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2014年7月

2014年7月31日 (木)

「砂原キリシタン墓碑」~南島原市加津佐町&「十字紋」について

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数日前、有家町で講演会があり、帰りがけ時間が早かったので、海沿いの道を。

時々、気にはなっていたのですが、「砂原キリシタン墓碑」に寄ってみました。

看板の通り行くと、綺麗な松林と、砂浜。

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その松林の中に、風化しないように覆いがあって、二つの墓碑が並べて置いてありました。

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向かって左の墓碑は、風化して途中から割れていますが、右側の墓碑は、基壇の上に乗

せてあり、綺麗な花十字が彫りつけてあります。

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いつもお世話になっている、「日本キリシタン墓碑総覧」を読んでみたら、、片岡弥吉氏によ

れば、「今日附近に共同墓地のあることから考ふるに、ここが往事のキリシタン墓地であっ

たと推測される」(片岡弥吉著「長崎縣下發見キリシタン墓碑總覧」昭和17年刊)としている

そうです。


実際、砂浜を(砂丘)をキリシタン墓地として選定している事例は、南島原市の須崎墓地(加

津佐町)、白浜墓地(口之津町)、古川墓地(南有馬町)、須川墓地(西有家町)があり、この

地も、キリシタン墓地が形成され、17世紀初期に、キリシタン専用墓地として、開発された

可能性が高いということです。


なお、右の墓碑については、正面小口(花十字がある面)は整形され、小口裏面、両面も正

面に比べ粗面であり、花十字が上方に刻まているところから、地中にわずかながら埋めら

れて配置された可能性が高く、この墓碑を置いている基壇は、建碑当時からのものではな

いと思われるそうです。


左の墓碑については、風化破損が激しく、判別しにくいそうですが、十字紋等確認できず、

又、石材の玄武岩質堆積岩も、他のキリシタン伏碑では使用されておらず、本碑をキリシタ

ン伏碑と断定できる資料がなく、県指定ではあるものの本稿(キリシタン総覧)では、類例

資料としてあげておく、と書いてあります。(「日本キリシタン墓碑総覧」より)


さて、十字紋の事を。いつものように長くなりますが、十字紋が刻んであるというと、すぐに

キリシタン、特に潜伏キリシタンに結びつける方が多いのですが、そう簡単なものではなさ

そうで、松田毅一著「キリシタン研究 第二部論攷第三章 キリシタン宗門と十字の記号」

に詳しく書いてあります。


多くの十字架の図が描いてありますが、最初に「十の字の記号は太古から世界各地に存

在しているので、その起源は明らかではない。十字は、生命、日輪、神聖等、種々の表徴と

もなり、蒸餅の異名ともなった。」と書いてあり、「蒸餅(じょうへいと十字」については、何だ

ろうと思っていたら、「とらや」のホームページに書いてありました。


「十字とは蒸餅のことで、饅頭の異名だと、江戸時代の図説百科事典『和漢三才図会」にあ

るそうで、「食べやすくするために、蒸した餅の上を十文字に切り裂いたからだといいま

す。」と書いてあるのでさっそく、「国立国会図書館デジタルコレクション」(これ、誰でも見

れます。)を見ると、饅頭の絵が描いてあって、その下に「饅頭」と書いてあり、その下に「十

字」と書いてありました。これ、キリシタンとは関係ナイデスね。

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          (「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


横道にそれましたが、松田氏が収集した十字紋です。全部載せきれないので、ほんの一部

を。

松田氏の説明によれば、左が「ヨーロッパ・キリスト教界の十字。

右が「キリシタン墓碑の十字。「砂原キリシタン墓碑」と同じ花十字が見られます。

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「日本紋章の十字」

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この中に、島津一門の紋がありますが、これについては、「十字紋は、島津氏に代表され

るものであるが、その意義については定説がない。島津氏の十字紋もキリスト教と関係が

あるという説があるが、その家紋は、フランシスコ・ザビエルの来朝以前からのものである

から、その点は否定される。十字紋を一種の呪符として用いる風習は、支那伝来のもの

で、日本では全国各地で古くからおこなわれている。十字符は、また太古から各民族のもと

で用いられ、世界普遍のものであり、その関係、性質を究め尽くすことは容易ではない。」と

松田毅一氏は述べられています。


こうしてみると、単なる十字紋があったからといって、簡単にキリシタンと関係ある、とはい

えないみたいですね。

(参考・文・写真引用:「日本キリシタン墓碑総覧」「キリシタン研究 第二部論攷編~松田毅

 一著」「国立国会図書館デジタルライブラリー」「とらやホームページ」より)











2014年7月30日 (水)

「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」 その2~福沢諭吉?

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先日、忘れたことを。「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」、これが、福澤諭吉の

言葉で無い事は昨日書きましたが、この事は、「慶応義塾大学」のホームページ、「慶応義

塾を知る・楽しむ」の「慶應義塾豆百科 22 考証・天は人の上に人をつくらず・・・」に載っ

ております。自分の学校の事ですから、本当の事でしょう。


余談ですが、「福沢諭吉は謎だらけ。~清水義範」。


「一 世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つということです。」「一 世

の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。」・・・・・・・という「心訓」も、実

は、福澤諭吉の言葉では無かった、と言うことを中心に書かれていますが、これも、大学の

ホームページの同ページに載せてあり、「98 福沢心訓」をご覧下さい。


さて、昨日の続きですが、男女同権、夫婦敬愛、女性自立等を述べた福沢諭吉が、「人民

の移住と娼婦の出稼ぎ」を書くはずがあるまい、と調べていたところ、出会ったのが「福沢

諭吉の真実~平山洋著」。


この本は、「福澤諭吉全集」を徹底的に分析をしていますが、「福沢諭吉全集」といえば、全

文、福澤諭吉が書いたものと思いますが、これが、違っていて、詳しくは、同書を読んでい

ただきたいのですが、全集に含まれいる、「時事新報」論説は、下記のようカテゴリーに分

けられるそうです。


Ⅰ 福沢が全てを執筆した「福沢真筆」

Ⅱ 福沢が立案して社説記者が下書きをし、さらに福沢の検閲を経た「福沢立案記者起   

   稿」

Ⅲ 記者の持ち込み原稿に福沢が添削を施した「記者立案福沢添削」

Ⅳ 全面的に記者が執筆をして福沢は全く関与していない「記者執筆」


という事で、現行版「福澤諭吉全集」に納められている「時事新報」は、全部が全部、福澤

諭吉」が書いたものでは無いと言うことです。


福沢諭吉の「新版現代かな常用漢字 福翁自伝」にも「しかし私も次第に歳をとり、いつま

でもコンナことに勉強するでもなし老余はなるたけ閑静に日を送るつもりで、新聞紙のこと

も若い者に譲り渡してだんだん遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀川

帰一などがもっぱら執筆して、私は時々立案して、そのできた文章を見てちょいちょい加筆

するくらいにしています。」と述べています。


では、「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」はどうなのか?


意外なところから、答えが出て、「福沢諭吉は謎だらけ。」に「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」

の事も書いてありますが、これを「福澤諭吉の真実」の著者、平山氏が読んだらしく、平山

氏が清水氏に書簡を送っており、それが、blechmusik氏のブログの資料集→平山洋関連

→「2006年10月23日付 作家清水義範氏宛て」に触れてあります。


以下は要約ですが、「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」は、昭和版で福沢の自筆原稿は残存

せず、下書きは石河と断定はできるものの、そのアイディアを福沢が出したかどうかについ

ての証拠はまったくない。


この時期、仕上げにかかっていたのが「福翁百話」で、その中には海外移住をテーマの話

は無く、明治28年11月から明治29年1月の書簡にも、海外移住に触れたものは無かった

そうです。


また、社説掲載の明治29年1月18日は、帝国ホテルで開催予定の立食パーティーの準

備に忙殺されていたようです、と書いてあります。


要するに、この論説は、石河自らの関心から執筆して、満蒙開拓のブームにのって、福沢

先生が書いたものとして、「続全集」に採録したもののように見える、と述べられています。

なお、この論説には、著者の「福澤諭吉」の署名は書いて無く、無署名になっています。


現行版「福澤諭吉全集」出版については、「慶應義塾豆百科  No.55 『福澤諭吉全集』」に

触れてあり、この全集は「慶應義塾設立百年記念出版」ですが、平山洋氏は、「おわりに」

の最後の所に「現行版『福澤諭吉全集』の『時事新報論集』をこのまま放置しておくことは許

されぬことであろう。」と結んであります。


「全集」と名前が付いていれば、全部、福澤諭吉が書いたものと誤解し、ネット、本等を見る

と、「全集」の「時事新報」を前提として書いてあるものが、随処に見受けられたました。

なお、平山洋氏の著書は「福澤諭吉と慰安婦」などもあります。    (この項 終了)



(参考・文引用:「福沢諭吉の真実~平山洋著」「福諭吉は謎だらけ。~清水義範著」「福翁 

 自伝」、現行版「福澤諭吉全集」、ブログ「blechmusik」「慶応義塾大学ホームページ」)






2014年7月29日 (火)

「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」 その1~福沢諭吉?

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え~、一万札です。財布の中には、一万円札しか入れない主義で、5000円札が、樋口一

葉だったかな、千円札が野口英世でしたか。以前の一万札は、確か聖徳太子でした。聖徳

太子の一万円札で、買い物したら、うさんくさい目で見られた人がいるそうです。


福澤諭吉(一万円札には「福沢諭吉」)といえば「學問ノスヽメ」。「學問ノスヽメ初稿」には、


「学問ノスヽメ  福澤諭吉 小幡篤次郎 同著」


となっており、小幡篤次郎がなぜ同著になっているか、調べていたのですが、本が行方不

明で、記憶喪失で書けませんが、小幡氏は、慶応大学の第3代目の塾長になります。


「福沢諭吉の真実~平山洋著」には「福沢が40代半ばの壮年時代に育成した、小幡篤次

郎・小泉信吉・馬場辰猪・朝吹英二・井上各五郎・犬養毅・・・・・」と書いてあります。


「學問ノスヽメ」の出だしは、「天ハ天ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云エリ・・・・・」

で、「天ハ天ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」の後に、「云エリ・・・・・」という言葉が入

っており、福沢諭吉の言った言葉では無い事が分かります。説としては、アメリカ独立起草

委員会トーマス・ジェファーソンの宣言案からのヒントだという説が有力なようです。


福沢諭吉というと、慶応義塾大学創始者ですが、今でこそ慶応というと、わ~っ、というよう

ですが、「福沢諭吉の真実~平山洋著」によれば、「慶応義塾に大学部が設置されたのは

90年のことであった。しかし普通部(旧制中学)からの進学者がきわめて少なかった事もあ

って、文学・理材・法律の三科合わせて三百名を予定した在学生数は毎年百名に満たない

ありさまであった。96年10月、大学部の累積赤字にたまりかねた協議員は、その廃止を

主張する中上川彦次郎の意見が多数を支配するところとなった。」とあり、当時はたいした

学校ではなかったことが伺えます。


さて、私が、福澤諭吉に少し興味を持ったのは、先日書いた「天如塔とからゆきさん」の講

演を聞いた時、福澤諭吉が海外の賤業婦人(からゆきさん)について、下記のように書いて

いると言うことを、講師の方が話され、本当かなと思った事です。


福澤諭吉は、1882年3月に「時事新報」を発刊しますが、「福翁自伝」によれば、発行の当

初は中川彦治郎、次いで伊東欽亮(きんすけ)、次男の捨次郎と続き、会計も本山彦一、坂

田実、戸張志知之助と続いて、担当をし、「私の性質として金銭出納の細目を聞いた事もな

く見たこともなく、その人のするがままに任せておいて、かって一度もまちがいのできたこと

はない。まことに安心気楽なものです。コンナことが新聞事業の永続するわけでしょう。」

と、なんともノンビリしか書き方をして、福澤諭吉の気質が伺えます。


さて、「時事新報」に書かれた記事は、「福澤諭吉全集」に載せてありますが、全集は、明治

版(「福澤全集)、大正版(福澤全集)、昭和版(続福澤全集)、現行版(福澤諭吉全集)と四

種類ありますが、長崎県内の図書館には、現行版しか置いて無く、借りて読んでみました。

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昭和36年4月1日発行、「福澤諭吉全集 第15巻 著作権者 慶應義塾、発行者 岩波雄

二郎」ですが、「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」(明治29年1月18日付け、362頁~364頁)

