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2014年5月4日 - 2014年5月10日

2014年5月10日 (土)

「糖尿病の診断基準がかわりました」

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さて、今日、朝から具合が悪いと思っていたら、またも出ました、心房細動。脈を測ると、

安静にしていて120。しばらく寝ていても、直らないので、いつもの病院へ。


点滴、イヤですね、私にとっては、天敵です。点滴しながら、下の機械で、薬を注入してい

きます。

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あと、する事がないので、トイレついでに病院の中を、さらいて(目的もなく、ぶらぶらするこ

と)いたら、一番上のポスター。


最近、健康診断の基準が変わるような事が、週刊誌に載って、私も紹介をしましたが、

早々と「診断基準」が変わったみたいで、対応の早いこと。

以前の記事はこちらをクリック→「週刊ポストVS週刊現代」 「健康診断基準値?」

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ついでに、横のポスターも見たら「HbA1c」の値が、「7.0%未満が血糖コントロールの目

標です。「HbA1c」は「ヘモグロビンA1c」ですが・・・・何の事かよく分かりませんが・・・・

これ確か、以前の基準値は5.5%みたいなんですが・・・・・

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まあ、詳しいことは分かりませんが、ご心配な方は、病院でご確認を。糖尿病と分かった

ら、

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という事で、お互いに健康には注意しましょう。


2014年5月 9日 (金)

「七帝柔道記」~原作・増田俊也★漫画・一丸

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「七帝柔道記」が、「ビッグコミックオリジナル」に連載で始まりました。第3回目。


原作は、増田俊也氏。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかった」を書いていますが、この

「七帝柔道記」で、山田風太郎賞の最終候補としてノミネートされています。


さて、「七帝柔道」とは、戦前の旧高専柔道を旧七帝(旧帝国大学~現北海道大学、東北

大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学)が引き継いだもので、今

の講道館柔道とは、ルールが全く違っています。詳しくはこちらを→クリック


漫画に書いてあるように、「寝技中心の柔道」です。

帝大と言えば、入学するのも難しく、受験勉強で精一杯。運動もろくすっぽやったことがな

い人ばかりですが、入学して柔道部に入っても、私立大学で鍛えた選手に勝てるはずもな

く、そこで、寝技を研究し、技術を磨け上げていくわけですが、

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増田氏の本に「入学試験が難しく、既成の強い選手が滅多に入学して来ないという旧制高

校の特色もあって、白帯からスタートする選手が多くの割合を占めるのも寝技中心になっ

た大きな理由である。」


「・・・・毎日の練習後、部員が集まって行う”技の研究”は必死であった。『どの角度からの

極め方が一番有効であるか』理系の連中は毎日のように宿題を持って帰って力学的数学

的にその角度をきめてきた。それを積み重ねてよりベターな道を見いだす努力が続けら

れた。(柔道新聞昭和三九年十二月一日号)」

柔道選手が、力学ですよ!


その中から、「松葉がらみ」「横三角締め」「裏三角締め」などが生まれ、サンボの「膝十字

固め」なども、高専大会で使われた技の一つだそうです。


さて、柔道は、「武道(柔術)」から発展し、世界的なものになりましたが、柔道は「武道」で

しょうか、「スポーツ」でしょうか?と、いつも考えるのですが・・・・


柔道のルールも、観客に見栄えがするように、随分変わりました。というより、TVで見る人

に見栄えが良くするようにです・・・七帝柔道は、寝技が続き、見ていて、面白くないのは事

実でしょうが、その中に虚々実々の駆け引きがあるのですが・・・


以前にも、書きましたが、この本に「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われ

た、木村政彦が、「テレビ朝日の『ニュースステーション』のインタビューで山下(泰祐)や斉

藤仁のことを聞かれ「今の柔道は豚のやる柔道とまで切って捨てた。」と言ったそうです。


なお、夢枕獏著、「東天の獅子」の後書きにも、

「このところ柔道はJUDOとなって、加納治五郎が始めた頃、頭に思い描いたものとは大き

くかけ離れているものになっている。

治五郎自身が、生前、その頃の柔道を見て、

『これは私の柔道ではない』

と発言している。」と書かれています。


まさに、柔道は世界の「JUDO」になって、それはそれとして、大きな努力が必要だったので

しょうが、今や、日本柔道は、世界柔道から独立し、本来の「柔道」「柔術」への道を模索し

た方が良いのではないでしょうか。


なにか、今の柔道を見ていて、立ち技ばかりで、カッコは良いけど、物足りない感じがする

のですが・・・・・


このようなことから、優秀な柔道家が、異種格闘技に流れていった、一つの理由があると

思うのですが。上の本、以前にも紹介しましたが、改めて、柔道、格闘技がお好きな方に

はお薦めします。「七帝物語」は、原作も出版されていますが、ボチボチ、漫画で楽しむ予

定です。

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私、夜の寝技だけは強いですよ。試しますか?女性に限りますが・・・・・



