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2014年8月

2014年8月31日 (日)

日見の「腹切坂」~長崎市 その4

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歳取ったら、早めに眠くなって、昨日はどうにもならなく、眠ってしまいましたが、今日で最後

になります。


左の写真が、塔に向かって一番左の「一字一石塔」になります。右の写真が、中央にある

「六六(六十六)部」、右側の方に「奉納 大乘妙典六十六部日本洄國供養」と書いてありま

す。「六十六部」については、「長崎県文化財報告書」に次のように書いてあります。


■六部塔

六部塔は正式には六六部塔で、・・・刻印の通り大乗妙典とよばれる法華経を六六部を用

意し、全国六六ヵ国に一部ずつ納めて廻る納経塔で、廻国塔とも呼ばれる。弥勒下生まで

の間、経典を国々の霊場に保管しておくという信仰にもとづくもので、廻国の行をする人を

六部と呼んだ。


裏に「肥前州高来郡日見村庵主 □□院叔明誠□比丘□建立」と書いてあり、「庵主」とは

「三省堂大辞林」によれば、「①草庵の主人。特に、尼僧 ②庵室を構えている人。 ③茶室

の主人。亭主。」とあります。


なお、「比丘」は、① 出家して,定められた戒を受け,正式な僧となった男子。僧。苾蒭(び

つしゆ・ひつすう)。② 誤って,比丘尼をいう 。」となっておりました。ここの 庵主さん、男性

でしょうか?女性でしょうか?


「比丘」の下の「□」は「敬」みたいで「敬建立」になるようです。


下に台座があり、苔が生えて読めませんでしたが、ありがたいことに、「日見の史蹟」に記

録してあって、「石塔之施主 日見住民 重松喜平次」とありました。


さて、いよいよ右の碑ですが、これがどうも墓らしく。「居士」の字が彫ってありました。

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「元禄」は読めると思います。
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■「右の碑(墓)」です。これも、字が薄く読めないところがありましたが、「日見の史蹟」に、

  記録してありました。

①  白襌道由居士

②  元禄9年(1696)子丙 正月三日

     俗名 吉村忠衛門尉藤原重道

いずれにしても、名前から見て、偉い方みたいな氏名ですね。




さて、腹切坂の名称は、主に2つと、越中哲也氏の説がありましたが、年代順に見ると、



① 吉村衛門の碑  元禄九年(1696)

   (これは、村人が一応埋葬し、その後、供養のために建てたとも考えられます。何れ    
     にしても、元禄九年以前の果たし合いです。)

② 六部塔        宝永六年(1709)

④ 一字一石塔     正徳四年(1714)

⑤ フェートン号事件  文化五年(1808)


前に「腹切坂」の昔の絵を載せましたが、あの絵については、「長崎古今集覧名勝圖絵」か

ら取ったものですが、これについては、長崎文献社から出版されていますが、越中哲也氏

「長崎古今集覧名勝図絵について」の「はじめに」で、天保十二年辛丑石崎融志がつくった


長崎古今集覧序に「此書安永之比大塚良夫・・・・・・・」とあり、「此の書とは長崎古今集覧


絵図のことである。」とあり、なお、「融思は此書の編纂には老令より思い立ったというので


あるから、本書を融思が手がけたのは融思六五才のおり(天保三壬辰年臘月)唐絵目利本


役を辞し隠居した後に筆を起こしたのではなかろうか。」とあり、いずれにしても、天保時代


(1830~1844)であり、フェートン号事件については、すでに知られたこと思われ、十数


名の侍が腹を切りながら行ったものだけに、「腹切坂」という名称、「武士の立ち会いの切

腹なのか」、「「フェートン号」が絡むのか、本を書いた方も随分悩んだことでしょう。



と、夏休みの自由研究には書いておこう。さて、2学期が始まります。頑張りましょう。                       


                                           (この項、おしまい)



なお、日見公民館の先生、教宗寺の方には親切に教えていただき、心から感謝致します。


(参考・文、写真引用:「長崎街道 長崎県文化財調査報告書 第154集」「長崎街道~永  

 島正一著」「長崎古今集覧名勝図絵~越中哲也著」「長崎街道を行く~松尾卓次著」「日 

見の史蹟~日見地区公民館著」「長崎”街道周辺の史跡”~岩永弘著」、各説明版より)

2014年8月30日 (土)

日見の「腹切坂」~長崎市 その3

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昔の長崎街道、七間曲がりの所です。一番きついところだったのでしょう。今では、歩い

て3分の所のコンビニに行くまで、車を使う時代。雨の日は、中学生でさえ、車のお出迎え。


さて、今日は腹切り坂の所の3基の供養塔のことです。

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3基並んでいますから、便宜上、「左の碑」「中央の碑」「右の墓(これは多分墓でしょう)」

と呼びます。


「左の碑」六角柱になっています。昨日の「日見の史蹟」に、この3つの塔の事が書いてあ

り、いわれ、その上、ありがたいことに、碑の文字まで書いてありましたが、少し?の所があ

るので、自分で、調べた事を、比較しながら書いて見ます。

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「日見の史蹟」によれば「腹切り坂に天禄9年(1696)正月3日地域住民が慰霊のため墓

を建てた。正徳4年(1714)5月3日野田重右衛門が慰霊碑を建立した。・・・

昭和50年(1975)に土地開発のため、場所が私有地であったので、無縁仏として骨と墓

及び慰霊碑は坂本町(注:長崎市内)にある県の墓地に移転されていた」とあり、


この話を、東長崎史談会の方が残念に思い、元の場所に戻すべく、手立てをするも、日見

バイパスにかかるという話があり、日見に場所を見つけるも、受け入れ先が見つからず、昭

和54年11月25日、東長崎史談会会長の尽力により教宗寺の住職様に供養をお願いし、

お寺の境内に移転をしたそうです。これで、教宗寺にあった理由が分かったわけです。


平成14年3月29日、日見バイパスの工事完了に伴い、日見腹切坂史跡保存会の尽力に

より、元あった場所の下の、現在位置に移転をしたそうです。


なお、骨も出て来たそうです。骨格がしっかりした方だったそうですが、火葬をし西本願寺に

納骨されたそうです。


さて、供養塔です。

まず左の塔だけが六角柱になっています。あとの二つは普通の四角柱です。


■まず、「左の碑」。「日見の史蹟」には・・・・・

右面  為常修院玄理日是逆修菩薩

       願以此功徳普及及一切

正面  奉納大乗妙典一字一石書写正

       我等興衆比共成仏道

左面  為福剣香信女仏菓菩薩

裏面  正徳4年甲牛(1714)夏4月朔日 俗名野田重右衛門敬白  

■「中央の碑」

奉納 大乗妙典六十六部日本廻国供養

      南無観世音菩薩

     南無阿弥陀仏

裏面 宝永6年(1709)8月吉日


■「右の碑」

正面  白禅道由居士

裏面  元禄9年丙子年(1696)正月3日

俗名  吉村忠衛門尉藤原重道


となっていますが、さて、私が写真で確認したところ・・・・・


■「左の碑」正面から向かって、時計方向に①②③④⑤⑥と便宜上つけます。次のように

 彫ってあります。

① 奉納大乗(乘?)玅典一字一石書寫

② 我等與衆生皆共成□仏□道

③ 為劔香俚□薫信女佛果菩提

④ 正德四甲牛歳 夏四月朔日(この部分2行に分かち書き) 下部に、俗名 野田重右 

  衛門 敬白(敬白は一番下に横書き)

⑤ 為常修院玄理日是逆(旧字にて標記)修菩提

⑥ 願以此功德普及一切


■「真ん中の碑」同じように正面から時計方向に①②③④

① 真ん中に大きな字で「南無阿彌陀佛」。右に中くらい大きさの字で、「南無観世音菩

   薩」。左に「南無体勢至菩薩」 

② 肥前州高来郡日見村庵主 □□院叔明誠□比丘□建立

③ 宝永六年己牛八月吉日

④ 奉納(これは上部に大きく横書き) 大乗妙典六十六部日本洄國供□


まず、一番「左の碑」は「一字一石塔」で、小石一つ一つに、経典の一字づつの文字を書

き、経塚に埋納したもの。供養にも使われますが・・・


②と⑤は逆につなぎ合わせて、「願以此功德 普及一切 我等與衆生 皆共成仏道」で、真

言宗の廻向文です。


なお、「正徳4年(1714)5月3日野田重右衛門が慰霊碑を建立した」と書いてありますが、

気になるのが「③ 為劔香俚□薫信女佛果菩提」と「⑤ 為常修院玄理日是逆修菩提」。

③について言えば、「信女」は普通、女性の仏様につけるもの。⑥に「逆修」と書いてありま

すが、「逆修」と言えば、生前に死後の冥福を祈って、仏事をしたり、生前に戒名を授けても

らうもの。


なお、今は、「○○院○○○○居士」などと書きますが、調べて見ると、昔は、「為~菩提」

とも書いた事もあるそうです。


この、一字一石等、左右の戒名を見たら、男女の感じがし、ひょっとしたら、夫婦で妻が先

に亡くなり、夫の方が「逆修」をしたものでは・・・


というところで、夜遅くなって、眠くて目がボケて見えません。又明日続きを。皆さん、ごきげ

んよう、お休みなさい。





2014年8月28日 (木)

日見の「腹切坂」~長崎市 その2

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             (「長崎街道~永島一著」より)


上の写真は、昔の腹切坂にあった供養塔です。


少し、地理的なことが分かりにくいので、「藩境石」の説明版に描いてあった、地図を載せま

す。


赤丸の楕円。上から藩境石標、真ん中の丸が印のところが、昔、供養塔があったところ。現

在は、崖になって、「通行困難になっています」と書いてあります。一番下の丸の印が、現

在慰霊塔が建っているところ。

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「藩境石標」。昔、長崎は天領でしたから、天領と佐嘉藩(佐賀藩・鍋島藩)との境になりま

す。佐嘉藩士は、この藩境標から佐嘉藩(上の方の赤い線~長崎街道になりますが)に入

った途中で、切腹したのではないかとの事でした。


網場道の交差点で、下の赤矢印から入り、上の団地の横をぐるりと回り、上の矢印あたり

に、藩境石標があります。(歩けば、青の道を行きます。赤の点線の道は現在ありませ

ん。)

途中、何カ所か石段があり、街道の標識があります。

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「長崎県教育委員会調査 長崎県文化財調査報告書 長崎街道」では、「日見宿より、北東

方向に国道三四号まで上りつめ、斜めに横切り腹切り坂へと進むが、国道の拡幅と住宅造

成のため、長崎街道は見ることができない。」とあり、下線のところから考えると、網場道入

り口の信号機あたりから、下の写真の階段を(昔は道でしょう、かなりの勾配です)登りきっ

たところが、藩境だと思いますが、おじさんには登る気力もなく、車で団地をぐるっと回ると。

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表側と裏側から見たところ。上の地図も、この説明版に描いてありました。

左側は、ほとんど読めませんでしたが、「彼杵(そのぎ)郡之内日見境」。右は、ちゃんと読

めました「従是北佐嘉境」。


なお、説明版によれば、当時は地伏石(台石2個)の上に立てられ、住宅造成に伴い、当時

の位置より五メートルほど矢上側に移設されたそうで、多分、右の写真のガードレールとの

間だと思われます。道を作るのに邪魔だったのでしょう。

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これも、長崎県文化財の報告書からですが、平成12年発行になっていますから、当時の

写真でしょう、後の四角の石が、台石なのか?