のところ、少し長いですが、当時の世相、考えも伺えますので、全文載せます。なお、文章

が長いので、誤字、脱字等あると思いますが、ご了承を。


「世間一般の論者は賤業婦人の海外に出稼ぎするを見て甚だ悦ばす、此種の醜態は國の

體面を汚すものなり、是非とも之を禁止す可しとて熱心に論ずるものあり。婦人の出稼ぎは

事實なれども、之が為に國の體面を汚すとの立言は更に解す可らず。娼婦の業は素より

清潔のものに非ず。左ればこそ之を賤業と唱えて一般に卑しむことなかれども、共に、之を

卑しむるは人倫道德の上より見て然るのみ。人間社會には娼婦の缺く可らざるは衛生上に

酒、煙草の有害を唱えながら之を廢すること能はざると同様にして、經世の目を以てすれ

ば寧ろ其必要を認めざるを得ず。彼の廢娼論の如き、潔癖家の唱ふる所にして、或いは実

行したるの例なきに非ざれども、其結果を如何と云ふに表面に靑樓と名くる悪所の存在を

止めたるまでのことにして、實際に風俗を破り衛生を害するの弊は、公娼の營業を公許し

たる時に比すれば一層の甚だしきを致して其弊に堪へず、苦情百出の為めに遂に復舊し

たるの事實は世人の知る所なる可し。或は内の醜態は兎も角も、之を外に現すに至りては

國の體面に関係すと云はんかなれども、娼婦の醜態、果たして國の體面に関係するものな

らんには、之を内に存するも其體面は既によごれたるものなり。内には公行を許しながら外

出を禁ずる如きは、俗に云う臭き物に蓋の喩に漏れずして、其臭は到底掩う可らず。内に

置いて臭きものならば、外に出すも亦臭からざるを得ず。四面解放の世の中に、臭き物に

蓋して國の體面を維持し得たりと思ふが如きは、所謂井蛙の見にして、與に世界の事を談

ずるに足らざるなり。況んや論者の如き、娼婦の營業を以て體面に関係ありと論ずれども、

娼婦の公行は世界一般に同ふする所にして、現に文明の中心を以て自ら居る倫敦、巴

里、伯林、ニューヨークの如き大都會の眞中に於いてさへも、賤業婦人の数は計ふるに遑

あらざる程にして、公に私に其業を營めども會て人の怪しむものなし。論者は獨り我醜業

婦の外出を禁じて誰に讃められんとの考えるや。果たして井中の蛙なるを免れざるものと

云う可し。抑も我輩が殊更らに此問題を論ずる所以のものは他ならず、人民の海外移植を

奨勵するに就いて、とくに娼婦外出の必要なるを認めたればなり。移住民たるものは或べく

夫婦同行して家居團濼の快濼を共儘、外に移して、新地に案ずること猶は故郷に居ると同

様ならしめんこそ最も望む所なれども、多數の移住民、必ずしも妻帯のものヽみ限らず、否

な、最初の間は不知案内の海外にいくことヽて、移住の希望者は差當り係累のなき獨身者

に多きのみか、或は妻帯のものとても先ず一人にて移住したる上、國より妻子を呼寄せん

とするものもあらんなれば、移植地の人口は男子に割合して女子に乏しきを訴へざるを得

ず。人口繁殖の内地に置いてさへ娼婦の必要は何人も認める所なるに、況して新開地の

事情においてはますます必要を感ぜざるを得ず。往年德川政府の時に香港在住の英國官

吏より日本婦人の出稼を請求し來りしことあり。其理由は同地の兵士屯在すれども婦人に

乏しきが故に、何分にも人氣荒くして喧噪争論のみを事とし制御に困難なれば、日本より

娼婦を輸入して兵士の人氣を和げたしと云ふに在りき。又浦鹽斯德などにても同様の理由

を以て頻りに日本人婦人の出稼ぎを希望し、適ま々々出稼ぎのものあれば大いに歓迎し

て、政府の筋より保護さへ與ふるやの談を聞きたることあり。海外の移植地に娼婦の必要

なるは右の事實に徴するも甚だ明白にして、婦人の出稼は移民の是非とも相伴ふ可きも

のなれば、寧ろ公然許可することこそ得策なれ。且つ又當人の為めに謀るも、賤業婦とし

て外に出づるものは内地に於いても何れ同様の境界にあるものにして敢えて苦とせざるの

み。現に外に出稼ぎして相應の銭を儲け歸國の上、立派に家を成したる輩も多きよしなれ

ば、等しく賤業を營まんとならば寧ろ外にでヽ利益の多きを望むことならん、何れの點より

するも賤業婦の外出は決して非難す可きに非ざれば、移住の奨勵と共に其出稼を自由に

するは經世上の必要なる可し。」


「娼婦の出稼ぎ」を薦めている記事ですが、「からゆきさん」の実態を知っていたのか?借

金の形、良い働き口があるとの詐欺まがいの誘い、拐かし、からゆきさんの平均年齢が

26.1歳。


この記事を読んでみて、本当に福澤諭吉が書いたのか?どうにも信じられない話です。

(明日に続く)


(参考資料・文引用:「福澤諭吉全集 第15巻 昭和36年発行版」「福翁自伝」「福沢諭吉 

 の真実~平山洋」より)





2014年7月28日 (月)

方言「島原ことば」・みなと島原のうつり変わり~今日は冊子作り

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「方言『島原ことば」』」です。内容は、島原の白山地区の方言と写真集です。


ここ、白山地区は、まとまりが良く、地域の運動会と、小学校の運動会も合同でおこなって

いるところです。


昨年、「方言と写真保存実行委員会」の代表、江川氏が中心となり、左側の冊子を出したと

ころ、評判が良く、白山地区の方が、こんな写真もある、あんな話もあると、いろんな事が集

まり、右の「続・方言『島原ことば』」を出すことに。


長崎新聞にも載りましたが、その数日前に、江川氏から、私の所に冊子が届いて、良かっ

たら、お手伝いにと。「昼食はウナギと冷やし汁」という事で、ウナギに釣られてお手伝い。

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                    (長崎新聞より)

中身は方言と昔の写真。ちなみに「方言体験」は、冊子の中に書いてありますが


・ 30歳ぐらいまで・・・・・・・・・・ほとんどなし。

・ 40歳前後・・・・・・・・・・・・・・・最近の方言。

・ 60歳前後・・・・・・・・・・・・・・・何とか昔言葉が使える。

・ 80歳前後以上・・・・・・・・・・・本格方言十分OK

という事だそうで、子供たちは、おじいちゃん、おばあちゃんがいないところは、方言をほと

んど聞いた事もないでしょう。


中身は、方言集と、昔の写真が、よく集めたなというくらい並んでいます。

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最初に、丁合作業で、95ページ分。みんな良く集まって、さすが白山地区。

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丁合作業は、簡単なものの、冊子を製本するのが、昔の古文書の方法。これ、島原図書館

の松平文庫で江川氏が習ってきたものだそうです。


製本風景ですが、大きな針を使って製本していきますが、針の穴に糸が入らない。皆さん、

老眼で、これが一苦労。

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製本の方法と、出来上がりです。最初は難しいですが、慣れても難しかった。やってみて、

昔の人は、良く考えたなという事。古文書を読む時も、見逃していた所です。

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さて、うなぎです。お代わり有り。冷し汁。漁師料理ですが、沢山作ってあるので、味が良く

で、夏の暑さの中、ヒヤリとして美味しかった。千々石から来た甲斐がありました。

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各市町、郷土史がありますが、身の回りの地区の方言、写真、言い伝え、民謡、民話等、

今の時代だから、残していきたいと、つくづく思いました。


なお、上の本は、売れてしまったら、増刷する予定はないそうです。ボチボチと買いに来る

方、電話でも問い合わせがあっているそうですから、。郵送希望の方は下記の通りです。

早めにした方が良いと思います。


材料代(冊子代) 300円 (注:儲けは全然ありません。本当に材料代のみです。)

郵送料(400円分の切手を同封の事)

材料代(300円)+切手(400円分)同封の上


〒855-0817

島原市浦田二丁目644-7

江  川  照  男  宛

☎ 0957-63-4439

まで、お願いします。




2014年7月26日 (土)

「うちの息子は厳父と岳父の違いも知らない、愚息だ。」

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何十年前か、ライオンファイルの宣伝が、週刊誌だったか、新聞に載っていて、面白かった

ので、縮小コピーして、スクラップブック帳に貼っていたもの。


昨日、何となくめくっていたら、目に入っていたので。多分、結婚式の時の記念撮影の場面

でしょうが・・・男が幸せなのはここまでです。あとは、地獄がポッカリ、口を開けて待ってい

ます。幸せの最後の瞬間です。


ところで、厳父と岳父の違い分かりますか?岳父は意外と、分かります。

■がくふ ①【岳父】①妻の父。しゅうと。(新明解国語辞典第四版)

■がくふ 【がくふ】(名)妻の父。しゅうと。(←→岳母)(三省堂国語辞典第七版)


厳父は

■げん・ぷ 【厳(嚴)父】ゲンプ名①厳しい父。「ー慈母」②(他人の)父親の敬称。(新明         

               解国語辞典第四版)

■げんぷ 【厳父】(名)[文]きびしい父(←→慈母(じぼ)・慈父)②(他人の)父を尊敬して

            言う言い方(三省堂国語辞典)


ネットで調べていたら、「三省堂 大辞林」で

■げんぷ[1]【厳父】①自分の子供に対してきびしい父。②他人の父を敬って言う語。

「自分の子供に対して」と書いてあると、よく分かります。


さて、イラストを見ていて、おや?

新郎の父親と母親が並んで、「御厳父様」「御慈母様」。これは分かります。ところが、新婦

の父親が「御岳父様」と母親が「御姑様」。普通「姑」というと、夫の母親を言うんじゃないか

な、と思って辞書を引いたら、


■しゅうとめ⓪しゅうとー【〈姑】夫・妻の母。(新明解国語辞典第四版)

■しゅうとめ【(姑)】シウトメ(名)(夫/妻)の母。(←→しゅうと(舅)(三省堂国語辞典)

という事で、妻のお母さんを「姑」と呼んでも、構わないと・・・・

「畏友」「朋友」の違いは、自分で調べて下さい。


さて、よくどっちだったかな?と思うのが「叔父」と「伯父」。「小父」とも言いますが。

■伯父は、父母の兄。

■叔父は、父母の弟。

これ、間違うと、遺産相続の時、もめますから、間違えないように。あとは、大体分かると思

います。ちなみに私は、愚夫ですが・・・・カミサンは賢妻です(たまには、お世辞を  )。






2014年7月25日 (金)

葬式に思う その2~清めの塩

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会葬御礼の礼状についてくる「清め塩の枝折り」。「枝折り」とは、「栞」の「義訓」の一種で、

「義訓」とは「㊀和語の熟字の中で、『借字』より当て字感の薄いもの。例、昨夜(ユウベ)・

小火(ボヤ)・老成(マセ)㊁訓の中で、やや一般性の薄いもの、例、夫(ツマ・タク)・他(ヨ

ソ・ヒト)・妻(アレ・ヒト)」(新明解国語辞典第四版)のことです。


この、枝折りに次のように書いてあります。


「清め塩」について


「葬儀の会葬お礼状には「清め塩」が添えられていますが、仏教の教えに従えば、これは必

要ありません。

 仏教の教えでは、生と死は紙の裏と表のようなはがせない一つのものです。

 愛するものとも必ず別れがある。この真実を自己の事として受け止め生命の大切さ、尊さ

を見つめて行く事が教えです。

 従って、死を穢れと考えないので塩で清めることはありません。

 何卒この要旨をご理解下さいますようお願い申し上げます。

                                               合 掌    」


「清め塩」がなくなったのは、ここ数十年の間だと思います。

「清め塩」の廃止については浄土真宗が推進していますが、ここのお寺さんも浄土真宗で

す。この枝折り、葬儀屋さんが、独自に作ったのか、お寺さんが指導されたのかは、定かで

はありませんが・・・


「清め塩」については、穢れを祓う、伝染病にかかった家に葬儀に行ったら、同じ病気にか

かかり、塩は腐敗等を防ぐので、塩をまいたとか、いろいろな説があるようですが・・・・・・


昭和40年代頃から、流行ったという話もありますが、たしか、私が小学校の時、父が葬式

から帰って来た時、母が塩壺を持って来て、振った覚えがありますから、もっと以前からお

こなわれていたと思います。多分昭和40年頃から、葬儀社がサービスで、塩の小袋を付け

たのでは?地域の差もありますが。


一つの疑問を、長年やっていた「清め塩」の習慣を、誰が、どうして中止にしたのか?

