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2014年4月20日 - 2014年4月26日

2014年4月26日 (土)

「ちゃんぽん煎餅」~長崎

1

今日は、常会で、私が監査になっており、会の前に監査をするので、手っ取り早い話題

を。


先日、「皿うどんチョコレート」を紹介しましたが、「皿うどん」を紹介して、「チャンポン」を紹

介しないのは、片手落ちだと思い、確か、どこかにあったなと探したら、ありました、「チャ

ンポン煎餅」。


問題は、この「四海楼監修」ですね。裏に説明があり、「『チャンポン』は、福建料理がルー

ツであり、四海樓の創業者である陳平順(ちん・へいじゅん)が長崎で採れる山海の産物

を使い、独特の麺と豊富な具材で考案したもので、長崎生まれの中華料理なのです。」と

書いてあり、四海楼は長崎を代表する、中華料理屋さんで、「チャンポン発祥の店」と言わ

れていますから、この四海樓が監修とあれば、早速買いました。

4 5

箱の中は、9㎝×6.5㎝くらいの小袋が、18個。中は、直径5㎝程度のお煎餅。

2 3

食べて見たら、パリッとした感じで、お味は、自分で買って確認して下さい。何となく、インス

タントラーメンを思い出し、お湯をかけて3分間。食してみましたが、これは真似しない方が

良いようで・・・・・・


昨今、いろんな新製品が出ており、次は何が出るか、楽しみな所です。「イチゴ大福」が出

てきた時のような、「え!ウソ」というような、ショッキングなものが出てこないか、期待して

います。

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今日のところは、これにて失礼。


2014年4月25日 (金)

「三ッ島の小鯨問題」★領地の問題について~諫早市・雲仙市

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以前、「森山町民俗資料館」について書きましたが、一つ忘れていたので。館内に、「子鯨

の骨」が置いてあり、説明には


○昭和五十六年五月三十一日出土

○井牟田下名丁軒

町道北側路肩災害復旧工事の際、水田の下約1,5m付近から出土した。

「すさへごと竹は、干拓工事の基礎材料に使われていたもの」

○文献によれば、「安政六年(1859)三ッ島(旧山田村)の大島に、凡そ十米位の子鯨が

一頭漂着し、それの取得権をめぐって山田漁民と森山漁民が争い、結局半分ずつ分け合

った。」と、あります。

(注:山田村は町村合併で吾妻町となり、現在は雲仙市、森山町は現在は諫早市)