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なお、車で来た道は行き止まりになっているようでしたが、歩いて行くと、どうも、こちらが本

来の長崎街道みたいで、これが「通行困難」な道」なのでしょうが、狭いなとおもったのです

が、左側が、防壁のため、かなり削られているみたいでした。

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地図で見ると、道が途中で途切れていますが、雲仙の山道を一人で行くのに比べると、ゾ

ウの屁と、ノミの屁みたいなもの。涼しくなったら、行ってみるつもりです。


この道も、国道で分断されているらしく、多分、下の写真の所に出ると思います。永島正一

氏の本にも出ていましたが、左が永島正一氏の本に載っていた写真。説明に「左の小道を

登ると 腹切坂」。右が現在で、ここらあたりを知っている方に写真を見てもらって、確認し

たところ、ここだろうという事でした、ただし、供養塔が建っていたところは、防壁で削られ、

今は見られないそうです。

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ところで、本を調べていくと、県の報告書「武士の墓石及び供養塔は、矢上教宗寺にあ

る」。松尾卓次著「長崎街道を行く」にも「不憫に思った村人は丁重に葬り、今もその墓は

上の教宗寺に残っている」。岩永弘氏著「長崎”街道周辺の歴史”」にも「腹切坂の由来に

ついて矢上の教宗寺にある説明版・・・・」。と、「矢上の教宗寺」が随処に出ており、それじ

ゃ、国道筋の供養塔は何なのだ。


という事で、教宗寺に電話をかけ聴いたところ、丁重に教えていただきましたが、東長崎史

談会の方が供養塔を持って来られ、預かって貰えないかとのこと。その後、国道ができたた

め、当時の建設省の許可を得て、現在のところに移転をしたとの事でした。もう少し経過が

あるのですが、これは明日にでも。


下の写真。長崎県の報告書に載っていて、教宗寺にあった時の写真ではないかと思われ

ます。笠の無いのが二つばかりあって、気になるのですが・・・・・

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それなら、これを持ってきた、東長崎史談会の方に詳しく聴けるのではないかと、思ったの

ですが、図書館を調べても、東長崎史談会の著作物はなく、団体のことなら、地元の公民

館でも聞けば分かるのではないかと、電話。


なんと、これがビンゴで、名前聞くの忘れましたが、公民館の主事さん、多分退職校長さん

みたいですが、腹切坂の事を聞くと、よくご存じ。不思議に思ってたずねると、昔、調べたこ

とがあるとか。翌日、飛んで行きました。


ちゃんと本にされているのですね。「日見の史蹟」。

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公民館協力会があって、いろいろ調べて協力をしているとか。他にも、資料がありました

が、この本に、腹切坂の慰霊塔の文字(風化し始めて読めない文字もありました)もちゃん

と記録してあって、これには助かりました。この場ですが、お礼申しあげます。

さて、この次は、慰霊塔が何であるかの話です。



(参考・文、写真引用:「長崎街道 長崎県文化財調査報告書 第154集」「長崎街道~永

 島正一著」「長崎古今集覧名勝図絵~越中哲也著」「長崎街道を行く~松尾卓次著」「日

 見の史蹟~日見地区公民館著」「長崎”街道周辺の史跡”~岩永弘著」より)

 




2014年8月27日 (水)

日見の「腹切坂」~長崎市 その1

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島原半島から長崎市まで行くのに、国道34号線を通ります。この途中の日見峠に、「腹切

坂」というのがあり、知ってはいたのですが、私としたことが、この大きな坂が、「腹切坂」と

思っていたのですが、ここの地域は私の領域とするところではなく、まったくのピンぼけでし

た。

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ここは、道路公園みたいになって、一番上の写真の横が車道になっています。

3基の石塔が建っていますが、一番右に立っているのは、「腹切坂」と書いた石柱で関係あ

りません。


この「腹切坂」については、下の通りの説明版があります。

これには、他に少しずつ違いがあり、言ってみれば、伝承に類するもので、伝言ゲームと一

緒で、少しづつ違いが出て来るのでしょう。


永島正一氏の「長崎街道」に「日見町史」のことが書いてあり、「・・・平家の落人の末裔で宿

名に帰農する一団があった。

身はつづれを纏ひ日傭い人夫或いは小作農に従事し糊をしのぎつつあったが、武士のた

しなみ、常に武道鍛錬を怠ることがなかった。

この一人で作右衛門と謂える者腕力衆に優れ武道は棒術に長けていた。・・・・・」で、熊本

藩の家臣が試合を申し込み、結局は破れ、「彼の武士は如何にもして無念やるかたなく宿

名を見下ろす場所で武士の面目上腹を切った・・・・」となっています。

以上書いたのが、第一の説です。


第二の説はフェートン号事件が関係します。説明すると長くなるので、こちらをクリック

これには、後日談があって、長崎は天領で、この年の港の警備は鍋島(佐賀)藩。


長崎市史を略して書けば、文化5年は7月になっても、オランダ船の寄港もなく、当年欠航

の判断で、守備兵が縮小。


松尾卓次氏の「長崎街道を行く」には、「その時、警備担当であった佐賀番所には、たった

50人しか駐在していない。千人警固がこうである。・・・・」「深堀備前・鍋島主水たち聞役・

物頭など七名は切腹を命ぜられる。この報告に向かった早田助平(助兵衛の説有り)たち

十七名は、佐嘉領矢上に入ったこの坂で追い腹を切ったという。それでここを腹切坂という

そうだ。」と書いてあり、その後に、説明版書いてあるようなことが書いてあり、「不憫に思っ

た村人は丁重に葬り、今もその墓は矢上の教宗寺に残っている」とあります。


と書いてありますが、この本は1999年に出版され、その墓の事情も少し違うようで、これ

は、また次に。


いろいろ本を読んでみると、フェートン号に力点をおいたもの、武士の切腹に力点を置いた

もの、さまざまでした。

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さて、第三の説、これは、「発見!長崎の歩き方・越中先生と行く長崎街道」というブログに

書いてあり、越中先生曰く、「「実際に腹を切ったという伝説がいくつかあるんですよ。(笑)

でも実際は、ほら後ろを見てください。あのガードレールがある辺りですが、山の中腹に

道をつくるために切り開いているでしょ? あれは矢上から続く長崎街道。山の中腹を切

っている、だから腹切坂というんですよ。」

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さて、もう一枚説明版がありましたが、右には、上の説明版を簡単に書いたもの。ただ、最

後に「左の図は天保十二年(1841)石崎融思の序文のある、長崎古今集覧名勝図に描か

れた腹切坂の図」という事で、左半分に下の絵が描かれているようでした。


絵図を見ていただければ分かるように、右側は海になっています。ここは、今埋め立てら

れ、昔の風景とは全然違っています。


ここは車道で駐車禁止。石碑の文字を調べようと思ったら、警察官がやって来て、スマホと

シートベルトの取り締まりでしょうが、カミサンと警察官は苦手で、おまけに、こちらをジロジ

ロ見るので、逃げ出してきました。

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右の写真分かりますか。直接カメラにとれないので、バックミラーに写る警察官。  

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さて、この腹切り坂については、いろいろ図が残っているみたいで、下は、平成十二年に長

崎県教育委員会がおこなった、「長崎街道 ー長崎県 歴史の道(長崎街道)調査事業報

告書ー」に載っていた図「長崎街道絵図より 日見宿(杉沢寿一郎著)」昭和の記録だそう

です。赤の矢印が、腹切坂です。

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こちらは、永島正一氏著の「長崎街道」の附録「長崎彼杵間街道図」。腹切坂あたりをアッ

プして撮りましたが、ボケました。右の大きな字が「境標石」。天領長崎と佐賀藩の境石が

現在も残っています。これも、また次に。


矢印に腹切坂と書いてあり、○印のところに、腹切坂の説明が書いてあります。


「文化五年、英艦長崎に来たり当佐賀藩兵少うして撃攘する能わず 長崎奉行は為に責を

おうて自刃し 佐賀藩士屠腹するものあり この坂の上に於いて佐賀藩士自刃せしより切

腹坂の名を?たり」と書いてありますが、「当佐賀藩」と書いてありますから、佐賀藩の家臣

が描いたものか?

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さて、帰って調べたら、いろいろ書いてあって、これは又調べればなければと、また、次の

日、お出かけしました。




2014年8月26日 (火)

警察で思い出すこと~「殺人犯はそこにいる~清水潔著」を読みながら

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冤罪事件の「足利事件」を取り扱った本です。本の帯の裏に書いてあるように、「不当な捜

査」「杜撰な証拠」「虚偽の自白」「消された目撃情報」「DNA鑑定の闇」。


作者は、ジャーナリストで、新潮社「FOCUS」編集部を経て、現在日本テレビ報道記者・解

説委員。


「交通大戦争」で警視総監感謝状。「桶川ストーカー事件ー遺言」にて「編集者が選ぶジャ

ーナリズム賞」「JC大賞」を受賞。「足利事件」関係の報道、冤罪キャンペーン報道で「日

本民間放送連盟優秀賞」「同テレビ報道番組優秀賞」「ギャラクシー賞」「編集者が選ぶ雑

誌ジャーナリズム賞」を受賞しています。


読んでいただくと分かりますが、警察、検察、裁判所、マスコミの怖さが分かりますね。これ

を読みながら、私も警察に関し、思い出したことがあるので・・・・


某町で、公的補助金を貰っていた団体の会長が、何年も監査も受けず、総会も開かず、ひ

ょっとしたら、補助金を自分の懐に入れているのではないかと、団体の人が飲み屋で、話を

していたところ、運悪く警察官も飲みに来ていて、片耳に入れ、調査。


私も、間接的に、少し関係があったせいなのか「少し聴きたいことがあるので、お越しいた

だけませんか」と警察からの丁重な電話。


応接室で、話かと思ったら、いきなり「取調室」へ。良くテレビで見るような部屋で、コンクリ

ート打ちっ放し、鏡(多分マジックミラー)、机が二つで、一つには私と刑事。もう片方は、記

録する警察官、窓は鉄格子。


刑事さん、開口一番、大声で、「お前達、もみ消そうとして、動ごいとっやろ、知っととぞ、話

してみろ(長崎弁ですが、長崎弁も意外と迫力ありますよ)」。ここらあたり、気が弱い方は、

「ははあ、私がやりました」というところですが、私、事情が分かりませんから、「はあ?」。


後は、向こうが怒鳴りながら、事情を説明、何回も「お前達も、もみ消しよっとやろ」と、これ

で、半日。こちらは、あまり、関係無いので、淡々と事実を述べるのみ。


これ、やり取りしながら、やはり、「冤罪」というのは、あるのだと実感。幸いに、事件になる

ということも無く、呼ばれたのは一回だけで、留置所に入ることもなく、向こうからの謝りの

一言もありませんでした。でも、オッカナかったですよ。ウチのカミサンほどもないけど。


よく、悪い事をしていないなら、そういえばいいじゃない。という方がいますが、そんな雰囲

気ではありません。嘘だと思ったら、経験してみてください。


もう一つ、以前にも書きましたが、山側にカクレキリシタンの遺跡があるというので、見に行

きました。道は、私の普通車が十分に通れる広さ。


途中、罠にかかっている猪がいて、檻を破るような勢い。やばいなと思い、一応警察へ連

絡。(某警察署です。名前書いても良いんですが、私が住んでいるところの本署です。)


ところが、何時まで待っても来なくて、「どこら辺ですかね」「○○停留所から、まっすぐ行っ

た一本道」。これが、4,5回。最後は、「こちらから、停留所のところに行って、待ってます」


やっと来たのが、白と黒のツートンカラーの車。下りてきて、道を見て曰く、「歩いてどれくら

いかかりますか?」「三十分くらいでしょう」「車が公用車(パトカー)で、クラウンなんです

よ」。要するに、この車(パトカー)では行けないと言うこと。傷をつけるのが怖いのでしょ

う。


事件があって、道を見て、「公用車」「クラウン」なんて言うんですかね。まして、管轄内の道

を知らないなんて!


