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2014年3月30日 - 2014年4月5日

2014年4月 5日 (土)

「はた揚げ大会」~雲仙市吾妻町・愛野町

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昨年も「愛のハタあげ大会」で紹介しましたが、先週3月30日には、「吾妻町はた保存会」

による「第18回吾妻町はた保存会はた揚げ大会」、今日は、「愛野町剣舞箏保存会」によ

る、「第18回愛のハタあげ」が開催。


明日は、長崎市で「唐八景のハタ揚げ大会」。なんと、新聞紙2面をぶち抜いての特集。他

の所ありませんよね。


長崎のハタ揚げは、ヨマ(ハタを揚げる糸)のさきの方に、ビードロ(ガラス)を小さく砕き、

接着済で塗りつけ、他のハタに絡めて、糸を切り合うという、「ハタ合戦」をします。


切られたからといって、喧嘩することもなく、飛んでいったハタは、子どもが追っかけて拾っ

て、自分の物とします。


「郷土史事典~長崎文献社刊」にはこう書いてあります。


「合戦手合わせの申し込みは予め礼儀正しく行われ切り合いも正々堂々としていた。江戸

時代からのはたあげ大会の世話町も数か町定められ、物事の一切の処理をした。今日で

もこの伝統は守られていて、はたの切り合いに関する紛争は少ない。」


新聞にはちゃんと、「ハタ合戦出場者名簿」まで載っていて、49歳から78歳までの16名

の方が出場されるそうで、こうなると、ハタ揚げ(関東では凧あげ)は子どもの遊びとは言

えないデスネ。

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さて、一番上の写真のハタは「剣舞箏」といいますが、「郷土史事典」では少し形が違って

おり、

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こんな感じで、「けんむそう」書いてあり、「下に三本のハタの骨が出ているのが劔に見立

てられて。」と書かれていますが、こちらでは「けんぼうそう」と言い、真ん中の所が尖って

なく。

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おめでたい絵が描いてあり、男の子の誕生を祝って揚げるものだそうです。

こちらは、子どもの似顔絵が描いてありますが、下に書いてあるのが家紋で、夫婦両家の

家紋を入れるそうです。

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さて、今日は思い思いにハタを作ってお持ちより.

左はバラモンと言われるハタ。

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「郷土史事典」にも「ばらもんを揚げる(江戸時代)」と書いてありますが、四人かかりです

から、かなり大きなハタでしょう。

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右の方は、コブラだそうです。

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これ、ナンデショウ。右は、わざわざ天草から来られた方のハタ、「なんとか、かんとか

(又、名前忘れました)。」

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ノンビリと連バタ。80枚だそうです。愛野のハタ保存会の法被。「剣舞箏」が描いてありま

す。

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収穫を終えた田んぼの中で、ノンビリと良いですね。

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こちらが、普通長崎で使うハタです。「郷土史事典」によれば、「あごばた」という種類で、出

島蘭館のインドネシア人から伝わったと書いてあります。関東のハタより上下左右に操作

がしやすく、ハタ合戦には向いています。

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以前、諫早でもハタ揚げ(長崎とは違って大型のハタ)が禁止になったことを書きました

が、長崎でもハタ揚げ盛んになりすぎ、禁止になっています。


「長崎町人誌」によれば、「奉行所は安永二年(1773)次いで天命元年(1781)『ハタあ

げ』取り締まり法令をだしている」。


にもかかわらず、益々「ハタあげ」に熱狂し、野山のみでなく町中でハタを揚げ、屋根の瓦

などを踏みわり、人の家の庭木をあらし、口喧嘩でけが人が出たりで、文化一二年(181

6)に禁止令を公布したそうです。


しかしこれも、10年たたないうち、奢侈禁止令にもかかわらず、美妓、酒をたずさえ、三

味線、太鼓の囃子でハタを揚げる者がいたため、嘉永二年(1849)に「ハタあげ」禁止令

を出し、次のように訓令したそうです。


「一切ハタあげ申間敷のこと。近頃面々家業の営を忘却しハタあげ相い聞え候。如何の

事候。向後ハタあげ候者共これあるにおいては急度(きっと)申し付く可く候。尤も、小兒・・

の分は苦しからず」・・・「しかし、この厳しい法令も安政六年(1859)の開国令に再び忘れ

られ、又自由に町の人たちは『ハタあげ』を楽しんでいる。


最後にこう結んであります。「長崎町人の心得第一条は、『嵐がきた時には静かに身を引

き、時機ををえて又楽しめばよい』」。長崎人って意外と人生の達人なのでは?