2014年5月 8日 (木)

天如塔修復 落慶法要~島原市

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天如塔については、再三紹介をしてきたところですが、外側、内側とも完全に出来上が

り、今日は、修復落慶法要が行われました。

信者の方、ご近所の方、修復に関係された委員の方。

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まあ、今日は人が多いので、天如塔に入れるかなと思ったら、皆さん自由に入っておられ

たので、私も入ってみました。本を読むと、階段を登るのがきついと書いてあったのです

が、まあ、そんなにきついこともありませんでした。ただ、夏は、窓もほとんど無く、風も通

らず、大変でしょう。


入り口になりますが、左から入って、右から出るようになります。前に書いたように、上り階

段と、下りの階段は別々になっています。


説明版も書き換えられ、以前は「・・・近代の邦人の海外進出を物語るとともに、知られざ

る出稼ぎ労働者の実態を示す物として貴重である。」という事で、「からゆきさん」とは、は

っきり書いてなかったのですが、新しい看板には、「浄財の多くは師が東南アジアで出会っ

た『からゆきさん』からのものであっったことから、唯一の『からゆきさん』の遺跡とされ・・」

と「からゆきさん」とはっきり書いてありました。

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左の入り口から入ると、狭い、コンクリートで作られた階段を少し下り、あとは、急な階段

を上っていきます。多分この上り階段の下に、下り階段が作られているのでしょうが・・・


中は所々に明かり取りがありますが、ほとんど暗闇です。修復する時に、新しく取り付け

たらしく、足元を照らす電灯が所々に設置してありました。これが無ければ、ほとんど手さ

ぐり状態でしょう。

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階段の途中には、死者の成仏を願う各年忌の仏様が安置されています。

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塔の一番上には、開祖広田言証師が、ラングーンの寺で贈られた、大理石の如来像が安

置されてありました。

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上が展望台になって、なかなか、眺めは良いのですが、足元が、何となく不安で・・・・・

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さて、私、またポカをやりまして・・・・

上って来る時は、右の戸口から出てきて、下る時は、左の小さな戸口から下るのですが、

左の戸口が小さいため、風通しかと思い、また右側の方から下ってしまいました。

同じ階段を上り下りしたという事で、もう一度、正式に、上り下りしようと思ったのですが、

歳には勝てず・・・・・

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今後、どのように運営していくかですが、関係者の方にお聞きすると、修復委員会は今日

をもって解散で、今後は若い者にバトンタッチして行くそうです。


近所の方と話をしていると、よく、100年も、もったものだ、その間に何回の台風をくぐり抜

けてきたことか、はやり、この塔には魂がこもっているのだろう、という事でした。


今回は、信者、修復委員会、賛同者の寄付、市の補助金、多くの人に支えられ修復され

たもので、海外で亡くなられた「からゆきさん」の魂が、この塔で、安らかに眠る事を願うも

のです。





2014年5月 7日 (水)

「千々石ホテル跡の石貨」???~雲仙市千々石町

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以前、「千々石ホテル」のことを書きましたが、天気は良いし、野花の写真でも撮るかと、

出かけて見ました。


タンポポも終わりですが、こちらの黄タンポポは、西洋タンポポばかり、別に戦争をしてい

るのではありませんが、団地の造成、野原の減少などで、日本タンポポが育つ環境が違っ

てきた、という事を聞いたことがあります。長崎は、白タンポポが多く、これは日本タンポ

ポですが・・・

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梅。イクリだったかな、中途半端な都会育ちだから、木花の名前は苦手で・・・

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竹ですが、葉が黄色に枯れています。竹は、春に黄葉期を迎えます。俳句の季語では、

春にもかかわらず、「竹の秋」と言います。


もうすぐ落葉しますが、「竹落葉」と言って、夏の季語になります。日本人の自然に対する

繊細な感覚が感じられる季語です。


竹は根が広がるのが早く、放っておくと、すぐに竹林になってしまいます。近所の人が通り

かかり、「タケノコが出とるけん、取っていかんね」「よかとね」「だいでん(だれでも)取って

いっとるけん良かよ。竹が広がるけん」。という事で、三本ばかり頂いてきました。

「もうすぐ、梅の実もよかよ。」という事で、放っておいても、地べたに落ちて腐れるだけ。5

月下旬頃に・・・・・もちろん無農薬です。

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私の好きな踊り子草。キャバレーの踊り子さんみたいに派手ではないですが・・・