ウチの常会のとき、消防署が説明に来て、質問の時、ある方が、「この間、救急車が来た

時、道が分からず、ウロウロしとったばってん、暇があったら、地図でも見て、頭に入れと

け!」と怒られていましたが、警察も、一時を争う事件がおこる可能性も有り、管内の地図く

らい頭に入れておくべきでしょう。まてし、「公用車」「クラウン」。お笑いものでした。


さて、マスコミも同じ。不謹慎で申し訳ありませんが、一番笑ったのが、松本サリン事件。河

野さんが犯人扱いになり、河野さんの小屋から、「農薬」が見つかり、専門家が「農薬から

サリンを合成するのは不可能」と言っているのにも関わらず、警察発表の「農薬があった、

農薬があった」の垂れ流し記事。

実は、私も少し園芸をやっていて、農薬たくさん持っているのですが・・・別件逮捕されるか

な。


さて、あなたにも、万が一の事もあるかも知れません。警察も検察も裁判所もマスコミもあ

てになりません。この本を書いた、清水潔氏のような方も、沢山いるわけではありません。


まして、電車におけるセクハラの冤罪事件が、何件かおこりました。悪い事をやっていない

のに、犯罪者にされる恐れは誰にでもあるのです。この本読んでみてください。分かりま

す。


この本によると、周辺に、他に四名、行方不明一名。合計五名の子どもが殺されたという事

です。清水氏は、この犯人を突き止め、警察に情報提供をおこなっているようです。「ルパ

ン」と名称をつけていますが、最後にこう書いています。


ルパンよ、お前に遺族のあの慟哭は届いたか。

お前がどこのどいつか、残念ながら今はまだ書けない。

だが、お前の存在だけはここに書き残しておくから。

いいか、逃げきれるなどと思うなよ。










2014年8月25日 (月)

地蔵まつり(地蔵盆)~雲仙市千々石町

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地蔵まつりが、8月24日だということで、あちらこちら、見にいこうと思っていたら、あいにく

のザーザー降り。


それでも車で回ったら、幟が立ててありました。ここの地区は、地区のお地蔵さんを、地区

の公民館に飾り、祭りをしています。行った時間が早すぎて、まだ、神主さんは見えておら

れませんでしたが、近所の昔の娘さんが準備をしていました。


なお、今日行ったら、下の写真、右側のようにちゃんと、元の場所に、鎮座しておられまし

た。左の石は、水道改修記念碑です。

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幟は、各自、布で作っての奉納。下は、海際のお地蔵さんです。雨が降っていなければ、お

供えもあったのでしょうが・・・・


左のお地蔵さんの下の方。下の写真のようになっていますが、以前は浜があり、学校指定

の海水浴場でした。ここは岩場になっていて、コンコンと水が湧き出て、海水浴が終わった

ら、体を洗って帰ったものでした。

水は、溢れるばかり湧いているのですが、何となく、味気ない風景になりました。

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仏様にも位があるようで、お地蔵さん。正式名称、「地蔵菩薩」。人間の地獄道・餓鬼道・

畜生道・修羅道・人道・天道を輪廻し衆生を救う菩薩様で、如来の次に位置する仏様です。

子供の守り神としても信じられ、私たちに一番、親しみのある菩薩様です。

身近にあるので、気楽に考えているようですが、とても偉い仏様です。

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         (「仏像の基本~枻(えい)出版社刊」より」)


さて、去年、ここもやっていたなと思ったら、何もなく、雨のために変更したのかと思ったら、

こちらは、弘法様で、「弘法まつり」は4月でした。本当に、お馬鹿な私。

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でも、お地蔵さんは、いつも綺麗に飾ってありますね。日よけと、雨よけなのか、笠までかぶ

っていました。

じっくり見ていくと、イケメン風もあり、それなりもあり、唇を赤く塗って、お化粧しているのも

あり、見ていると面白いですよ。日本人の心を感じます。

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2014年8月23日 (土)

有馬氏時代の食文化と茶室ー「伊勢御師食膳日記」ー~「コレジヨ文化講座」より・南島原市有家町 その2

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          (根井先生 当日の資料より)

昨日の宿題の答えです。少し分かりにくいので、渡部幸子氏による作図です。

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     (根井先生 当日の資料より・作図 渡部幸子氏による)


室主は「ひヽや宗清」になっていますが、この人物は、明らかにはなってないようですが、

「ひヽや」を「日比屋」にすれば、安土桃山時代、堺の豪商でキリシタン、茶道でも有名な、

「日比屋了慶(日比屋了珪)」がいるそうで、NHKドラマ「黄金の日日」にも出ているそうで

す。


有馬義貞も文化人、「ひヽや宗清」も、「宗」の字が付きこれは、「宗匠」と言うくらいですか

ら、文化人。


根井先生は「『ひヽや宗清』はこのような、日比屋了慶=了桂の一族であろうか。これ以上

は私には踏み込めないが、茶人・茶商として『宗清』は有馬領内に茶室を構え、三頭太夫

と面識を得たことになる。」と書いておられます。


なお、ルイスフロイス「日本史」に、「しかし了珪は商人であって、シナの船が来る下(九州)

に行かねばならなかったから・・・」という記述があり、何となく、了珪と宗清の関係が感じら

れる文です。


いよいよ③になりますが、根井年生も、少し笑いながら話されましたが、・・・西有家町須川

の国指定のキリシタン墓地。

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      (「島原半島史 上巻 林銑吉著 昭和29年刊」より)

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     (「日本キリシタン墓碑総覧 平成24年刊」より」

この文字が風化して、読み方がハッキリしないところがあり、研究者により、いろいろあるよ

うで



■林銑吉著「島原半島史」

  FIPISCYEMO DIEDGO (日比作右衛門 ディエオゴ)

■竹村覚「著「キリシタン遺物の研究」

  FIP(またはB)ISACYEMO DIEGO(□□作右衛門 ディエゴ)

■松田毅一著「近世初期日本関係 南蛮資料の研究」

  FIBISACVEMO DIEGO(日比作右衛門)

■片岡弥吉著「長崎の殉教者」

  FIRISACYEMO DIEGO(ピリ作右衛門)

■南島原市教育委員会企画「日本キリシタン墓碑総覧」

  FIPISACYEMO DIEGO 


まだまだあるのですが。この「日比作衛門」が「ひヽや宗清」ではないかと。「作右衛門」と

「宗清」は違いますが、「宗匠」になると、「号」を用いますから・・・


という事で、これが本当なら、大発見なのですが・・・・と思うのですが、先生も少し冗談めい

て話しておられました。


なお、①②の詳細については、「嶽南風土記 21号」に書いてありますので、南島原市の

ありえコレジオホールまでお問い合わせを。


なお、来月は、「千々石ミゲルの墓発見」の大石先生の、講座と現地研修です。キリシタン

墓碑はいつでも見られますが、専門家の話を聞きながら、という機会は少ないので、興味

のある方は是非ご参加を。お問い合わせは上記まで。     (この項終了)

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(参考・文・写真引用:「日本キリシタン墓碑総覧」「嶽南風土記 21号」「島原半島史 中 

 巻」、当日の資料より)






2014年8月22日 (金)

有馬氏時代の食文化と茶室ー「伊勢御師食膳日記」ー~「コレジヨ文化講座」より・南島原市有家町

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有家町で開催された「コレジオ市民文化講座」です。皆さん、興味が深いのか、満員で机、

椅子を追加する状態。熱心さが分かります。


講師は、元龍谷大学教授の根井浄(ねいきよし)先生。「修験道とキリシタン」等の名著があ

ります。この講座をブログにまとめていたら、長崎新聞に先をこされ、今日、新聞に載ってい

ました。


紙面の関係上、多くは書けないようで、当日、参加していた者として、少し物足りないので、

少し補足を。

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                (長崎新聞より)

当日の主要な話は3点。

①有馬氏時代の食文化

②中世有馬領内にあったと思われる茶室と、室主「ひヽや宗清」のこと。

③「ひヽや宗清」と、西有家須川の国指定の吉利支丹墓碑の関係。


まず、①です。「伊勢御師」とは、伊勢神宮の大麻(御札)を全国に配り伊勢信仰を説いて

廻国する宗教者だそうで、肥前を活躍した伊勢御師に「宮後三頭(みやしりさんとう)太夫」

がいたそうで、その記録が、三重神宮文庫に「宮後三頭太夫文書」としてあり、今回は、そ

の中から「伊勢御師食膳日記」を取り上げ話をされました。


塗りつぶされたところが、「宮後三頭太夫」が永禄四年~永禄十一年に活動した範囲で、当

時の有馬家、大村家の広い範囲で活躍をしています。

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「桃(?)仙院」「西(?)光寺」「さいかう殿」(諫早西郷純尭?)「大村殿」(大村純忠か)等々

のところで出された、食膳の事が書かれていますが、有馬家で出された食膳。

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「義貞」は「肥前国領主・有馬義貞」のことです。


「けいらん」は「鶏卵」、「そうめん」は粉をひいて、練って、延ばしてと、以外と手がかかるの

で、ご馳走だったとか。


「なつとうまめ」は、いわゆる「ねば納豆」ではなく、「納豆味噌」。普通こちらでは、「なっとう」

といえば、味噌納豆。私も「ねば納豆」は、東京へ出て初めて食べました。


あと「くわし」は「菓子」。むかしの発音です。「ミつかん」は「ミカン」。後は何となく分かると思

います。「ひきしお」は、日光で乾かした海草。あとは、自学自習してください。


さて、②の茶室の方です。これも、「伊勢御師食膳日記」にも書いてあった図だそうですが、

「有馬義貞」は詩歌に優れ、書道家でもあり、いわゆる文化人でもあったのでしょう。有馬に

あった茶室だと思われるそうです。図面からみて、かなり立派な茶室のようだそうです。下

に図面を載せておきますので、古文書のお勉強だと思って・・・・

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赤丸のところ「ひヽや宗清座敷(茶室?)」と書いてあります。

さて、この「ひヽや宗清」とは何者か?また、明日。


(参考・図、文引用「嶽南風土記 21号」「当日の資料」「長崎新聞」より」)




2014年8月21日 (木)

地蔵まつり~雲仙市千々石町柳原水源

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「地蔵まつり」です。祭りといっても、大きな祭りではなく、町の中に祀ってある、お地蔵様を

お祭りする事です。


明治十二年の「千々石村村誌」、「水利」のところには、「・・・所々ニ湧水有リテ飲料水乏シ

カラズ・・・」とあり、数十年前だったか、長崎市が水不足になった時、タンカーで千々石の水

を取水して、運んだことがありました。雲仙半島には、千々石以外にも、有名な湧水があっ

て、ポリタンクで、何缶と軽トラックに積んで、運んでいく所もあります。


「千々石町郷土誌」には

○地蔵まつり

毎年八月二十四日に、各地でおこなわれている水神さんに感謝するまつりである。本町に

は、各地にきれいな湧き水がある。いわゆる洗河(あれご)という出水の場所である。そこ

の水を飲料水にし、そこで野菜を洗い,洗濯などをする。そこから配管をして水を供給する

。・・・」。なお、当日は、地域で洗河の掃除をし、神事をおこないます。最近は、24日とは限

らないようです。お互い、仕事がありますから。

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ちょうど、通りかかっていたら、おや!何かやってるな、と。私が歩けば、棒に当たるで、ちょ

ど神主さんが祝詞をあげていたところでした。


お客さんが少ないので、聞いて見たら、昔は子供が多く、たくさんお参りもあったとか。多

分、子供にはお菓子をあげたり、大人は酒盛りをやったり、お接待などもあったのでしょう

が、若い方も関心が無いのか、いませんでした。「これからどうなるんでしょう」という話で

す。


水はご覧の通り、こんこんと湧いてます。冷たくて、やはり水道水とは全然違いますね。

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水がわき出るところにも、石造物がありましたが、こちらが一番大きくて立派なもの。左右を

見たら、字が彫ってありました。

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向かって左側には、「願主 永田喜三治長近」「石工 南有馬村 九郎治」と彫ってありま

す。向かって右は、「文化十(1813年)癸酉七月吉祥日」と彫ってあります。


諫早の金比羅山にも、灯籠が寄贈してあり、「永田喜摠治」とあるそうです(千々石史談創

刊号・徳永修氏著)から、ひょっとしたら、身内の方では?


さて、上の写真の道路、もちろん昔はもっと狭く、今は拡張してあります。この道を、伊能忠

敬一隊が通っています。


伊能忠敬の日記には、「右二薬師堂」など、細かいことも書いてありますが、千々石には、

文化九年十一月十八日(旧暦・新暦では十二月二十一日)から、2,3日、宮崎庄屋のとこ

ろに宿泊をしています(到着翌日は風雨のため、逗留)。


ですから、多分ここの湧き水、祠も見たと思うのですが、日記には、記述はありませんでし

た、最も時期が冬ですから、急いで過ぎたのでしょう。夏だったら、ここの水、飲んで、記述

したと思うのですが。「ここの湧き水は甘露であった」と。


間違いました、石祠が建ったのは、測量隊一行が通った、一年後でした。失礼 m(_ _)m 。


この柳原水源、考えると、何百年の歴史を持ったものです。庶民の歴史がある所ですか

ら、大事にして貰いたいものです。






2014年8月20日 (水)

モスキート音~ああ!ショック!