要旨は、上の「清の枝折り」に書いてあるとおりで、よく分かるのですが・・・中止に至る流れ

と、歴史の流れが全然分かりません。


さて、最近は、どこへ行っても、パンフレットなど置いてあると貰ってくる癖があり、

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これ、神社に置いてあって、タダだったのでいただいて来ました。62頁もある小冊子です。

旧暦なども書いてあります。発行は、長崎県神社庁で、諏訪神社の中にありますが、近くの

主な神社にも置いてあると思います。


今日、7月25日は、佐世保市高梨町・穴妙見 須佐神社の大祭、先週の19日が、茂木町

八坂神社・祇園社の御神幸、演芸、その他の神社の祭日行事に、職場対抗歌合戦とか、

神楽とか、子供相撲大会とか書いてありますから、お祭りが好きな方は、一冊持っていると

便利です。


さて、この本の中に「罪とケガレと清め塩」のことが書いてあります。少し長くなりますが。


「神道の場合には、葬送にともなうけがれとは、死に及ぶ病気や事故等の経過や、そこに

起因する悲しみ、苦しみ、さみしさなどを禍津毘(まがつび)の禍事(まがごと)と考えます。

私たちの祖先は自分を祓い清めるひとつの形として、塩を使ってお清めをし、これが民族

的な習慣習俗として続けられてきたのです。「けがれ」とは「気枯れ」ともいわれています。

人が亡くなって悲しみ嘆き、「気」が「枯れてしまった」特別な状態や、普段と違う状態のこと

をいいます。葬儀においては遺族が喪服を着て喪に服するわけですが、次第に元の状態

に戻さなくてはなりません。そこに清浄な状態に戻るための『清め』があるのです。参列者

が帰宅時に自分の身に対して、『清め塩』を用いることもそのひとつです。・・・・・(あと、イサ

ナギノミコとイザナミノミコの禊祓の事が書いてありますが、長いので省略)」


まあ、どちらもよく分かりますね。日本は八百万の神の国で、明治新政府が、神仏分離令(

正式には、神仏判然令・神仏習合を禁止し、神道と仏教、神社とお寺、区別させること。)を

おこなうまでは、お寺の住職が、神主もやっていた所もあります。もし、一緒だったら「清め

塩」、どうなっていたんでしょう。


また、檀家と云っても、江戸時代の「寺請制度」(てらうけせいど・宗門改めで、江戸時代キ

リシタン等の禁教の信徒でないことを旦那寺が証明する制度)で、檀家になったわけです

が、これから、樹木葬とか散骨とか家族葬とか直焼き(葬式抜きで、火葬場に直行してお骨

にして貰う)等が流行っていくと、「清の塩」どころではなくなるでしょう。


ちなみに、田舎でも、家庭を持っていても、若い人では、檀家になっていないところが増えて

いるそうです。


「清の塩」については、各自、宗教、宗派、個人の考えが違うと思いますので、あとは、適当

に・・・・                                  (葬式に思う 終わり)





2014年7月24日 (木)

葬式に思う その1~昔の葬式の料理

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昨日はお休みしましたが、近所の方の葬式があり、同じ班だったので、通夜の受付け係。


近年、斎場があちらこちらにでき、葬儀が随分楽になりました。田舎では、昔は斎場が無か

ったので、自宅での葬儀。これは大変でした。


打ち合わせ、天気を見ながら、テントを張るかどうかの話し合い、受付の準備、場合によっ

ては司会進行。


今は、ほとんどの斎場が、受付はカードに書いてもらいますが、昔は記帳用の帳面があり、

私も随分係をやりましたが、「字が下手やっけん書いとって」という事で、代筆を頼まれまし

たが、弔問客の方が多いと大変でした。


もっとも、受付の後の方では、酒でも飲んで、世間話。こんな事で良いのかと思いましたが

(もちろん一段落すると私も加わりましたが)・・・・。


今は、斎場の方が、ほとんど手配してくれるので、同じ班の人は、市役所へ死亡届と、お寺

さんへ道具取り、受付くらい。


昔は、農業の方が多く、それで良かったのですが、今は勤め人の方が多く、通夜、葬式、遠

距離通勤もあり、そんなに休めなく、斎場ができたおかげで、遺族の方も、昔ほど、気を使

わずによく、良い時代になりました。


さて、昔は、女性の方は炊き出しで、もちろん台所は使えませんから、外で、プロパンとガ

スコンロの大きなのを借りて、料理。夏の暑い時は、汗ダラダラで地獄でした。


料理は、詳しい人がいて采配。数十年前、某町にいた時、この方と仲良くなり(70代の方で

す、残念ながら、若い人ではありませんでした)、その方から、どういうわけか、「葬式の日

の料理の用意」というメモをもらい、100人分から300名分まで書いてありますが、昔の葬

式の時の、料理の様子が分かると思いますので、そのまま書いて見ます。


【100名分の材料です。】

★米、八升五合★厚揚げ、70個★コンニャク、20個★凍とうふ、7袋★刻昆布、6袋★花

麩、70個★生豆腐 13丁★ジャガイモ、トロ箱八分目★大根、大五★キュウリ、四本★人

参、1本★豆、1㎏★塩わかめ、大2★いりごま、一袋★醤油、濃口1、薄口1★漬大根、5

本★酢、一升★味噌、2㎏★砂糖、6㎏★味の素、1★ハイミー、1★茶、1★箸

という事で、300名分になると、米二斗三升なんて、炊くだけでも大変ですよ。


最近は、法事でも肉を使った料理が出て来ますが、これを見ると、全然入ってないのが分

かると思います。ほとんど、煮しめと、味噌汁と、漬け物と、酢の物だった覚えがあります。

本当の精進料理です。いっぺんに沢山作るので、味が良く沁みて美味しかったですね。


葬式ひとつとっても、時代の変わりを感じた、二日間でした。ところで、先ほど電話があっ

て、同じ自治会の方が亡くなったとか。別の班だから、今回は手伝いはしなくて良いのです

が、皆さんもこの暑さ、まだ、暑くなるでしょうが体にはご注意を。


遺族の方と話をしていると、ほとんど他県の方ばかりで、葬儀も地方によって、いろいろ違

いがあるようです。同じ長崎県内でも、やり方が違います。




2014年7月22日 (火)

水権現の力石~島原市

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地方の、どこにでも見かける神社です。

歴史的には、寛政4年(1792)島原大変で、島原は壊滅的な打撃を受けます。ここ、中木

場地区でも、水源は全て枯渇し、毎日の生活に苦しみます。


当時の庄屋、下田吉兵衛は、神のお告げで、山麓に水源を見つけ、約5キロの水道(清水

川)を開設しますが、生活用水、灌漑用水も豊かになったそうです。


それから、地区民は水権現を守り神として、毎年、2月4日に祭礼をおこなっているそうで

す。222年の間守り続けてきたということです。見逃せば、何でもない神社ですが、地区民

の皆さんの思いが詰まった所です。


現在、私たちの身近な、小さな史跡等の記憶が、薄れ、又、破壊されていることを思えば、

この神社の歴史が残っているこは、大切な事だと思います。


観光地の寺院、史跡等も大事なものでしょうが、自分たちの身の回りのものに、もう一度、

目をむけることも必要な時代ではないでしょうか。


さて、力石です。力石については前にも3,4回取り上げましたが、昔は若者の遊びが少な

く、力自慢比べが楽しみだったらしく、神社等に奉納してあるのもありますが、家の庭などに

転がしてあるものもあり、今の70代以上の方しか、その事を知らないということがありま

す。


ここ、水権現の力石は、江戸時代から、大正初期まで、祭礼を盛り上げるため、力石の持

ち上げを若者が競い合ったそうです。

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力石は3個あり、大石が130キロ、中石が96キロ、小石が81.7キロあるそうです。力石と

して、保存してあるのは珍しいことで、これを昔の若者が持ち上げたという事を考えると、昔

の人の力が、如何に強かったのか、分かると思います。


私も挑戦しましたが、いつも書くように「色男、金と力はなかりけり」で、ビクともしませんでし

た。貴方も挑戦しませんか、場所は島原の第五小学校の近くです。

(資料・参考:「島原市の文化財~島原市教育委員会刊」・説明版より」)





2014年7月21日 (月)

「初期消火訓練」へ参加

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毎年、7月の第三日曜日は、5時(夕方でなく朝の)から町内の一斉清掃。合わせて、初期

消火訓練.。本格的な火事は、素人には手に負えません。


私も以前、真夜中、騒がしいと思って起きたら、窓が真っ赤。目がおかしくなったかと思った

ら、前の家が火事。さすが、沈着冷静、氷の心を持つと言われた私もパニック。という事で、

参加。皆さん方も、知っておいた方が良いと思いますので、ブログにします。


昨年は、消防署からの話で、簡単な消火器の取り扱いだったのですが、今年は防火設備

の会社と、地元の消防団の方の指導。本格的に火を付け、本物の消火器で消火訓練。


なお、注意して欲しいこと。第一に消火器の設置場所。

多分、台所か玄関あたりに置いていると思いますが、これは、玄関あたりに置くのが正解。

①台所で火が出た場合、火が回って、取りに行けない。

②近所に火事があった場合、すぐに持っていける

という事で、台所に置いている方、すぐに玄関に。

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鉄製の入れ物に、油を燃やして、消火器での消火。掃くように下の方から、ただ、入れ物と

油が非常に高温になっているために、3回ほど消えたかと思ったら、また、火がつきました。

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こちらは、粉末式ではなく、液体式の消火器。粉末式は一回噴射させると、二回はできませ

んが、こちらは、中身が入っている限り、レバーを押せば何回でも使えます。一回消して、

又火が付きましたが、二回目で完全に消えました。

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下は天ぷら油の発火。絶体にやっていけないのが、水をかけること。

「火といえば水」と思いますが、油には絶対的にかけてないように。天ぷら油に水を、「盃一

杯」、たった「盃一杯」の水を、柄杓に入れて、油に入れると

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ご覧のように、あっという間に火が広がります。これ、鍋に入れた水なんか入れると、もっと

ひどいそうです。聞いた事はあるのですが、実際見るとビックリ。

右の写真の矢印のようなスッテック状のものがあり、これを入れると、火が自然に消えてい

きました。非常に便利なものです。

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右の赤いボール状の消火器もあるようで、火に投げつけるだけです。ただ消火力は少し

弱いようで、3個一組ですが、力の弱い方も投げつけるだけですから、便利です。 

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良く道端に見かける、消火ボックス。筒先と、水栓を開ける道具、ホース20mが二本、つな

ぎ合わせると、40mになりますが、届かなかったら、あなた、もしくはご亭主のホースを外し

てお使いください、という事でした。

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ホースは、栓の蓋を外して押しつけると繋がります。筒先も同様で、あと、道具で栓を開け

ると水が出ます。


一番上の写真は、少しばかり栓を開けたところ。栓を全開すると、まだ水が飛ぶそうです。

私も、筒先を持ちましたが、水圧はかなりなものです。二人以上で持つこと。自宅の近くの

消火栓を確かめること、必要ですね。

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消火器については、安いのは使い物ならないと、業者の方の説明がありましたが、あとで、

地元消防団の方に聞いてみましたが、同じ答えでした。私も、液体式の消火器と、天ぷら油

用の消火用具を購入しました。


人間、家の中で火事の火を見ると、パニック状態になりますから、それに備えて、消火訓練

があったら、是非ご参加下さい。


なお、恋の炎を消す消火器は、無いそうです。念のため。

私は、燃えるような恋がしたいのですが・・・・ 






2014年7月19日 (土)

「亜米利加ニモ負ケズ」~アーサー・ビナード★賢治とポストマンとヘロドトス

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題が題だけに、又、日米の比較評論かと思いながらも「亜米利加」の字が、何となくひっか

かって、目次を見たら「アメリカにないアメリカン」の字が目に入って、次に、「ヘロドトスにも

負けぬ」という所で、宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩が取り上げられてお

り、ヘロドトスと宮沢賢治、何の事だろうと買って読んで見ると・・・


著者は、1967年生、アメリカミシガン生まれ、来日後、20001年に詩集「釣り上げては」で中

原中也賞、2005年に「日本語ぼこりぼこり」で講談社エッセイスト賞、2007年に「ここが家だ

ーベン・シャーンの第五福竜丸」で日本絵本賞を受賞。その他、絵本、エッセイ等を書いて

います。さて、「ヘロドトスにも負けぬ」は、次のような事です。


雨ニモマケズ」に初めて遭遇したとき、そのタイトルがどことなく、くすぐったいように懐かし

かった。

 読み出して三行目あたりで、懐かしさのもとがぱっとよみがえってきた。

「アメリカの郵便局の、あのモットーというかスローガンじゃないか!」


ニューヨーク中央郵便局の正面の柱の上に、次のように刻まれているそうです


Nither snow

nor rain

nor heat.

nor gloom of night

stays these couriers

from the swift completion

of their appointed rounds.


