長崎の石橋★古橋(中川橋)~長崎市 ②
昨日の続きですが、道が分からず、電車の停留所近くのファミマ近くから、直角に、横道に
入ったら、正面に「長崎街道」の看板で、「食違」の説明版。
「・・・・・・この辺りで突き当たりになって、ほぼ直角に道が曲がって、この下の道へと通じて
いました。以前はこのような道の形態から『食違』と呼ばれ、享和2年(1802)の古地図《肥
前長崎図》にも『クイチガイ』と記載されています。」と書いてあり、なるほど、右側は突き当
とくかく、道を行ったら、「遠山左衛門尉景普」の説明版。文化9年に第84代の長崎奉行。
遠山の金さん、遠山金四郎の父親です。ここら辺りに住んでいたのでしょうか?
また、歩いていると、地図と案内図を持った2人連れがウロウロしているので、ここが、古橋
(中川橋)ということが、すぐ分かりました。この橋は、鳴滝川に架かっています。
市の看板の英語の説明には、「Nakagawa Bridge」となっていますが、宮田安氏の「中島川
遠眼鏡」には「中川橋(古橋)」となっており、読み方は「なかごばし」で、「図志は中渓橋、港
草は中河橋、古今集覧は中渓(なかがわ)橋、名勝図絵は中川橋(なかがうはし)、長崎史
略は中川(なかご)橋と呼んでいる。」とあります。
なお、大正7年に、この橋の30m下流に新しい橋ができたため、新しい橋を中川橋と命名
し、こちらの橋が「古橋」と呼ばれるようになったそうです。ですからこちらの方が、正式な中
川橋なのでしょうが。
この橋は、1mばかり、かさ上げをしてあるそうで、親柱などそのままに埋め込んでありま
す。矢印は親柱。一番上の写真をみると、かさ上げされているのが分かると思います。
この橋を作ったのは、「林守壂(りんしゅでん)」。
昨日書いた「一の瀬橋」を架けたのが、「陳道隆」。次に書く「大門橋」を架けたのが、「高一
覧」。あと、この橋ができれば、長崎市内まで、川を渡ることなく、不自由しないで、出入りす
ることができます。
「林守壂(りんしゅでん)」は、陳道隆と同じ唐通事で、道隆が妻を亡くした翌年に「一の瀬
橋」を架け、守壂は母を亡くした翌年に「古橋(中川橋)」を架けています。ライバル同士の
意識と、亡き人への追善供養の気持ちもあったのではないかと、宮田安氏の「中島川遠眼
鏡」には書かれています。承応3年(1654)に完成。
さて、また歩いて行くと、
右へ曲がると、シーボルト邸跡、シーボルト記念館があります。ここら辺り、見るところが沢
山あるんですが、今日のところは、パス。
桜馬場中学校、古くからこの地方を支配した、「長崎甚左衛門純景居館跡」。甚左衛門が
去った後、森田彦右衛門が長崎村の初代庄屋となります。
もと、長崎県尋常師範学校。もちろん、庄屋の跡地です。
「長崎四国八十八ヶ所霊場 85番桜馬場観音。綺麗にしてますね。
関係無いけど、可愛い置物だったので・・・・
桜馬場天満神社の二の鳥居。隣のビルとの関係が微妙。
天満宮は菅原道真公が祀ってあり、牛との伝承が多く伝わっているらしく、道真公が牛を可
愛がり、牛が天満宮をお守りしているとか。
頭部を撫でれば、知恵がつくという信仰があると、書いてあったので、もちろん、撫でて来ま
した。悪知恵がつかなければ良いのですが・・・・暑い日だったので、「牛も冷やしてやらに
ゃ」という事で、水かけの最中でした。
どんどん歩いて行くと、やっと新大工町の商店街。数年ぶりだったので、あちらこちらブラブ
ラと、ここを抜けると、いよいよ長崎の入り口、大手門橋になります。
参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝
図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、各説明版より」)
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