等に見られるそうですが・・・・否定する説もあるそうですが・・・・


さて、純頼が28歳でなくなったとき、跡継ぎの問題が起こります。

純頼が亡くなった時、一子松千代がいたそうですが、この時2歳。幕府には誕生を届けてお

らず、生母は側室。


幕府の武家諸法度によれば、正室の子でないと、相続はできないそうで、お家断絶というこ

とになります・・・


彦右衛門は、純頼の死を世間に隠し、純頼の名で、老中に「自分は病気をしているが、平

癒の見込みがないから万一の時は、まだ届けていないが二歳の実子がいるから、跡目相

続のことをよろしく頼む」と述べた文書をしたためたそうです。


千代松と共に江戸に上がろうとした時、千代松は大病にかかりますが、彦右衛門は、娘の

命の代わりに、主君の病気が治るように祈願したそうです。


江戸で、老中に訴えるも、幕府の老中は突っぱねたそうで、おまけに、六万石以上の大名

しか賦役されない、大阪城の石垣の普請を命じられたそうで、跡継ぎ問題と、普請問題、ま

た、各老中へ手土産を持っての説得。


この費用の件には、「大村史話」には、次のように書いてあります。「彦右衛門の書き残した

『大串金山記』には、朝鮮の役から帰って来た喜前が開発した大串村加郷には金山があ

る。『右の山より度々、松千代様え丁金三百二十目三分八厘』を上納したと明記してあるか

ら、およそ検討がつく。」


彦右衛門の努力と熱意が実ったのか、老中から登城を命じられ、彦右衛門の必死の訴え。

願いはかなえられ、翌日、将軍謁見のうえ、直々に松千代に本領安堵の旨を告げたそうで

す。


なお、喜びの中、神仏に誓ったとおり、わずか三歳の愛児亀千代を刺殺したそうです。亀千

代の乳母は、無断で殺されたことを悲観して、投身自殺をし、杭出津に墓があるそうです

が、子どものための願仏とされているそうです。


墓地に入ると、すぐ左側に祠がありますが、後に、亀千代を祀るために、建てられたものだ

そうです。「身代り観音」です。

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半分開いていたので拝んで、覗いて見たら、ふっくらとした木造の女性像がおいてありまし

た。説明版には、「正面の観音横の女像は、生母の姿を表しているといわれています。」

と書いてありました。


写真を撮ろうと思ったのですが、私如き平民が、畏れ多くとれませんでした。亀千代の墓

は、一番上の写真、彦右衛門の横にあるのですが、これも撮り忘れました。多分、説明板

の後あたりです。


【おまけ】キュウリがなり始めました。まだ、2㎝弱の長さです。

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(参考:文引用:「大村史談・発行 大村史談会・編集責任者 木下義春」 説明版 より)


 




2014年6月 4日 (水)

「超高速!参勤交代」~土橋文宏著★映画が先か、読書が先か

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先日は少しシリアスな、「」を紹介しましたが、本日は、冒険時代活劇小説と言ったらいい

のか、「超高速!参勤交代」の本の紹介です。この本、6月21日から映画化、上映される

そうですが、本の出版が昨年の9月27日、本年5月23日が、第7刷りですから、意外と売

れてる本のようです。


主人公は、陸奥湯長谷(ゆながや)藩一万五千石藩主、内藤政醇(まさあつ)。

ご存じのように、江戸時代、各藩に財政負担をかけさせ、力を削ぎるためと、人質として、

江戸に妻と子を住まわせる、参勤交代の制度があり・・・・(皆さん、学校で習いましたね、以

下略)


とにかく、この参勤交代、金がかったそうで、なにしろ、大名行列ですから、威信をかけま

す。


ちなみに、ウィキペデアをみると、天保12年(1841)の紀州徳川11代藩主の時は、武士

1639名、人足2337名、馬103頭であったということで、これ、飯を食わせて、宿屋代、将

軍、幕臣への付け届け、諸経費を入れると、どれくらいかかるのか。なお、小説にも出て来

ますが、小藩においては、宿場町を通る時だけ、威厳を保つため、臨時雇いの家来を使っ

たそうです。


さて、小説の方ですが、主人公が参勤交代で、地元、湯長谷(アバウト、湯元の近く)に帰り

ますが、すぐに江戸より使いが来て、上様(徳川将軍)から、5日後の戌の刻(午後8時)ま

でに、江戸城に出仕せよとの命令。1年おきの参勤交代が、地元へ戻って、すぐ江戸へ出

仕とはあり得ないこと。


裏には、湯長谷藩を潰し、藩が試掘した金山を、かすめ取ろうという、老中松平信祝の陰

謀。江戸まで5日間で着けるか?着かなければ、廃藩になって、松平信祝の思うつぼ。(金

山については、どんでん返しがありますが・・・)