(参考・引用:「長崎町人誌」「郷土史事典」~長崎文献社刊より)


2014年4月 4日 (金)

花まつり★ガルデン(八江農芸)~諫早市

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「花まつり」といっても、桜の方ではなく、園芸の花の方です。


花や野菜の種、苗を販売しているガルデン(八江農芸)で毎年開かれ、種類が多く、安い

のでいつも買い出しにに行っています。九時半頃に行ったら、駐車場はもういっぱい。


一般ガーデン用の苗に、ちょっと手が出ない、胡蝶蘭。

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あじさいにミニサボテンまで。

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こちらは、どちらかというと野菜苗を見にいったので、本店とバイパス店に。これだけある

と目移りがします。

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左の写真何だか分かりますか?プランタンに植えたゴーヤです。実もちろんご覧の通り

立派なもの。昨年は、緑のカーテンとして流行りましたが、これくらい繁ると立派なカーテン

替わり。今年はいかがですか?

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茄子にトマトこれも鉢で育ててあります。

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ピーマン。なんと鉢で育てた、かぼちゃ。ご立派。

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これくらいまでなら許せますが、メロンに、スイカまで鉢植え。これ見ると、土地がないから

野菜ができませ~ん、なんて、甘いこと言えませんね。為せば成る、とかいいますから、頑

張ってみましょう。といっても、私も以前、挑戦はしましたが、なかなかですね・・・さすがプ

ロの技。

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こちらは、私が好きな山野草コーナー。一時、寒葵を集めていたこともありました。

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本当に、私と同じく目立たない、寒葵の花。冬咲きますが、こんなに目立たなくては、蝶々

さんも、蜂さんも寄りませんよね。カンアオイの広がり方については、まだ、良く分かってな

いそうです。あまり、見たことがないと思いますので、載せておきます。花ですよ!

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期間中は、洋ランの植替え実演販売、野菜等のミニ栽培講習会も予定されていますか

ら、確認の上、参加して立派な野菜を育ててください。

期間は4月6日までですが、土曜、日曜は人が多いと思いますので、お早めに。

会場には、近隣町の特産品店があったので、

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お土産に、以前書いた、「幻の高来そば」と「雲仙こぶ高菜まんじゅう」を買って帰りまし

た。カミサンが今晩はいないので、晩ご飯です。「雲仙こぶ高菜まんじゅう」は、あんこの代

わりに「こぶ高菜」が入って、独特の味です。

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カミサンは昼から行ったらしく、買ってきた物をみたら、ポピーと「幻の高来そば」。よりによ

って、同じ物を・・・・・ angry プンプン。


2014年4月 3日 (木)

「草積御前」について★長崎市茂木町~伝説について その二

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昨日の続きになります。この話は数件の資料に見られますが、孫引きであるのか、実際に

