遺蹟に思う
故外山幹夫氏の最後の本になりました。外山氏は、長崎大学教授、名誉教授を務められま
したが、県文化化財保護審議会長、長崎市編さん委員長などを歴任され、長崎の歴史に
ついて造詣が深い方でした。
この本にも、長崎に関わるエピソードが沢山載っています。この本の中に、こう書かれてい
ます。
「近年の地域開発の波の中にあって、城郭の遺跡、遺構の大半が破壊される事態が生じ
ている。・・・・・・深江城(南島原市)跡は、本丸跡を道路が貫通し、寺中寺(島原市)跡には
市営住宅が建っている。千々石氏ゆかりの釜蓋城(かまぶたじょう・雲仙市)跡の前面は運
動公園となり、前面は削り取られ、跡は城郭風の展望台がつくられ、往時の姿はわずかに
後半部に残されているばかりである。神浦城(長崎市外海町)跡もあっさりと公園になり、も
はや往時を彷彿させるものはない。」
ここに書かれている、釜蓋城。天正遺欧少年使節の一人、千々石ミゲルが生まれたところ
です。
大きな○印が釜蓋城のあったところ。黄色の矢印が、千々石中学校。ここの右側の少し上
に、橘神社があります。赤の矢印の凹んだ所が、町民公園になっています。
本に書かれているように、前面が削られています。複数の方に聞いたところ、鎧、刀等が出
て来たそうですが、工事はそのまま進められたそうです。
右の上の所、城みたいなのがありますが、単なる展望台です。ここには、このような天守閣
はありませんでした。こんなのつくると、立派な天守閣があったのかと、誤解されるのです
が・・・・・公園は、ほとんど使われなく、中学校の野球部の専用になっていて、野球部が使
わなければ、草ぼうぼうでしょう。
赤の矢印の所が、宇木城(諫早市・有喜)ですが、多分青の矢印の所と繋がっていたのでし
ょうが、真ん中を国道が通っています。後、諫早を支配した西郷氏の居城だと言われてい
ます。
城跡は、学校になっていて、何かないかウロウロして見たのですが、怪しげなオジサンと間
違われたらいけないので、そうそうに退散。
最も、この城は、諫早の西郷氏が亡ぼると同時に、廃城。天正15年(1587)。大正8年
(1919)に、有喜尋常高等小学校ができたそうですから、文化財に対する重要性の考えは
無かった時代でしょう。
キリシタン大名、結城氏の居城、結城城(金山城)。ここも登って見ると、グラウンドゴルフ場
に変わっていました。
その他、先ほどの西郷氏と関係のある、杉峰城に行ってみたら、竹林で、本丸までは行き
着けませんでした。これについては、後日書くつもりです。
なお、千々石から別所ダムに行く途中、「白雀の乱」で有名な「稚児落しの滝」(宝永四年に
「白雀の乱」を題材にした謡曲有り)がありますが、行ってみたら立入禁止。
なぜか聞いたら、自動車道路を拡張したため、滝に行く道がなくなり、危険なため立入禁
止。まったく、ナニを考えているのか、歴史も知らない、知能指数オタクが図面を引いたん
でしょうが。
この間の、腹切坂を調べる時、公民館の先生と話をしていると、「もう、90以上の方でない
と、昔の事は分からないでしょう」と云われましたが、自分の地域の小さな史蹟、古い話は、
今のうちに残しとかないと、みんな歴史の中に埋まるでしょう。
私も、少しずつ話を集めているところですが、相手が、お爺ちゃん、お婆ちゃんばかりで、少
しは若い女性と・・・・・
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