宮沢賢治の詩は、もっと長いものですが、このモットーは、宮沢賢治の詩の最初の部分と

似ています。


「雪にも負けず、雨にもまけず、暑さにも、夜の真っ暗闇にも負けず・・・・」と訳して、初めて

原文に匹敵する底力が感じられる。と著者は述べています。


さて、作者は、アメリカ郵政省の誰かがアンソロジーを読んで、本家取りした可能性がなき

にしもあらず、と考えますが調べて見ると、この郵政局のことば、賢治より2,350年ほど、さ

かのぼり、ヘロドトスの「歴史」の八巻目にペルシャの飛脚(メッセンジャー)たちの記述があ

り、「雪も、雨も、暑さも、夜の真っ暗闇でさえも、そのメッセンジャーたちが、任された区間

を全力疾走することの妨げにはならない」と書いてあるそうです。


作者は、想像をふくらませ、「歴史」の和訳は当時、英訳とドイツ訳に基づいた縮約版が出

ていたらしく、ひょっとしたら、賢治が出会った可能性が、まったくないとはいえない、また、

郵政局の言葉が、アメリカの名言集の類いに載っていて、それに触発された可能性もある

かもしれず、というようなことを書いていますが、最後に


「しかし、そうだったとすれば『雨ニモマケズ』は、原作者のヘロドトスも顔負けの、まったくの

名訳だ。」と褒めています。


賢治とヘロドトス、関係はないと思いますが・・・この著者、面白いことを考えますね。


著者は「中原中也賞」を受賞している詩人でもあり、詩もいろいろと、紹介してあります。

山村暮鳥の「病床の詩」


ああ、もったいなし

もったいなし

深閑として

こぼれる松の葉

くもの巣にひつかかつた

その一つ二つよ


「もったいなし」について、「役に立つはずのものが使われなかったり、無駄になってしまっ

たりして、惜しく感じられる」と「身に余って、かたじけなく、自分にはよすぎる」の二つの意

味があり、作者は、後者の立場を取り、


「蜘蛛の巣の糸に吊されて震えながら光る松葉・・・・その美しさが、結核で床についていた

詩人の目には、よすぎるものに映った。・・・・・・独り占めにするのが惜しく、他者と分かち合

おうと、詩が生まれたのだ。」


詩人の見る目は、私如き凡人とは違いますね、同じ題「病床の詩」として、もう一つ


ああ、もったいなし

もったいなし

妻よ

びんぼうだからこそ

こんないい月もみられる


「びんぼうだからこそ」という一行を、「物欲に邪魔されないからと解釈していいかも知れ

ない。」と書いていますが、最後に一行。


「ただ、呼びかけられた『妻』が、そのあたりをどう思ったのか、少し気になる。」


まだ、全部は呼んでいませんが、短い随筆集ですから、暑い夏、気軽に読んでみるのも良

いかもしれませんヨ。


2014年7月18日 (金)

ぶらり、夏の花

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朝起きて、「今日は、2014年の7月、第三週の17日の金曜日。この日は、私の一生にとっ

て、ただ一日の日。だから、有意義に生きていこう。」だったかな?毎朝、声に出して起きて

いる方がいるとか、誰かから聞きました。


今日は、23,916日目。何がかって?私か生まれてから、今日までの日数です。関係ありま

せんが、朝から墓掃除。


ここ数日、雨が降ったり止んだりで、朝から、晴れそうだったので、掃除をしたら、暑い暑

い。墓の横の草を抜きましたが、これが、なかなか抜けない。


ぬいてもぬいても草の執着をぬく   山頭火


帰りがけ、ぶらりと花の写真を撮りながら・・・という事で、今日は花の写真でも・・・・・・


さて、上の写真はなんという花でしょう。似ているのはありますが・・・・答えは「造花」です。

夏になると、墓の花が枯れるのが早く、墓地のあちらこちらを見て歩くと、綺麗な花がたくさ

ん飾られていて、これがほとんど造花。私も、夏の間は造花にしました。


以下の写真、花の名前は自分で調べて下さい。


猫じゃらし 小石ひとつの 猫の墓    田中風雲子

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ここからは、私の庭ですが、トマト。結構食卓に出て来ます。キュウリの花。何となく、ショボ

イという感じですが、実はしっかりとなっています。

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茄子の花。なんで、いつも申し訳なさそうに、下向いて咲くんでしょう?ほおずきは、すっか

り色づきました。

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ミントの花。柿は、今年は裏作で、あまりならないのですが、どんなわけか沢山なってまし

た。ただ、今からボタボタ落ちていくので、秋までどれくらい残るのか・・・・

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長崎は梅雨明けが、もうすぐみたいですが、今年初めて、朝から蝉が鳴いていました。


■山頭火句集より

この旅、果てもない旅のつくつくぼうし 

ひっそりと咲いて散ります

やっと咲いて白い花だった

草のたくましさは炎天さらにきびしく

日ざかりの赤い花のいよいよ赤く

ともかくもけふまでは生きて夏草のなか

ほととぎすあすはあの山こえて行かう (どこかのTVのPRでやってたな)


夏の花、季寄せを見たら沢山ありますね。暑い中ですが、たまには、夏の野山の花を楽し

みましょう。


雑草の中の花見る一人のわたし sugikan      駄作で、いつも m(_ _)m お粗末さまでした。




2014年7月17日 (木)

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」三巻でました~作・前川洋一/ノベライズ・青木邦子

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お~、出ましたね。「軍師官兵衛」第三巻。出版が7月10日、本屋さんには3,4冊しか置い

てありませんでした。ここらあたり、あまり読書の習慣がないようで・・・・


さて、この前の週のTVは、クライマックスの本能寺の変。信長の死を知って、泣きじゃくる秀

吉に、官兵衛が「わかりますか?殿のご運が開けたのですぞ!」


さて、この本能寺の変、歴史上の大きな謎となって、ウィキペディにも、「野望説」「怨恨説」

「ノイローゼ説」「黒幕説」等々いろいろ書いてあります→こちらをクリック



先日、新聞、TVで報道がありましたが、「林原美術館(岡山市)と岡山県博物館(同市)は

23日、明智光秀の謀反で織田信長が自害した『本能寺の変』の動機について、土佐(高

知)の武将だった長宗我部元親が関わっていた可能性を示す手紙が見つかったと発表し

た。四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を伝える書状。光秀とは

重臣が長宗我部と婚姻関係にあったこともあり、専門家からは『信長の四国征伐から元親

を守る狙いがあったのでは』という見方が出ている。・・・・・・」(毎日新聞・7月17日付け記

事より)とあり、後、詳しくは→こちらをクリック


ウィキペディアに早くも、「四国『征伐』回避説」のなかに

「2014年、元親から利三に宛てた書状が発見された。文中、元親は土佐国・阿波2郡のみ

の領有と上洛に応じる旨を記しており、ここから四国攻めが実施されると政治的に秀吉―

三好ラインの完全勝利となり、光秀は織田政権下はもちろん長宗我部氏に対しても面目を

失い、いずれにせよ失脚してしまうことから、本能寺の変を起こしたとも読み取れると論評

されている」と付け加えられていました。


歴史は結果は分かっているので、あと、小説は、資料を基に、どう解釈して、物語にしていく

かですが、NHKTVドラマは違った解釈でした。後で、こんな新資料が出てくると困りますね。


さて、第三巻、後ご存じのように、家康の「伊賀越え」、「中国大返し」、「村重との再会」、「

九州遠征」、「伴天連追放」、「茶々の登場」等々続くのですが、はやり出ていましたね。


秀吉が、「よし、では聞くぞ・・・・。わしが死んだら、次は誰が天下人になると思う?」と聞く

と、面々、徳川、前田利家、毛利、上杉とか意見をいうが、「秀吉はにやにやして見てい

た」。


後日、家康が官兵衛と会った時、その時のことを話し、「家康はいったん言葉を切り、官兵

衛の表情をうかがいながら、秀吉の声色を真似た。

官兵衛じゃ。次に天下を取るのは官兵衛に違いない」・・・・


秀吉が、天下人になるにつれ、黒田官兵衛と豊臣秀吉の心は離れていきます。石田三成

がウロチョロしています。TVで見るのを待ち遠しい人は、本の方をどうぞ。


【おまけ】

某チェーンのレストランに置いてありました「百歳カード」。60歳以上の人は5%引いてくれ

るそうですが、「有効期限は、60歳から100歳」まで。カード作りましたが、100歳以上に

なったら、使えないのかな?

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(参考・文引用「軍師黒田官兵衛 三」・「毎日新聞」「ウィキペディア」より」)

2014年7月16日 (水)

イベリコ豚を買いに~野地秩嘉著

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イベリコ豚、2006年頃、ドングリを食べる豚ということで、ブームになったようですが・・・・

私も、どんなものか、お取り寄せしてみました。きっかけは、コンビニで買った、お好み焼。

ラベルを見たら、「イベリコ豚のおこのみ焼」の文字。

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どこかで、聞いた名前だと思っていたら、本が出ていて、それで何となく覚えていたのです

が・・・・・

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豚というと、残飯を食べている豚舎を思い出し、あまり清潔な印象はなく、「豚に真珠」「豚

野郎」「豚もおだてりゃ木に登る」「豚小屋のような部屋」とか、あまり良い言葉には使われ

ていません。


ステーキを食べに行くと言えば、喜びますが、トンカツを食べに行くと言っても、あまり喜ぶ

者はいないのですが、この「イベリコ豚」、こんな所で飼われて、東京ディズニーランドが20

個ばかり入る森の中に、数百頭を放牧しているそうです。


なお、ドングリを食べているそうですが、日本のドングリとは違い、本によれば「渋みもあっ

たけれど、中身の味は生のカシューナッツと言える。」という感じだそうです。

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本を読んで、どんな、お肉か近くの店を捜しましたが、ありません(田舎だから)。諫早の大

型スーパーに行ったらようやく置いてありました。

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ところが、イベリコ豚にもいろいろあって、最高級が、純イベリカ種のベジョータ。あと、イベ

リカ種のセボ。ドングリの収穫量が少ないため選出されず、ドングリでなく、大麦、小麦を与

えたもの。もう一つは、イベリコ豚とデュロックの交雑種(純イベリカ種メス×と純デュロック

種オス)。


という事で、最高級のイベリコ豚のベジョータとは、如何なるものかとお取り寄せしました。

なお、イベリコ豚といえば、生ハムが有名らしく、これも一緒にお取り寄せ。一番上の写真

です。高かったです。ただ、生ハムの塊(原木といいます)は十万程度します。


少し、「イベリコ豚を買いに」に移りますが、作者はイベリコ豚に興味を持ち、スペインに行く

事になりますが、丁度、出発直前、宮崎県で口蹄疫が発生し、見学は断られますが、どうし

てもスペインにいって、取材したく


「その時だった、ふいに、直感した。

『そうか、そうだったのか』

『買えば良いんだ』と思った。


という事で、買いに行くなら、見学(取材)もできるだろうと、一頭買うなら、ミエミエですから、

二頭の買う事にし、今度はOKと言うことで、スペインへ行き、見学(取材)しますが、買った

二匹の豚をどうするか。もちろん輸入するときは、解体されてきますが。


ここで、考えたのが、精肉はいろいろ問題があるので、加工して売ることに。ただ、著者は

業者ではなく、著述業が本職。


という事で、あちらこちら、熱意を持って、販売促進の担当、製造担当、販売と管理担当と

お願いをし、「イベリコ豚ベジョータのウデ肉を使ったスモークハムを作り、売る。」ことに。


「イベリコ豚にあうために行動を起こしてから4年過ぎた。」という事ですが、後半は起業す

ることの如何に難しいことかが書かれています。結局は、熱意と人の繋がりですね。


さて、左がイベリコ豚ベジョータの生ハム、右が某コンビニの生ハムです。部位が違うの

で一概に言えませんが、まあ、食べて見て、「肉食系男子」と「草食系男子」の違いですが、

やはり、イベリコ豚は旨かった。これでビールが飲めたら・・・・・

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イベリコ豚の生ハムの方は、酸化を防ぐためでしょう、一枚一枚、フイルム状のもので、区

切られていました。


お取り寄せについては、カミサンには内緒で、生ハムの方は、十分ばかり室温に戻せば良

いのですが、ロースは冷凍してあり、戻すのに少し手順があり、まだ、冷凍庫の奥に隠して

あります。近頃、カミサンのお出かけが少なく困っています。


今日、息子の嫁さんのお父さんからお中元が届いて、開けてみると、「沖縄あぐー」でした。

14世紀に中国から琉球王国に渡来した豚。戦後の混乱で数が激減したものを、「アグー」を

愛する皆さんが、よみがえらせたそうです。冷蔵庫は豚さんだらけです。


雲仙には「雲仙豚」、諫早にも、米で育てた「諫美豚」があるそうです。黒豚も有名ですが、

どれが旨いのか?ただ、肉食についていえば、西洋の方が歴史が長いので・・・・

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いろんなペットを飼うのが流行っているようですが、豚さんは如何。NHK「あさイチ」のマスコ

ットも、豚さんですよ。

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グルメを自称される方、「イベリコ豚を買いに」。お読みください。豚に対する考え方が変わ

ってきます。





 

2014年7月15日 (火)

ぶらり「長崎卸センター」~長崎市

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卸センターと言っても、魚とか、野菜とかでなく、商業卸団地で、文具、事務機、医療関係、

住宅設備、等々を扱っている会社が67社ばかり集まって、いろいろなザービスもおこなっ

ている所のようです。


さて、今日も長崎の漢方専門の病院へ行って、(まあ、毎回書くように、なぜ、比較的若い

女性の方が多いのでしょう?)帰りがけ、丁度、卸センターあたりでお昼。何年かまえに、こ

こで、バイキング料理みたいなのを食したな、という事で、卸センターへ。


え~、あまり縁起の悪い話は、したくないのですが、これは、数名の方から聞いたことがあ

り、バスガイドさんも紹介していましたので、多分本当の話でしょうが・・・・


卸センターに入るには、日見峠の途中からトンネルを越えて入るのですが、以前、そのトン

ネルの所に、鉄筋二階建ての家があり、ここに、出るらしいのです。引っ越ししてくる人、引

っ越ししてくる人、短時間で引っ越ししていくそうで、土地付きで、400万までにしたそうで

す。現在では家はありませんが・・・・


卸センターに入って、確か、ここら辺かなと思って、ウロウロしていると、

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道路の壁にずらっと絵が貼ってあり、真ん中あたりに、ペンギンさんの絵が描いてあって

(すぐ近くにペンギン水族館があります)、「長崎卸センター絵画ロード」とありました。


なお、絵は幼稚園生から大学生まで。「2012 長崎卸センター絵画ロードコンテスト」と書

いてありますから、多分2012年の単年度事業でしょうが、何かもったいないですね。

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やっと、レストランを見つけましたが、前に来た店とは、イメージが違うな。ぐるっと卸センタ

ーを廻って、食事ができるところはここしかなく、あとは隣のコンビニがあるばかり。


入った時は、12時前でお客さんは少なかったのですが、昼と同時に満員。写真をとった、

後の方には座敷席があります。

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多分、小嶺元国見高校サッカー監督のサインかな?