現地で聞き取りしたのかは不明です。


長崎町人誌 第五巻 新編 長崎名勝図絵」。この本については、以前少し書きました

が、江戸中期から後期にかけて、各地の名所図会が発刊され、長崎でも長崎奉行が命じ

て編纂させますが、脱稿までいかず、長崎区役所・長崎市役所に眠っていたものを、長崎

史談会で昭和6年刊行。普及のため、文章も平易にするなどして昭和49年再発刊。


今回(平成9年発刊)は、図版の再現は忠実にし、本文は記述は尊重しながら、現状の状

況を若干重ね、全体の組み立てを一応解体し、地域により分かりやすく再構築したものだ

そうで、私が持っているのは、この本です。


と言う事は、「草積御前」として、文章として現れたのは、この本が一番最初だと思われま

す。


まず、❻❼父親に関しては、龍造寺隆信。但し、「母親は千々岩(ママ)の館に召し使われ

ていた」が、「島原の漁人の女に生ませた」になっています。


❻母の死後、転々として、犬に吠えられたりして結局、ここで死んだ。ここは一緒ですが、

「里人は哀れに思い葬ったが、その後、いろいろと不思議な事が起こるので祠を作った。

草積明神と言って祈ると霊験がある。小石がお賽銭の代わりである。これは盲目の悲し

さ、犬に吠えられ杖で払おうとしても叶わず、石を探って取って投げている内に悶絶して倒

れたのであった。だから、祠壇には供えられた小石が堆高く積まれている。・・・・」の記述

有り。


❿唐通事劉宣義の所は同じ。「なお、龍造寺隆信はこの娘のことは全く知ってなかった。」


❼「私が死んだら海の見える高い山に葬り、五輪の塔を建てて欲しいと言った。それで、

千々と大崎の間、松の大木のあるところに墓を立てた。のち、玉台寺の右に移し祀る。近

年、その祠が火災で焼失したのでまた移して今は玉台寺内にあるのである。


さて、この火災が、いつあって、移転されたかは書いてありませんが、前回の写真で見る

ように、新しく、また、厳重に鉄柵がしてあるところを見ると、長崎町人誌の「現状の状況を

若干重ね・・・」と言うことでは無いかと思うのですが・・・・・


なお、草積御前が、龍造寺の娘であったことは、本人の口から語ったことは書いてありま

せん。


昭和33年発刊の「茂木郷土誌」によれば、❻❼の父は、龍造寺隆信ではなく、藤原隆信

になっており、「島原の漁師の子某女と親しくなり・・・・・」、隆信は旅立ちますが、「子どもを

産み『藤』と名付づけたのであった。」


母は他界、藤は目が不自由になり、父を尋ね、うつぼ舟(大木をくってつくった舟)にのり、

ついたところが千々。後は、前に書いたような話になりますが、玉台寺の説明版にに書か

れたような言葉を残して亡くなったと言う事で、付近の人は「草住の野に島原をむけて葬っ

てやった、そして、草積御前、草積様といって石や貝殻を供えて参詣素津人も相当であっ

た。


後になって千々は不便だというので分骨して松尾玉台寺の一隅に祭ったのある。」と記さ

れています。


わが町の歴史散歩~熊弘人著」では、❶草積夫人祠としてありますが、❻❼父の名は、

龍造寺隆信。あとは、長崎町民誌とほぼ同様なことが書かれていますが、「祠は南小中学

校近くにある。」と書いてあったので、またも、バカだなと思いながらも、現地に行くと、一

番上の写真、南小中学校の入り口に「草積ごぜん」の看板。祠は、学校のすぐ手前にあり

ました。祠は、茂木四国八十八カ所の五十五番札所でもあります。

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中には、3体の石仏と、一番右、五輪の塔碑が置いてあり、コンクリーで補修がしてありま

した。石仏は左から古い順みたいでしたが、一番新しいものは、昭和63年7月に建立、

「草積御前」と書いてありました。


一番右が、五輪の塔碑になるのでしょうが、一番下の台に、同じように「草積御前」と書い

てあり、小石が積み上げてありました。これが伝説に出てくる、五輪の塔碑でしょう。

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私も、島原半島の千々石に住んでいるので、少しはご縁があるのかな、と思い、千々石の

海岸の石を2,3個持っていって、お供えしてきました。

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祠の横には、玉台寺と同じような説明版が付けてありました。

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この場所からでは、海の方は木が茂って見えませんでしたが、少し下の方から見ると・・・

残念ながら、霞んで、どこが、どこか、よく分かりませんでした。千々石はもう少し左側か?

地元の方に聞くと、天気によっては島原半島がよく見えるそうですが・・・・

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さて、残るは「茂木の散歩道」。これは、長崎市のホームページ、観光案内>観光・文化的

施設>長崎の隠れたスポットをさるく>茂木をたずねての、「茂木の散歩道」に出ていま

すが、こちらは、「長崎名勝図絵」の引用で、ただ、祠の横にある説明版もそのまま引用し

てあり、龍造寺か藤原かははっきり書いてありません。


あちらこちらで、高齢者の方の話を聞くことがあるのですが、同じ話でも、少しづつ違って

いるところがあり、この話を書きながら、伝説、口伝は複数の話を聞かないと、正確なとこ

ろは分からないなと思っているところです・・・・


ただ、龍造寺隆信、藤原隆信。隆信が同じですから、何かの話が混同したと思うのです

が・・・・


しかし、千々は、「茂木のあゆみ」の「陸上交通」の所に書いてありますが、陸上交通が不

便だった所であったようで、茂木~大崎・千々の所に「茂木と大崎・千々の間は、5,6トン

の発動機で人だけでなく日用品や農産物、農業資材などを運んでいた。昭和36年から5

年間かけて宮摺・大崎・千々間に林道を整備し、昭和46年に県道となった。」とありますか

ら、戦国時代と言えば、ほとんど交通不便な寒村といえるでしょう。その土地に、なぜ、都

の貴族の「藤原隆信」の名前が残っているのか?


