「島原藩南串山村馬場庄屋・古記録抜書帳」~雲仙市南串山町古文書研究会
雲仙市の南串山村(現雲仙市南串山町)は、島原の乱後、万治元年、馬場庄左衛門が庄
屋に就任し、それ以降、馬場家が庄屋を継いでいきます。南串山と言っても、ご存じない方
がおられるので、左図は江戸時代の島原の村の様子ですが、矢印の所が、南串山村にな
ります。
この馬場庄屋のご子孫の方が、町外に移るにあたり、屋敷を解く時、古文書が出てきたそ
うで、それを、教育委員会に寄贈され、現在、これを、古文書研究会で解読中であり、その
一部が、一番上の写真のように、発行をされました。
今回の発行は、「古記録抜書帳」と、隣町、小浜町の本多宣章(小浜湯太夫~島原藩から
派遣され、小浜温泉の管理を任せられたご子孫)氏所蔵の「元御巡見之部」「追鳥猟之部」
を解読したもので、現在「定書等控帳」「免許の品覚書」を解読中だそうです。
この、古記録集は、馬場庄屋が入手、あるいは色々な文献等から、島原、南串山に関する
事を、抜き書きしたもので、「有馬左衛門家日記抜書」「鍋島家譜」「長崎根元記」「日記、覚
書」「長崎実記」「旧記・日記類聚集」「隈部杢左衛門覚書略書」「享保明細書」「大変記」
「起立帳・金蔵庵覚書・歓喜庵日記」「落穂集」からの抜き書きの記録です。
島原・天草一揆の折、南串山も参加をしますが、串山村人口1962名に対し、1962名、
100%が参加したことになっていますが、他町では、年寄り、小さい子供等、山奥の穴に逃
れていたという、言い伝えもあり、参加人数も研究者によって、まちまちの所がありますが、
ほとんど参加と言って良いでしょう。上の地図右側、色の濃い所が全村参加、少し薄いとこ
ろが一部参加、薄いところが不参加です。
一揆後、人口が少なくなり、幕府は移住政策をとり、特に小豆島からの移住が多く
この冊子は、上段が原文の印刷、下段が読み下し文、後の方に、現代語に直してあり、少
し見にくいので、書き写してみると
多喜弥覚書①
一 小豆島より、三十軒引越し候内、当村京泊名田の平十七軒住居。
歓喜院と申す真言宗の僧同道、浦分に仮庵を取り補理(しつらえ)、之を入れ置き、岡
分に志自岐(しじき)権現を勧請仕り候。
多(太)喜弥は、乙名か筆者(びしゃ)の役の人であろうという事だそうです。小豆島からの
移住の方の墓も残っており、これは次回という事で・・・
島原・天草一揆の事、寛政四年の雲仙噴火、又、島原城主二代目の松倉勝家について
も、「松倉長門守は、父に似合ず、武を忘れ諸士を愛(いつくし)まず、女色を好み、酒に
酖(ふけり)て領内の仕置正(たださ)ず。・・・・・」とあり、この後、四十八人が脱藩されたこと
も書いてあり(鍋島家譜③)、なかなか面白いものでした。
なお、古文書研究会の方は、ボランティアで平成22年から解読をされているそうですが、
まだまだ古文書があり、次回の出版が待たれます。
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