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家に帰って調べると「卸センター」のホームページがあって、「サービス案内」の所。「長崎も

のしり手帖・長崎の民話」で「越中哲也の長崎一人歩き」、全十話ですが、「年中行事こと」

「長崎・浜町のこと」「長崎・外町のこと」などあり、まだ、チェックしていませんが、面白そうな

話が並んでいます。


「長崎ものしりシリーズ」もあって、これは、故長島正一氏の「長崎ものしり手帖」をテキスト

にしてあるもので、これも、興味ある話が並んでいます。あと、ゆっくりと聞くつもりです。


民話も、「全県編」「県北編」「五島編」「諫早 島原編」とあり、島原の民話では、知らないも

のもありました。これも、あとで要チェック。


また、スマホでも、「長崎ものしり」でアプリがとれます。

長崎の事を知るのに便利です。是非ご利用を。頑張ってますね、「卸センター」さんというと

ころでした。なお、ここは、隠れた桜の名所でもあるらしく、来年が楽しみです。




2014年7月14日 (月)

「島原城大手門枡形北側の発掘調査現地説明会」~島原市

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先日、島原城の石垣が崩れ、その際「島原城(森岳城)跡石垣復旧工事に伴う発掘調査

と、「島原城跡公園災害復旧工事竣工式」という事で、2回ほど、ブログに書きましたが、今

回はまた、新しいもの出土したとか。場所は島原図書館のすぐ横。島原拘置支所職員宿舎

の新築工事中見つかったもので、長崎新聞によれば、


①幕末期の石組みの暗渠

②築城当時のものとみられる大手門北端の根石

③二の丸石垣補習工事に伴い、堀の水を排水するために築かれた溝

④暗渠の維持・管理のため出入りに使ったと見られる石組み縦坑

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近頃、あちらこちら行くと、史跡の説明会。参加者が多いですね。歴爺(私もですが)に歴

婆。失礼。若い方も混じっていましたが、関心の高さが分かります。

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説明途中から、雨が降り、図書館へ入って、映像での説明。一番前に座って、スクリーンを

写したのですが、写真が斜めに写っています。補正するのも面倒くさいので、そのまま貼

ります。


昔の、珍しい写真

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黄色の○印が、現在文化会館が建っているところ。その上の部分に、島原城が復興されて

います。青の矢印が島原商業高校、赤の矢印が、現在、観光バス等の入り口(多分)。こ

の、入り口は、新たに作ったもので、昔の大手門(入り口)ではありません。


普通、水堀がある城では、川から水を引きますが、島原は湧水が多く、堀の中からの湧水

で堀を満たし、水位の調整のために、暗渠が作られたのでは、という事でした。


青の点線が、暗渠の方向ではないかと、見られています。川の方向に、向かっています

が、一直線ではなく、曲がっているのではないかとの事です。この、ごく一部分が出土され

たという事です。

現在の航空写真と昔の絵図。

左の写真、緑の○印。上の方が、長崎地方裁判所、下の青○印が島原図書館。図書館の

左側が発掘現場になりますが、赤の矢印の所、小さなカギ括弧がありますが、これが、築

城当時のものとみられる大手門北端の根石と思われる所。


右が昔の絵図で、石垣の絵が描いてありますが、この矢印の所のカギ括弧、これが今回出

土した所と一致していると思われています。


なお、赤い線は石垣が築かれたところで、黄色の○印の所に「追手門」と書いてあります

が、「大手門」の事で、城に入るには、ここから、出入りした事になります。

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この矢印部分が、「築城当時のものとみられる大手門北端の根石」になります。この上に、

石垣が積まれていたのでしょうが、ここは、官舎が建ったりで、その時壊されたもので、根

石だけが残されたものでしょう。

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石組溝と暗渠。暗渠の所は、安全のため、ロープが張られ撮影できませんでした。

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なお、暗渠には、土砂の除去などの、維持・管理。暗渠からの排水を溜めるための、溜枡と

して使ったと見られる石組み縦坑があり、暗渠と接続しているそうです。


底の方に手を入れるだけの、すき間があったので、手を入れて、スマホで写真を撮ったそう

ですが、90㎝×90㎝程度の大きさであったそうです。右が内部です。

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なお、お堀の方にも、暗渠らしきものがあり、ここも手が入るので、矢印の石の左あたりから

手を入れて、写真を撮ったところ右のようになっていたそうです。

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ただ、この附近は、明治29年頃から、水田やら宅地に使用されたようで、近くにコンクリー

の土管が設置され、使用され始めた頃は、暗渠の存在が知られていたのでは、という事で

した。矢印の所。

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なお、暗渠は、堀水の恒久的な排水を意図し、溝を埋め戻す際に築かれたものと考えられ

るそうです。


今年が、島原城天守閣復元50周年で、今後、広域に、本格的に調査をしていくそうです。

まだまだ、なにか出そうな気がするのですが・・・なお、調査の現場は、埋め戻しをし、拘置

所の職員宿舎が建てられるそうです。そのままにしていて欲しいのですが・・・・・



 

2014年7月12日 (土)

「からゆきさん」と天如塔」★「コレジヨ市民文化講座」~南島原市有家町

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今日は昼から、有家町の「コレジヨ市民文化講座」に参加。内容は、「『からゆきさん』と天如

塔」。講師は、島原文化連盟委員長、天如塔改復委員会の委員長をされていた、宮崎金助

先生。参加者が少ないかと思ったら、満員でした。


私のブログでも、三回ほど取り上げたのですが→こちらをクリック、「」。「」。「」。


宮崎先生の話は以前にも聞いていたのですが、新しい資料も交えながら、分かりやすく説

明。


世界情勢から、なぜ、シンガポールという狭い地区に、からゆきさんが多かったのか。ま

た、からゆきさんが「賤業婦」「醜業婦」「密航婦」「娘子軍」などと呼ばれ、現代になっても、

卑しまれた存在であったこと。福澤諭吉でさえ、その存在を認め、薦めていること等を話さ

れました。

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なお、からゆきさんは

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       (当日の資料より)

多分、大きい子で、中学生くらいでしょう。この少ない荷物を持って、海外に売られていきま

す。


からゆきさんを、外国に売るのを「女衒」と言います。かなり前、緒形拳主演で、実際の「女

衒」、村岡井平治を取り扱った映画もありましたが、村岡井平治は島原半島の某町の出身

で、その町の郷土誌にも載っており、その記事の中で、次のような事が書いてあります。


「昭和十年代には、故郷に家を建てて老後を過ごしていた『からゆきさん』(故人)が、多くは

語らなかったが話はしてくれた。

働き口がなく、海外にあるというので、十九歳の時に口之津港を出た。船に乗ると船員服に

着せ替えられて少々水の溜まっている船底に入れられた。食事はにぎりめしやカビくさいビ

スケットであり、船底から一歩も出ることができなかった。船中で病死した娘がいた。・・・・・

出発の時は想像もしなかった仕事をし、密航者で市民権はなく、帰国する事など絶望に近

かった。・・・・・やけになった者は、次々と転売されたり、借金が多くなったりして、行方不明

になった人もいた。・・・・」


外国から送られたお金が、当時30万、現在のお金にすると、12億9千万になるそうで、外

貨獲得ににもなったのでしょう。こうして外国に送られた、からゆきさんの平均寿命は、21,

6歳であったそうです。


島原の子守歌に「山ん家はかん火事げなばい」と言う一節がありますが、「かん」は「火が

かんかんにおこる」という「かん」です。口之津町史に次のように書いてあります。


なお、「『からゆきさん』の出る時は、かならず山手に火事があった。それは警備の目を火事

に注視させ、そのすきを見て船に乗せ込んだ。町では『今日も日光行きがあったとばい』

と、うわさしあった。『日光』は密航の掛言葉であった。~『故野中武夫氏談』」とあります。


なお、村岡伊平治は「村岡伊平治自伝」を出版していますが、宮崎先生が内容を検証した

ところ、父親の出生等、でたらめが多かったそうです。


前にも書きましたが、明治二六年二月三日付島原村先魁五番戸で発行した「有明海」第二

号の巻頭言に


「密航婦おおく島原地方に出で 重犯の徒多く島原に出ず 島原には一の産物として名を

えたるものなし しからずんばすなわち 島原の産物は密航婦と重罪犯の徒の二つあるか

ああ恐るべきかな 島原の空気 腐敗せるかな島原の空気 いな空気は腐敗せるにあらず

人心の腐敗せるなり ああ島原の人いつまでもかくのごとくならんか 島原人はこの明媚な

る山水に対してなにをもってつぐなわん」とあるそうです。いかに、密航(からゆきさん)が多

かったのか伺えます。


現代の島原の方は、城下町でおっとりした人が多く、薪能を始め文化が豊かで、良い所で

す。


【お知らせ】

「コレジヨ市民文化講座」は毎月開催されていて、次回は、元龍谷大学教授 根井浄先生

の「有馬氏時代の食文化と茶室」です。


キリシタン大名有馬晴信の時代、伊勢信仰を説いて廻国する宮後三頭太夫(みやしりさん

とうだゆう)という伊勢御師がいたそうですが、新発見史料「伊勢御師食膳日記」から、有馬

氏当時の食文化の話になるようです。


日時 8月18日(月) 14:00~16:00

場所 ありえコレジョホール 

主催 有家史談会

共催 南島原市教育委員会

問合わせ ☎ 050-3381ー5047(南島原市教育委員会有家事務局)

資料準備の関係上、できれば事前申し込みを、という事でした。

(参考・文引用:「みなみくしやま~南串山町郷土誌」「口之津町史 郷土の歩み」。なお、宮

 崎先生の講演を元に書きました。)







2014年7月11日 (金)

長崎の石橋・追記~阿弥陀橋・桃溪橋・高麗橋~長崎市

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昨日、長崎の石橋を紹介しましたが、宮崎安氏の「中島川遠眼鏡」に、気になる記述が二

つほどあり、これを調べるのと、この間、時間の関係で見に行けなかった、西川ダム下に移

転をした高麗橋を見に。


気になる記述の一つ目は、阿弥陀橋について

「寛政七年七月十九日(1795)の大洪水で大いに破損と港草は書いている。このとき落ち

たものであろうか、元禄三 山善爾 と彫り込みがある石が今もなお橋の下に放置されてい

る。」と書かれてあり、本当にあるのか、確認したかったのですが、まあ、これは無理。


少し、上流から橋の下流まで見たのですが、全く分かりません。最も、この本が書かれた

後、長崎大水害がおこっていますから、ひょっとしたら、もっと下流に流されたものでは?