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遊んでいる子どもは、もみじの花と言っていましたが、この中に種が入っていて、風に吹か

れ、飛んで行って種を運びます。ヘリコプターみたいですね。

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ここは市有地ですが、近所の、大正生まれのNさんが、健康作りがてら、こまめに手入れ

をしたり、木が茂ると役場に連絡をしたりしていますが、バッタリ出会って、近頃は、ボケ防

止に、替え歌を作って、頭の体操をしているとか。私も一曲習いました。皆さんもご一緒

に。童謡の「春が来た」で歌います。


歳が来た 歳が来た

どこに来た

足に来た 腰に来た 脳に来た


いつも、このホテル跡に変な物が置いてあって、と言うより、置きっぱなしになっていて、門

から入っていったところで、矢印のところ。

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これなんでしょう。Nさんに聞いたら、「アフリカのお金」「え~ウソ」。大きさが75㎝程度。

お金なら、拾って行くのですが、これはちょっと無理。これだけの物だと大金で、人を雇っ

てもって行こうかと考えたのですが、一応ネットで調べると、石貨はヤップ島で使っていると

いう事ですが、ちと形が違っていて、どうにも分かりません。

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気になるのが四隅にある規則的な切り込み。どこから見ても、日本の「二」の文字。

真ん中は、セメントで埋めてありますが、四角の穴になっています。

一応、写真をとって、役所に行って、学芸員に確かめるように。もし、大金だったら、発

見者、私に所有権があると・・・・

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Nさんの話では、茂みのところに、もう一つあるということで、次の日、確認に行ったら・・・

残念ながら、「臼」ですね。

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学芸員に確認したら、行って見たらしく、「あれ、水車用の臼ですね。」


残念ながら、大金持ちになれる夢は、破れてしまいましたが、まあ、春の日の一日の夢だ

と思えば・・・・


水車がほとんど無くなった今、珍しく、放っておくのも、もったいないので、資料館にでも展

示をしては、と話をしておきましたが。

ところで、Nさん、誰から「アフリカのお金」って聞いたんでしょう。


立ち話 長くなりけり 竹の秋    by sugikan  o(_ _)o お粗末さまでした







2014年5月 6日 (火)

しっぽもひと役★永井隆博士~長崎市・松江市

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永井隆博士が書かれた、色紙です。


説明には

「この世になんの用事もないものが生かされてるはずがありません。

どんな病人でも、何かこの世において働くことができるから

いかされておるのでありましょう。私は、命の最後の一瞬まで、

いろいろ工夫して、何か働くことをみつけて働こうと思います。<如己堂随筆>より」


永井博士は、長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士

となります。この間、満州事変。中日事変にも軍医として参加をし、受洗をし、クリスチャン

になり、結婚をしています。


当時、結核患者が多く、「出勤してみると朝早くから患者待合室や受付は、息も苦しくなる

ほどの雑踏であった。」という状態で、医療器具も充分でなかったためか、「このまま数年

続けるなら、恐ろしい原爆病の起こることは、日食を予報するのと同じ確実さでわかってい

た、わかっていながら、相変わらず私は働きつづけた。」と言う状態だったそうです。


昭和20年6月に白血病とされ、余命3年の診断を受けますが、その三ヶ月のち、8月9日

に原爆が落とされ、大学病院内で大けがを負いますが、救護活動にあったっています。


二人の子どもは疎開して無事でしたが、妻、緑さんは、家屋の下敷きになり、そのまま火

に焼かれ、亡くなりますが、永井博士が家にもどり、緑さんの骨を拾って埋葬したのが、3

日後の8月12日だったそうです。

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(「長崎市永井隆記念館」展示写真より)。「原爆野を歩く永井隆(米軍撮影)」との説明書

きがあります。


この後、三山町木場で救護班を作り、巡回回診を行い、また、元の浦上に帰り、一坪のバ

ラックに住み、学会等で発表もしますが、昭和21年、病床に伏し、昭和23年如己堂が建

ち、そちらに移り住みます。「如己堂」とは、「己の如く隣人を愛せよ」との意味です。


中は見学できますが、二畳少しの広さ、裏に便所という家で、ここで、永井博士と二人の

子どもの生活が始まりますが、この家で、「長崎の鐘」「ロザリオの鐘」「いとし子よ」「この

子を残して」などを書き続けます。この時は、永井博士は、病床に伏したままです。

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この日も、修学旅行生が訪れていましたが、永井博士の精神が分かると良いのですが・・