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今日、ラジオを聴きながら運転をしていると、モスキート音が話題になっていました。モスキ

ートは蚊の事です。


音は周波数で表しますが、高年齢になるほど、高い音が聞こえにくくなります。高い周波数

のキーンという音が、若者に耳障りになるということで、若者がたむろする公園に機械を設

置しましたが、あまり効果はなさそうでした。


この、モスキート音、店内に居座る若者を店外へ追い出す。店外にたむろする若者を追い

出す。万引きの対策に使われているということです。


さて、私、地獄耳と言われるほどの、素晴らしい耳の持ち主。スマホのアプリに、モスキート

音があるだろうと思って、捜したら、ありました。しかも、ロハ。


それで、計って見たら、なんと60歳以下。50歳以下では、全く音は聞こえず。もう一つ、試し

て見ましたが、

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これも、全く、「60歳以上です」。ほんと、自信を持っていたのですが、これには寝込みまし

た。なお、この音は、20歳後半以上の者には気にならないとか。


ラジオによれば、高校生がこれを利用して、音の長短等を利用するのでしょうが、お互いに

この音で連絡して、カンニングをしたり、授業中の携帯電話の着信音に使っているとか。学

校の先生は、若い人はいませんから、聴こえません。悪い子の皆さんは、絶体にしないよう

に。


スマートフォーンで、いろいろ、アプリがあるみたいですから、皆さんも試してはいかが。あ

まり期待は持たない方が良いようですが。


どういうわけか、カミサンの怒る声はよく聞こえるのですが、こちらが、聞こえなければ、良

いんですがネ。今日はショックだったので、もう、寝ます。




2014年8月19日 (火)

「まよい子志らせ石(迷い子知らせ石)~長崎市諏訪神社・その他

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実は、私、諏訪神社横の「諏訪幼稚園」中退で、ここらあたり、いつもウロついていたのです

が、これ、全然気づきませんでした。それ以後も、何回もお参りに行っていたのですが・・・・


「まよい子志らせ石」です。

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まあ、こんな所じゃ、気づきませんね。石段を上がるだけで、フウフウ言いますから。

説明版が写真に撮りにくいので、そのまま書いてみます。


「まよい子志らせ石」

   (迷い子知らせ石)

この石柱は、明治十二年、当時の長崎の県警察課、警察書に在勤する警部一同の手によ

って建立された。

当時ここら一体は氏神を詣でる庶民の往来で賑わったが、時には人ごみにもまれて親を見

失う子等も少なくなく、不安に泣き叫ぶその姿が道行く人々の憐れみを誘った。

この実情を見かねた数名の警部は互いに資金を寄せ合ってこの石柱を建て、親と子の安

心を念願したのである。

雑踏で子とはぐれた親は、北面の「たづぬる方」石面に住所と子の名前を書き記し、迷い子

を見かけた人はその子の手を引いて、子の名、年齢、特徴等と共に、わが名、住所を、南

面の「おしゆる方」石面にしたため、親の姿を待った。

やがて子は再び親の懐に抱かれ、人びとの暖かい思いやりに涙を流して手を合わせてしっ

かりと手を握り合って去るその姿は数知れなかったといわれる。

                                昭和六十二年七月

                                      長崎警察署


前面の「まよひ子志らせ石」、最後の「石」の部分が剥落しているのか、分かりません。    

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両端の「たづぬる方」「おしゆる方」は、ハッキリ読めます。この石柱一の鳥居のところにあ

ったと言う話も、聞いた事があるのですが・・・・・?

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特に、「くんち」の祭りなどの時は、ここは人出で一杯になりますから、大変です。


考えれば、現在は少子化で、子供が一人か、二人。両親で一人づつ、受け持てばそれで

済みますが、当時は、子供が5,6人はザラでしたから、雑踏の中、一人二人は迷子にな

って当たり前。当時の警察の思いやりと、知恵が思われます。さすが、長崎の警察。


と思ったら、東京の中央区八重洲一町目十一番地先に「一石橋迷子しらせ標」があるそう

で、これは、安政四年に建立したもので、使い方は、東京都教育委員会の説明版によると


柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たづ

ぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書い

た紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪み

に貼って迷子や尋ね人を知らせたという


という事で、東京まで、写真を取りに行こうかと思ったら、飛行機に乗り遅れて、残念でし

た。


なお、湯島天神境内、浅草寺境内、両国橋橋詰等、往来の多い場所に同様なものがあっ

たそうですが、戦災等で破壊されたそうです。ですから、現在、長崎の諏訪神社と、東京に

確認できるだけのもので、庶民の告知板として、貴重なものです。


東京、「一石橋迷い子知らせ石標」。詳しくは→こちらをクリック  


【おまけ】

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最近は「POLICE」と書いてあるところが増えています。数年前、「町民体育大会」の説明会

で、「アベック・リレー」と言ったら、お年寄りの方から、「英語は分からん、日本語で言え!」

と怒られましたが・・・・


さて、「駐在所」「派出所」「交番」と言いますが、「新明解国語辞典 第七版」によると

「駐在所」は「巡査が家族とともに住み、受け持ち区域の警備に当たるところ」

「交番」は「要所に設けられた『巡査派出所』。〔広義では、駐在所をさす〕

「派出所」は「『巡査派出所』の略。「交番」の旧称。

「巡査」は「警察官の階級の一つ。巡査部長の下。

「巡査長」は「巡査のうち、勤務成績が優秀で、実務経験の豊富な者に与えられる称。〔正

式な階級ではない〕となっています。


最近、交番、派出所、駐在所が経費のせいか、随分減りました。「まよい子志らせ石」を作

ったような、暖かい心を持った、警察官が増えれば良いのですが・・・・・




2014年8月18日 (月)

「松井須磨子とその縊死せし場所」~「国立国会図書館デジタルコレクション」より

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古文書等、いつも世話になっている、「国立国会図書館デジタル図書館」。


先日までは、「えろえろ草子」が、アクセス数第1位だったのですが、今日見ると、第1位が

「広島県統計書 明治38年」、以下「官報 昭和2年4月27日」「熊本県広報 平成15年

(号外29)」「日本の名勝」とまあ、真面目なのが並んでいます。いろいろ調べている方がい

るのでしょうが・・・・


さて、こちらも調べものがあって、たまたまアクセスしたのが、「新劇壇の花形女優故松井

須磨子と其の縊死せし場所」。


松井須磨子といっても、知らない方がおられるでしょうが、「カチューシャ かわいいや 別

れのつらさ せめて淡雪 解けぬ間かと 神に願いをララかけましょう」という歌はご存じだ

と思います。


松井須磨子については、ウィキペデア等に詳しく書いてありますので、そちらをご覧下さ

い。


上の写真。発行は歴史写真会、 「歴史写真 大正八年二月号」になっています。読みにく

いので、


上には

「新劇壇の花形女優故松井須磨子と其の縊死せし場所」。


左は、

「故島村抱月氏と共に、『藝術座』を組織して天禀の技能を發揮し我が新劇壇の第一人者

とした江湖賞讃を博したる松井須磨子事小林まさ子は大正七年十一月五日多年恩師とし

て畏敬をし戀人として切愛したる島村氏の突然なる死去に遭ひてより痛くも人生を悲觀し

日夜怏々として樂しまざるの有樣であったが翌八年一月五日即ち島村氏命日の拂暁、日

常彼女の起伏したる牛込區横寺町の藝術俱濼部樓上演伎場の背景室に於いて梁に緋縮

緬の細帯を懸け一糸亂さず縊死を遂げた寫真右は須磨子が自殺の前日まで有樂座に出

演扮装ししたる、洋劇カルメン、左は自殺の場所で天井に見ゆる梁に帯をかけ下の四角

な臺に上りて縊死したのである。また上段は個人の素顔である。」


松井須磨子がこんな所で縊死したとは、信じられないことでした。なお、島村抱月は、スペ

イン風邪で亡くなっています。日本でも最近の研究では、四十八万人が亡くなったと言われ

ています。





2014年8月16日 (土)

吾妻町温泉神社二王石(いわくら)~雲仙市吾妻町

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吾妻町、旧山田村にある、温泉神社です。以前は「四面宮」、「筑紫野国魂神社」、と云い、

一の鳥居の額束には、「四面大明神」と書いてあります。二の鳥居には「温泉神社」と書い

てあります。


ここと、有家町、千々石町、諫早市にもありますが、「歴代鎮西要略」には、「大寶元年辛

丑、肥前州高来郡温泉神社垂跡、分身末社四所産、曰山田神、有家神、千々石神、伊佐

早神」となっているそうです。


これで、山田村(現雲仙市吾妻町)、有家(現南島原市有家町)、千々石(現雲仙市千々石

町)、伊佐早(諫早市)に、末社が四カ所あったことが分かります。


今では、温泉神社といっていますが、昔は普通、「四面宮」といい、明治2年、神仏分離令と

共に、温泉神社になります。昔の方は「お四面さん」と云っています。


千々石も「温泉神社」と云いますが、神社裏には、「四面宮」と書いた額束が置かれていま

す。


雲仙は有名な修験道者の修行場で、それだけ、霊験があったわけですが、山深く、今と違

って道も充分でなく、登りにくく、この四カ所の神社が、遙拝所であったみたいです。


また、女性禁制であったので、千々石には「女人堂」があり、女性はここに籠もり、祈祷して

いたそうです。


さて、「磐座(いわくら)」ですが、

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によれば、「人間の請に応じて石や木に降臨影向する。石はその座であるので。『磐座』と

呼ばれるのである。」と書いてあります。


三の鳥居の左右に、大きな岩があり、「吾妻町史」には、「二王石(いわくら)」と書いてあり

ますが、二つ並んでいるので、「二王石」と呼ぶのかと思い、「二王」を調べても意味が出て

来ません。


「仁王」様を、「仁王尊」「二天王」「二王」とも呼ぶそうですから、それもあるのかな?「仁王」

様みたいに左右に二つ、がっちりと神社を守っているみたいな感じがあります。

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(参考・文引用:「吾妻町史」「有家郷土史」「石の宗教~五来重著」「島原半島の神社を訪 

 ねて~林田秀晴著」「説明版」より)





2014年8月15日 (金)

恐怖のお泊まり会~死者から届いたメール~P.J..ナイト著・岡本由香子訳・shirakabaイラスト

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今日はお盆の最後の日。長崎市内では派手に精霊流しをやっているみたいです。昔は、毎

年見に行っていたのですが、もう元気も失くし、というところで、ゴロゴロしながら読書。


暑いので、少し涼しくなろうと、難しい本は避けて、帯に「2014年 学校がすすめる 5・6

年生」と書いてあったので、買って来たホラー小説。この、「学校がすすめる」が良いです

ね。学校がすすめるホラー小説とは、どんなものか?