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さて、二つ目は、桃溪橋

宮本安氏「中島川遠眼鏡」では、、橋の左手の撞巻石の中に


長崎僧卜意募

十万之諸檀越

建造石橋済津

功徳無量矣

   旹         (旹は時)

延宝柒歳次己未   (柒は七)

  仲冬吉旦書    (仲冬は十一月)


と書いてあるそうで、書いてあるところは、

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と場所まではっきりしていて、「下流からみて橋の左手の撞巻石(とうけんせき)の中に左の

ような橋銘が組み込まれている。」と書かれていますが、行って見れば、ここの場所、かくの

如きで状態で、確認も何もかもあったものでは・・・・・一日作業すれば、綺麗になるのです

が・・・・長崎市さん。この橋、確か、長崎市指定有形文化財なのですがネ。

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この橋の近くに、伊勢宮があり、諏訪神社、松森神社と並ぶ長崎三社と呼ばれています。

左にビルが建っていますが、以前は確か、伊勢宮会館といって、結婚式をしたり、泊まった

覚えもあるのですが、現在は、「ヒューマン・コミュニティ 伊勢の杜」になっており、ディサー

ビスとか、老人ホームになっているみたいでした。


少子化で、結婚式は少なくなるし、高齢者は増えていくし。商売替えなのかな?一番奥が

お宮です。お参りの仕方が他の所より、少し複雑で、単に一礼二拍手二礼ではありません。

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神社の由来は読んでください。

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さて、今度は、高麗橋を見に西山ダムへ。一番上の写真が、移設された「高麗橋」。

昭和60年に解体し、平成5年に移築復元したそうですが、主要部分は旧材を使用。ただ、

川幅が広かったために端部は石材を補足し、失われていた高欄も復活しているそうです。

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左が現在の川にかかっている橋名。右が古い橋に彫ってある橋名。

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この場所は、前に書いたように西山ダムの下の、西山ダム下流公園にありますが、場所が

分かりにくい、分かりにくい。途中で、おばさんに聞いて、めんどくさいので途中の道に違法

駐車して、歩いて行きましたが、行ってみれば、駐車場、あるんですね。せめて、指示板ぐ

らい欲しいですね。長崎市さん。


公園はグラウンドゴルフ場になっており、高齢者の方が、仲良くグランドゴルフをしていまし

た。でも、ダムって凄いですね。どうやって作ったのか。この、広場の川向こうにも、少しば

かり、広場があり、美人の方が、小犬を連れて散歩していました。声はかけませんでした

が・・・・・


公園の入り口には、立派なモニュメントが。矢印の所には「寒漿濟我人」と書いてあります

が、これは、「どんなに寒いときでも、市民のために水を汲んであげましょう」という意味だそ

うで、明治37年に、旧西山ダムの堤体の銘板に刻まれていたものを、モニュメントととして

復元したものだそうです。近くの説明版に書いてありました。

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なお、「寒漿濟我人」の横には、「男爵 伊東巳代治」と書かれていましたが、説明版には

「伯爵」となっており、明治10年に「子爵」、大正11年には「伯爵」となった、と書いてありま

した。


長崎市水道第一回拡張工事(明治33年~34年)に、国庫補助獲得に奔走したそうです。

伊藤博文に抜擢され、明治憲法の草案作成にも尽力したそうです。

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イケメンですね。家柄が良く、頭が良く、地位があり、おまけにイケメン。私の嫌いなタイプで

すネ。

2014年7月10日 (木)

珈琲つれづれ

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数日前から、台風の進路を見ると、なんと、こちらを直撃の様子。昨日から、カミサンにおご

られつつ、あちらこちらと、家の補強。台風が来てみれば、鹿児島方面へ。こちらは、スカシ

ッ屁みたいな風ばかり。朝から後始末で、疲れました。という事で、ホッとして、珈琲を飲ん

で、今日は疲れたのでダラダラと書きます。


台風というと、昔は長崎直撃が多かったのですが、最近は、直撃かと見せながら、鹿児島、

熊本、宮崎方面へ曲がって行くことが多く、はやり、これも気象の変化に伴うものでしょう

か。


さて、珈琲というと、通の方が多く、昔から、焙煎がどうだ、豆のひき方がどうだ、入れ方が

なんだ、とうるさく、私は、何でも良い方なので、以下の事は、思い出話で、気楽に読んで

も、読まなくても・・・・・どちらでも。


私の母方の実家は、お店屋さんをやっていて、従業員を連れて、夏は網場の別荘で海水

浴、冬は唐八景で雪見酒と意外と、爺様(残念ながら原爆で亡くなり、顔は知りません

が・・・)が風流でハイカラな所があったらしく、その家風があって、昭和30年代(私のカミサ

ンが、ワラジを履いて小学校へ通っていた頃)、遊びに行くと、朝食はパンと珈琲。一般の

家庭ではまだまだ珍しい頃でしたが、珈琲は、それからのお付き合いです。昭和30年は、

石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞を取っています。


一時、自分で豆をひいて、入れていたのですが、どうも、日本酒とコーヒーの味は良く分か

りません。○の味ならよく分かるのですが・・・・・・


数十年前、彼女と喫茶店で珈琲を飲んでいると、なんか味が変。店の人を呼んで、「味が変

だよ」というと、一口飲んでみて、「また、やったな!」「どうしたの?」「高校生がね、いたず

らで砂糖ポットに、塩を入れていくんですよ!」。今は、塩キャンディーとか、塩チョコレートも

ありますから、時代を先取りしたものでしょう。塩コーヒー。


数ヶ月前から、コンビニに行くと、おや?コーヒーの香りが、それも入れたての香りが。みる

と、なんと、カウンターの所に、コーヒーを入れる機械。これ本当、と思って見ていたら、機

械が一杯ずつ豆をひいて、入れていくんですね。驚きました。

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皆さん当然の如く、買っていましたが、店によって、味と値段は違いがありました。

考えると、缶コーヒーにもいろいろあります、

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特に目立つのが、ブラックコーヒー。


昔、千々石の高齢者の方の家に遊びに行くと、砂糖を匙に山盛りに5,6杯入れて、ドロド

ロ。あれじゃ砂糖を飲むのか、コーヒーを飲んでいるのか。甘いものに飢えていた、戦中の

世代の方です。


缶コーヒーの前に、インスタントコーヒーがありました。受験勉強の時は、よく飲みました

が・・・・


Jazzにも「ブラックコーヒー」という唄があって、「ひどい孤独に襲われて、一睡もできゃしな

い、部屋を歩き回っては、ドアを見て、そしてその間に飲むのは、ブラックコーヒー、愛なん

て、安い飲みものさ・・・・・・」。こういうときは、缶コーヒーではなく、ちゃんとした器で、ホット

のコーヒーでしょう。


「コーヒー」の歌と「恋」とは、よく結びつきます。

「一杯の コーヒーから 夢の花咲く こともある 町のテラスの 夕暮れに 二人の胸の と

もしびが ちらりほらりと つきました・・・・・」。「一杯のコーヒーから」。作詞、藤浦洸、作曲、

服部良一、歌、霧島昇とミス・コロンビアです。昭和14年の歌で、当時のコーヒーは15銭だ

ったそうです。ほとんどの方、知りませんね。私も良く知りませんが・・・


「昔アラブの偉い お坊さんが 恋を忘れた あわれな男に しびれるような 香りいっぱい

の こはく色した 飲みものを教えてあげました・・・・・・・それは素敵な飲み物 コーヒーモカ

マタリ みんな陽気に飲んで踊ろう 愛のコーヒー・ルンバ」。「コーヒールンバ」。西田佐知

子さんの歌。これなら多分ご存じですね。


一時、アメリカンコーヒーが流行って、前に紹介した、「考証要集」には、「米軍制度に詳しい

ミリタリー・ライターの菊月俊之氏によると、これは第二次大戦中、米国内でもさすがに物資

が不足したために、コーヒー豆の節約方として考案された飲み物という(『月間コンバットマ

ガジン』2011年)。戦前ドラマの喫茶店でハイカラ紳士に『僕、アメリカン!』等と注文させ

ない方が無難。・・・・・・」とありますが、他にもいろいろ説があるようで、トルコライスの語源

と一緒で、よく分かりません。


そういえば、「ただの珈琲、お湯で薄めればアメリカン!」とか、頭の毛が薄い方を「アメリカ

ン」というのが流行りましたが、エスプレッソ・コーヒーにお湯を注いで作るのを、「アメリカー

ノ」と言うそうです。


さて、コンビニでコーヒーを飲んだ感じ。やはりコーヒーは、雰囲気で飲むもんですね。喫茶

店でゆったりと・・・雰囲気が大事です。特に、かわゆいウェイトレスさんがいれば最高。


我が師、伊奈かっぺいさんも、次のような、詩を書いています


■鰺ケ沢の喫茶店


見た目も、作りも、椅子の並びも

テーブルも、壁のランプも

店の名前も、確かに喫茶店だんだ。

とにかぐ珈琲が飲みたくて

その喫茶店サ入った。

・・・珈琲、のんでらきゃ

  隣のボックスでラーメン啜る音(おど)

  そして、魚ダシのカマリ

ラーメンは嫌いでねぇ

嫌いでねぇばて、今は珈琲をばー


ラーメン屋で珈琲、出すのは許す。

したばて、

珈琲屋でラーメン、出すのは許さねッ

こりゃ、同じようで違るッ

絶体、違るど思るッ


全くその通りで、カレーとか、ピラフとか、チャンポンとか出す所がありますが、これは、本当

に、「違るッ」。







2014年7月 9日 (水)

「日野江城跡階段遺構再調査」~南島原市北有馬町

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日野江城の階段遺構については、以前紹介をしました。→こちらをクリック

平成10年に、一回調査をしていますが、保護のため、埋め戻していましたが、15年ぶり

に、保存状態、経年変化等の調査の実施のために、再度、掘り返しての調査です。


前回の、調査の様子です。

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再調査をやっていると聞いたので、見学に行ってみました。

柵がしてありますが、これは、イノシシが入らないようにしてあるだけで、簡単に入れます。

戻る時はチャント鍵をかけて。


4,5名で草刈りをおこなっており、こうして見ると、城の様子が、よく分かるようになっていま

す。島原城を造る時、原城、日野江城の石垣も持っていっていますから、残っていたら、ど

んな風景だったのか?

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柵を開けて入っていくと、覆屋が作ってありました。雨水、直射日光の影響を防ぐためだそ

うです。前回の調査では、なかったのですが・・・・・


誰か調査をしているかと思ったら、誰もいなく、ただ、見学者用に入れるようにしてあったの

で、入って見たら、一番上の写真。一応、撮影禁止の札が出ていないか、確認をして。

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見学者通路は、階段を囲むようにして作ってありますが、全貌が見やすいですね。

上からみたもの。

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真上から見たもの。

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この階段で、特徴的なのは、階段石垣が、野面積みではなく、切石を使った、外来系の技

法で造った物。赤の四角で囲んだ部分です。海外貿易を行い、海外の影響が伺えます。

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もう一つの特徴は、前にも書きましたが、城主有馬晴信がキリシタン大名で、この階段に五

輪の塔碑、宝篋印塔等の仏教関係の石造物を使っていること。仏教に対する考えが分かり

ます。


前回の紹介では、写真で紹介をしましたが、これは、前回の調査の時の実測図です。赤の

所が、五輪の塔碑等の石造物。これを、踏んでこないと城には入れません。

黄色の部分が、外来系技法石垣。上の写真の部分です。

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階段遺構の中には調査のために入られませんが、仏石は見学者コースからも充分に見る

ことができます。上は梵字だと言うことが分かると思います。

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以前の写真を見ると、流失している部分などあったのですが、今回行って見ると、随分、形

がはっきりして、多分、崩れた部分の石を、組んでいった気がしているのですが、誰もい

なかったので、聞くことはできませんでした。


なお、この階段遺構を、保存のため再び埋め直すのか、保護のための施設を作って、いつ

でも見られるようにするのか、関係者の方に聞いてみたら、調査をしながら、検討中だそう

です。覆屋の設置が、27年3月31日までになっていますから、それまでは見学ができると

思います。









2014年7月 8日 (火)

「シルバー川柳 一期一会」~みやぎシルバーネット★お昼ご飯は「Linden」さんで

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先日、図書館に行ったら置いてありました。

「シルバー」関係の本が、あちらこちらから、出版されているので、本屋で、見そこなったの

かな?


以前、「社団法人全国有料老人ホーム+ポプラ社編集部」出版の「シルバー川柳」

「UFJ信託銀行」出版の「遺言川柳」

そして、「みやぎシルバーネット」出版の「シルバー川柳 満員御礼」、を紹介しました。


今回は、この「みやぎシルバーネット」の発行で、3冊目になるそうです。「シルバー川柳 

一期一会」、昨年の12月に出版されたもの。前回の「満員御礼」が、昨年7月発行ですか

ら、随分早いペースになります。



一期一会
(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざ。『あなたとこうして出会っているこ

の時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思

い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆頭の心得で

ある。平たく言えば、これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会え

ないかもしれないという覚悟で人には接しなさい、ということである。(ウィキペデイアより)

ということは、行きずりの恋も、「一期一会」とも、言えますネ。頑張ろう!「一期一会」。


冗談はさておき、「みやぎシルバーネット」は1996年に創刊された高齢者向けのフリーペ

ーパーだそうです。毎月、36,000部を無料配布をしているそうですから、凄いもんです。

さて、今回も、少し面白いのを。


段々暑くなって、蝉がそろそろ鳴き始めますが、まあ、歳取ったら、こんなに聞こえるんでし

ょうね。

■蝉が呼ぶ 朝っぱらから 爺(じい)、爺と


これは、よく判りますね。「渋滞を・・・・・・」。ウチの近くでは、名前は書きませんが、制限速

度60㎞を、30㎞で、悠々と走っています。

■つまづけば 5歳のヒ孫 手を広げ

■「今でしょ」に すぐに動かぬ 足と腰

■電話鳴る ハイハイ言うけど すぐ立てぬ

■古希古希と 首腰膝が さわがしく

■渋滞を 見れば先頭 高齢者

■「や」「どうも」 言って言われて 誰だっけ


有名な話で、大岡越前が、事件を裁く時、参考に、母親に、女の○欲は、いくつまであるの

か聞いた時、火鉢の灰を火箸でかき回したそうですが・・・・

■絵手紙を 書く手震える 老いの恋

■ありますよ 秘密の一つは お墓まで

■初恋の 人と出会った 墓地ツアー

■墓いらぬ 最後の恋を して見たい


これも、本当ですね。私の父が亡くなった時、年賀状が来ていて、慌てて喪中を出しまし

た。訃報面も、良く見るようになりました。

■年賀状 出した途端に 喪中来る

■朝刊は 社会面より 訃報面 


本当に、今日のクソ暑さ。ウチは、クソカミサン。

■クソ付けて 呼ばれる婆と この暑さ

■今月も 葬儀場にて 同窓会


まあ、これくらいの気持ちを持って、頑張りましょう。「アルチュウハイマー」。まだ、そんなに

飲んでいるんでしょうか?

