日見の「腹切坂」~長崎市 その4
歳取ったら、早めに眠くなって、昨日はどうにもならなく、眠ってしまいましたが、今日で最後
になります。
左の写真が、塔に向かって一番左の「一字一石塔」になります。右の写真が、中央にある
「六六(六十六)部」、右側の方に「奉納 大乘妙典六十六部日本洄國供養」と書いてありま
す。「六十六部」については、「長崎県文化財報告書」に次のように書いてあります。
■六部塔
六部塔は正式には六六部塔で、・・・刻印の通り大乗妙典とよばれる法華経を六六部を用
意し、全国六六ヵ国に一部ずつ納めて廻る納経塔で、廻国塔とも呼ばれる。弥勒下生まで
の間、経典を国々の霊場に保管しておくという信仰にもとづくもので、廻国の行をする人を
六部と呼んだ。
裏に「肥前州高来郡日見村庵主 □□院叔明誠□比丘□建立」と書いてあり、「庵主」とは
「三省堂大辞林」によれば、「①草庵の主人。特に、尼僧 ②庵室を構えている人。 ③茶室
の主人。亭主。」とあります。
なお、「比丘」は、① 出家して,定められた戒を受け,正式な僧となった男子。僧。苾蒭(び
つしゆ・ひつすう)。② 誤って,比丘尼をいう 。」となっておりました。ここの 庵主さん、男性
でしょうか?女性でしょうか?
「比丘」の下の「□」は「敬」みたいで「敬建立」になるようです。
下に台座があり、苔が生えて読めませんでしたが、ありがたいことに、「日見の史蹟」に記
録してあって、「石塔之施主 日見住民 重松喜平次」とありました。
さて、いよいよ右の碑ですが、これがどうも墓らしく。「居士」の字が彫ってありました。
「元禄」は読めると思います。
■「右の碑(墓)」です。これも、字が薄く読めないところがありましたが、「日見の史蹟」に、
記録してありました。
① 白襌道由居士
② 元禄9年(1696)子丙 正月三日
俗名 吉村忠衛門尉藤原重道
いずれにしても、名前から見て、偉い方みたいな氏名ですね。
さて、腹切坂の名称は、主に2つと、越中哲也氏の説がありましたが、年代順に見ると、
① 吉村衛門の碑 元禄九年(1696)
(これは、村人が一応埋葬し、その後、供養のために建てたとも考えられます。何れ
② 六部塔 宝永六年(1709)
④ 一字一石塔 正徳四年(1714)
⑤ フェートン号事件 文化五年(1808)
前に「腹切坂」の昔の絵を載せましたが、あの絵については、「長崎古今集覧名勝圖絵」か
ら取ったものですが、これについては、長崎文献社から出版されていますが、越中哲也氏
「長崎古今集覧名勝図絵について」の「はじめに」で、天保十二年辛丑石崎融志がつくった
長崎古今集覧序に「此書安永之比大塚良夫・・・・・・・」とあり、「此の書とは長崎古今集覧
絵図のことである。」とあり、なお、「融思は此書の編纂には老令より思い立ったというので
あるから、本書を融思が手がけたのは融思六五才のおり(天保三壬辰年臘月)唐絵目利本
役を辞し隠居した後に筆を起こしたのではなかろうか。」とあり、いずれにしても、天保時代
(1830~1844)であり、フェートン号事件については、すでに知られたこと思われ、十数
名の侍が腹を切りながら行ったものだけに、「腹切坂」という名称、「武士の立ち会いの切
腹なのか」、「「フェートン号」が絡むのか、本を書いた方も随分悩んだことでしょう。
と、夏休みの自由研究には書いておこう。さて、2学期が始まります。頑張りましょう。
(この項、おしまい)
なお、日見公民館の先生、教宗寺の方には親切に教えていただき、心から感謝致します。
(参考・文、写真引用:「長崎街道 長崎県文化財調査報告書 第154集」「長崎街道~永
島正一著」「長崎古今集覧名勝図絵~越中哲也著」「長崎街道を行く~松尾卓次著」「日
見の史蹟~日見地区公民館著」「長崎”街道周辺の史跡”~岩永弘著」、各説明版より)
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