○その当時、現在の丁軒道あたりは大土井(でい)が築かれ、二反田川湖(えご)沿いの

船着場になっていた模様で、解体した骨を附近の海中に捨てたものと考えられる。


と書いてありますが、佐賀藩には海上の領海問題が多々あったようで、「諫早市史」の目

次にも、「島原との領海紛争」、「前海領海紛争」、「天領網場(あば)との紛争」、「大村領と

の海上紛争」とあり、この「子鯨の骨」も3番目の、山田村(島原藩)と、森山村(佐賀藩諫

早領)の領地の問題が感じられるのです。


いつものようにアバウトで言うと

赤い楕円の所が、佐賀藩諫早領と島原領の境あたり、愛野町には現在も、両藩の境石塚

が残っています。詳しくはこちらをクリック→「島原藩・諫早藩~藩境石塚

黄色の矢印が、現在、開門かどうかの問題で揺れている、諫早干拓。

白の矢印が、今日の話の所です。

Photo_2

さて、この「子鯨」は、領海の問題も係わってくるようで・・・・

土地なら、領地の境を川とか、大きな石を目印にするとか、石塚を作るとか、方法はあり

ます。

ただ、現在も、はっきりしないところもあるらしく、某町と某町の、山の中の境が分からな

いという事で、両町で確認に行ったそうですが、結局分からなかったそうですから、まして、

昔の海の境といったら・・・・


森山町(佐賀藩諫早領・現在諫早市)は、有明海の潟海に面し、昔から、村々で小規模に

干拓が行われており、これが、次々に拡大したところ、島原藩と領地を接するところでは、

問題を起こすこともあったそうです。


元禄十六年、森山村杉谷村川筋に、「南端十間(約18m)、北の端十間、内六間半(約1

2m)を作った所、島原藩の境役から、新地(干拓地)ができると、近くに番所があり、入江

が狭くなり、隠れて出這入りする者に対し、目が届きにくくなるという申し入れ。


これに対し、一年ばかりして、「・・・そちらの番所近くにある、新みを、そのままして置か

れると、水の流れが悪くなり、こちらの方も差し支えるから、そちらの方こそ取り捨ててもら

いたい。それを捨てるという返事をもらえれば、こちらも取り捨てる。」というもの。

あとは、文書のやり取りになりますが、結局は立ち消えになります。


さて、次いで、正応四年(1714)、島原藩山田村から、森山庄屋の所に使いが来て、「森

山で新しいハジ(漁業のためガタに柵をたてること)を立てているが、そのハジは山田村漁

師の漁業に支障となるから抜き取ってもらいた」というもの。


庄屋の返事は、自分は知らない、村内に太郎介という漁夫がいるから、当人に聞いてくれ

と言うこと。


太郎介の所に行くと、ハジを立てるのは、一々役所へ願ったり、庄屋に尋ねるものではな

い、・・・・・近く新地を築くことになり、ガタも高くなるから魚は捕れなくなる。だから、ハジの

位置を直したまでの事で、別に何の意味も無いとのこと。使いはそのまま戻るが・・・


後日、山田村の庄屋の使いだと言うことで、森山の庄屋の所に、ハジを撤去するよう太郎

介に話をしてくれとの事だが、断られる。


今度は、山田庄屋の所に、使者が来てハジは、はやり、撤去できないとのこと。これに対

し、山田村から使いが来て、山田の漁師は、あのハジで迷惑するから、こちらで撤去する

と言い、森山で作ったハジを切り破ってしまい、あとは、まあ、新しく作ったり、壊したりの

泥仕合。


この事から、佐賀藩と島原藩を巻き込んでの争い。要するに、一歩でも譲歩すると、それ

が前例になるということ。


さて、これも泥沼合戦になりますが、結果は、五年目から、記録が見られないそうですか

ら、「両方とも根負けして、破壊(ハジの破壊)のやり合いは中止にしたのではないかとい

われている」そうです。


さて、やっと子鯨です。

時代は変わって、安政六年(1859)二月九日。三ツ島の大島付近で、鯨が打ち上げられ

ます。(地図の白の矢印附近)


諫早領の者が知った時は、すでに遅く、島原領山田村のものが来て、鯨を大網で島に引

き揚げていたところ、鯨が暴れ頭をガタに突っ込んで身動きできない状態。日が暮れてき

たので、番人を残し、引き上げるが、そこへ諫早領の漁民が、鯨を捕ろうと思って来くる

が、半分は切りとってあり、残りを捕りたいとの話。


これに対し、「ここは、島の付け根の所で漁事はされないから村で捕りに来たまでだ」との

返事。


諫早方は、「島のつけ根ならなにも申し上げないが見うけのとおり、ここはガタの上で、海

は諫早の海と心得ている。・・・・・・・」と言ったところ、山田側も、島のつけ根だと言い張り

譲らない。


諫早方は「明日は、諫早の海という明白な証拠を差し出すから。」という事で、引き上げ。

翌日、両方とも譲らずも、結局、役方同士で話し合い、半分ずつ分けると言うことで、交渉

成立。


以上、長々と書いて来ましたが、当時の領地問題が感じられる話です。ざっと書きました

が、実際は、文書のやり取りなども多くあり、もっと、長く複雑な問題です。たかが「子鯨」

にも、思わぬ歴史があるものです。詳しくは、「森山町郷土史」、「諫早市史」をお読みくだ

さい。当時の領地に関する考え方が、よく分かります。

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(文引用・参考:「森山町郷土史」「諫早市史」より)


2014年4月24日 (木)

一口香・ごまパン~長崎

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先日、茂木の「草積御前 その一」「草積御前 その二」について書きましたが、茂木とい

えば、名物の「茂木枇杷」が有名ですが、長崎銘菓の茂木の「一口香」本店があり、もちろ

ん寄りました。茂木の「一口香」は、「茂木 一○香本店」と書いて、「いちまるこう」とふりが

なが書いてあります。

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店の前には、「茂木一○香本家の碑」があり、長いので要約すると、