このシリーズ、7月にもう一冊出るそうですから、全部で四冊になります。「吹雪の夜に消え

た少女」「呪われた脚本」、そして「死者から届いたメール」、7月発行の「裏庭にひそむ怪物

(仮)」。


私たちの頃は、宮本武蔵「お通の白い太ももが、月の光に・・・・・・」、とか、山田風太郎「くノ

一忍法帖」、柴田錬三郎「眠狂四郎」なんて読んでいたんですが・・・・読んでいただけです。


さて、この本読んでいると、小学生5,6,年で、パティーだとか、付き合いを申し込むだと

か、5,6年生にしては、マセているなと思ったら、作者はアメリカ人でした。こんど、生まれ

変わる時は、アメリカ人に。


登場人物は、五名描いてありますが、サラは交通事故で亡くなっています。

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さて、アビー、リア、クロエ、ノラの四人が、お泊まり会をしますが、亡くなったサラと付き合っ

ていた、ジェイクの事を、アビーが好いていることを告白します。


その夜、電源を切っていたはずの携帯電話にメールが入っていて、「わたしの彼にちょっか

いを出さないで!次はただじゃすまないから!」。亡くなったサラからのメールです。


また、ジェイクとパーティーに着ていく、ドレスが引き裂かれていたり、脅かしのメールが入

っていたり・・・・・という事で、後を書くと面白くないので、この辺で。


私、小さい時、生の火の玉を見て、3日ばかり寝込んだり、知人が亡くなった丁度その時

間、知人が枕元に立っていて、金縛りになったりの経験をしていますから、まあ、これくらい

のホラーではというところです。まして、カミサンと一緒だと・・・・


小学校の5,6先生くらいの、女の子が読むのに、丁度良い、ホラー小説みたいな感じがし

ました。でもアメリカの女の子は、マセてイマスネ。






2014年8月14日 (木)

草積夫人 その後~藤原隆信か龍造寺隆信か

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さて、また「草積御前」のことです。お久しぶり~ね、といったところですが、これについては

2回ほど書いてます。

「草積夫人 その一」、「草積夫人 その二」。


角川書店「日本の伝説28 長崎の伝説~福田清人・深江福吉著」ですが、千々石に関係

する話が出ており、漁師の娘が、千々(茂木の近くです、千々石ではありません。)に辿り着

いて、犬に噛まれ死んでしまいますが、この娘の父親が、龍造寺隆信。


現地に出かけて見ると、上の説明版。娘の父親が、藤原隆信、隆信の父が、藤原俊成、定

家(小倉百人一首の撰者)の兄にあたります。これにはビックリ。


さて、藤原隆信が正解か、龍造寺隆信が正解か。悩んでいたら、知人が、ふと、一言、「竜

造寺の本姓は何だっけ。」


その手があったかと調べたら、ウィキペデアに「藤原北家中納言関白流高木支流?」と載っ

ているではありませんか。


ウィキペデアによれば「本姓」とは、「本姓(ほんせい)は、明治以前の日本において、『氏

(うじ)』のこと。名字(苗字)や家名とは異なる『本来の姓』という意味である。単純に姓(せ

い)とも言うが、『姓(かばね)』のことではない。」「名字の出現は、古代から引き継がれた氏

という氏族名称に取って代わったわけではない。公的な文書においては官位とともに氏と

諱が記載され、何より出身氏族を重んずる当時の名誉意識からして、氏は家柄の由緒を示

す誇りであり続けた。」という事だそうです。


昨日、「諫早市美術歴史館」に行ったおり、諫早家の系譜が展示されており、「諫早家系圖 

藤原姓」と書いてあります。

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    (「諫早家ゆかりの品々展」より)


右の方には、「龍造寺姓ハ李家ノ時源朝臣範賴豊後国府御□際龍造寺之地頭職ヺ給ワル

依テ龍造寺ト号ス」と書いてあります。


諫早家は、龍造寺(後諫早藩)に属しますが、諫早家の文書等に、藤原の文字が散見され

ます。

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さて、私が参考にしたのは、「長崎町人誌 第五巻 新編 長崎名勝図絵」だったのです

が、この本は、現代的に分かりやすく書かれていますが、長崎文献社から発刊の「長崎今

昔集覧 上巻」には、「草積祠」として、「志稿伝、草積婦人の祠○在茂木村、地名草積(長

いので途中カット)草積名トスル者多シ或説、夫人ハ本肥州吏志藤原隆信之女、隆信嘗運

高来会遘漁家・・・・・」。最後に「○長崎日記云ククサズミ御前○茂木村ニ在リ、立(ママ)造

寺ノ女」。とあります。「肥州は肥前、肥後の総称です」。(太字は私)。


さて、茂木町の「茂木町郷土史 昭和33年刊」には、藤原隆信(藤原俊成の子)と書いてあ

りますが、長崎古今集等を読み、京都の「藤原隆信」と勘違いし、説明版もそれに沿って書

いた気がするのですが、読んだ人が勘違いしますので、訂正が欲しいところです。






 


2014年8月13日 (水)

「サラリーマン拝!~吉田聡著」★「おら(=俺)、ハードボイルドだど!」

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最近ガックリ疲れて、おまけに本の字が見えない!買って来た本は、溜まる一方で、少し、

イライラ気味になったので、ここ数日、マンガばかり読んでいます。少し、気になったのがあ

ったので。


主人公は「拝啓」とかいて、「おがみ あきら」。「拝」という名を聞くと「拝一刀」。思い出しま

すね。随分古いけど。


主人公、仕事は出来て、ケンカは強く、女にもてて、そんな男ですが、どうにも分からない。

出社しても寝てていたり、守衛室でTVを見たり・・・


サラリーマンマンガで思い出すのが、「山口六平太」。何となく、ホンワカとしたマンガです

が、サラリーマンの生き方なども、良く書いてあります。


少し、関係ありませんが、人間の生き方を書いてあるのが、「浮浪雲」。今週号読んだら、

「浮浪雲」さん、古希になったそうです。見えませんね。相変わらず、「おねえちゃん、あちき

と遊ばない。」とやってますが、今週号何となく、元気がないみたい。最近は、仏教的な考え

が多く、ジョージ秋山さんも、歳取ったのかな。

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さて、「拝啓」氏、午後4時頃出て来て、「拝さん、今出社ですか。もう午後4時ですよ。」

「近くに寄ったから、おしっこに来ただけです。じゃあ、お疲れちゃん。」「お疲れちゃん」は、

口癖です。


ハードボイルドについては、ウィキペデアに、「感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷

非情、精神的肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す言葉である。」と書いて

あります。


もう一つ、ハードボイルドを端的に言った言葉、「タフでなければ生きて行けない。優しくな

れなければ生きている資格がない」


今週号を読んでいたら、なるほどと言う言葉があったので、


部長から料亭に呼ばれて、

部長、「でー酔ったから話すのだが拝くん!」

拝、「部長。酔ったからの話はききたくありません。」


同僚から

同僚、「でーここだけの話をしてやるが、今度の役員会では専務派が・・・・・」

拝、「ここだけの話は聞かんっ。ここだけじゃない話なら、いつ何時でも聞いてやらんことも

ない。」


後輩から

後輩、「こういう話は拝さんにしか言えませんが」

拝、「拝さんにしか言えない話を俺にするな。」


拝氏が指導をしている新入社員に対し

新入社員、「拝さんが、内緒話を聞いてくれないと、いろんな人が不満を言ってます。」

拝、「かまいませんよ。だいたいなー『酔ったからいうけど』とか、『おまえだなら話すけど』と

か、『今だから教えるけど』、『ここだけの話』とか、ロクな話があったためしはねえんだ!?

みみっちいんだよ、ばか野郎~!!」


その後、新入社員に

新入社員、「人の話には、役に立つ事や、参考になる事があるでしょう、そういう態度じゃ情

報弱者になりかねないんじゃ・・・・」

拝、「立花君、仮に100パーセント、それが善意の言葉でも、その言葉の上を歩いていて、

その道が正しい方向なのかどうかは、誰も教えてくれませんよ。」


本当にタフで、優しい言葉です。私もサラリーマンで営業をやってましたが、このセリフ言え

ませんね。まさに、サラリーマン・ハードボイルドマンガです。


このマンガ読んでて、何となく、トリオ・ザ・パンチ、内藤陳の、「おら(=おれ)、ハードボイル

ドだど!」の言葉を思い出しました。


それでは皆さん「お疲れちゃん。」


【おまけ】

久しぶりに、森山町の溜池に行ってみたら、人魚さんに変わっていました。なかなかの美人

ですが、一言だけ。「ブラジャーが邪魔」

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2014年8月12日 (火)

ん?世論調査

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体調が悪いですネ。暑さのためではなく、以前にも書いた隣の犬。夜の2時頃鳴いて、起こ

され、眠れないので睡眠薬。少し寝たかなと思ったら、また5時頃泣き始め、少しうとうとし

ら、又6時にワンワン。


近所でも、迷惑をし、集金人、配達人の人にも吠えかかり、有名な犬なのですが、電話で抗

議をしたら、「この間石を投げたでしょう、動物虐待よ」。私、運動音痴で、2メートル先の的

にも当てきれません。投げたのは、当たっても、全然痛くない○なのですが・・・・・


「夜遅く、鳴き声で起こされたり、一日鳴いて、こちらを困らせるのは、虐待とは言わないの

か」と反論はしましたが・・・・ペットブームで、特に犬が増えました。


「犬は鳴くのが仕事だ」という方がいますが、鳴かない犬も沢山います。鳴かないから、飼っ

ているのか、飼ってないのか分からないだけです。ペットをお飼いの方は、他に迷惑をかけ

ないように注意をしましょう。猫を飼っている方。放し飼いが多いようですが、おしっこやら、

めたら臭いウンチを他人の庭にしていきますから、要注意。


さて、体調が悪いので、ネットをなんと眺めていると、世論調査があちらこちら、載ってい

て、みると面白い。


上は、2014|世論調査|報道ステーション|テレビ朝日のネット、から転載したもの。

2014年7月26/27に日調査。【調査方法】層化二段階無作為調査(全国125地点【対

象】1000人【有効回答率】43.8%。


日本の人口が、総務省統計局の人口推計では、平成26年7月11日現在(概数値)で、総

人口、1億2710万人です。


計算すると、(1000人×43.8%)÷1億2710万人≒0.0000034461で、これ、何%

でしょう。これで、日本国民全体の考え方が分かるんでしょうかネ。

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こちら、時事通信社。調査方法など書いてありません。多分、他のページに書いてあるかも

知れませんが・・・・・7月11・12日の調査。結果は大体、報道ステーションと同じ。

Nhk

上が、NHKの政治文化研究所。8月8・10日の調査。支持率が51%ですから、上の45.

0%、44.6%とは、随分違いますね。


「朝日新聞」が、7月26・27日に調査。支持率42%、不支持が36%。何となく少しづつず

れてますね。大事件が起きると、一日で、変化しますから、こんなものか。


「朝日新聞」は「朝日RDD」という方式を採っているそうですが、これは長くなるのでカット。

ただ、「一度決めた対象者は変えず、時間を変えて最大6回まで電話をかける」(朝日新聞

社:世論調査:ニース特集より)そうですから、選ばれないように注意しましょう。


見比べると、多少の違いはありますが、0.00034461パーセント(間違いナイデスね。私

は文系で数字を見るとジンマシンが出る方です)で、日本人の意識が分かるのか、何となく

不安ですね。マスコミによる、世論操作が多くなってきているようですから。


ところで「世論」を「よろん」と読むか「せろん」と読むか、昔、議論があったようですが、せっ

かくiPadに「明解国語辞典第七版」を入れたので、調べて見ました。


■せろん【世論】世間の多くの人の意見。よろん。

■よろん【輿論】〔「輿」は、衆の意〕それぞれの問題についての世間の人の考え。「ーが▵高

まる(落ちる・沸騰する)/ー調査

(標記)当用漢字制定以後は、この意味で「世論」と書き、「せろん」という事が多い。「与論」

は、代用字。


ということだそうで、「せろん」が、なんとなく、正解みたいです。





2014年8月11日 (月)

涼を求めて水族館~長崎ペンギン水族館

2

長崎ペンギン水族館です。見ていたら、30分ばかりこの姿勢のまま動きません。私も、ボ

ーッと30分ばかり見ていたわけですが、何となくペンギンさん見ていると、ホッとしますね。


別に、水族館を、見に行ったわけではないのですが、日見峠の腹切り坂を調べに行ったつ

いで、暑くもあり、少し涼んでいこうかと。


確か、左側が以前、水族館だった記憶があるのですが、現在は長崎総合科学大学附属高

校の校舎になっているみたいです。


水族館は経営不振で、ペンギン館に特化し、持ち直したみたいです。右の茶色の建物が、

大学で、確か、私たちの時は造船短期大学といってみたいたいですが、調べたら、前身は

いろいろあるようで、川南高等造船学校が出発みたいです。


この、造船短期大学当時、滑り止めと、試験の度胸づけに、附属高校を受験しましたが、ど

ういうわけか、水族館の無料の入場券を貰った記憶が残っています。右の茶色の建物が

大学です。

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入り口を入ると、自然体験ゾーンがあり、時期的にはオタマジャクシなども見られます。

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沖縄の水族館みたいに大きくははありませんが、結構沢山の、お魚さんが泳いで、子ども

たちも喜んで見てました。.

