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2014年6月

2014年6月30日 (月)

長崎の石橋★阿弥陀橋~長崎市 ⑤ 最終回

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阿弥陀橋(あみだばし)です。

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元禄三年に園山善爾が、私費で架けたと長崎図志・港草・古今集覧・長崎略史にあるそう

です。純粋の日本人町人の寄附で、初めて架けられた橋です。

園山善爾は、生まれは和泉。長崎へ来て、唐人と商売、貿易をして、大成功したそうです。


昔、市内引き回しの死刑囚が必ず渡らなければなかった石橋で、囚人達が来世は、極楽

に生まれ変わるようにという説。昔、この附近にあった囚獄を、桜町に移したという記録が

あるそうで、処刑された人を始末するところがあったらしいと云われている説もあります。


「中島川遠眼鏡」の宮田氏によれば、「近年、罪人ひきまわしうんぬんと説く人もいるが、手

元の資料には見当たらない。」とあります。

橋の側に阿弥陀像を造ったので、極楽橋とも呼ばれたそうです。


この橋は、昭和57年の長崎大洪水後、河川改修に伴って解体され、石材を保管し、移転

されています。

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橋の横には、八幡町阿弥陀堂(長崎四国八十八カ所霊場 第64番霊場)があります。宮田

氏の本によれば、「近年になって左岸下流側にお堂が造られまつられている。」と書いてあ

りますが(著書は52年発行)、現地に行ってみたら、下流ではなく、上流にありました。ひょ

っとしたら、洪水前は、この橋は、本来もう少し上流にあったのでは?


昔の、阿弥陀橋です。

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       (「ふるさとの思い出 写真集 長崎」から)


一応、見て回る予定が終わったので、川沿いに歩いて行ったら、草むらに、何かあったの

で、覗いて見たら、カッパさんでした。座禅をするカッパさんは、初めて見ました。

「中島川 河童洞 水神社 八天坊」と書いてありました。

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川沿いに、車を停めているガレージに戻っていると。又何か。と思ったら、上野彦馬の日本

最初の営業写真館の跡で、説明版には「この地に接する道路を隔てた北側の地に撮影局

を設置した。」とあります。私、もっと下流の方かと思っていたのですが・・・勉強不足でした。

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上野彦馬は、坂本龍馬、高杉晋作、グラバー等も、この写真局で写真を撮っています。私も

坂本龍馬の格好をして、パチリと一枚。ではなく、当時の露出時間は約十秒で、息を止めて

写してもらいましたが、現像が遅く、まだ手元には届いていません。

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今回は、皆さんがあまり回らない、石橋を紹介しましたが、中川沿いには、まだまだ、大井

手橋、編笠橋、古橋町、一覧橋、芉原(すすきはら)橋、東新橋、魚市橋、眼鏡橋、袋橋、常

磐橋等あり、一つ一つに歴史があり、面白いのですが、また、機会があったら、ご紹介しま

す。

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     (「九州の石橋をたずねて~矢口裕造著」より」)

今回は、写真を撮りながらブラブラ歩いて行ったので、2~3時間ほどかかりましたが、史

跡は、車とか、観光バスで回っても、見ただけに終わりますネ。

やはり、きちんと調べて、足で歩いて見て歩くのが、一番良いですネ。最も、私も歳なので、

車で回ることが多く、今回は反省をし、勉強させていただきました  。


参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック」

「長崎事典」各説明版より)




2014年6月28日 (土)

長崎の石橋★桃溪橋(ももたにばし)・高麗橋~長崎市 ④

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        (「長崎事典・歴史編~長崎文献社刊」より)

忘れていました、上の写真は、昨夜紹介した、大手橋の昔の写真。明治時代の風景だそう

ですが、昨日の現代の写真と比べてみて下さい。昔の面影は全くありません。


さて、下の写真が、本日紹介する桃溪橋。大手橋、鎮西橋の下流にあります。

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横から見たところ。

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この橋については「九州の石橋をたずねて」に、「この橋は狂僧『卜意』が架けたもので、