「江の浦にいた、大久保市右衛門が、海運業『島原屋』を茂木玉台寺下に創業。当時は茂

木を中心に天草、薩摩、宮崎への商船の来船が多く、長崎出島や唐館との貿易交流の盛

んな所。

天保9年(1838)、長崎は飢饉にあい、、その際、応急食料として、『一口香』は唐饅を麦

粉に丸め、黒糖を含んであめ玉のように固く、航海者等の保存食として最適と記録あり。

市右衛門はこれに着目し、唐饅製造にのりだし、死後、二代目伝二郎に後を継がせ、

弘化元年(1844)店名を『エノキ屋』に改め、一口毎に香ばしいので『一口香』と名付けた

そうです。」あと、いろいろ書いてありますが、省略。


この「一口香」は、他に、榎純正堂の「榎の一口香」が有名ですが、中が空洞で、他県の

方には珍しいらしく、「食べたけど、中身が無かったとか」、TVにも取り上げられたことがあ

るそうです。両店の外観と、真ん中から切ったところで、中身は空洞。内側には、黒砂糖、

水飴、蜂蜜等で味がつけてあります。、

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「榎の一口香」のパンフレットによれば、


「当時、雑貨商だった弊堂初祖一右ェ門がみやげとして頂いた唐饅の製法を会得し、工夫

改良を加えてできたものが、一口香です。弘化元年(1844)創業以来・・・・・・・」と書いて

あり、これ、茂木「一○香」と一緒ですね。一右ェ門と一右衛門、字は少し違いますが、同

一人物でしょう。創業も、両方とも弘化元年(1844)になっています。


現在の、社長さんの名前も、茂木は「榎巍(たかし)氏」、榎木純正堂の名前も、「榎一憲

氏」で同じ、「榎」です。


これは、ネットの「一口香レポート」によれば、先代(伝一郎氏)の長男(正孝氏)が戦死。

次男(純一氏・茂木一○香本店の碑では三男)が純正堂を継承し、戦死された正孝氏の

長男(巍氏)が、一口香発祥の地、茂木で「茂木一○香本店」に改名し、その味を守り続け

ておられるそうです。


さて、「一口香」は、歯の丈夫な方は、良いのですが、歳取ると少しきつくなり、ちゃんと、説

明書きに書いてありますが、柔らかいのが好きな方、又、固くなった時は、オープントース

ターかフライパンで温めれば良いそうです。固いのが好きな方は、「個包装のまま手の平

等で割ってから袋からお出しくだい。」と言うことだそうです。女性の方は、固い方がお好き

かな?


茂木の「一○香本店」のホームページに載っていた写真です。

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「長崎町人誌」の、長崎でいろいろ一番になった所に、「一口香 (当時)西浜町にあった榎

純正堂が弘化元年(1844)に創業したものが最も古い。」となっていますが、「茂木一○

香本店の碑」では、「汐見崎観音(注:所在地、茂木です)参詣者、長崎市中や長崎街道

の旅行者に名産品として大いに好評を博す。」とあり、茂木にも、店があったらしい感じも

しますが、この写真、西浜町でしょうか、茂木でしょうか?もっとも、両方あったという事も

あるでしょうが・・・・弘化元年には写真機はありませんから、近代の写真でしょうが。


私の母の実家が、中華街の新地で、遊びに行った時、近くの店屋に売ってあった、ごまパ

ン。よく買いに行きましたが、

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このごまパン、昔は菓子を入れるビンに入れてあって、一個一個売ってあって、駄菓子と

いう感じだったのですが、今や観光土産。昔、行っていた店は、ありませんでした。


これには、「糖餅(黒砂糖味)」と「光餅(塩味)」と2種類あって、「糖餅」は「一口香」と一緒

で、中身が空洞。「光餅」は、中がふくれてないもの。昔は、どちらも「ごまパン」と行った覚

えがあるのですが・・・・・


左が「糖餅」。UFO見たいな形で、中身は空洞。中には、黒砂糖と蜂蜜が配合してありま

す。「一口香」と一緒です。右は「光餅」。そのままでも、ハム、蒲鉾等を挟んでも良いそう

です。

Photo_9 Photo_11

「ごまパンのつぶやきとして」説明があり、


「私たちは、黒砂糖(糖餅)と塩味(光餅)の姉妹です。中国生まれ日本へはまだお侍が大

勢いた頃に、船に乗ってやって来ました。着いたところが長崎の港で、たくさんの人に可愛

がっていただき、すっかり長崎が好きになりました。」という事です。


ごまパンを買う時、同じ物で、値段の高いのと安いのがあり、どちらか迷っていると、店の

おばちゃんが、「同じよ。安かほうが、賞味期限があと4日で、安うしとるけん、安か方ば買

うていかんね」。


さて、「一口香」が10個。「ごまパン」が9個。合わせて19個。どうしましょう?