左の赤く囲んだ所が、「如己堂」です。写真を撮ろうとしていたら、ボランティアガイドさんの

話も聞かずに、私の方にピースサインをするのがいて、どこの学校やら。

右の写真、「永井隆記念館」の建物ですが、この建物にも歴史があって、

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昭和25年、永井博士は家を増築し、戦後すさんだ子供たちのために、「うちら(長崎弁

で、私たち、の意味)の本箱」作りますが、国内外の博士の友人知人から多くの本が贈ら

れてきたそうです。

当時の看板。写真は、大勢集まっているところを見ると、開館の時か?

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当時の「うちらの文庫」に掲げてあったそうです。説明には、「誤解を生じかねない表現が

含まれていますが当時の状況や博士がこの「おきて」に込めた子どもたちへの願いを伝え

るために、展示することとしました。」と書いてありますが、これを読むと戦後当時の状況

が感じられると思います。

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その後、昭和27年「永井図書館」として建て替えられます。私も、この近くの山里小学校

に通い、帰宅の途中、良く寄ったところです。「如己堂」はその当時から、全く変わらない姿

でした。


この、「永井図書館」は、佐世保出身のブラジル在留邦人、宮崎隆榮氏が博士の所を訪

れ「うちらの本箱」を見て、図書館建設について話をし、昭和26年~27年にかけて、ブラ

ジル在留邦人、471人の寄附金1,747,188円と市費で建てられたそうです。


昭和44年に「長崎市立永井記念館」として改称。平成12年に「長崎市永井隆記念館」とし

て改称し全面改築。


昔は、一階の平屋建てだったのですが、いまは、一階が記念館、二階が図書室になって

います。図書室は、全く変わっていました。

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さて、実は、私、大きな間違いをしていて、永井博士は長崎生まれ、長崎育ちだと思ってい

たのですが、実は、島根県松江市苧町(おまち)で生まれ、父の医院開業のため、飯石郡

飯石町(現・雲南市三刀屋町に移り住んだそうです。


現在、雲南市にも「雲南市永井隆記念館」が建てられ、長崎の記念館とは姉妹館だそう

ですが、「如己堂」も、そのまま複製して建ててあるそうです。


さて、この際、永井博士の本を読んでみましたが、厳しく、真摯な中にもユーモアがあった

みたいで、「この子を残して」の中、「子らに向かってもらした言葉」に、次のような事が書い

てあります


■有名になるな!名前なんてものは、茶の間で、あめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけ

のもの。

■本を読んでいるときに来る見舞客は決まったように、「お退屈でしょう」と言う。日本人が

本を読むのは退屈なときだけかェ?

■決心は一生に一度しかするものでない。毎年元日に新しい決心をする人があるが、あ

れは儀式サ。

■こうして寝ておれば、悪い遊びもできないが、善いこともせぬものよ。

■買い被られるのは、胴上げされるようなものだ。いつ落とされるか、気が気じゃないよ。


さて、雲南市三刀町に「天満屋」というお菓子屋さんがあって、永井博士の「しっぽもひと

役」というお菓子を作っていて、「当年とって43歳!」と書いてありますから、43年作って

いるのでしょう。


この、ホームページの中に、「筒井茅乃」さん(永井博士の娘さん、結婚して名前がかわっ

ています。)が、「しっぽもひと役」について、当時の様子を書いておられます。長いので概

略を書くと


永井博士が墨で絵を描いて、「かやちゃん、これはどうね。」と聞かれ、見ると、一匹のぶ

たの絵だが、お尻がツルツルしていてなんともおかしい絵。


「おかしかー」と言うと、笑っている娘をうれしそうにみて、「おかしかやろ」と言って、ブタの

お尻にくるりとした線を入れ、「これでどうね」「うん今度はよか。」


それから「しっぽもひと役」と、ぶたの上の余白に書いたそうです。

永井博士は、「しっぽもひと役。ぶたのしっぽだってね、なかったらおかしいだろう。何の役

にもたっていないように見えるしっぽでも、本当はとても役にたっている、なくてはならない

もんなんだよ。」とやさしく説明してくれたそうです。原文はこちらを→クリック


私、好奇心だけは旺盛ですから、「天満屋」さんから、お菓子をすぐに取り寄せて見まし

た。

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可愛いぶたさんのお尻に、ちゃんと尻尾がついていました、尻尾がついていなかったら、