別名『卜意橋』とも云う。人は狂僧と云うが、それ程彼を突き詰め必死にさせたものはなに

だろう。僧侶としての何か大きな誤ちがなかったろうか。ここに卜意の妄念と云おうか強い

執念を感ずるのである。」という事で、附近の人は川に挟まれ、不便であるので橋を架け

ることを決心し、浄財を求め回ったそうです。


宮本安氏「中島川遠眼鏡」では、「狂僧」に関し、橋の左手の撞巻石の中に


長崎僧卜意募    長崎僧と彫る 狂僧ではない

十万之諸檀越

建造石橋済津

功徳無量矣

   旹         旹は時

延宝柒歳次己未   柒は七

  仲冬吉旦書    仲冬は十一月


とあるそうで、長崎僧であって、狂僧ではない。と書かれてあります。

「これを長崎図志が橋銘に狂僧卜意うんぬんと書いてあるとしたのに続いて、港草も橋銘

に狂僧と書くとし、名勝図絵も橋銘に狂僧としてある。この三者ともに狂僧うんぬんと彫って

あると書いているので、現地調査をしないで本の転写をかさねていったとみるほかはな

い。」とあり、ここらあたり、ネットの情報を調べないで、転記しているのと一緒ですね。私も

よくやりますが・・・・


続いて、「若し假りに狂僧と彫ってあったとしても、本当の気ちがいにしなくてもいい。狂者

には風雅の意味もあるように辞書は書くし、むかし花月(注:長崎の有名料亭)の名物であ

った頼山陽の屏風はその末尾に『山陽狂客』と山陽自身が書いていた。」とあります。


さて、この橋は「長崎図志がすでに桃溪橋または卜意橋の名をあげ、港草も同様、古今集

覧は卜意橋と名勝図絵は桃溪橋(もものきかわはし)または卜意橋とする。西道仙は桃溪

橋と名付けたと書く。」とあります。


この橋は二つの川が合流する附近ありますが、川へ下って見ると、左の川に見えるのが桃

溪橋。この上流に、鎮西橋、大手橋があります。右手の川に、次に紹介する高麗橋、阿弥

陀橋があります。回れ右をすると、眼鏡橋方向の石橋群。


右と左、手入れが違いますね。一の瀬橋、古橋(中川橋)、大手橋も歴史的に重要な橋な

のですから、少しは目をむけて欲しいものです。

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明治後期の写真です。この川沿いの橋は、何回か洪水に見舞われ、壊れますが、この橋

は壊れたことがないそうですが、寛政七年の大洪水で少し破損したことが港草の記事に見

えるそうです。


なお、山口氏によれば、下流側の勾欄は昔のままで、上流側の勾欄は何回も修理した跡

があるそうです(昭和五十年現在)。延宝七年(1679)に完成。


写真は明治後期の桃溪橋。

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          (「長崎事典・歴史編~長崎事典」より

 


高麗橋

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横から見たところと、川沿の手すり、コンクリー製みたいですから、新しいものでしょうが、な

かなか風情があります。

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承応元年(1652)に架設。宮田氏によれば、図志、志稿、名勝図絵に明人平江府等建と、

記事がなっているそうで、平江府が架けたように感じますが、「平江府」は中国の蘇州であ

るらしく、興福寺の檀徒である蘇州府の人達の寄附で造られたものとも考えられるそうで

す。


宮本氏によれば、「異説としては、市中明細帳の伊勢の神主が惣町勧化(長崎の全部の町

の寄附)もって架けたとか、長崎市史の陸手(くがて)二十八町の乙名(世襲の町内会長)

