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2014年9月 4日 (木)

益田四郎屋舗!?

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天草四郎、元和7年(1621年)とか、1623年生まれとか、説がありますが、まあ出生届も

ない時代。大体ここらあたりが生まれた年でしょう。(天草四郎の本名は益田四郎です)


父が小西行長の家来、益田甚兵衛。天草の大矢野島(現在の上天草市)とか、宇土郡江

部村(現在の宇土市)とか、長崎で生まれたとか諸説あるようですが、長崎とは関係がある

ような事は、種々の本に書いてあります。(天草は行長の領地でした)


さて、以前、長崎文献社から、長崎文献叢書と云うことで、長崎について書かれたものを集

め、出版されたものがあり、「長崎土産」「長崎不二賛」「長崎萬歳」「長崎名勝図絵」とか、

集めてあり、「長崎土産に」には、遊女の感想まで書いてあって、



「一 渡邊新左衛門内」

「一角  年十八  心あくまでつよし りはつよきほと也 初心のおとこにハ ちとあふま

じか」、なんとことも書いてあり、読んでいたら?


「長崎古今集覧 上巻」。この本は、松浦東渓が書いたものです。唐人番であったそうです

が、長崎に関する資料を集め、寛永元年(1789)、38才で仕事をやめ、この著述に没頭

したそうです。


内容は、故森永種夫氏が「序にかえて」に書いてあるように、「彼は私意を以て長崎の歴史

を書くという方法をとらなかった、時代を追ってある項目を立て、それについては甲書には

かく述べ、乙書にはかく記してあるという風に並列に記した。」と云うものですが、ザッと見て

いると、あれ?

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「長崎古今集覧巻之五」の「旧蹟」の所。「城屋墳墓等、今若シ可徴アラバ、裨益ノ一助タラ

ン為ニ記シ置ク」と書いてありますから、ハッキリした場所等、分からないところがあるので

しょう。読みにくいと思いますが。赤の線の所。

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「益田四郎屋舗 日記伝、今ノ西浜町(にしはまのまち)」と、書いてあり、この「益田四郎」

といえば、「天草・島原一揆」の指導者と同じ名前です。


「天草・島原一揆」の勃発は1637年で、この本が書かれ、松浦陶が「長崎古今集覧序」を

書いたのが、文化8年(1811)、松浦東渓が本格的に書き始めたのが、寛永元年(1789)

で、随分時間がたっていますから、店舗があった場所、時期、商売の内容は不明なのでし

ょうが、四郎は長崎と関係があったそうで、全く同じ名前ですから、ひょっとしたら・・・・・


商売はナンデショウ?あれだけの人間を指導したカリスマ、人望もあったのでしょう。おまけ

にイケメンだったという話ですから、ひょっとしたら、ホストクラブだったりして。「四郎さん~

五番テーブルお呼びよ」、なんて話はないですよね。


長崎の古地図を調べましたが、時代が新しいもので、残念でした。どなたか、ご存じの方は

お教え下さい。天草四郎が、長崎で商売をやっていたら、面白いんですけれどネ。






(「長崎文献叢書第二集第二巻~長崎古今集覧・校訂 森永種夫」「長崎文献叢書~第二

 集第四巻~長崎土産・長崎不二賛・長崎萬歳 丹羽漢吉 校注」より)


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