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どちらかが、イワシで、どちらかが、アジです。魚の名前には弱く、女性の名前には強いの

ですが・・・・こちらが沙織ちゃん、そちらが彩矢ちゃん、向こうが友梨さん。キャバレーの話

ですが・・・・・良く金を使いました。キラキラして、綺麗ですヨ。

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不思議な風景です。左がアンドンクラゲたったかな?右がイソギンチャクとクマミノ。魚がク

マミノで、一夫一妻ですだそうで、私と一緒です。イソギンチャクはクマミノを捕食者から守

り、クマミノは、イソギンチャクを食べる魚を追い払い、共生しているそうですが、これは、不

思議な美しさでした。見ている子供を押しのけ、しばし、見とれていました。

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タイ国では、神の使いと呼ばれる、「プラー・ブック」。女性の方が、しばらく見ていましたが、

何を考えているんでしょう?魚を見ながら、別れた彼氏の事を考えるわけもなく。さて、この

魚、刺身にしたら、何人前くらいとれるのでしょう?

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永井さんといわれる方が、世界中のペンギンの作品を集めたコーナー。良く見ると、面白い

のがたくさんあります。

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ペンギンって、卵で生まれるんでしたっけ。勉強不足でした。右が骨ですが、見かけによら

ず、複雑な骨。

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気持ち良さそうに泳いでイマスネ。一緒に泳ごうと思ったのですが、残念ながら、私、全然

泳げません。

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いつもは、ペンギンショーもやっているのですが、この日は台風接近のため、中止でした。

ペンギン飼って、散歩に連れて歩くのどうですか。ただ、足が短いので、歩くのが遅くて・・・

私も一緒か。


暑い中、遠くに出かけるのも良いですが、お近くの施設を見つけて、遊びに行くのも良いで

すよ。お金もかからないし。


2014年8月 9日 (土)

長崎・原爆の日に思う

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今日、8月9日は、長崎に原爆が落とされ、69年目でした。


前にも書いたように、私の母方の父、私から見れば祖父になりますが、たまたま、原爆が

落ちた所に出かけ、亡くなりました(私はまだ生まれてなく、顔も知らないのですが)。


小学校の時、原爆が落ちた近くの、浦上に移り住んだので、原爆の後がまだ残り、被爆者

の方のお話も、直接聞く機会がたくさんありました。


さて、諫早の図書館に行った時、ちょうど「2014 原爆パネル展」をやっておりました。

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長崎の原爆資料館には、パネルだけでなく、実物も展示してあるのですが、わたしも小学

生の時、何回か見学に行ったことがあります。


左が、浦上天主堂。今でこそ建て替わり、沢山の観光客が訪れていますが、私が小学校

の時、浦上に移り住んだ頃は、安全のためでしょうか、壊されて、瓦礫で積んである状態で

した。これを、残すかどうか議論があったようですが、広島の原爆ドームと同じく、残すべき

だったでしょう。こちらは、キリスト教会ですから、訪れる外国人の信者の方がどう思うの

か?


右は、城山国民小学校。兒童1400名、先生31名、学徒報国隊員105名が亡くなってい

ます。

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左が80㎞離れた、瀬戸内海海上から撮った写真。右が、原爆後の中心地付近かな?私

の祖父も、多分この瓦礫の下で、亡くなっているのでしょうが・・・・

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この少年の写真、ネットで調べると、谷口稜瞱さんとか、山口仙二さんとか、少し混乱して

いるのですが、国連で、この写真を掲げて、「ノーモア・ヒロシマ・、ノーモア・ナガサキ、ノー

モア・ヒバクシャ」と訴えかけています。


谷口さんとは、二人でお話しをしたことがありますが、背中のケロイドと、手術のため皮膚

の皮が薄く、裂けやすいため、食事を腹一杯食べると、皮が張って、皮膚が裂けるので、食

事も、あまり沢山は食べられないと語っておられました。

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さて、現在、原爆教育に対し、「残酷な写真だ」「子供が嫌がっている」という話を聞いたこと

があり、これは多分、20代~30代の保護者の方の声でしょう。


また、原爆の「語り部」の方によると、修学旅行生に話しても、真剣に聞く子が少ないとか。


現在、右傾化の感じを強く受けます。戦争は「理論」とか、「思想」ではなく、まして、「残酷な

写真」「子供が嫌がっている」という話ではなく、上の写真のように「現実」なのです。いざと

なったら、あなたの目の前に広がる、「現実」なのです。


こんな話も聞いた事があります。

「原爆直後、私が小さい時、前から赤い袋を担いで、ヨロヨロして歩いて来る人がいた。な

にかと思って良く見たら、腹が裂け、腸がお腹からはみ出て、それを担いでいた・・・・」


一番上の写真は、原爆で焼け死んだ子の写真です。これが「現実」です。下に、こう書いて

ありました。



見てください

この子どもたちに

何の罪があるのでしょうか

すべての核保有国の指導者は

この写真をみるべきであります。

核兵器のもたらす現実を

直視すべきであります。

そして

あの日

この子らの前で起きたことを

知ってほしいのです。

この子たちの無言の叫びを

感じてほしいのです。

〔95年11月7日、国際司法裁判所に於ける伊藤一長 長崎市長の発言〕


今も、世界の各地で争いが起こり、一般市民の方が犠牲になっています。人類、何千年の

歴史で、どれだけの戦争が起こったことか。人間って、どこまで馬鹿な事をやれば、気が済

むのでしょう。


あえて、「残酷な写真」も載せました。これが「現実」だからです。前伊藤市長が言われたよ

うに「直視」して欲しいからです。

(写真:諫早図書館 2014原爆パネル展より)






「辞書になった男~佐々木健一著」「明解物語~柴田武監修・武藤康史編」 その3

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さて、問題の一月九日です。


■じてん【時点】・・・・・・・一月九日のーでは、その事実は判明していなかった


(明)に柴田武氏(東京大学名誉教授・「明解」「三国」の編集)の「見坊豪紀と山田忠雄」と

題したインタビューが載せてあり、


ー「新明解国語辞典」の初版は昭和四十七年一月二十四日付けで出ていますが、このとき

の事は・・・・・・・。


柴田 これは覚えていますよ。一月九日かなんだったか。打ち上げがあったんですよ。『新

明解』が出来たとは聞いていても、実物はまだ見ていなかった。・・・・・・・・で、一月九日に

初めて本を手にしました。まず序文をみて、ビックリ仰天しました。見坊さんもそこにおられt

けど、何にもおしゃらなかった。・・・・・


この序文については、(辞)に載っていますが、



新たなものを目指して


人も知るごとく、本書の前身は「小辞林」の語釈を口語文に書き替える事から出発した。(中

略)このたびの脱皮は、執筆陣に新たに柴田氏を迎えると共に、見坊氏に事故有り、山田

が主幹を代行したことにすべて起因する。言わば、内閣の更迭に伴う諸政の一新である

が、真にこれを変革せしめたのは時運であるといわねばならぬ。(「新明解」初版 「新たな

るものを目指して」)


すなわち「一月九日までは、その本の内容は、誰も知らなかった」という事です。


この「事故」は、普通に使う「事故」の事ではなく、柴田氏はインタビューに答えて

「『山田さんはそういう意味ではない、ほかの意味があるよ』と。たしか、明治時代の用法に

はあるんですね。『できない」』『さしつかえがある』という意味で、それで自分がやったんだ、

ということなんですよ。」


「ただね、『明解』の改訂(「新明解」になる)とほぼ同時に『三省堂国語辞典』の改訂の話が

出たということは見坊さんに聞きました。それで、見坊さんとしては同時に二冊はできない

から、『明解』の方は山田君やってくれ、とおしゃたんじゃないかな。それを山田さんは《見坊

に事故あり》と書いたわけですね。・・・・・・・」


「・・・・・どうも、私の見るところでは、見坊さんは山田さんに『手伝ってくれ』とだけおしゃった

んじゃないだろうか。主幹は、はやり見坊というおつもりじゃなかったかなと。それがいつの

間にか山田主幹になった。『主幹』とかいてあるでしょう。」


さて、序文については(明)では長男行雄がインタビューに答えて


「・・・・あの前書きを読んで『これはウソだ』ということは言った。それはうちの母親と二人で

言っていましたよ。『この書き方は、いくらなんでも失礼である』と。」

「《事故あり》については、たしか『ショックだ』という感じでおやじはしゃべっていたと思いま

す」


(辞)は少し違っており


「食卓で『新明解』を広げて見せて『おい!行雄。これを見ろ、この序文を見ろ』といわれまし

た。『そこに、見坊に事故有りと書いてあるだろう!これは嘘だ。まったくけしからん。この書

き方はいくらなんでもおかしい。事故有りとはなんだ!俺は事故なんかにまったくあってな

いぞ。大病でもしたのか?俺はピンピンしているぞ。こういう書き方はない』と・・・・・」


さて、問題がもう一つ。見坊さんの原稿を山田氏が「新明解」に使った事。これには、当時

編集に関わった、三上幸子さんが(明)で次にように語っています。


三上 私も何時までも生きていられるかわからないからお話ししておいた方がいいかもし

れませんが、当時『三省堂国語辞典』の第二版のゲラと、それから『新明解国語辞典』の初

版ゲラというか原稿は、両方わたしがいちおう担当していたんです。見坊先生は用例をたく

さん集めてらっしゃた。山田先生は当時そういう事を一切してらっしゃらなかった。だから、

用例がないんですよ。はっきりいって。それで、あるとき「『三省堂国語辞典』の見坊の作っ

た用例のはいったものをちょっと見せてくれないか」と私におっしゃたんです。わたくしも本

当は困るけど上の人に相談したら、『まあ、いいんじゃないか』と、お互い、仲のいい先生同

士だから、と。で、少しお見せしたんですよ。そうしたら、それをそのまま用例として入れちゃ

ったんです。山田先生が。それがケンカの原因になった。見坊先生、あとで知りましてね。

・・・・・・・・・・」と語っています。


「事故」で決別した二人ですが、「三国」「新明解」の二つの辞書に関わった、柴田武司先生

は、山田氏の言葉をこう書いています。


「山田さんは見坊さんの仕事について、辞書史の上で大変な功績だということは、書いても

いらっしゃるし、『近頃、見坊はよくやっているよ』というのを私も聞いた事があります。


元、三省堂の倉橋氏は、「・・・・山田はどうしていますか?」と聞かれ、当たり障りのない返

事をしたそうですが、見坊先生は突然「私は、山田を許します」といいつづいて、「どちらも”

米びつ”を持ったのだから、それで良いんだと思います。」と言ったそうです。「米びつ」は、

「収入源(辞書の印税)」という意味で言ったと思われるという事だそうです。


いずれにしても、素晴らしい日本の小型国語辞典を、作った二人です。


「新解さんの謎」はベストセラーにもなりましたが、登場するSM女史は、女性に対する解説

に不満を持っているようですが、先ほどの三上氏によれば、語釈等、こう直したがいいので

は、という事に対し、


「・・・・いわゆる差別語などはすんなりと直してくださるのですが、女性差別に通じると指摘

された語釈や例文などは、あまり認めて下さいませんでしたね。私の主観としてはこれでい

いんだと・・・・・私は女性を差別なんかしていないのだと、そういう発想ですね。」


さて、赤瀬川源平さんが「明解物語」」と「辞書になった男」を読んでいたら、どう書いていた

のでしょうか?なかなか、いい線行っているのですが。


これもベストセラーになった「舟を編む」。これに出てくる、松本先生、何となく見坊先生を思

わせます。


馬締君と香具矢さん、結ばれますが、後の方で、「カウンターの中から声をかけてきたの

は、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。」とありますが、本を読ん

でも、子供が出来たことは書いてありません。ひょっとしたら、馬締君は辞書づくり、香具矢

さんは料理作りに没頭するため、子供が出来なかったのではなく、作らなかったのではない

かという感じもします。


なかなか面白い本です。「辞書になった男」と「明解物語」と合わせて読めば、見坊氏、佐藤

氏の辞書作りと、現代の辞書作りの違いが分かると思います。


さて、「三省堂国語辞典 第七版」。見坊氏は亡くなられていますが、名前はちゃんと書か

れています。なお、前書きに、見坊氏の「第三版序文」が掲げられています。


第三反序文

辞書は”かがみ”であるーこれは、著書の変わらぬ信条であります。

辞書は、ことばを写す”鏡”であります。同時に

辞書は、言葉を正す”鑑”であります。


辞書の最後の言葉はなんでしょう?「ん」ではありません。調べて見てください。「明解国語

辞典」。最後から2つめには「んとす」ですが、こう書いてあります。


【んとす】

・・・・・・・・/われら一同、現代語辞典の規範たらんとす抱負を持(モツ)て、本書を編した

り。乞(コ)ふ読者、微衷を汲(ク)み取られんことを」


長くなりましたが、辞書にも作る方の思いがあり、読み比べると、面白いものです。「明解物

語」は高いので、「辞書になった男」はお読みください。辞書が好きになります。(終了)