の寄附で架けたとかの説がある。」また、古賀十二郞の長崎名勝古蹟誌には、石欄に「承

応元年十一月二十一日、嶋千太夫、嶋讃岐 が寄進奉る」と書いてあったそうですが、現

在では残っていないそうです。


慶応二年四月(1866)麹屋町の池島正助が私費で架け替え、大正四年に(1915)斜め

にコンクリーで橋面を増設したそうです。


なお、昭和五十七年の長崎大水害で被害は免れたそうですが、河川改修工事に伴い、平

成五年に西山ダム下に移築復元されているそうです。


長崎くんちの時、傘鉾が高麗橋を渡っているところ。撮影は上野彦馬だそうです。この近く

に、上野彦馬の撮影局と居住地跡があります。


青の矢印が笠鉾。赤の矢印が、橋の擬宝珠ですが、擬宝珠は、大事な橋にしか使わなか

ったと言うことで、眼鏡橋、袋町橋、大手橋、高麗橋だけにしかなかったそうです。


写真手前に写っている造作物は、何なのか、よく分かりません。木橋のような感じもするの

ですが・・・・


阿弥陀橋にも擬宝珠はありますが、これは後で付けたものみたいな感じがします。高麗橋

の方も、作り替えていますから、こちらの方も・・・・・

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      (「ふるさとの思い出 写真集 長崎」より)


参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック」

「長崎事典」各説明版より)



2014年6月27日 (金)

長崎の石橋★大手橋~長崎市 ③

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(「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック~総監修 越中哲也・原田博二・(財)長崎地

 域政策研修所・長崎商工会議所刊」より)  


長崎市内に住んでない方には、なかなか分かりにくいと思いますが、丁度良い本があった

ので・・・・表紙裏の「長崎版画『享和二年肥州長崎図』(1802)」の地図の一部です。


青色の線が長崎街道。下の赤丸印より、「一の瀬橋」。真ん中の赤丸印が「古橋(中川

橋)、一番上が今日ご紹介する「大手橋」になります。


こうして見ると、長崎市内までの出入りには、3つの橋が、重要な役割を持っていることが

分かります。


今日は、黒の矢印間、新大工町商店街を紹介しながら、大手橋まで。


赤の矢印が「眼鏡橋」です。多分。この辺りの橋は皆さん、観光に行かれると思いますの

で、あと、黒丸印の上から「桃渓(ももたに)橋」「高麗橋」「阿弥陀橋」。こちらまでは足を伸

ばさないと思いますので、次回に紹介します。


さて、大手橋に向かう新大工町商店街。何年かぶりに行ったら、そのままの所、変わったと

ころいろいろありまして・・・・・・ここは、以外と賑わいがある所で、もちろん長崎街道です。

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こちらは、一階がいろんな店が入っている、新大工町市場で、二階から上は、デパートの

玉屋でしたが、一階はいつも、買い物客が多いのですが、デパートはお客さんが少なく、

先日、閉店しました。

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あと、近くに、二つほど市場があります。

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左が、昔は長崎で一番大きかった本屋「好文堂」の支店があったところ。病院に変わってい

ました。建物の形は変わっていないので、内部だけ改装したのかな?

右は、「トルコライス」で有名な「ツル茶ん(つるちゃん)」の支店があったところ。

「ツル茶ん」については、「トルコライス マニアックス」をご覧下さい。

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お菓子屋さんのウィンドーに「長崎街道への入り口」として、「舞鶴座」の説明が。

なんと、右の写真あたりになるそうですが、明治23年、開設された劇場だそうで、横の旧玉

屋デパートから、表通りの電気軌道を越えるほどの大きさで、敷地約1700坪、建坪600

坪、総檜造り、吊り天井、せり上げがあり、収容人数3,800名(当時の歌舞伎座が、建坪

457坪、収容人数約2,000名)。長崎にも凄い劇場もあったんですね。

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お酢屋さんです。お酢を造っています。左ののれんは、パチンコ景品交換所。

覗いたら、懐かしい電話機がありました。もっと古いのは、右の方にハンドルがあって、交

換手さんを呼び出していましたが・・・・

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もう少し行くと、大手橋です。もはや、石橋の面影もありません。

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横から見て、やっとアーチ橋だということが、分かります。むこうに見えるのは、鎮西橋。


この橋は、長崎への出入り口として、重要な橋なのですが、手すりにしても、もっと情緒が

あるようにできなかったのでしょうか?