藤原隆信の足跡をもう少し、追ってみないとと思っているのですが、ご存じの方はありませ

んか?


小さな事ですが、土地の名称で「草積の野」とあったり、「草積した野」としたあるのです

が、千々の旧小字名を調べると、「草積」と言うところは無く、「草積した野」で、通称「草積

の野」と言いうのではないかと思うのですが・・・・・

なお、祠が移転した経過も少しずつ違った所もあり、とにかく、伝説、口伝の類いは難しい

ですね。


2014年4月 2日 (水)

「草積御前」について★長崎市茂木町~伝説について その一

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資料を整理していたら、どこでコピーしたものか、「草積明神の主」(釜蓋城の伝説)という

のが出てきて(「あまり長い話なので一部省略等訂正をしている。」との但し書きあり)・・


茂木の伝説として、千々石に関係があるということで紹介がしてあり、この話、千々石では

まったく聞いた事もなく、角川書店「日本の伝説28 長崎の伝説~福田清人・深江福吉」

に載っているとの事。さっそくお取り寄せ。


内容は、以下の通りですが、話がややこしいところがあるので、私なりにまとめてみまし

た。


❶ 題は「草積大明神」

❷ 四百年ばかりの昔、文禄年間の事、一隻の小舟が、茂木の千々の里に流れ着いた。

(注:千々は茂木の先で、当時は寂しい漁村。千々石と千々は名前が似ているようでも、

交流はありません)

❸ 小舟には、弱った盲目の娘が乗ってた。

❹ 娘は、どうにか二、三軒の漁師の家のあるところに辿り着くが、とびだしてきた犬が吠

えかかった。漁師は犬を怒鳴りつけ、押さえつけた。

❺ 親切な漁師に手当を受け、ようやく元気になった時、「ありがとうございます。あの、島

原の方へ行く便船ありますまいか」。「なに、お前さんは島原にわたりたかとか?」。「は

い、島原の千々岩(千々石?)は、わたしの母の里でございます」。(注:「ちぢわ」という地

名は島原半島には「千々石町」一つしか無くしかなく、「千々岩」は記載違いか?)

