「砂原キリシタン墓碑」~南島原市加津佐町&「十字紋」について
数日前、有家町で講演会があり、帰りがけ時間が早かったので、海沿いの道を。
時々、気にはなっていたのですが、「砂原キリシタン墓碑」に寄ってみました。
看板の通り行くと、綺麗な松林と、砂浜。
その松林の中に、風化しないように覆いがあって、二つの墓碑が並べて置いてありました。
向かって左の墓碑は、風化して途中から割れていますが、右側の墓碑は、基壇の上に乗
せてあり、綺麗な花十字が彫りつけてあります。
いつもお世話になっている、「日本キリシタン墓碑総覧」を読んでみたら、、片岡弥吉氏によ
れば、「今日附近に共同墓地のあることから考ふるに、ここが往事のキリシタン墓地であっ
たと推測される」(片岡弥吉著「長崎縣下發見キリシタン墓碑總覧」昭和17年刊)としている
そうです。
実際、砂浜を(砂丘)をキリシタン墓地として選定している事例は、南島原市の須崎墓地(加
津佐町)、白浜墓地(口之津町)、古川墓地(南有馬町)、須川墓地(西有家町)があり、この
地も、キリシタン墓地が形成され、17世紀初期に、キリシタン専用墓地として、開発された
可能性が高いということです。
なお、右の墓碑については、正面小口(花十字がある面)は整形され、小口裏面、両面も正
面に比べ粗面であり、花十字が上方に刻まているところから、地中にわずかながら埋めら
れて配置された可能性が高く、この墓碑を置いている基壇は、建碑当時からのものではな
いと思われるそうです。
左の墓碑については、風化破損が激しく、判別しにくいそうですが、十字紋等確認できず、
又、石材の玄武岩質堆積岩も、他のキリシタン伏碑では使用されておらず、本碑をキリシタ
ン伏碑と断定できる資料がなく、県指定ではあるものの本稿(キリシタン総覧)では、類例
資料としてあげておく、と書いてあります。(「日本キリシタン墓碑総覧」より)
さて、十字紋の事を。いつものように長くなりますが、十字紋が刻んであるというと、すぐに
キリシタン、特に潜伏キリシタンに結びつける方が多いのですが、そう簡単なものではなさ
そうで、松田毅一著「キリシタン研究 第二部論攷第三章 キリシタン宗門と十字の記号」
に詳しく書いてあります。
多くの十字架の図が描いてありますが、最初に「十の字の記号は太古から世界各地に存
在しているので、その起源は明らかではない。十字は、生命、日輪、神聖等、種々の表徴と
もなり、蒸餅の異名ともなった。」と書いてあり、「蒸餅(じょうへいと十字」については、何だ
ろうと思っていたら、「とらや」のホームページに書いてありました。
「十字とは蒸餅のことで、饅頭の異名だと、江戸時代の図説百科事典『和漢三才図会」にあ
るそうで、「食べやすくするために、蒸した餅の上を十文字に切り裂いたからだといいま
す。」と書いてあるのでさっそく、「国立国会図書館デジタルコレクション」(これ、誰でも見
れます。)を見ると、饅頭の絵が描いてあって、その下に「饅頭」と書いてあり、その下に「十
字」と書いてありました。これ、キリシタンとは関係ナイデスね。
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
横道にそれましたが、松田氏が収集した十字紋です。全部載せきれないので、ほんの一部
を。
松田氏の説明によれば、左が「ヨーロッパ・キリスト教界の十字。
右が「キリシタン墓碑の十字。「砂原キリシタン墓碑」と同じ花十字が見られます。
「日本紋章の十字」
この中に、島津一門の紋がありますが、これについては、「十字紋は、島津氏に代表され
るものであるが、その意義については定説がない。島津氏の十字紋もキリスト教と関係が
あるという説があるが、その家紋は、フランシスコ・ザビエルの来朝以前からのものである
から、その点は否定される。十字紋を一種の呪符として用いる風習は、支那伝来のもの
で、日本では全国各地で古くからおこなわれている。十字符は、また太古から各民族のもと
で用いられ、世界普遍のものであり、その関係、性質を究め尽くすことは容易ではない。」と
松田毅一氏は述べられています。
こうしてみると、単なる十字紋があったからといって、簡単にキリシタンと関係ある、とはい
えないみたいですね。
(参考・文・写真引用:「日本キリシタン墓碑総覧」「キリシタン研究 第二部論攷編~松田毅
一著」「国立国会図書館デジタルライブラリー」「とらやホームページ」より)
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