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    (「超高速!参勤交代」より)


なにせ、赤丸印の所。しかも、大名行列で、馬でひたすら駆けるのみ、という訳にもいか

ず・・・・


なにはともあれ、一刻も早く出発という事で、普段は100名(小藩なので)ばかりの行列を、

わずか8名での大名行列。


後はどうなるか、凄い忍者まで登場し、活劇あり、ユーモアあり、人情有り、恋あり、といっ

た物語が展開しますが、あとは、皆さん映画で楽しむか、小説でたのしむか?自己責任で

選んでください。最後の裏もあるのですが、言ったら面白くないので・・・・


なお、悪役になる、松平信祝は延喜元年(1744)、病気により、老中辞職を願い出ます

が、許されず、4日後に死亡します。ここは、小説と史実は一緒です。

主人公の内藤政醇は寛保元年(1741)9月5日に死去します。享年31歳。


この小説で大活躍するのが、家老の相馬兼続(かねつぐ)。家老で有名といえば、思い出し

たのが、こちらの地方では、大村藩の大村彦右衛門。次は、この大村彦右衛門の話で

も・・・・・




2014年6月 3日 (火)

初夏の庭~我が家の家庭菜園

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え~、昨日、ターシャ・テューダさんの庭を紹介して、我が家の庭を紹介するのは、気が引

けるのですが・・・・今年は体調悪く、カミサンまかせ。どうなっているか、初夏の庭を一回

り。


上の写真は、昨年買ったミニバラ、鉢植えで、外にほって置いたら、いつの間にか、咲いて

いました。やはり、「ミニ」とは良いながら、バラは存在感がありますね。


下はミニトマトの花と、トマトの実。意外となってました。

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普通のバラですが、バラは病気になりやすく、難しいですね。

大根の花。少し多めに植えておいたら、食べきれず、花が咲いていました。「だいこんの花」

確か、TVドラマでもあったかな?

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パセリ、植えた時は、ほんの一房程度の大きさだったのですが、夫婦二人で、どうやって食

べましょう。

ポピーのつぼみです。花は綺麗ですが、こうして見ると、毛むくじゃらで、蕾なんか○玉を想

像しますね。

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晩生のタマネギ。百本ばかり植えていたのですが、やっと食べられる大きさに育ちました。

あまり、大きくならないうちに収穫した方が、日持ちが良いそうです。プロからの助言です。

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キャベツは巻くかと思っていたら、巻きましたが、少し固い。

昨年、柿が良くなりましたが、柿は一年おきに、良くなる年と、ならない年があるそうで、今

年は,実の付き方が悪いようで、おまけに、先日の風のためか、ボトボト落ちていました。

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梅雨時は、あじさいの花ですね。まだ、十分色づいてはいませんが、・・・・・あまり、色づか

ない時が良いですね。女性も 失礼しました (。・ω・)ノ゙ コンメンチャイ♪

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南天の実がなり始めました。これ正月には、赤くなるのですが・・・・「難を転じる」で、「なん

てん」縁起物です。

ユリの蕾。あと2,3日すると咲くかな。

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かぼちゃに、キュウリ。葉が菌にやられやすく、酢と焼酎とニンニクをつけておいて、薄め

て、かけておけば良いと言われて、やって見ましたが、ダメでした。

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イチジク。どこへ植えても良く茂ります。女性の方の健康に良いとか。

植えた覚えがない花が。隣の畑を見たら、同じものが咲いていたので、種が飛んで来たも

のか。

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私の嫌いなピーマンではなく、パブリカ(黄色)の花と、まだ色変わりしていない、小さな実。

まだ、小指くらいもありません。

近所から頂いた、レタスの苗は順調に育っています。

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ナスビ。「親の意見と茄子の花は千に一つの徒(あだ、徒花、無駄な花)はない」。本当に

よく言ったもので、花には必ず実が付きます。

山から取ってきた、ツワブキ、初冬には黄色い花が綺麗で、夏は茂って庭のポイントにもな

り、春は新茎は食用にもなるし・・・ただ、皮をむく時、爪が黒くなって・・・一本庭に植えてお

くと、便利ですよ。水も肥料もやってません。

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まあ、花が少しと、野菜が少し、たいしたものは植えていませんが、年金暮らしとなると、家