■還暦から 数えてみたら 十八歳

■惚けじゃない 老にもあるの 反抗期

■主治医から アルチュウハイマーと 告知され


なんと言っても世界中で、強いのは女性。人類が滅びても、女性は生き残る。

■指一本 出すと千円 くれる妻

■爺がやせ 婆が太って 平和です

■時効など 認めぬ妻の 記憶力

■女子会で 別墓宣言 盛り上がり

■若イワヨ ホメ合戦の 婆さん会


この、川柳は少し違いますね。下に添削の句を書いておきます。

■四十年 私は貴方(あなた)に ボランティア

■(添削句)三十年 私はカミサンに ボランティア


暑い夏が来ますが、我が家は、実に涼しいですよ。

■温暖化 私も協力 冷えた仲


まだまだ面白い川柳が載っていますから、是非お読み下さい。



さて、今日もカミサンが留守で、ナンパでもしようかと、国道251号線を走っていたら、新し

い店ができていて「Linden(リンデン)」さん。珍しく、ワッフルと和紅茶の店です。


場所は、有喜中学校と以前紹介した、「イルマーレ」の間にあります。

こんな感じのお店で、紹介には、築100年の納屋をリユースして和と洋が調和した、大正

ロマンを髣髴させる店内で・・・・と書いてありますが、全くその通り。

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主菜の「サラミ風ソーセージ、ひよこ豆と牛挽肉のサルサソース」のワッフル。ワッフルもこ

んな食べ方もあるんですね。月替わりです。

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「季節野菜のサラダ自家製ドレッシング」。スープは「諫早産のかぼちゃ冷製スープ」。

デザートは別料金で、300円。「カスタードレモンムース、メープルナッツシフォンケーキ」と

コーヒーか紅茶。

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なお、和紅茶は、ストレートティーとして「鹿児島紅茶」。南熊本の「天の紅茶」。「嬉野紅

茶」。「静岡まりこ紅茶」。静岡県、山間部で作られた「瀬戸谷もみじ」。

フレーバーティーとして、「嬉野アールグレイ」。「高原ブルーベリー」。「姫りんご紅茶」。とあ

りますので、紅茶が好きな方はどうぞ。


なお、「日常から隔離された隠れ家のような空間。」と書いてありますが、この看板を見逃し

たらもう、分かりません。

右の写真。駐車場が少し離れていて、50m~100mほど歩きますが、橘湾が見え、ダイエ

ットと思えば、丁度良い距離。

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矢印の所がお店です。車の運転に自信がある方は、どうぞ。それより、海を見ながら、ブラ

ブラ歩いて行った方が良いですね。ホントに「隠れ家」って感じです。

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食事してたら、橘湾の波音がかすかに聞こえ、かかっている音楽が、バッハの「平均律」、

なんとも言えませんね。良い感じでした。おまけに、私好みの美人の女性でした・・・


(文引用:「シルバー川柳 一期一会~みやぎシルバーネット」より)






2014年7月 7日 (月)

「2014 唐比蓮祭り」~諫早市森山町唐比(からこ)

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昨日6日は、朝から、本降りになったり、小雨になったり、「唐比蓮祭り」、あるのかなと思っ

て、電話をしたら、「雨でもやります。」という事で、出かけていったら、意外と皆さん、沢山

のご来場。

雨の中、お花さんも、乱れておりました。ついでに、恋に乱れたい、この私・・・・・

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こちらは、主催者の「唐比すいれんの会」の皆さんの、地場産のテント。最近は、メロン作り

に力を入れているのか、メロンを盛んに売っていました。

唐比は「レンコン」にも、力を入れているのですが、収穫の時期が違っているので、残念な

がら、並んでいません。ここの「幻の唐比レンコン」は美味しいので、機会があったら、皆さ

んもどうぞ。

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ステージイベントも、7つばかり準備してあったのですが、雨のため、演し物は3つばかり

で、残念でした。


地元の皆さんの「創作のんのこ」。下の写真が「祭りのんのこ」で、両手に皿を2枚づつ持っ

て、カチャカチャ鳴らしながら、踊ります。結婚式、宴会などで、諫早地方の方は皆で良く踊

ります。「一緒に踊りませんか?」と放送があったら、ウズウズしていたのか、数名の方が、

すぐに参加。

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こちらは、「上大渡野芸能保存会」の皆さんの浮流。やはり、浮流は鄙びた感じで良いです

ね。女性の方が太鼓を叩いていましたが、しっかりした良い音でした。

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浮流の太鼓用のバチですが、普通の太鼓のバチとは、形が少し違っていますね。

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「大道芸師 春ちゃん」、中国の服を着て、中国の雑伎団でやる「変面」。くるっと回ったり、

扇で顔を隠した瞬間、顔のお面が変わるというもの。大拍手でした。

「春ちゃん」は、もと消防士で現在6?歳だそうです。

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マジックバルーンで、子供たちに配っているところ。右は、さすが元消防士、6?歳とは思え

ない筋力。ただ、この頃、又本降りになって、他に準備しているようでしたが、残念ながら途

中で中断。

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川の所では、多分フナ釣りかな、皆さん雨に濡れて、夢中で釣っていましたが、私が釣りた

いのは・・・・・という事で、参加しませんでした。

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多分、主催者の方は雨のため、最後まで、決行するかどうか迷ったと思いますし、雨の中、

準備も大変だったと思いますが、来年も期待して、また、行って見たいと思います。

2014年7月 5日 (土)

「カモメのジョナサン(完成版)」~リチャード・バック★五木寛之創訳

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先日のNHKTVのニュースで、この本の事を紹介してました。「東京の本屋に並べられ

て・・・」


6月27日(金)のことで、早速近くの「TSUTAYA」さんに行ったら、予定どおり、置いてあり

ません(田舎だから)。


6月28日に行っても、まだ置いてありません。6月29日は日曜日で、雑誌等の送配はあり

ません。6月30日、この日はあるだろうと思ったら、まだでした。7月1日、まだです。7月2

日、おかしいですね。7月3日、諫早の本屋さんに行っても、ありません。7月4日、まだま

だ。7月5日、本日ですが、ありませんね。でも、この本読んじゃいました。


以前、村上春樹氏の「1Q84」の時も同じ状態で、どうせ、こちらに来るのは遅いと分かって

いるので、6月28日、Amazonに予約注文を入れていたのですが、それでも、お届け日

が、7月2日~7月4日。今日、予約注文を見たら、「2014年7月13日入荷予定です」。売れ

ているんですね。


ちなみに、私の本の奥付を見ると、「2014.6.30発行」となっていましたから、6月28日発行

は、勇み足ですね。


さて、この本、「Part One」から「Part Four」までの四部構成で、「Part Three」までは、

40年ばかり前、出版され爆発的な売れ行きをした本です。


中身については、「ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以

上のことをあえて学ぼうとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるとこ

ろまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。・・・・重要な

のは飛ぶことではなく、食べることだった。」


これに対して、「この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食

べることより飛ぶことそれ自体だった。」という事で、飛ぶことに、熱中して、カモメの群れか

らも追いだされますが、その後・・・・・・という物語なのです。


この物語、1970年代に売れた本で、あの頃は、70年安保、大学紛争、ベトナム戦争、反

戦デモ等があっていた時代で、今の若い方には、また、別の読み方もあると思いますの

で、先入観なしで読んでもらう為に、これ以上の粗筋の紹介は避けます。


NHKニュースでは、キャスターが「Part Fourでは、・・・・・・」と中身の紹介をしていました

が、あれは、反則ですね。流行している推理小説を紹介しながら、「この本の犯人は

○○○○です」、と言うのと一緒で、おかげで、「Part Four」の中身が大体判って、面白さ

が半減しました。NHK9時のニュースの男性のキャスター、デリカシーというものがありませ

ん。


さて、五木寛之氏、今回の後書きと、1974年の後書き、二つ載せてありますが、じっくり読

むと、氏の若い時と、現在の考えの違いがあって、興味深いものです。


この、「Part Four」を発表したいきさつについては、2年ほど前、自ら操縦していた飛行機

で事故に遭い、九死に一生を得たことがきっかけで、旧作を見直した、という説明をあちら

こちらで見かけますが、前書きの、「完成板への序文」を読むと、以下のようであったようで

す。


妻のサブリナが、ごちゃごちゃの紙くずのあいだから、ぺちゃんこになった「Part  Four」

の原稿を引っ張り出し、読んだ事がきっかけらしく、その中で、


「あんたのいる二十一世紀は、権威と儀式に取り囲まれてさ、革紐で自由を扼殺しようとし

ている。あんたの世界は安全にはなるかもしれないけれど、自由には決してならない。わか

るかい」そして、最後にこう言った。「おれの役割は終わった。次は、あんたの番だよ」


「ついにあるべきところに置かれた最終章Part Fourは、そうは言わないだろう。誰も未来

を知らなかった時に書かれたものなのだから。」少し分かりにくいと思いますが、全文読む

と、なぜ、今になって「Part Four」を出したのかが良く判ります。


読みながら感じたのは、日本も集団自衛権の問題で、大きく変わろうとしています。我々は

安全を選んでいくのか、自由を選んでいくのか、どちらが良いのでしょう。


ふと、ジャニス・ジョプリンの「Me and Bobby McGee」の一節、「Frrdom's just another

word.For nothing left to lose.」、「自由とは、別の言葉で言うと、失うものが何もないこと」を

思い出しました。心身共に、自由を得ることは、努力を要し、困難で、ある面不自由な事を

招きます。自由とは何か、そして、自由を得るためにどうすれば良いか、この本はそれを問

うているのではないかと思います。


最後の一行が、グットくるくらいカッコ良いんですが、これはお読みください。


【おまけ】

本を読んで、海にカモメを見に行ったのですが、いつも溜まり場になっているところには、一

匹もいず、岩の上に一匹だけ。群れを離れた、ジョナサンで、今から飛ぶ練習をするかと

30分ばかり見ていましたが、動きもせんでした。どうも、ジョナサンとは違うみたいでした。

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(文引用:「かもめのジョナサン 完成板」より)



2014年7月 4日 (金)

有明フラワー公園&番所跡~島原市有明町

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有明のフラワー公園。天気が悪い日も、ボチボチとお客さんがやって来ます。現在は、サル

ビアが主で、ラベンダーが少々。天気が良ければ、雲仙岳も見えるのですが・・・・

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ここのフラワー公園の少し上に、番所跡があります。島原半島は、愛野が昔は要所になっ

ており、地図をご覧になればすぐに分かると思います。

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(「島原半島の歴史 監修・松尾卓次」より)

赤の○印、上の方が土井口番所、下の方が原口番所。有明町誌によれば、この関所は古

くからあり、宝永四年(1707)、島原藩士団竹右衛門、種村新兵衛による「島原大概様子

書」にすでに載っているそうです。


青の矢印の道は、「北目道」と呼ばれ、平坦な道です。赤の矢印の道は「千々石道」で、山

越えの急な道ですが、上に登ってしまえば、後は下り道になり、距離的にも北目道より短く

なります。


さて、番所の位置です。黒丸が、フラワー公園。青丸が、植樹祭がおこなわれ、今年の長

崎国体のサッカー会場になる、百花台公園。赤の○印が番所跡です。

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   (「島原藩主 長崎監視の道~島原殿さん道の会著」より」

番所跡です。説明版があります。

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現在は、番所跡と分かるような所は、わずかに石垣が残るのみです。

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有明町史に載っていた、昔の様子です。番所屋敷と下番所屋敷。番所屋敷の石垣。

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                  (「有明町史」より)

番所屋敷とそれに付随する下番所屋敷があったそうで、敷地は二百坪。この番所の意義

については、説明版に分かりやすく書いてあります。クリックすると大きくなります。

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一つは、この千々石道は、雲仙が修行の場であり、その参道であると言うこと。


根井浄氏によると、参道口は主に4つあったそうで、その一つが北目から、この千々石道を

利用し、大三東(おおみさき・現島原市)の一本松→舞岳の麓→多比良(たいら・現島原市)

