日見の「腹切坂」~長崎市 その1
島原半島から長崎市まで行くのに、国道34号線を通ります。この途中の日見峠に、「腹切
坂」というのがあり、知ってはいたのですが、私としたことが、この大きな坂が、「腹切坂」と
思っていたのですが、ここの地域は私の領域とするところではなく、まったくのピンぼけでし
た。
ここは、道路公園みたいになって、一番上の写真の横が車道になっています。
3基の石塔が建っていますが、一番右に立っているのは、「腹切坂」と書いた石柱で関係あ
りません。
この「腹切坂」については、下の通りの説明版があります。
これには、他に少しずつ違いがあり、言ってみれば、伝承に類するもので、伝言ゲームと一
緒で、少しづつ違いが出て来るのでしょう。
永島正一氏の「長崎街道」に「日見町史」のことが書いてあり、「・・・平家の落人の末裔で宿
名に帰農する一団があった。
身はつづれを纏ひ日傭い人夫或いは小作農に従事し糊をしのぎつつあったが、武士のた
しなみ、常に武道鍛錬を怠ることがなかった。
この一人で作右衛門と謂える者腕力衆に優れ武道は棒術に長けていた。・・・・・」で、熊本
藩の家臣が試合を申し込み、結局は破れ、「彼の武士は如何にもして無念やるかたなく宿
名を見下ろす場所で武士の面目上腹を切った・・・・」となっています。
以上書いたのが、第一の説です。
第二の説はフェートン号事件が関係します。説明すると長くなるので、こちらをクリック。
これには、後日談があって、長崎は天領で、この年の港の警備は鍋島(佐賀)藩。
長崎市史を略して書けば、文化5年は7月になっても、オランダ船の寄港もなく、当年欠航
の判断で、守備兵が縮小。
松尾卓次氏の「長崎街道を行く」には、「その時、警備担当であった佐賀番所には、たった
50人しか駐在していない。千人警固がこうである。・・・・」「深堀備前・鍋島主水たち聞役・
物頭など七名は切腹を命ぜられる。この報告に向かった早田助平(助兵衛の説有り)たち
十七名は、佐嘉領矢上に入ったこの坂で追い腹を切ったという。それでここを腹切坂という
そうだ。」と書いてあり、その後に、説明版書いてあるようなことが書いてあり、「不憫に思っ
た村人は丁重に葬り、今もその墓は矢上の教宗寺に残っている」とあります。
と書いてありますが、この本は1999年に出版され、その墓の事情も少し違うようで、これ
は、また次に。
いろいろ本を読んでみると、フェートン号に力点をおいたもの、武士の切腹に力点を置いた
もの、さまざまでした。
さて、第三の説、これは、「発見!長崎の歩き方・越中先生と行く長崎街道」というブログに
書いてあり、越中先生曰く、「「実際に腹を切ったという伝説がいくつかあるんですよ。(笑)
でも実際は、ほら後ろを見てください。あのガードレールがある辺りですが、山の中腹に
道をつくるために切り開いているでしょ? あれは矢上から続く長崎街道。山の中腹を切
っている、だから腹切坂というんですよ。」
さて、もう一枚説明版がありましたが、右には、上の説明版を簡単に書いたもの。ただ、最
後に「左の図は天保十二年(1841)石崎融思の序文のある、長崎古今集覧名勝図に描か
れた腹切坂の図」という事で、左半分に下の絵が描かれているようでした。
絵図を見ていただければ分かるように、右側は海になっています。ここは、今埋め立てら
れ、昔の風景とは全然違っています。
ここは車道で駐車禁止。石碑の文字を調べようと思ったら、警察官がやって来て、スマホと
シートベルトの取り締まりでしょうが、カミサンと警察官は苦手で、おまけに、こちらをジロジ
ロ見るので、逃げ出してきました。
右の写真分かりますか。直接カメラにとれないので、バックミラーに写る警察官。
さて、この腹切り坂については、いろいろ図が残っているみたいで、下は、平成十二年に長
崎県教育委員会がおこなった、「長崎街道 ー長崎県 歴史の道(長崎街道)調査事業報
告書ー」に載っていた図「長崎街道絵図より 日見宿(杉沢寿一郎著)」昭和の記録だそう
こちらは、永島正一氏著の「長崎街道」の附録「長崎彼杵間街道図」。腹切坂あたりをアッ
プして撮りましたが、ボケました。右の大きな字が「境標石」。天領長崎と佐賀藩の境石が
現在も残っています。これも、また次に。
矢印に腹切坂と書いてあり、○印のところに、腹切坂の説明が書いてあります。
「文化五年、英艦長崎に来たり当佐賀藩兵少うして撃攘する能わず 長崎奉行は為に責を
おうて自刃し 佐賀藩士屠腹するものあり この坂の上に於いて佐賀藩士自刃せしより切
腹坂の名を?たり」と書いてありますが、「当佐賀藩」と書いてありますから、佐賀藩の家臣
が描いたものか?