(参考・文引用:「辞書になった男~佐々木健一」「明解物語~柴田武監修・武藤史編」よ 

 り)






2014年8月 7日 (木)

「辞書になった男~佐々木健一著」「明解物語~柴田武監修・武藤康史編」 その2

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iPadに入れた、「明解」の七版です。辞書は厚く、場所を取るので不便ですが、電子辞書は

便利ですが、何となく、味気ないですね。


さて、見坊氏は東大の国文科に入りますが、その中で、国語学を選んだのが、渡辺綱也

氏、そして、山田忠雄氏の三名。


山田忠雄氏のお父さんは、国語学者の山田孝雄氏で、大学教授、貴族院議委員。戦後、

公職追放にあるも、後年文化勲章も受章したそうです。


山田忠雄氏は、(辞)にもの持っていますが「空気のような存在・山田」だったそうで、見坊

氏も「山田孝雄博士の息子だなんてことも、あまり知られていなかったぐらい」と言ってい

ます。


見坊氏の父親と、金田一京助氏は、盛岡小学校と盛岡中学校の先輩後輩にあたり、大学

の卒業の時、挨拶と、就職があったらお願いします、と言って帰ったそうですが、半年後、

当時、大学院にいた見坊氏に、金田一氏が監修する、三省堂の辞書の編集者に採用され

ます。


これは、ただ、金田一氏が推薦したからではなく、見坊氏の前にも、同じ東大の同期生が三

省堂から、話があったそうですが、「・・・・落第してしまったんだ。」(明)ということもあったそ

うです。


さて、見坊氏も三省堂に面談に行くと、それまで出版していた「小辞林」を渡され、辞書の語

釈が文語体だから、口語体に直してくれ、新規に入れても良い項目があったら、入れても良

い」と。


見坊氏は2週間後、三省堂を訪れますが、提案として、「引きやすいこと」「わかりやすいこ

と」「現代的なこと」を提案します。とくに「引きやすいこと」。当時の辞書は歴史的かなづか

いで「カウ(校)」だか「カフ(甲)」だか、分かりにくいので、発音式にすること(「栄養」を「エ

イヤウ」「エイヨウ」ではなく、「エエヨオ」と発音通りで表記すること)等を、2時間ばかり説明

し、採用されます。


見坊氏は、辞書を作るのに、企画、立案、交渉、執筆と(アクセントは金田一春彦)独断的

に動きますが、友だちにも少し手伝ってもらえたら、という事で、同級生の渡辺綱也氏に話

をしたのですが、金銭的な考えの違いから、話がつかず、当時、岩手師範に勤務していた

山田氏に依頼したそうす。「山田氏には校閲、助言をたのむなど、勝手に事をはこんでしま

った。」そうです。


これを、山田先生が、どう取られたか分かりませんが、「こうした状況が、後の山田先生

の”あの発言”「見坊の嫌がる表現をとるならば、出発の当初において、私は”助手”だっ

たのです」という発言に繋がるそうです。


新明解の初版【じつに】の項

【じつに】「助手の職にあること実に十七年[=驚くべきことには十七年の長きにわたった。

がまんさせる方もさせる方だが、がまんする方もするほうだ、という感慨が含まれている。]


「十七年」という期間は、これまで山田氏が見坊氏と共に、辞書の編纂、改訂作業にあたっ

ていた期間を積算したものであろう」(辞)と書いてあります。


さて、「明解」は売れますが、辞書は、新しい言葉、解釈など改訂が必要で、「明解」の改訂

版が出されたのが、和二十七年。それ以降、改訂三版は数十年出版されません。


この間、昭和三十五年に「三国」が見坊氏の手で作られますが、「明解」「三国」も改訂版が

出されない状態が続きます。


その理由は、見坊氏が「用例採集」にのめり込んだという事で、カードに「言葉」を集めて、

書き込むという事ですが、生涯かけて集めた、「見坊カード」が145万枚にもなるそうです。


この、「用例採集」が凄かったらしく、(明)に「見坊豪紀の私生活」が書いてあり、兄弟三名

のインタビューになりますが、


「『用例採集』をやっていないのは風呂に入っている時間と歯を磨いている時間ぐらいです

ね。食事している時間は新聞は読みませんが、テレビで採集出来ますから」


(明)によると、「当時(昭和35年の『三国』初版刊行以降)は、「明解」の改訂と「三国」の改

訂が同時に進んでいた、見坊さんとしては、同時に二冊は出来ないから山田さんにやって

くれ、と仰ったんじゃないかな」(柴田武氏談・「三国」「新明解」両方の編集者を務める)


「三国」と「明解」と「新明解」の関係です。

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ここで、(辞)の著者、佐々木健一氏がいう、「三国」「新解」の違いが出て来ます。「客観」と

「主観」、「短文」と「長文」、「現代的」と「規範的」。


いよいよ、佐々木健一氏が気にする「謎の日付『一月九日』」の事が出て来ます。この日を

境に、二人は決別します。これは、「新解」第四版、五版の【時点】の項に載っています。


■じてん【時点】・・・・・・・一月九日のーでは、その事実は判明していなかった


さて、一月九日に、何が起こったのか、又明日。




「辞書になった男~佐々木健一著」「明解物語~柴田武監修・武藤康史編」 その1

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「辞書になった男~ケンボー先生と山田先生」は、2013年4月に、NHKBSプレミアムで

「ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男~」として放送されたものを元

に、書かれた本だそうです。


ご覧になった方もおられると思いますが、ウチではBSは引いてないので、残念ながら、見

た事はありません。とにかく、面白く、普段辞典を引かない方もあると思いますので、辞書

に興味を持っていただくために、ご紹介を。


以下、長くなるので、「辞書になった男」を(辞)、「明解物語」を(明)で略します。この二冊の

本は、見坊豪紀(けんぼうひでとし)氏と山田忠雄(やまだただお)氏、二人の物語で、また

三省堂発行の「新明解辞典(略して「新解」と書きます)」と「三省堂国語辞典(略して「三

国」と書きます)の物語です。なお、「新明解辞典」の前身が「明解辞典」で、これは(明解)

と略して書きます。


「辞書になった男」を書いた佐々木氏が、取材で初めて会ったのが、「三国」第六判からの

編者の飯間浩明氏。


飯間氏から言われたこと事が、読んでおくべき本として、「明解物語」。さて、この「明解物

語」、東京には神田の古本屋街があって、捜せばあるでしょうが、長崎の片田舎には、神

田の古本屋街はありません。


ネットで調べると、8月6日現在で、4冊しか出ていません。値段が、一番安いので、29,

750円、高いのが50,000円。50,000円のが一週間前に、あと二冊あったのですが、

無くなっています。だれか買ったんでしょうが、買ったのは、絶対的に私ではありません。

一週間前から、どんな訳かこの本が、私の手元にありますが・・・・・・


辞書は、昔は、他の辞書を切り貼りしたり、文言を、少し替えたものもあったそうです。


辞書は、内容は、同じだろうと思っている方が、ほとんどだろうと思いますが、各辞書、改訂

版によって違いがあります。


何年か前、「明解さんの謎」という本で、「明解」ブームになったことがあり、私も「明解」を使

っていますが、三版、四版、五版と買い続け、久しぶり新しく買ってないので、七版を買おう

と思っていたら「三国」さんの帯に、なんと、阿川佐和子さんの、さわやかな笑顔が。私、フ

ァンなのでこちらを買っちゃいました。話では、還暦ですって。見えませんね。


「明解国語辞典七版」はあらためて、電子辞書版を買いましたが・・・

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さて、「新解」さんで有名なったのが「恋愛」の項目。


■「新解」三版二四刷発行

れんあい【恋愛】 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい出来る

なら合体したいという気持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめ

る・(まれにかなえられて、歓喜する)状態。

と書いてあり、「合体」という所が、評判になったものです。


■「新解」四版

四班は三版と一緒です。


■「新解」五版

れんあい【恋愛】 特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人で一緒に居

たい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いなが

ら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり歓喜したりする状態に身を置く

こと。

「合体」が言い換えられています。


■「新解」七版

れんあい【恋愛】 特定の異性にたいして他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むよう

な愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分か

ち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安

になるといった状態に身を置くこと。

随分、穏やかな表現に変わっています。ちなみに「三国」さんでは


■「三国」第七版

れんあい[恋愛](おたがいに)恋(コイ)をして、愛を感じるようになること


娘が使っていた「学研 現代新国語辞典」

■学研

れんあい【恋愛】 男女が互いに相手にひかれて愛し合うこと。恋。

何となく、味気ないですね。


こうして見ると、各辞書、各版によって、随分違います。さて、一時問題になった、「ら」抜き

言葉です。


「三国」では、「・・・・・・俗に、上一段・下一段活用活用の動詞に『られる』の代わりに『見れ

る』『出れる』などと言う・・・」


とありますが、「新解」にはありません。これは、辞書を作る時の主幹の考え方によって、違

って来ます。


さて、「新解」さんの表紙には、「金田一京助」の文字がありますが、これは、名義貸しで、

(明)の中に、金田一春彦(金田一京助さんのご子息)のインタビューが載っていて


ーはあ・・・・・・。それにしましても、「明解国語辞典」にせよ、「明解古語辞典」にせよ、表紙

に載っているのは金田一京助先生のお名前ですが、京助先生はまったくお書きになってい

ないと?


金田一 一行もかきませんよ、あの人は(笑い)。アイヌ語の文典とテキストは書きました

が、事典は書かなかった。「辞海」のときに見てまして、つくづく思いました。随筆になっちゃ

うんです。書きますと。


さて、第三版には「金田一春彦」の名前がありますが、第四版には載っていません。これに

ついて、「マンション」の項目には「スラムの感じが比較的少ないように作った高級アパー

ト」[賃貸しのものと分譲する方式の喪のがある]」(初版・第十八刷・昭和四十七年)と書い

てあり、マンションに住んでいる人から抗議が来たそうですが、山田氏は「いや、私がマン

ションに住んだらそうだったから、こう書いたんだ」と言い「字引というのは、人に教えるため

にあるもんだ」といわれ、これが、2,3回あり、名前を貸すのが嫌で止めました。と語ってい

ます。


さて、「明解」を作ったのは、見坊豪紀ですが、第四版の「新解」から名前が消えています。

「三国」には、見坊豪紀の名前が載っています。この二人は、東大の国文科国語学の同級

生で、一緒に「明解」を作りますが、後別れて、「新明解国語辞典」と「三省堂国語辞典」を

作ります。何故なのか、後は、又明日。


(参考・文引用:「辞書になった男~佐々木健一」「明解物語~柴田武監修・武藤史編」よ 

 り)


2014年8月 5日 (火)

「ながさきのおいしい店(長崎ごちそう大図巻)~ながさきプレス別冊」&諫早図書館「オッコベーグル」

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本屋さんを徘徊していたら、「ながさきのおいしい店(長崎ごちそう大図巻)」という本が出て

いて、1,025軒の、食堂、レストラン、ケーキ屋さん等の紹介でした。

Img_20140805_0003

中身は、こんな感じで、簡潔にして明瞭。「わざわざ行きたいおでかけランチ」「長崎生まれ

のおいしいもの」「とっておきのカフェ」「長崎中心部でカフェエ散歩」「佐世保でカフェ散歩」

「穴場べーカリーへようこそ」「看板おやつパン」「魅惑のスイーツコレクション」「長崎の料理

人」。あと、各エリア別のごちそうカタログ(店の紹介)があります。


島原半島、諫早地方を調べて見たら、主なところは取り上げてあり、隠れ家的な所もあり、

ここは、あまり紹介して欲しく無かったな。場所は言えませんが・・・・・


本の値段が少しお高く、1,500円。1,500円あったら、少し豪勢なランチが食えるかな?