計の一助になります。あと、ジャガとか、ブロッコリーとか、トウモロコシとか、魚は親戚が持

って来てくれるし。

これで、ステーキでも持ってきてくれる人がいれば、文句ないんですが・・・・・restaurant



2014年6月 2日 (月)

「乱」~矢野隆著★時代小説の難しさ

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「島原の乱」を描いた小説。ポイントは、赤で囲んだ「『島原の乱』新解釈、衝撃の歴史長

編!」。ここの所にひかれて読んでみました。


時代は江戸、関ヶ原から30余年、三代将軍家光の頃。徳川幕府の勢い盛んな時。そのよ

うな時、日本の西の端、島原、天草で、島原・天草の乱が起こりますが、この事について

は、いろいろな資料、小説に取り上げられ、さて、「新解釈」とは、何か?


時代小説を読んで、いつも思うのは、事実通りに書いたのでは、単なる資料。先日、紹介し

た「考証要集~大森洋平著」によれば、「『平賀源内が厳密に時代考証した忠臣蔵芝居を

上演したら、全然面白くなくて客がみんな寝ちゃった」という爆笑エピソードがありました」と

あり、やはり時代小説は、虚々実々の所がないと面白くないようで・・・・


さて、ネタバレすると面白くないので、「島原・天草の乱」の裏には、幕府の老中Mの思惑が

あったと言うのが「新解釈」になるのです。Mは誰か、本をお読みください。


乱の鎮圧で派遣されたのが、一万五千石余りの小藩、三河深溝藩主板倉重昌。この、板

倉重昌をある目的の下、派遣したのも老中M。


板倉重昌の派遣には、九州の大名の国替えがおこなわれた際、城引き渡しの大役を果た

した経験者であった事だそうです。


乱の鎮圧には、俗に島原七万石といわれる、島原の松倉藩、鍋島藩、佐賀藩、福岡藩等、

そうそうたる九州の諸侯が集まりますから、統率がとれるわけもなく、これも老中Mの思惑。


物語には、山中で野獣のように育った「虎」という少年。そして、天草四郎との関わり。四郎

と父、甚兵衛との関係。そして、なんと、柳生十兵衛まで登場。


柳生十兵衛が、島原まで来たかというと、家光の不興を買い、城を辞し各地を放浪します

が、裏では、各地の情報を集めていたとかいう話も。2006年、NHKテレビで「柳生十兵衛

七番勝負 島原の乱」というのが、あったみたいですから、来たことにしておきましょう。


さて、昭和44年発行の「南有馬郷土史」に、板倉重昌の派遣の事を、天下のご意見番、大

久保彦左が後で聞き、「切支丹は宗教じゃぞ、あがめる神の心は、人の心を一つにするも

のじゃぞ、百姓、土民などとあなどっているのが第一いかん、『原城』という地の利を得て、

団結して固めているのだ、それを板倉や石谷(副使)などのような少身者がいってあつかい

こなせると思うのか?」

「殊に九州諸侯を使うのには自分の軍は思うようにはできまい(ママ)、それがためには御

三家の一人を上史として、堀田か信綱のような老中が出るべきであった。」と書いてありま

すが、この言葉、大村家の家老、大村彦右衛門が言ったという事を、読んだ覚えがあるの

ですが・・・・「大村彦右衛門」と「大久保彦左衛門」。何となく似ているので、私のボケかな?


なお、同書には、「柳生但馬守宗矩」の事も書いてあり、板倉重昌が出発したことを聞き、

追いかけるが間に合わず、後日、家光に


「殿は一向一揆のことはいまだお忘れあるまい。・・・・・ましてや切支丹宗門の激しさは世に

も知られていると聞いていますが、板倉は位も低く、門閥でもなく、禄高も少ないので世人

から敬われていない。それがどうして西国諸侯の指揮ができましょう。・・・・・再び板倉より

位の高い者を派遣されたら、これはもう、板倉を死に追い込むようなもので面目問題であ

る。」とあり、事実、後日、松平信綱が派遣され、板倉は死に追い込まれるような戦いをして

して、戦死します。


さて、老中Mとは誰のことなのか?読んでみて、なるほどとは思いましたが、少々・・・・・ま

あ、小説として読めば、面白いでしょう。なお、時代小説については、事実とするところもあ

るので、参考図書、文献の名前は書いて欲しいですね。



(参考・文引用:昭和44年発行「南有馬郷土史」より)



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