の魚洗川(イワラゴ・イワレゴ・イヲアライガワ)→長者屋敷(地名のみで現存はしていませ

ん)→九千部と国見岳の麓(ここは千々石道と離れ、雲仙岳に向かいます)→池の原(雲仙

ゴルフ場があります)→温泉(うんぜん・昔は温泉を、「うんぜん」と読んでいました)と登って

いた道。番所はこの道あたりになります。


なお、現在ではセクハラになりますが、雲仙岳には女性は登れず、麓で祈っていたそうで、

千々石には女人堂と言われる所があります。


あと、説明版に書いてあるように、千々石道は南北朝の合戦の間道、江戸時代は島原城

への裏手の進入道路としての重要拠点でもあります。


島原藩主は、雲仙の自然を大切にし、地域内の殺生、つつじの堀取り、野火等禁止をし、

山奉行の下に、山留め、山番人がおかれていたそうで、山留めの役料として、勤めの日数

によって、一日二合の扶持米と、田六段、畑五段が与えられており、当時の庄屋が七段、

乙名が四段だそうで、山留めの役料が大きかったことがうかがえます。


江戸時代に入ると、北目道が島原藩主の参勤交代の道路であったそうですが、幕末、長崎

に、特に外国船の入港等があり、長崎へ出かけるため千々石道を、何回となく利用したそ

うです。


この道は、千々石から、魚をのトロ箱を担いで、有明、島原方面へ魚を売りに行った庶民

の道でもあります。


なお、伊能忠敬もこの道の測量をおこなっていますが、後日、千々石で測量していった道を

紹介したいと思っています。


この道も、山の中に埋もれて、分からなくなっているところが、多くあります。代わりに、自動

車道路の立派な道ができていますが、歴史的な道です。何とか、再調査して、整備してもら

いたいものです。


(参考・文引用「有明町史」「島原半島の歴史~監修・松尾卓次」「修験道とキリシタン~根 

 井浄著」「新島原街道を行く~松尾卓次著」「長崎藩主 長崎監視の道~島原殿さんの道 

 の会」、説明版より)






2014年7月 3日 (木)

ヒマワリはどこを向くのか?★「獏の檻~道尾秀介」より

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今日はこちらも土砂降りで、よせば良いのに諫早にでかけたら、下の通り。

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本明川の側を通ったら、ご覧の通りで、ここの両岸は、晴れている時は、良い散歩道なので

すが、植えてある木まで溺れていました。


本明川は、「暴れ川」と言われるくらいで、江戸時代の記録に残る洪水が9回起こっている

そうです。河川工事をおこなったので、今ではこれで済むのでしょうが・・・・・・

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さて、本題になります、ヒマワリは、どこを向くのでしょうか?ひまわりは、「向日葵」または

、「日輪草」「日車草」と言うくらいですから、花は、太陽の動きにつれて回っていく。と思って

いたのですが、たまたま本を読んでいたら、違うんですね。

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三十二年前、農業組合の代表者が殺害され、その体に、主人公の父親の小刀が刺さって

おり、それと同時に、一人の女性が行方不明になり、それも、主人公の父親が殺したと見な

され、父親は死体となって発見されるが、女性の死体は、発見されない。


主人公は大きくなり、東京で働き、母親も引き取るが、事件のことがトラウマになったのか、

離婚して、子供は母親に引き取られる。


月に一度会うことが決められ、その日、子供と別れた後、電車に乗るため駅に行くが、向か

いのプラットフォームに、行方不明だった女性が現れるのだが、電車にはねられて死亡す

る。


そこから、物語が始まるが、結局、一人一人の思いが少しずつ食い違い、悲劇を起こす原

因となります。


という、物語なのですが、今日はそれとは関係無く、この物語に書いてあるヒマワリのことで

す。私も、ヒマワリは、太陽の方を向いていく、と思っていたのですが・・・


一枚の写真に、ヒマワリをバックに、子どもたちが写っていて、主人公だけが、どんなわけ

か、そっぽを向いていて、どこを見ているかの推理。


「見たところ、花の周囲に太陽を遮りそうなものが何もありませんね。こういう場合、向日葵

というのは東を向いて咲くんです。向日葵は蕾のときに太陽を追いかけて首を回しますけ

ど、花が咲いてからは太陽を追いかけなくなります。だから、たとえば西側に太陽を遮るも

のがある場所では、花の向きは最終的に東に固定されますし、東側に太陽を遮るものがあ

れば西に固定されます。そっちの方が光の量が多いからです。でも、西側も東側もひらけ

ている場合、真ん中に咲くかというと、これがじつはそうじゃなくて、東を向いて咲くんです

よ。夕日というものがあるせいで。」


「でも・・・・・夕日が射すのは西からですね。」


「植物が感じるのは青い光なんです。それ以外は光として認識しません。一方で、夕陽がど

うして赤く見えるかというと、空気中で青い光が吸収されるからですよね。だから、夕陽は、

我々には眩しく感じられれますけれど、植物にとっては光じゃないわけです」

・・・・・・・・・

「つまり、夕陽が射す西側は、向日葵にとっては暗い方向なので、花はみんな東を向いて

咲くわけです。で、あなたはその向日葵の向きにたいして、左に顔を向けているから・・・」

「北を向いている?」


という事で、ミステリーを読んで、向日葵の勉強をするとは、思いませんでした。


ただ、この小説にひとつ問題が

「九州長崎の、普賢岳にほど近い村から・・・・・・」。普賢岳は雲仙岳の一つで、普賢岳にほ

ど近い村はありません。一番近いのが、小浜町雲仙で、温泉街です。まして、普賢岳といえ

ば、火砕流が起こった所。また、「村」はありません、みんな「町」です。「普賢岳の麓の町」く

らいで良かったのではと思いますが・・・・


ちなみに、ヒマワリの花言葉は「私はあなただけをみつめる」「愛慕」「崇拝」「いつわりの富」

「にせ金貨」等だそうです。・・・・・「そんなに、見つめちゃイヤ」。言われてみたいな  


【おまけ】

雨のため、庭のバラも、ずぶ濡れでした。

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(文引用:「獏の檻~道尾秀介著」より


2014年7月 2日 (水)

「ばらかもん」~ヨシノサツキ著

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先月、28日の長崎の地方新聞、「長崎新聞」です。

赤の四角の所、何かと思ったら、「ばらかもん」という、テレビアニメーションの宣伝で、7月

12日から長崎で放映されるそうです。


最近は、「ビッグコミック」系統しか読んでいないので、まあ、新聞一面使っての宣伝なら、

売れてる作品かなと思って、本屋さんに行ってみたら、9巻まで出版されていて、試しに2巻

ほど買って来てみたら、最初の台詞が、


「こら!!なる(注:登場人物の名前) そんなトコで何(なん)ばしよる。危なかけん登ったら

ダメち言ったろう?」


これ、長崎弁ですね。目次を見ると、「ばらかこどん」「やなわっ」「どんくどん」「ひとっくるま」

「おんなんこどん」「しゃ」「よそんもん」「郷長がいのむしこ」「ひとんもち」「だんぽ」。分かる

所はありますが、長崎市内、長崎南部の方言とはチト違いますね。


あとがきを見ると、「作者のヨシノ先生が生まれ育った、長崎県は五島列島。」と書いてあ

り、これで納得。


ちなみに、「ばらかこどん」は「元気な子」。「やなわっ」は「引っ越し」。「どんくどん」は「かえ

る」。「どんく」は「かえる」。「どん」は「一郎どん」とか、映画などで出てくる、名前に付ける

「どん」。「ひとっくるま」は「一輪車」。「おんなんこどん」は「おんなのこども」。


「しゃ」は「おかず」、千々石でも、使いますが、千々石に来た当時、「しゃはなんが良かね」

と訊かれ「?」。「よそんもん」は「都会の人」と書いてありますが、他の土地から来た人。「郷

長がいのむしこ」は「郷長の息子」、「郷長」は地域のまとめ役。こちらでは、少し都会風に「

自治会長」。


主人公は、書道家。書道展の受賞パーティーで、浣腸、失礼しました、漢字変換で浣腸と出

ました。浣腸ではなく、館長に「手本のような字と言うべきか、賞のために書いたものという

べきか、実につまらん字だ」と言われ、館長をぶん殴り、父親(書道家)に、頭を冷やしてこ

いということで、五島にやらされます。

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書道が関係するとは言っても、ビッグコミックスピリッツ「とめはねっ!鈴里高校書道部」(N

HKでドラマ化された作品)のように、本格的な書道漫画ではなく、島での人間の付き合い

が主になった作品。

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一番最初に仲良しと言うか、押しかけられるのが「なる」ちゃん。みんな優しい人ばかりで

す。


さて、少し話が重くなりますが、五島と隠れキリシタンとは関係が深く、寛政9年(1797)

年、五島藩主による要請で、西彼杵郡半島から、多くの潜伏キリシタンが移住したそうで

す。


これは、福江藩(五島藩)では享保年間、暴風、干ばつ、害虫による飢餓、また、享保末か

ら寛政元年にかけて天然痘も流行し、農民が減少、村が全滅するところもあったそうです。


キリシタン追放と農村再興において大村藩と福江藩は利害が一致し、「百姓移住協定」を

結び、大村藩は移民を、外海地域のキリシタン村(三重、黒崎、神浦、瀬戸)に限定し、仏

教宗門の手形を発行しているそうで、外海から五島に移るとき、期待があったのでしょう、

「五島へ 五島へと皆ゆきたがる五島はやさしや土地までも」という唄も残っています。



最初の移住が、108人、その後、福江藩から千人の申し込みに対して、はっきりはしてい

ませんが、3千人が移住したと言われているそうです。(「五島・久賀島【ひさかじま】キリスト

教墓碑調査報告書 復活の島~五島・久賀島キリスト教墓碑調査団編・長崎文献社刊」よ

り)


以上のことはマンガには関係ありませんが、今日、又続きの3巻と4巻を買って来ました、

面白いので、多分9巻まで買うでしょう。主人公は、自分の書道にかなり、迷いを持っている

ようですが、どこで自分の壁を破るのか?多分、上の登場人物、五島の美しい自然との出

会いで、新境地を開いていくものとっています。


とにかく、明るく、面白いアニメーションになりそうですから、長崎の方は、長崎国際TV、7

月12日(土)10時からをお楽しみに。なお、ネットの「ガンガンONLIN」でも読めるそうです


(参考・文引用「五島・久賀島【ひさかじま】キリスト教墓碑調査報告書 復活の島~五島・

 久賀島キリスト教墓碑調査団編・長崎文献社刊」より)




2014年7月 1日 (火)

「梅雨三景」~2014 唐比ハス園・上井牟田溜池・ところ天屋さん

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日本三景といえば、「松島」「天橋立」「宮島」だそうで、行ったことはありません。興味は無

いし・・・・金はないし・・・・・一緒に行ってくれる、素敵な女性はいないし・・・・


沖縄は梅雨が明けたそうですが、こちらではまだまだ、といったところ。梅雨の晴れ間をぬ

って私の好きな、お近くの「三景」に行って見ました。


★唐比(からこ)ハス園(諫早市森山町唐比)

年々、見に来る方が多くなってきました。ハス園も、段々広がってきて、地元の方が手入れ

をして、お世話をしています。

今日は、平日にもかかわらず、意外と多くの方が・・・・高齢者の方ばかりかと思っていた

ら、若い方も結構来ていました。すごいカメラを持っている方も。腕は分かりませんが・・・・

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十三種類ほどのハスが植えてあるそうです。

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花の真ん中も、見れば不思議の世界。右は、花が散って、真ん中だけ残ったところ。あなた

も、早くしないと、散ってしまいますよ。少し凸になっているところが種になります。

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トンボさんも遊び来ていました。ここのお世話をしている、「唐比すいれんの会」のテント。メ

ロンを売っていました。試食をしたら、なかなかのお味。試食だけさせていただきました。

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なお、7月6日、10時から「唐比ハス祭り」があります。

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余計なことですが、ハスの花は大きいため、強い雨風には弱く、風雨があった次の日など

には、花が乱れていますから、特に写真を撮る方は、天気を見て、行かれた方が良いと思

います。


★上井牟田溜池のオブジェ(諫早市森山町上井牟田)

上井牟田の仲良しの方が集まって、考えて、四季折々楽しみながら、作っていいます。

時々、ご紹介していますが・・・

5月は、こどもの日で、兜だったのですが、今回は、梅雨時で、あじさい、長靴、傘。夏は何

ができるのか、楽しみです。

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★ところ天屋さん(雲仙市千々石町)

7月1日から9月30日までしか開店していません。毎年、開店の時と、閉店の時紹介してい

ます。

一週間ほど前から準備をしているようで、今日が開店日なので行って見たら、開いてなく

て、

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なんと、「都合により、今年は休業させて頂きます、誠に申し訳ございません」の貼り紙。何

か心配です。

このところ天屋さん、レトロな感じで、ところ天食べていると、時間が止まっている感じがし

て、一番お気に入りの所だったのですが、戸口が閉められていると、寂しい景色です。

仕方がないので、代わりに、二番目にお気に入りの「白くま」くんを買って来ました。

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