❻ 漁師が身の上を聞くと、母は二年ほど前、亡くなったが「・・・父の顔は知りません。母

はなくなる前、初めて私に、お前の血には殿さまの血が流れていると明かしてくれました」

娘は、3日後に死んでしまうが、死ぬ前に「母は私を産ませた父は、島原に攻め寄せた隣

の国の殿さまということでした。母はその出先の千々岩(ママ)の館に召し使われていまし

た。

父に当たるその殿さまは、私の生まれる前、本国に帰られて、その後六,七年がたってま

た、その殿さまにそむいた島原を攻めた時、とうとう沖田畷という所で戦死されたそうでご

ざいます」。そのため、それが知れると命が危ないので、各地を転々としたとのこと。

❼  亡くなる、千々石の見える丘に、小さな石塔でも建てて欲しいとのお願いをする。漁

師夫婦は、願い通り、丘の上に葬り、千々石の方に向けて五輪の塔を建ててやった。

❽ 長崎から来た物知りの商人に聞くと、島原の沖田畷で討ち死にした殿さまは、龍造寺

隆信とのこと。

❾ 里人も花や水を供え、願いを立てると必ずかなえられるということで、小さな祠をたて、

土地の名にちなみ、「草積大明神」とよばれるようになった。

❿ その後、100年ばかり後、長崎の劉宣義(りゅうせんぎ)という唐通事がこの土地に、

遊びに来、この話を聞き、祠を修復するも、後焼けたので、その後、玉台寺に移された。


と言う事で、住んでいる千々石に関する事なので、茂木の玉台寺まで出かけると、山門を

くぐった、左側の大銀杏の下に祠があり、

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4

厳重に祀られており、隙間から撮した写真が、一番上の写真で、どう見ても新しいもの。

住職さんに尋ねてみようかと思ったのですが、あいにく留守。


ところがが、祠の横を見たら、説明版が設置してあり、これにはなんと


「草積御前の祠(延命地蔵尊) 境内、本堂の向かって左側大銀杏の根元にある 藤原俊

成の子隆信(定家の兄)が島原を訪ねたとき漁師の娘との間に一女を設けたが不運にも

盲目となり船より落ち茂木の千々海岸に漂着したが上陸後野犬にかまれ死去、

臨終に村人に言う。『私は盲目で不幸な生と終わるが同様な運命の人たちを死後救い

たい』

千々の村人は現在の位置(千々南町中学校)に葬り冥福を祈った。

草積みした野で死去したので草積御前と称した。

今延命地蔵として日々のお参り人々にために御苦労してくださっております。」


との説明。まったく、「日本の伝説」の記述とは違うところが、特に、❻❽の所、父親がまっ

たく違っています。龍造寺隆信は、確かに、島原半島まで攻めのぼり、島原市の沖田畷で

討ち死にをしています。1529年~1584年の人。


藤原隆信は、父が為経、母の再婚相手、藤原俊成に育てられ、歌人藤原定家は異父弟

に当たるそうです。自身も歌人であり、画家としても有名。1142年~1205年の人。年代

がまったく違います。


色好みとしても有名で、(最もあの時代の貴族は、色事が一つの仕事で、源氏物語を読ん

でもわかりますね)建礼門院右京大夫も恋人の一人であったとか。


❷の所、文禄年間の頃であろうかについて。文禄年間は1592年~1596年ですから、

時代的には龍造寺が討ち死にして、子どもが大きくなるまで数年かかったとしても、年代

的には何とか合います。ただし、後で物語に合わせて書いたと言う事も考えられます

が・・・


あと、藤原隆信が島原まで来たかどうかと言う事ですが、隆信は越前守、若狭守を歴任し

ていますが、これは、北陸の方。


群書類從に隆信の歌集があり、和歌には前書きとか、歌の部分に地名が織り込まれてい

るものがあるのですが、残念ながら島原関係は無いようでした。日記があればすぐに分か

るのですが。足跡は分かりませんでした。


ただ、長崎が京都から遠くの田舎といえど、戦国初期の1528年(大永年間)、諫早城主

西郷尚善が京都に滞在し、内大臣で歌道にもすぐれた三条西実隆から、和歌、連歌の指

導を受けていると言う事実もあり(故外山幹夫「長崎市の実像」「高来の風」、他の書物に

も散見します)、田舎と京都も文化の面でも交流があり、隆信が来たことがないとは、10

0%否定出来ないのでは?


と言う事で、この話、「長崎町人誌」にも載っており、他に、「茂木町の郷土誌」、「わが町の

郷土誌~熊弘人著」、「茂木の散歩道」などにも取り上げられており、微妙に異なっており

伝説の伝わり方が違い、面白いので、これについては、また、次回。


タマネギの取り入れ時です。畑の間の道を通ると、タマネギの匂いが香ってきます。

今年は、タマネギの値段が良いらしく、昨年は沢山いただいたのですが、今年は・・・・

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2014年4月 1日 (火)

「新編 大村市史第二巻」発刊~大村市&その他

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「新編 大村市史第二巻」がやっと発刊。第一巻が平成25年3月でしたから、随分待った

感じですが、まあ、この厚さになれば・・・計五巻まで刊行すると言う事でした。


第一巻は、「自然・原始・古代編」でしたが、第二巻は「中世編」で、鎌倉時代、室町時代、

戦国時代、対外関係(貿易・キリシタン史)、中世の社寺と信仰、石造物からみた中世・大

村の様相と仏教文化、考古資料からみた中世。


この時代、動きが不明な点が多々ありますから、「大村家の出自」の「従来の説とその信

憑性」、「大村家系譜はどこまで史実か」。何となく魅力ありますね。


島原半島を調べると、どうしても、諫早、大村、佐賀あたりまで手を伸ばす必要があります

が、ちゃんと「龍造寺」、島原半島の「有馬氏」との関係も書いてあります。


なお、千々石の、野田名の畑の中にある、「地輪」(地元の方はほとんど知らない)の事ま

で言及されております。


さて、この本、今日の長崎新聞に載っており、連絡をとると、現金書留で料金を送ると、送

料は着払で送付してくれるそうです。


発行部数が、500部で、半分を県内外の図書館に送り、残りは、一般販売になるとかで、

すぐに、飛んでいって買って来ました。私が、一部買ったので、少なくとも残りは、249部

です。興味のある方は、入手された方が良いですよ。ざっと読みましたが、読みごたえは

ありました。価格は、5,000円ですが、写真もカラーで、豪華版です。


5,000円は高い?中身を読むと安いものです。私の場合は、女の子に貢いだと思えば

安いもの。

2

大村公園の桜が満開だったので、帰りに写真でもと思っていたのですが、K書店に寄った

ら、社長さんと話が弾んで、時間切れ。


代わりに、私の好きな森山図書館前のウォーキングロードと、桜の通り抜けの写真など

を・・・


桜はボチボチ散っていました。森山町は早場米をやっており、もう、田植えの準備です。

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桜の通り抜けです。

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おまけ。これ見て、ビックリしました。エイプリルフールじゃないかと思ったんですが・・