今回で10号目だそうです。新しい店も載ってますから、一冊は持っていて便利です。


さて、諫早図書館ですが、以前は、小さなレストラン(食堂?)みたいなのがあって、一日中

調べものをするのに、昼食に便利だったのですが、いつの間にか無くなったみたいでした

が、今日いってみたら、駐車場の所にポスターがあって、「図書館カフェ オッペベーグル」

というお店ができたみたいで、助かります。


コーヒーとベーグルが売り物みたいで、お味の方は、まだ入っていませんから、分かりませ

ん。今度、入って見るつもりにしていますが・・・・

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2014年8月 4日 (月)

第7回 ふるさと夏祭り~雲仙市千々石町

0

昨年まで温泉神社境内でおこなっていた、「ふるさと夏祭り」。もう7回目を迎え、いままで会

場だった神社では、手狭になり、海岸の「福石公園」で開催の予定が、台風の影響で、小学

校の体育館で実施。


会場のまわりに飾ってある、七夕飾りは、各地区の子ども会で作ったもので、コンクールが

あり、ちゃんと審査、賞品もあります。最初は、虫除け・夏越祭りの神事。あと、挨拶。これ

はパス。


その後、フリーステージ。

最初に、吹奏楽部恒例の御神楽、今年は、意外と一年生が入ったみたいで、昨年より見ご

たえがありました。

第二小学校、日本棚田百選がある学校。「棚田へ行こう」。棚田サミットのテーマミュージッ

クだったかな?棚田の後継者達です。

1 2

児童館、保育所連合の「恋するフォーチューンクッキー」。AKB48の歌ですね。センターポ

ジションが指原莉乃さん。ですね。この児童館・保育所の皆さんだったら、私もセンターポジ

ションがとれそう。

千々石一小のエイサー、「島人との思いを伝えて」、随分うまくなりました。

3 4

婦人会のおばちゃま方の、千々石よかね節と恒例の、千々石音頭。

口之津だったか、加津佐だったかの親父バンド「祇園ゑびす」。懐かしの曲。

5 6

雲仙市商工会の「あいのん」。後の方は、幸せの翼で、触ると幸せになれるそうです。もう

少し下を触りたかったのですが、セクハラになるので、止めました。(中身は男性みたいでし

たが・・・・)

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今年、秋祭りで演じた、瀬々尾地区のエイサー「ミルクムナリ」。催事の定例になったようで

す。

フラダンス。音楽は、映画「フラガール」の主題歌。作曲は、ジェイク・シマブクロ。ウクレレを

やってましたから、ここらあたりは、詳しいですよ。

踊っている皆さんは、わざわざ、福島県から駆けつけてくれた、スパリゾートハワイアンズ

(旧・常磐ハワイセンター)の皆さん、なら良かったのですが、地元の「ブルーアイランド雲

仙」の皆さん。スパリゾートハワイアンズの方より、スーマートですね  。

7 8

愛野町の「愛やぁ連」。千々石の「舞華連」。これまた、恋するフォーチンクッキー。

9 10

最後の、愛野と千々石合同で、「総おどり」南中ソーラン(よさこい)

11

ライバル同士の、親和銀行と十八銀行のコーナー。今日は仲良くお隣同士。

Photo Photo_2

これ、どこだったかな?右は、商工婦人部で、「あいのん」グッズを売っていました。

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福祉協議会でのPR。右は、婦人会の風船アート。まだまだあったのですが・・・・

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もうじき、「長崎がんばらんば国体」ですが、がんばくんと、らんばちゃんも駆けつけての

PR。いつの間にか、「あいのん」も・・・・・

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このあと、抽選会、もちまき、カラオケと続きましたが、年寄りは夜が早く、朝も早いので、こ

こらで退散しました。


昔、青年団が中心になって実施していた夏祭りが、青年団が解散して、夏祭りがどうなるか

と思っていたら、各種団体、機関が集まり、実行委員会を作り、段々と盛大になって来まし

た。来年は、体育館でなく、外で実施できるよう期待しています。実行委員会の方は大変で

しょうが、頑張って下さい。




2014年8月 2日 (土)

水虫注意!

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何となく、ムッ~という臭いがしますね。


思えば、30年ほど前、下宿屋さんに住んでおり、風呂が共同で、足拭きも協同。誰か水虫

の者がいたらしく、移されました。


ただ、皮膚の方はなんともなく、数ヶ月して、親指の爪のみが、厚くなり、表面がガザガザ。

おかしいと思って、皮膚科に行ったら、先生が「見事な水虫。こんなの滅多に見られないか

ら、みんな来てごらん」と、看護師さんに呼びかけ、皆さんからご観覧いただきました。


昔は、水虫は治療困難らしく、「水虫の薬を作ったら、ノーベル賞」とまで言われ、私の知人

も、酢が良いと聞くと、ぬるま湯の中に酢を入れて、足を漬けていましたが、あれ、効果が

あったのかな?


今は、良い薬ができて、飲み薬、付け薬で、ほぼ完治します。私の場合は、半年くらいで元

のようになりました。「ほぼ完治します」と書いたのは、薬を根気よく毎日飲んで、付けるとい

うことで、これ、適当にやるといつまでも直りません。


さて、あれから30年。水虫は、しつっこいですね。1年ほど前、おかしいと思ったのですが、

たいした事は無いだろうと、ほっておいたら又再発、薬を付け、随分良くなったかなと思った

ら、巻爪になっており、これが皮膚を傷つけ、化膿しており、親指の先が何かに当たると、

痛い痛い。


そのうち直るだろうと、我慢をして二週間。歩くのも、しんどくなったので、治療に行ったら、

はやり、見事な巻爪だと言われ、治療。殺菌液に足を漬け、その後、赤外線かな?紫外線か

な?をあて、薬の付け方の指導。

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水虫の注意です。


女性の方は、水虫というと、恥ずかしがる方がおられるようですが、ほっておいても、良くは

なりません。市販薬もあるようですが、専門医の方がベストです。根気よく治療すれば完治

します。彼氏がいる方は、「あなたから、移されたのよ」とか何とか言って誤魔化すか、相手

にも移すこと。


風呂の足ふきは、一緒のものを使わない。なお、水虫は夏、と思いがちですが、冬もコタツ

などで、足が蒸れ、菌が繁殖しやすいそうですから、ご注意を。


さて、あまり病院にかかってない方のために。病院に行く時の心構えです。


①必ず、保険証を持って行くこと。これがないと、自己負担で大変な金を取られます。後で

  保険証を持って行くと、払い戻しがありますが、遠くの病院だと、行ったり来たりが大変   

  です。私は、運転免許証と、保険証と、コ○○○ムはいつも持ち歩いています。

②必ず、専門医に行くこと。歯が痛いのに、産婦人科に行くような、馬鹿なことはしないこ  

  と。以前、泌尿科に行って、「内科の先生から、この薬を貰いました」と言ったところ、「そ

  んな薬を使って!専門外は素人と一緒だからな」と言われました。

③「お薬手帳」を持って行くこと。最近は、薬に対して、副作用、効き過ぎ、同じような薬を服

  用する事に注意をしています。「お薬手帳」は、薬局でロハでくれます。なお、中をコピー

  していくと、説明の時間が省け、看護婦さんも、コピーの手間が省け、非常に喜ばれま 

  す。

④お医者さんが聞くことに、的確に答えること、「症状(しょうじょう)はどうですか?」「はい、

  いままで賞状(しょうじょう)は貰った事がありません」等と、外れた事は言わないこと。 

  (伊奈かっぺいさんの話です)  

⑤病院は、予約制であっても、待たされます(ひどい時は、予約制で三時間待たされまし

  た)。好きな本を持って行くこと。間違っても、空手の型の練習、シャドーボクシングなど  

  はしないこと。精神修養の時間だと、前向きに考える事。

⑥患部、特に局部になると恥ずかしいですが、お医者さんは、治療の対象としか見ていま

 せん。男性は、小さいオ○○○ンであっても、堂々と見せること。

⑦女性の看護師さんには手を出さないこと。ウチのカミサンも看護師をやっていましたか

 ら、これは絶対的に、忠告をします。女性の看護師さんは、病院と家庭では態度が違い

 ます。(ウチのカミサンだけかな?) 

 

以上、私の経験から。老婆心ながら。


【おまけ】

諫早方面の方ならご存じの、八江種さん。2階を見てください。見事な緑のカーテンです。ウ

チでもやりましたが、こんな見事には作れませんでした。さすが、プロ。

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2014年8月 1日 (金)

両子岩【兩子岩石】(ふたごいわ)~南島原市加津佐町

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島原半島がジオパークに指定をされましたが、ここ両子岩ももちろん、ジオサイトとして指

定されています。


この左側の岩、もと総理大臣の岸信介氏に似ているため、千々石では「あら、この間、信介

岩の近くを通ったら、痩せとらすばい」などと、話をしています。


岩の大きさは、釣り人が写っていますから、推測できると思います。左右に岩があります

がこれが、両子岩というわけではありません。


この、近くの道端に説明版が設置されています。

Dsc_0260_2

この中に、昔の図面が描いてあります。

即ち、現在の二つの岩の近くに、もっと大きな岩があり、これが「両子石」の名の由来だそう

ですが、一番大きな岩は大正11年(1922)の大正地震や、波の力で崩れてしまったそう

です。

Dsc_0266

図の右上には、「長㟢縣第六区三小区肥前国髙来(來?)郡加津佐村雜社字津波見(つば

み)名二鎮座」。石祠の名前が「二岩神社」となっています。


どうも「国」という字が「國」でなく、気にかかるのですが・・・・昔は、南高来郡、北高来郡が

一緒で、高来郡という由緒ある名前だったんですが、合併市になって、「高来郡」という名前

がなくなってしまいました。中央官庁、県庁の、学校の成績だけが良い、お馬鹿さんが、歴

史を知らないんでしょうね。


さて、第六区という文字がありますが、廃藩置県により、明治時代目まぐるしく、地区の入

れ替わりがおこなわれます。


明治4年7月、島原藩を廃止、島原県になります。同11月島原県を廃し、長崎県となり、島

原に出張所を置きますが、長崎県は肥前国(松浦郡ノ内・彼杵郡・高来郡)壱岐国(壱岐

郡・石田郡)であり、この時、対馬は伊万里県に属していたそうです。


明治6年に、第六区として、高来郡加津佐村(南串山・北串山・加津佐町・口ノ津)としたそう

です。この後、島原半島内では、村の合併がおこなわれています。(有家町郷土史より)


さて、上の絵ですが、明治の内務省が寺社、寺院の明細帳を作成したそうで、有家町の郷

土史にも、その絵が載っています。

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神社には、社格があり、「長崎県神社庁」のホームページから、皆さんの神社の社格がわ

かります。


明治政府は社格制を分けます。一番下が、無格社で、「雑社」とも呼ばれたそうで、明治政

府は、神社合祀(神社の合併整理)をおこないますが、多分上の絵は、それを目的としたも

のではないかと思います。「有家町郷土史」では「明治8年神社報告令 第七区神社明細

帳より 熊野神社 絵図」となっています。


さて、上の図の「二岩神社」、今も残っており、「双子岩」も説明版によれば、「下半分に補強

工事を実施」となっています。

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まあ、長崎の時津で有名な、「鯖くさらかしの岩」も補強しているそうで、これは、近くまで登

って確認した人がいて、ブログに書いていますから、この岩も、このままだと危ないので、補

強しても良いんじゃナイデスか。


「鯖くさらかし岩」の秘密は→こちらをクリック







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