(引用:各店パンフレット、「長崎町人誌」「茂木一○香本店の碑」等より)



2014年4月23日 (水)

「健康診断基準値」?~週刊ポストより

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別に、「肉食熟女が欲しいSEXは童貞が知っている」を読みたくて、400円も出したわけで

はありません。まあ、これはこれで面白かったけど。


気になったのが、白の四角で囲んだ部分、「血圧147は健康値の怪奇」。

読んでみると、PART1、PART2、PART3と別れていて、、一番気になったのが、PATRT1

の、「いままで我々は『病人』扱いされ薬漬けにされてきたってことか!?」


健康診断を受けている、よい子、ではなく、よい大人の方、結果表をもらい、そこに書いて

ある数値で、治療を受けるとか、再健診とか判断されますが・・・・


この数値が、「人間ドック学界が4月4日、血圧やコレステロール値、肥満度などについて

行った大規模調査の中間報告を発表。そこで、現在の健康診断で採用されている健康基

準値と大きく差がある『新基準値』が公表されたのだ。」というもの。

あくまで、中間発表としてありますが・・・・

Img_20140423_0003_2

赤い枠で囲んだ所が、「今回解析された基準」で、その右の数値が、従来のものです。

例えば今まで、血圧の上が129以上、下が84以上なら「高血圧」でしたが、新基準では9

4~147ではセーフで、上が140なら、今までは「高血圧」と診断されましたが、新基準で

はOKというわけです。


BMIも、男性は25以上はメタボと云われましたが、新基準では27.7までOK。私も、これ

で、メタボと云われなくても良いと言うことです。


なお、総コレステロールなど、女性の部分、年齢によって、変わっています。いままでは一

律だったのですが、まあ、20代の若い女性と、80代の高齢者では、違うのが当然でし

ょう。男性と女性も分けてあります。


中間発表ですから、専門医からの反論もあるでしょうが、皆さんの、健康診断の結果と見

比べてはいかが。


PART2は、「『患者』を量産したい医者・製薬会社 医療費を減らしたい役人ども」

基準値が変わると治療・薬が違ってきて、基準値が厳しいなら病気と診断され、治療・投

薬が必要。

基準値が緩くなると、病気とは診断されず、診療も不必要で、必然的に医療費の軽減にな

ります。なにか、お金の匂いがしますが・・・


PART3は「中高年は『薬は5種類まで』にしろ。」

私も6種類の薬を飲んでいますが、あれ、今日は飲んだっけ、なんて云うことが始終です

が・・・


健康に気をつけることは、必要ですが、あくまで、自己責任の部分が大きいので、一度読

んでみて、考えられては如何。


関係ありませんが、ポストに載っていましたので、おまけに。

宮中晩餐会の招待状で、菊のご紋は金の箔押しだそうです。

Img_20140423_0002

テーブルは、こんな感じだそうで、ナイフとかフォークをこんなに並べて、どうするんですか

ね?コップもたくさんあって、日本酒用、ビール用、焼酎用、ウィスキー用、泡盛用なのか

な?

Img_20140423_0004

私、招待されても、行きません。「ねーちゃん、箸持って来て」なんて、言える雰囲気ではな

いでしょう。

(文引用・写真:「週刊ポスト 5月2日号」より)




2014年4月22日 (火)

「新長崎市史」~勝海舟・坂本龍馬の道をめぐって?

Img_20140422_0001 Img_20140422_0002

本当にバカですね。先日「大村市史」を買い、「諫早市史(現在、新しいものが出版されて

ないため中古で、いわずと知れた高価本)」を買い、昨日は「有明町史」(現在は合併で島

原市)、今日は「長崎市史」と買い集め、ろくに読みもしないのに・・・・・キャバクラで遊んだ

方が良かったか heart02heart02 。


長崎市史は、カラー版であり、一冊なんと8000円。全巻4巻ですから、8000円×4巻

でいくらになるか、分かりますね。さすがに、全部は買い切れず、「近代」と「現代」は、パス

して、上の二巻を買いました。


長崎市はこれまで、大正から昭和にかけての「長崎市史」に始まり、「長崎市制五十年」、

「長崎市制六十五年史」、「長崎市史年表」、「市制百年長崎年表」を刊行。平成21年の

市制施行120周年を契機に「新長崎市史」を刊行したそうです。我が雲仙市は、いつに

なることやら、「市制1000年史」ぐらいかな?