親柱が、近くにあるというので、捜しましたが、分かりませんでした。「おふて橋」と刻んであ

るそうです。


宮田氏の「中島川遠眼鏡」によれば、この大手橋の擬宝珠親柱一本を眼鏡橋に補充活用

したという事が、長崎談叢第二十三輯に載っているそうです。なお、橋は、中島川支流の堂

門川(西山川)にかかっていたので、堂門橋と呼ばれていたそうです。


昔は、石橋でなく、壮麗な木廊橋が架かっていたそうですが、痛んで、竹橋になっていたそ

うです。これを、唐通事の高一覧が石橋として、慶安三年、完成させたそうです。


高一覧は、、山口氏によれば、生まれは薩州、父は「鎌田新右衛門」。幼い頃中国人の養

子となり、養父の福建省に渡り、後日本に戻り、通事になったとあり、宮田氏によれば、高

一覧は福建漳府の人、高寿覚の子で、高寿覚は鹿児島に渡来し、一覧は鹿児島県の川

内で生まれたとなっています。唐通事は不便なので、各々日本名を持っていたそうで、どう

なんでしょう?


なお、「大手」については、宮田氏は、長崎から江戸に向かう街道の重要地点なので、長崎

の大手に当たるという意味と思われる。とあり、山口氏によれば、この辺りは、「諏訪神社」

長崎の領主「長崎甚左衛門」の屋敷を始め、昔の古い町が片渕や中川付近にあったので、

その入り口には大手門があったのであろう、と書かれています。


なお、大手橋に平行するように「鎮西橋」があり、昭和9年の築造。電車軌道が走って、長

崎市内から郊外に行く大動脈の一つです。電車の停留所がある所が橋です。

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横から見ると、アーチ橋という事が分かります。

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参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、「長崎歴史文化観光検定公式テキストブック」

各説明版より」)








2014年6月26日 (木)

長崎の石橋★古橋(中川橋)~長崎市 ②

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昨日の続きですが、道が分からず、電車の停留所近くのファミマ近くから、直角に、横道に

入ったら、正面に「長崎街道」の看板で、「食違」の説明版。


「・・・・・・この辺りで突き当たりになって、ほぼ直角に道が曲がって、この下の道へと通じて

いました。以前はこのような道の形態から『食違』と呼ばれ、享和2年(1802)の古地図《肥

前長崎図》にも『クイチガイ』と記載されています。」と書いてあり、なるほど、右側は突き当

たり、左にしか道はありません。

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とくかく、道を行ったら、「遠山左衛門尉景普」の説明版。文化9年に第84代の長崎奉行。

遠山の金さん、遠山金四郎の父親です。ここら辺りに住んでいたのでしょうか?

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また、歩いていると、地図と案内図を持った2人連れがウロウロしているので、ここが、古橋

(中川橋)ということが、すぐ分かりました。この橋は、鳴滝川に架かっています。


市の看板の英語の説明には、「Nakagawa Bridge」となっていますが、宮田安氏の「中島川

遠眼鏡」には「中川橋(古橋)」となっており、読み方は「なかごばし」で、「図志は中渓橋、港

草は中河橋、古今集覧は中渓(なかがわ)橋、名勝図絵は中川橋(なかがうはし)、長崎史

略は中川(なかご)橋と呼んでいる。」とあります。

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なお、大正7年に、この橋の30m下流に新しい橋ができたため、新しい橋を中川橋と命名

し、こちらの橋が「古橋」と呼ばれるようになったそうです。ですからこちらの方が、正式な中

川橋なのでしょうが。

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この橋は、1mばかり、かさ上げをしてあるそうで、親柱などそのままに埋め込んでありま

