日見の「腹切坂」~長崎市 その2
(「長崎街道~永島一著」より)
上の写真は、昔の腹切坂にあった供養塔です。
少し、地理的なことが分かりにくいので、「藩境石」の説明版に描いてあった、地図を載せま
す。
赤丸の楕円。上から藩境石標、真ん中の丸が印のところが、昔、供養塔があったところ。現
在は、崖になって、「通行困難になっています」と書いてあります。一番下の丸の印が、現
在慰霊塔が建っているところ。
「藩境石標」。昔、長崎は天領でしたから、天領と佐嘉藩(佐賀藩・鍋島藩)との境になりま
す。佐嘉藩士は、この藩境標から佐嘉藩(上の方の赤い線~長崎街道になりますが)に入
った途中で、切腹したのではないかとの事でした。
網場道の交差点で、下の赤矢印から入り、上の団地の横をぐるりと回り、上の矢印あたり
に、藩境石標があります。(歩けば、青の道を行きます。赤の点線の道は現在ありませ
ん。)
途中、何カ所か石段があり、街道の標識があります。
「長崎県教育委員会調査 長崎県文化財調査報告書 長崎街道」では、「日見宿より、北東
方向に国道三四号まで上りつめ、斜めに横切り腹切り坂へと進むが、国道の拡幅と住宅造
成のため、長崎街道は見ることができない。」とあり、下線のところから考えると、網場道入
り口の信号機あたりから、下の写真の階段を(昔は道でしょう、かなりの勾配です)登りきっ
たところが、藩境だと思いますが、おじさんには登る気力もなく、車で団地をぐるっと回ると。
表側と裏側から見たところ。上の地図も、この説明版に描いてありました。
左側は、ほとんど読めませんでしたが、「彼杵(そのぎ)郡之内日見境」。右は、ちゃんと読
めました「従是北佐嘉境」。
なお、説明版によれば、当時は地伏石(台石2個)の上に立てられ、住宅造成に伴い、当時
の位置より五メートルほど矢上側に移設されたそうで、多分、右の写真のガードレールとの
間だと思われます。道を作るのに邪魔だったのでしょう。
これも、長崎県文化財の報告書からですが、平成12年発行になっていますから、当時の
写真でしょう、後の四角の石が、台石なのか?
なお、車で来た道は行き止まりになっているようでしたが、歩いて行くと、どうも、こちらが本
来の長崎街道みたいで、これが「通行困難」な道」なのでしょうが、狭いなとおもったのです
が、左側が、防壁のため、かなり削られているみたいでした。
地図で見ると、道が途中で途切れていますが、雲仙の山道を一人で行くのに比べると、ゾ
ウの屁と、ノミの屁みたいなもの。涼しくなったら、行ってみるつもりです。
この道も、国道で分断されているらしく、多分、下の写真の所に出ると思います。永島正一
氏の本にも出ていましたが、左が永島正一氏の本に載っていた写真。説明に「左の小道を
登ると 腹切坂」。右が現在で、ここらあたりを知っている方に写真を見てもらって、確認し
たところ、ここだろうという事でした、ただし、供養塔が建っていたところは、防壁で削られ、
今は見られないそうです。
ところで、本を調べていくと、県の報告書「武士の墓石及び供養塔は、矢上教宗寺にあ
る」。松尾卓次著「長崎街道を行く」にも「不憫に思った村人は丁重に葬り、今もその墓は矢
上の教宗寺に残っている」。岩永弘氏著「長崎”街道周辺の歴史”」にも「腹切坂の由来に
ついて矢上の教宗寺にある説明版・・・・」。と、「矢上の教宗寺」が随処に出ており、それじ
ゃ、国道筋の供養塔は何なのだ。
という事で、教宗寺に電話をかけ聴いたところ、丁重に教えていただきましたが、東長崎史
談会の方が供養塔を持って来られ、預かって貰えないかとのこと。その後、国道ができたた
め、当時の建設省の許可を得て、現在のところに移転をしたとの事でした。もう少し経過が
あるのですが、これは明日にでも。
下の写真。長崎県の報告書に載っていて、教宗寺にあった時の写真ではないかと思われ
ます。笠の無いのが二つばかりあって、気になるのですが・・・・・
それなら、これを持ってきた、東長崎史談会の方に詳しく聴けるのではないかと、思ったの
ですが、図書館を調べても、東長崎史談会の著作物はなく、団体のことなら、地元の公民
館でも聞けば分かるのではないかと、電話。
なんと、これがビンゴで、名前聞くの忘れましたが、公民館の主事さん、多分退職校長さん
みたいですが、腹切坂の事を聞くと、よくご存じ。不思議に思ってたずねると、昔、調べたこ
とがあるとか。翌日、飛んで行きました。
ちゃんと本にされているのですね。「日見の史蹟」。
公民館協力会があって、いろいろ調べて協力をしているとか。他にも、資料がありました
が、この本に、腹切坂の慰霊塔の文字(風化し始めて読めない文字もありました)もちゃん
と記録してあって、これには助かりました。この場ですが、お礼申しあげます。
さて、この次は、慰霊塔が何であるかの話です。
(参考・文、写真引用:「長崎街道 長崎県文化財調査報告書 第154集」「長崎街道~永
島正一著」「長崎古今集覧名勝図絵~越中哲也著」「長崎街道を行く~松尾卓次著」「日
見の史蹟~日見地区公民館著」「長崎”街道周辺の史跡”~岩永弘著」より)
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