さて、関係の所を読んでみると、???。


「元治元年(1864)勝海舟と坂本龍馬一行も長崎を訪れているが、往路は2月22日島原

港を発ち、陸路、神代村を経由、その日は愛津村(雲仙市愛野町)に宿泊、23日矢上宿

を経由、長崎に到着している。復路も4月5日長崎を発ち、その日愛津村に宿泊、6日に

島原港を出港している。」(下線は私が引いたもの)とあります。


島原から長崎に行くには

Img_20140422_0003

(「長崎龍馬の道活用広域観光推進協議会」刊、「龍馬の道」パンフレットより)


白の矢印、「北目道」と、黒の矢印「千々石道」があり、北目道は緩やか、千々石道は、山

越えの急な道になります。ただ、距離的には、北目道と千々石道では、かなりの違いがあ

り、千々石道の方が、近道になります。勝海舟一行はこの時、急いでいます。神代は、遠

回りの北目道にあります。


長崎市史では、往路、復路とも「北目道」説をとっていますが、地元では、往路は千々石

道、復路は北目道という説をとっています。


根拠は、「勝海舟日記」にあり、この日記、刊行jされていて、長崎図書館から借りて、コピ

ーしていたのですが、どこへやったのか、本当に歳はとりたくないもの。


「長崎龍馬の道活用広域観光推進協議会」から出しているパンフレットに、書いてあった

ので借用して、往路について


「少しでも距離が短い山沿いのちぢわ(千々石)道を通ったという説がある。」ということで、

勝海舟日記から引用して


「大石雑わり、小石、道路満ちて甚だ悪し、雲仙の獄、噴出せしによるか、西洋に云うラア

ミ(溶岩)年を経しものならむ。」と書いてあります。


雲仙は、噴火をしていますから、道は荒れているはずで、北目道のように、歩きやすい道

ではありません。確か日記では次いで、「会津泊(愛津ではなく会津との記憶があります)」

とのみ書いてあり、途中の経路については、まったく書いてなかった覚えがあります。


なお、復路は「鍋島日記」(神代の鍋島家)で、一行20名ばかり、休憩を取ったとの記述

がありますから、復路は北目道を通った事は間違いありません。


復路で、記録があるなら、公のことですから、往路の事も「鍋島日記」に書いてあるはずで

すが、これに言及したものは無いようです。


なお、「長崎龍馬の道活用広域観光推進協議会」の「龍馬の道 道標」に変なことが書い

てあり、


「神代鍋島家の4月20日付『鍋島日記』に次のような記載があります。(下線は私)

『公役人長崎江御用筋ニ而罷越候段(中略)神代江休之由ニ付町内休所割付手当相成

候事』

海舟一行は神代鍋島家の計らいで、街道をはずれ神代小路で休息を取ったようです。」

と書いてありますが、勝海舟一行が島原に着いたのが、確か2月22日あたりですから、

日にちが全然違い、上記の文章は、違う一行の事では?


なお、同協議会が出している、別パンフレット、「龍馬之道」では、ちゃんと、2月になってい

ました。


「島原半島の歴史~松尾卓次監修」では、帰路につき、現代語訳にされたものですが


「(四月五日、小雨後晴)最前長崎へ罷りこされた公役人が今昼別当で休まれ(略)休所

手当ていたす。一、御軍艦奉行並勝麟太郎上下弐十人(略)」この二十人の中に坂本龍

馬が含まれていた。」


とあり、この文章の方が、本当の事です。私も「勝海舟日記」で読んだ事を覚えています。

いずれにしても、歴史的な事物は、はっきりしないところが多いのですが、しっかりと調べ

て欲しいものです。私のブログも、後で読み返してかなり、ポカをしていますが・・・・いつも

のように、 ヾ(_ _*)ハンセイ・・・


なお、日記は後世の人が迷わないように、しっかりつけておきましょう。まあ、あまり偉くな

い人には関係ないけど bleah 。








2014年4月21日 (月)