本当に、ツルツルして、「おかしか」ですね。


私の祖父も原爆で亡くなり、回りにも被爆者の方が、沢山いましたが、永井博士の事を考

えながら、しみじみと食べました。


追伸です、

この、浦上には、潜伏キリシタンの組織があり、指導者の頭を「帳方」とよび、他に「水方」

「聞役」等がありますが、この組織を作った初代の帳方が、孫左右衛門で、子孫が帳方を

継承し、7代目吉蔵のとき、浦上三番崩れ(キリシタンが発覚し、検挙されること)で、入

牢、獄死殉教をしたそうですが、この、「長崎市永井隆記念館」がその屋敷跡で、永井博

士の妻、「緑」さんは、吉蔵の子孫にあたるそうです。


注:館内撮影については「永井隆記念館」の了承を得ています。

参考・文引用「この子を残して~永井隆著」「如己堂随筆~同)」「娘よ、ここが長崎です~

筒井茅乃著」「長崎市永井隆記念巻パンフレット」、他説明版より。







2014年5月 5日 (月)

八坂神社の天井絵~諫早市

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諫早の八坂神社。昔、このあたりで飲み歩いていたのですが・・・・・この神社に天井絵が

あるというので、出かけて見ました。


以前、「江の浦・熊野神社の天井絵」を紹介しましたが、江の浦の神社の天井絵は、明治

39年に奉納されたもので、こちらは、明治36年より以前に天井に張り付けられたとの

事。こちらの天井絵は、八十島叉橋(やそしましやきょう)が描いたとと伝えられいますの

で、年代的にも、ほとんど同時代であり、ひょっとしたら・・・・・同じ人物が描いたものか?

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八坂神社は、アーケード街のすぐ近くにあります。鳥居は三本継ぎのものですが、意外と

新しく、大正2年のものでした。本殿の屋根の上、シートが張ってありますが、シロアリにか

なりやられたらしく、雨漏りがするそうです。


本殿の天井を見たら、なにも描いてなく、神社の方がおられたので尋ねたら、神社の中殿

(拝殿と本殿を繋ぐところ)にあるということで、見たら、一番上の写真。

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残念ながら、江の浦の熊野神社の天井絵とは、絵柄が違っていました。絵は人物、動物、

植物等幅広く描かれています。


資料を捜していたら、「諫江百話~諫早史談会二十五周年記念刊行委員会・昭和堂印刷

設立四十周年記念実行委員会 編集・刊行」に載っており、以下、それによると、この板

絵の時期、動機もよく分からないそうですが、神社の改修以前はもっと多数あったそうで、

明治36年以前より作成され、天井に飾り付けられた可能性が高いと思われるそうです。


なお、「絵には、制作者の儒教的教養の高さが反映しております。」とあり、絵には文章が

書いてありますが、この意味は残念ながら私には、分かりませんでした・・・


さて、作者と思われる、八十島叉橋は、「神社に近い田町(栄町)の松の馬場そばに住ん

でいましたので、八坂神社の氏子でした。」とあり、明治7年の諫早学校(小学校)設立に

関する伺い書の中に、八十島叉橋のものと見られる履歴書がおさめられているということ


天保3年9月生まれ、幼年から絵画を学び、福田渭水に就いて儒学を学んでいます。

嘉永2年、京の日根対山に絵画を学び、あわせて牧善助の元で儒教を学び、嘉永5年か

ら各地を遊歴。


その後播磨林田藩儒教者河野絢夫につき儒教を学び、長崎で、清人画家除雨亭にあい

画風が一変したとのことです。


各所で、儒教を勉強していますから、それが、「儒教的教養の高さ」と結びついて絵に反映

されたものでしょう。


さて、見終わって、お堂の横を見ると、恵比寿様と板碑がずらり。話を聞いたら、このあた

り、昔は漁業に関係あり、あちらこちらに恵比寿様は見るのですが、道路の整備、住宅の

造成と、行き所がなくなり、こちらの方に置いてもらったそうです。

中には、首がコンクリーでつなげた恵比須様などあり、多分、神仏分離に伴う、廃仏毀釈

運動の影響でしょう。

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なお、灯明をみたら、どういうわけか、潜伏キリシタン研究者の好きな、「延享二(1745)

乙丑九月吉日」と「天」を使っておりましたが、諫早はキリシタンとはほとんど関係はない

のですが、なぜ、この「天」を使っているのか、由来を知りたいものです。


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