3

多分、高圧電線の保守点検でしょが、見ているだけで、具合が悪くなりました。


2014年3月31日 (月)

「橘公園花まつり演芸会」~雲仙市橘公園

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咲いたかと思っていたら、昨日からの風雨で、桜が早目に散り始め。土曜日の「観櫻火

宴」は体育館での実施。


次の日の、日曜日の「橘公園はなまつり演芸会」も、朝からの雨で危ぶまれたものの、時

間をずらしての実施。


最初はいつもの、中学校ブラスバンドによる「御神楽」。「観櫻火宴」に続いて、二日間連

続の出演。

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今年初めての出演。「南中ソーラン」。千々石第一小学校の皆さん。

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踊りの皆さん。もちろんTV局も実況放送、ではなく、地元「ひまわりテレビ」の収録。

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本年度、神社の祭りの演芸会で出演した、上町地区の踊り。球磨の六調子。

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こちらも、祭りで出演の瀬々尾地区の「エイサーミルクムナリ」

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カラオケの皆さん、いつもの通り、気持ちよさそう~。

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こちらは、熟女(o(_ _)o失礼)ではなく、ウラ若き乙女のフラダンス。あまりの、美しさに私も

フラフラと・・・・

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こちらも、今年の神社の秋祭りに出演の、南船津名の銭太鼓。保存会も作って、練習して

います。二本の棒を操りながらの、見事な演技。

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最後は全員で、「千々石音頭」の総踊り。;

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田舎の演芸会で、全部ボランティアの手作りですが、こんなところが、味があって良いもん

ですね。とにかく、雨を心配しながらの演芸会でしたが、なんとか、持ちこたえ、見物の方

も喜んで見ておられました。裏方の方は天気を心配しながら、お疲れ様でした。


今日、月曜日、2,3の場所の桜を見に行ったら、あちらこちら、ほとんど散りかけで、今年

は例年より少し早いのかな?花見をされる方は、仕事を休んでも早めにどうぞ。




2014年3月30日 (日)

雨の観櫻火宴(かんおうかえん)~雲仙市千々石町

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出陣式ではなく、記念写真撮影式です。残念ながら、日本一の松明武者行列、雨のため

松明行列は出来ませんでしたが、イベントは、千々石中学校の体育館で賑やかに開催。


実行委員会の会長の話によれば、雨は3回目だとか。確率としては、天気の時が多いの

ですが・・・誠に残念。


最強軍団の稚児武者と極悪軍団。最強軍団が負けるはずもなくというところで・・・

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千々石中学校ブラスバンド部の「御神楽(みかぐら)」。ブラスバンド部は現在8人ですが、

新年度で新しい部員が入って、増えてくれれば良いのですが。

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昨年結成したばかりの、千々石の、「肥前千々石鉄砲隊」。本物の火縄銃だそうで、警察

の許可も得ているそうです。「なんでも鑑定団」にでた、値打ちものもあるとか。体育館の

内なので、発砲は出来ませんでした・・・・

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今年、中学校に入る、元服武者の「元服立志式」。千々石大和守よりの訓示。みんな仲良

く、勉強をして、女遊びはしないように(冗談)。これは、記念になりますよ。ウチの孫の時

も出ましたが。来年中学校にあがる、お子様をお持ちの方は是非参加を。

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舞台に上がって、一人一人、自分の名前と夢を語ります。ひとり、「考古学者になりたいで

す」と言う武者がいて、良いですね。我が市では発掘調査が、まだまだ進んでいませんか

ら。

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天正遣欧使節の「四少年物語」。左から2人目が、千々石出身の千々石ミゲル。

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最後は、特別フィナーレでAKB48の「なんとかかんとか(歌の題、いつもの如く忘れまし

た)」を踊って、賑やかに終演。

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朝から雨で、せっかく準備したものが、予定変更になり残念でしたが、体育館でのイベント

も意外と盛り上がりました。ぶっつけ本番だったので、裏方さんは大変だったでしょう。

来年は、晴れるように祈っています。


松明行列は、以前写真を撮ったもので、我慢してください。

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来年のお越しを。


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