両子岩【兩子岩石】(ふたごいわ)~南島原市加津佐町
島原半島がジオパークに指定をされましたが、ここ両子岩ももちろん、ジオサイトとして指
定されています。
この左側の岩、もと総理大臣の岸信介氏に似ているため、千々石では「あら、この間、信介
岩の近くを通ったら、痩せとらすばい」などと、話をしています。
岩の大きさは、釣り人が写っていますから、推測できると思います。左右に岩があります
がこれが、両子岩というわけではありません。
この、近くの道端に説明版が設置されています。
この中に、昔の図面が描いてあります。
即ち、現在の二つの岩の近くに、もっと大きな岩があり、これが「両子石」の名の由来だそう
ですが、一番大きな岩は大正11年(1922)の大正地震や、波の力で崩れてしまったそう
です。
図の右上には、「長㟢縣第六区三小区肥前国髙来(來?)郡加津佐村雜社字津波見(つば
み)名二鎮座」。石祠の名前が「二岩神社」となっています。
どうも「国」という字が「國」でなく、気にかかるのですが・・・・昔は、南高来郡、北高来郡が
一緒で、高来郡という由緒ある名前だったんですが、合併市になって、「高来郡」という名前
がなくなってしまいました。中央官庁、県庁の、学校の成績だけが良い、お馬鹿さんが、歴
史を知らないんでしょうね。
さて、第六区という文字がありますが、廃藩置県により、明治時代目まぐるしく、地区の入
れ替わりがおこなわれます。
明治4年7月、島原藩を廃止、島原県になります。同11月島原県を廃し、長崎県となり、島
原に出張所を置きますが、長崎県は肥前国(松浦郡ノ内・彼杵郡・高来郡)壱岐国(壱岐
郡・石田郡)であり、この時、対馬は伊万里県に属していたそうです。
明治6年に、第六区として、高来郡加津佐村(南串山・北串山・加津佐町・口ノ津)としたそう
です。この後、島原半島内では、村の合併がおこなわれています。(有家町郷土史より)
さて、上の絵ですが、明治の内務省が寺社、寺院の明細帳を作成したそうで、有家町の郷
土史にも、その絵が載っています。
神社には、社格があり、「長崎県神社庁」のホームページから、皆さんの神社の社格がわ
かります。
明治政府は社格制を分けます。一番下が、無格社で、「雑社」とも呼ばれたそうで、明治政
府は、神社合祀(神社の合併整理)をおこないますが、多分上の絵は、それを目的としたも
のではないかと思います。「有家町郷土史」では「明治8年神社報告令 第七区神社明細
帳より 熊野神社 絵図」となっています。
さて、上の図の「二岩神社」、今も残っており、「双子岩」も説明版によれば、「下半分に補強
工事を実施」となっています。
まあ、長崎の時津で有名な、「鯖くさらかしの岩」も補強しているそうで、これは、近くまで登
って確認した人がいて、ブログに書いていますから、この岩も、このままだと危ないので、補
強しても良いんじゃナイデスか。
「鯖くさらかし岩」の秘密は→こちらをクリック
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