さて、帰って調べたら、いろいろ書いてあって、これは又調べればなければと、また、次の
日、お出かけしました。
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コメント
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腹切り坂のフェートン号由来についてコメントさせてください。
フェートン号事件は文化5年ですが、それより前の文化3年刊の『筑紫紀行』には「腹切り坂」という文字がでてきます。ですからありえません。もうひとつの作右衛門の件はありえるかもしれません。20年ほど前に、その御子孫の家に伺って、絵巻物を拝見しました。しかし、私は山の中腹を腹を切ったような道だから名付けられたと思います。腹切り坂の道は1998年以来2度通りましたが、現在移されている三基の石塔の基礎は残っています。https://misakimichi.com/archives/1762 道が半分崩れている場所があるので注意が必要です。私が1998年に見た時は教宗寺に安置してありました。
投稿: 入江正利 | 2021年4月 2日 (金) 16時57分
コメントありがとうございました。
多分、長崎の街道につきブロブを書かれている方かと思います。いつも、参考にしておりますm(_ _)m。
「(街道が)山の中腹を切っている、だから腹切坂というんです」と越中哲也さんが言っていますが、その前に「実際に腹をきったという伝説がいくつもあるんですよ。」とも言われており、腹切坂については、複数の説、場所があるように感じられます。
旧街道の所は地元の方から、危険だから行かないようにいわれたのを覚えています。
フェートン号関係については、地元の方から、佐賀藩士が藩境石から先の坂(佐賀領)で腹を切った、ということを聞きました。考えれば、長崎の天領で腹を切ったなら、天領を血で汚す事になり、責任が佐賀藩になってくるので、とも想像しております。佐賀藩の資料を調べたのですが、この件については、まだ不明です。なお、永島正一さんは、作右衛門説、フェートン号説の二つを紹介しておられます。
作右衛門の子孫の方とお会いになったとはすごいですね。
今後のご活躍を願っております。また、お気づきがありましたら御教示のほどを・・・。
投稿: sugikan | 2021年4月 4日 (日) 21時08分
因みにこれらの石塔、バイパス作る時に矢上教宗寺に移されていましたが、本当は廃棄される予定だったそうです。矢上の織田先生達が何とか教宗寺のご住職のご厚意で移設させてもらったとか。本当に自分達で掘り出して、移動させたらしいです。お墓の下にはお骨もあったらしいですが、今は所在不明です。
今はお墓が定位置に安置されているので、良かったですが、、織田先生達がいなければ、このお墓類はなかったかもしれません。
投稿: 小澤 | 2022年7月11日 (月) 21時54分
小澤さま
コメントありがとうございます。
この記事は私がブログを始めたばかりの頃で、4回に分け書いたものですが、文章が読みにくかったと思います。
さて、私の書いたものは、当時の日見公民館の主事(多分、退職校長)さんと教宗寺さんから聞いたもの、その他書籍を参考にしました。主事さんは史談会に依頼され、腹切坂の事を調べられた方です。
石塔の本来の場所は今の新街道ではなく、旧街道にあり、土地開発のため移転するも地元へ保管の場所がなく、坂本町の県の墓へ移転、その後教宗寺へ移転。バイバスができた折り、関係者が国交省へお願いをし現在地へ設置したそうです。
なお、旧街道にあった基盤石の写真が「みさき道人」さんのブログに掲載されています。私も行こうと思ったのですが、地元の方から危ないから行くな、といわれたので、諦めました。
骨の件ですが、かなり立派な骨で、きれいに灰にして西本願寺へ納められたそうです。
説明版に書いてある「作右衛門」の子孫の方に奇遇にも会うことができました。女性の方で腹切坂の話についてはあまりご存じないようでしたが、本家には棒術の免許皆伝があるという事でした。住所など聞き忘れたのが残念でなりません。
sugikan
投稿: sugikan | 2022年7月13日 (水) 19時50分