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2014年8月28日 (木)

日見の「腹切坂」~長崎市 その2

Photo

             (「長崎街道~永島一著」より)


上の写真は、昔の腹切坂にあった供養塔です。


少し、地理的なことが分かりにくいので、「藩境石」の説明版に描いてあった、地図を載せま

す。


赤丸の楕円。上から藩境石標、真ん中の丸が印のところが、昔、供養塔があったところ。現

在は、崖になって、「通行困難になっています」と書いてあります。一番下の丸の印が、現

在慰霊塔が建っているところ。

Photo_3

「藩境石標」。昔、長崎は天領でしたから、天領と佐嘉藩(佐賀藩・鍋島藩)との境になりま

す。佐嘉藩士は、この藩境標から佐嘉藩(上の方の赤い線~長崎街道になりますが)に入

った途中で、切腹したのではないかとの事でした。


網場道の交差点で、下の赤矢印から入り、上の団地の横をぐるりと回り、上の矢印あたり

に、藩境石標があります。(歩けば、青の道を行きます。赤の点線の道は現在ありませ

ん。)

途中、何カ所か石段があり、街道の標識があります。

Dsc_0083 Dsc_0050

「長崎県教育委員会調査 長崎県文化財調査報告書 長崎街道」では、「日見宿より、北東

方向に国道三四号まで上りつめ、斜めに横切り腹切り坂へと進むが、国道の拡幅と住宅造

成のため、長崎街道は見ることができない。」とあり、下線のところから考えると、網場道入

り口の信号機あたりから、下の写真の階段を(昔は道でしょう、かなりの勾配です)登りきっ

たところが、藩境だと思いますが、おじさんには登る気力もなく、車で団地をぐるっと回ると。

Photo_6

表側と裏側から見たところ。上の地図も、この説明版に描いてありました。

左側は、ほとんど読めませんでしたが、「彼杵(そのぎ)郡之内日見境」。右は、ちゃんと読

めました「従是北佐嘉境」。


なお、説明版によれば、当時は地伏石(台石2個)の上に立てられ、住宅造成に伴い、当時

の位置より五メートルほど矢上側に移設されたそうで、多分、右の写真のガードレールとの

間だと思われます。道を作るのに邪魔だったのでしょう。

Photo_7 Photo_9

これも、長崎県文化財の報告書からですが、平成12年発行になっていますから、当時の

写真でしょう、後の四角の石が、台石なのか?

Img_20140828_0001_2

なお、車で来た道は行き止まりになっているようでしたが、歩いて行くと、どうも、こちらが本

来の長崎街道みたいで、これが「通行困難」な道」なのでしょうが、狭いなとおもったのです

が、左側が、防壁のため、かなり削られているみたいでした。

Dsc_0076_2 Photo_10

地図で見ると、道が途中で途切れていますが、雲仙の山道を一人で行くのに比べると、ゾ

ウの屁と、ノミの屁みたいなもの。涼しくなったら、行ってみるつもりです。


この道も、国道で分断されているらしく、多分、下の写真の所に出ると思います。永島正一

氏の本にも出ていましたが、左が永島正一氏の本に載っていた写真。説明に「左の小道を

登ると 腹切坂」。右が現在で、ここらあたりを知っている方に写真を見てもらって、確認し

たところ、ここだろうという事でした、ただし、供養塔が建っていたところは、防壁で削られ、

今は見られないそうです。

Photo_12 Photo_13

ところで、本を調べていくと、県の報告書「武士の墓石及び供養塔は、矢上教宗寺にあ

る」。松尾卓次著「長崎街道を行く」にも「不憫に思った村人は丁重に葬り、今もその墓は

上の教宗寺に残っている」。岩永弘氏著「長崎”街道周辺の歴史”」にも「腹切坂の由来に

ついて矢上の教宗寺にある説明版・・・・」。と、「矢上の教宗寺」が随処に出ており、それじ

ゃ、国道筋の供養塔は何なのだ。


という事で、教宗寺に電話をかけ聴いたところ、丁重に教えていただきましたが、東長崎史

談会の方が供養塔を持って来られ、預かって貰えないかとのこと。その後、国道ができたた

め、当時の建設省の許可を得て、現在のところに移転をしたとの事でした。もう少し経過が

あるのですが、これは明日にでも。


下の写真。長崎県の報告書に載っていて、教宗寺にあった時の写真ではないかと思われ

ます。笠の無いのが二つばかりあって、気になるのですが・・・・・

Img_20140828_0001_2_3

それなら、これを持ってきた、東長崎史談会の方に詳しく聴けるのではないかと、思ったの

ですが、図書館を調べても、東長崎史談会の著作物はなく、団体のことなら、地元の公民

館でも聞けば分かるのではないかと、電話。


なんと、これがビンゴで、名前聞くの忘れましたが、公民館の主事さん、多分退職校長さん

みたいですが、腹切坂の事を聞くと、よくご存じ。不思議に思ってたずねると、昔、調べたこ

とがあるとか。翌日、飛んで行きました。


ちゃんと本にされているのですね。「日見の史蹟」。

Dsc00553

公民館協力会があって、いろいろ調べて協力をしているとか。他にも、資料がありました

が、この本に、腹切坂の慰霊塔の文字(風化し始めて読めない文字もありました)もちゃん

と記録してあって、これには助かりました。この場ですが、お礼申しあげます。

さて、この次は、慰霊塔が何であるかの話です。



(参考・文、写真引用:「長崎街道 長崎県文化財調査報告書 第154集」「長崎街道~永

 島正一著」「長崎古今集覧名勝図絵~越中哲也著」「長崎街道を行く~松尾卓次著」「日

 見の史蹟~日見地区公民館著」「長崎”街道周辺の史跡”~岩永弘著」より)

 




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