す。矢印は親柱。一番上の写真をみると、かさ上げされているのが分かると思います。

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この橋を作ったのは、「林守壂(りんしゅでん)」。

昨日書いた「一の瀬橋」を架けたのが、「陳道隆」。次に書く「大門橋」を架けたのが、「高一

覧」。あと、この橋ができれば、長崎市内まで、川を渡ることなく、不自由しないで、出入りす

ることができます。


「林守壂(りんしゅでん)」は、陳道隆と同じ唐通事で、道隆が妻を亡くした翌年に「一の瀬

橋」を架け、守壂は母を亡くした翌年に「古橋(中川橋)」を架けています。ライバル同士の

意識と、亡き人への追善供養の気持ちもあったのではないかと、宮田安氏の「中島川遠眼

鏡」には書かれています。承応3年(1654)に完成。


さて、また歩いて行くと、

右へ曲がると、シーボルト邸跡、シーボルト記念館があります。ここら辺り、見るところが沢

山あるんですが、今日のところは、パス。

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桜馬場中学校、古くからこの地方を支配した、「長崎甚左衛門純景居館跡」。甚左衛門が

去った後、森田彦右衛門が長崎村の初代庄屋となります。

もと、長崎県尋常師範学校。もちろん、庄屋の跡地です。

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「長崎四国八十八ヶ所霊場 85番桜馬場観音。綺麗にしてますね。

関係無いけど、可愛い置物だったので・・・・

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桜馬場天満神社の二の鳥居。隣のビルとの関係が微妙。

天満宮は菅原道真公が祀ってあり、牛との伝承が多く伝わっているらしく、道真公が牛を可

愛がり、牛が天満宮をお守りしているとか。


頭部を撫でれば、知恵がつくという信仰があると、書いてあったので、もちろん、撫でて来ま

した。悪知恵がつかなければ良いのですが・・・・暑い日だったので、「牛も冷やしてやらに

ゃ」という事で、水かけの最中でした。

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どんどん歩いて行くと、やっと新大工町の商店街。数年ぶりだったので、あちらこちらブラブ

ラと、ここを抜けると、いよいよ長崎の入り口、大手門橋になります。

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参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、各説明版より」)






2014年6月25日 (水)

長崎の石橋★一の瀬橋~長崎市 ① 

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先日、「石橋をつくるの図」を書きましたが、これを書くについては、何冊かの本を読んでみ

ましたが、読んでみると、なかなか面白く、橋の一つ一つにも物語あると思いました。

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私、生まれも育ちも(19歳まで)長崎市内だったのですが、もう少し勉強しようと、長崎街道

にある石橋を歩いてみました。


観光客の方は、ほとんど眼鏡橋付近の石橋群を見るだけなので、観光客のあまり行かな

い、橋を紹介したいと思います。


「中川遠眼鏡」の著者、宮田安氏は、石橋の歴史に関し下記のように書いています。


長崎のアーチ石橋の歴史を簡単に述べると次の三つのパターンに分けられる

一 中国人の寄附で架けられはじめた。

二 日本人の寄附がつづいた。

三 洪水で落ちた時は公費によって掛け替えられた。


なお、「九州の石橋をたずねて」の、山口祐造氏は、熊本の古文書より、「この古文書で分

かったように、アーチの技術を初めて習得したのは『末次一族』であり、彼は一家の秘伝と

して誰にも教えなかった。

と書いておられ、御両人、他にも色々書かれておりますが、これを書くと長くなるので、省略

して・・・・・・長崎に入るときは、普通長崎街道を使いますが、日見峠を通ります。

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(「長崎古今集覧名勝図絵 越中哲也注解」より)

急坂を登って、下ると、一の瀬川に行く手をさえぎられます。


話が少し変わりますが、大正13年、この峠に日見トンネルができ、長崎への自動車の乗り

入れが楽になります。

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左の写真は、「故郷の思い出写真集 長崎~越中哲也・白石和夫共編」より、おかげで、今