「島原城跡公園災害復旧工事竣工式」~島原市

Photo

何回か写真を出しましたが、復旧なった石垣です。2年前だったか、豪雨で崩れ、直るの

かな、と思っていたら、期日どうりに完成。崩壊した所と、崩壊していない所が分かると思

います。


昨日、復旧工事の竣工式が行われ、これに伴い、基調講演、シンポジュームが行われ、

話を聞いたら、はやり餅屋は餅屋。単なる城だと思ったら、専門家の目は違いますね。こ

の城を、見直してしまいました。


頭に残った事などを。

この城は、国指定でも、県指定でもありませんが、専門家の目から見たら、なぜ、この城

が国の指定にならないか、不思議だそうです。

復旧のための委員と、現場でのチーフの皆さん。

Photo_2

崩壊した石垣の部分ですが、幸いに、以前撮った空中写真があり、崩れ落ちた石垣の一

つ一つが、どこに当てはまるか、比べたそうですが、この作業が一番大変だったらしく、こ

れだけで、2~3ヶ月かかったそうです。


ジグゾーパズルと言っていましたが、ジグゾーパズルなら、絵柄が出て正解かどうか、分

かりますが、これは、素人には全然分かりません。なにしろ、同じような石が、600~700

個あったと言いますから。

P4200361 Photo_3

このシンポジュームのなかで、「城が悲鳴あげていた」という発言がありましたが、島原城

は、復元後、多くの施設を上に作り、駐車場も舗装されていますが、これらが、元来の城

の機能を変えてしまったのではないか?排水も偏って、そのための崩落ではなかったかと

のことで、今後どうするか?従来の形に戻していくのか?


城を作る時、権威を示すためのモニュメントととして、巨石、鏡石を使うそうですが、他の

城にも見られないような、巨石が使われているそうで、写真、上右の石、今までそこにあ

った、自然石を利用したと思っていたら、これも、石垣の巨石の一つだそうです。


この辺は二の丸から、本丸に行くところで、観光客の方はほとんど、来ないところです。

重機も無い時代、どうして積み上げたのでしょう?

Photo_4 Photo_5

Photo_6 Photo_7

これは、平成19年に、島原城を研究された、U氏の島原城の防御構造の一つで、スライド

で写したものを撮影したものですが、赤の部分が本丸に辿り着くまでの道順です。


二の丸の橋を渡って、現在は文化会館、森岳公民館が建っているところを通って、二の丸

から、本丸までは橋を渡り、また、曲がりくねった道を通り、やっと本丸に辿り着きますが、

思うように直進できず、この間、攻め手は両側から鉄炮、投石などで攻められ、戦力が削

がれるわけです。「近世城郭では最高水準の防御構造」だそうです。


いざとなったら、二の丸、本丸の間の橋を壊してしまえば、本丸は独立してしまう、という事

になります。

Photo_8

二の丸から、本丸に至る橋が、大体ここらあたりに架かっていたそうです。(二の丸跡に建

てられた、文化会館裏手側にあります。橋がどこに架かっていたか、標識があると、あ

りがたいのですが・・・・

Photo_9

参加者の方から質問があり、毎日散歩をしているが、石垣近くの松が大きくなりすぎ、根

が張って、台風等の時、倒木し、一緒に石垣が壊れないかというもの。


これに対し、城の石垣が崩れる原因の67%が、そのような事で崩れているとか。それに

対するマニュアルなどは無いそうです。


景観は松があった方が良いのですが・・・・・古人曰く「城には松が良く似合う、私にはカミ

サンが良く似合う happy01 」

Photo_10

シンポジュームの後、現場で、記念式典。餅つき、餅播き。例によって、どこにでも顔を出

す、長崎「がんばらんば国体」、マスコットの、がんばくんと、らんばちゃん。

Photo_13 Photo_14

とにかく、この他いろいろな話がありましたが、専門家の意見を聞いて、見直しました。

城の詳しいことついては、観光ボランティアさんがいて、研修をして、いろいろ学んでいま

すので、城を訪ねる場合は、ボランティアさんにお願いした方が、良いのではないかと思い

ます。まだまだ、隠された謎が多いような城です。


なお、この城は現在、観光関係の部署が管轄しており、文化財担当はほとんどタッチして

ないそうです。文化財というより、観光資源として見ているような感じで、話によれば、50

年で27億円稼いだそうでが、文化財としての見直しも、本格的に必要な感じがしました。


ただ、七万石の城にしては、立派すぎる城だとか。このために、島原半島の住民は重税、

苦役で困窮し、原城一揆が起こるのですが・・・・


追伸です。島原城の石垣は、島原半島の各城から運んで、集めたものです。



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