は右の写真のように、交通量が多くなりました。ただ、日見トンネルは、別にバイパスができ

たため、あまり使われなくなりました。


さて、私、この道が長崎街道と思っていたら、大違い。右の写真の、右手の裏の方が長崎

街道でした。


さて、話を元に戻して、一の瀬川に橋が架けられますが、これは、「九州の石橋をたずね

て」によれば、橋を架けたのは、中国出身で唐通事の「陳道隆」、別名「穎川藤左衛門」。


同唐通事仲間の、高一覧が「大手橋(後で説明します)」を架け、住民も喜んでいるのを見

て、自分も橋を架けようとという事で、みんなが難儀しているのを救うため、この橋を架けた

そうです。承応2年(1653)に架けられています。


なお、ここ一体は、昔は蛍の名所で、料亭があり、蛍茶屋と呼ばれています。

場所が、最初はわからず・・・・電車の終点、蛍茶屋の車庫の裏側でした。

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市指定で、重要な橋なのに、こんな感じで良いんですかね?

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欄干です。四角の所。ローマ字が刻んであります。「ICHINOSEBASHI」。これは、明治20年

頃刻まれたものだそうです。

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近くに、「蛍茶屋」という標柱があるという事で捜したのですが、分かりませんでした、代わり

に昔の写真など・・・向かって右が料亭「蛍茶屋」だそうです。


欄干について、宮田氏は、「コンクリートで根巻工事が施されて景観を損じているが、崩落

の記録はなく、旧態を残していて、貴重なものである。」と書いておられます。

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      (「長崎県事典 歴史編~長崎文献社編」より)

さて、ここから次の中川橋(古橋)まで、どう行くのか、道が分からず、とりあえず大通りに出

て、ファミマの所から、裏通りに入る道があったので、行ってみたら、ビンゴでした。

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なお、この橋は、勝海舟、坂本龍馬、また、蘭学を志した者等が渡った橋です。


(参考・文引用:「中島川遠眼鏡」「九州の石橋を訪ねて」「長崎事典」「長崎古今集覧名勝

図絵」「ふるさとの思い出 写真集 長崎」、各説明版より」)

2014年6月24日 (火)

トルコで私も考えた:高橋由佳里著~割礼について 其の二

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皮なしポークウインナー。食べてみると、なにか、ぼそっとして、あのプリッとした、皮の歯ご

たえがありません。


今日は、皮といっても、「オチンチン」の皮の話です。真面目な話なので、「オ○○○ン」など

と書きません、堂々と、「オチンチン」。


さて、「割礼」といっても、知らない方もおられると思いますが、「(ユダヤ教で)男子の陰茎

の包皮を切り取る儀式」(新明解 国語辞典より)。と書いてありますが、ユダヤ教に限らず

イスラム教、又、成人の通過儀式、衛生上の問題から、各地でおこなわれています。


大きく考えれば、包茎手術の一種になりますが「包茎手術」は個人の意思によりますが、こ

の「割礼」は、そこに住んでいる集団、関係団体の規律、儀式によるもので、強制的な面が

あります。


女性に対する割礼もありますが、これは、健康上の問題、残酷だということで、毎年2月6

日が「世界女性器切除根絶の日」ということで、国連が後援する国際デーの一つです。


「トルコで私も考えた」の作者は、トルコ人が夫で、トルコに在住し、息子がおりますから、当

然の事、子どもは「割礼」、トルコでは「スンネット」を受けることになります(以下「スンネット」

で書きます)。


作者は、後書きで、「この巻の山場は『スンネット(割礼)』だとよく言われています。私も書き

ながらとても力が入りました。漫画で割礼の儀式を描くのは、おそらく日本で自分が初めて

だろうと思う(本当でしょうか?)ドキドキして気分が高揚しました。」と書いています。

が、漫画の方は明るく

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この漫画には、「割礼とは、男の子が小さいうちに、ペニスの先(包皮)を切って、将来病気

になるのを予防するためのイスラム教の習慣で、だいたい生後から12歳ぐらいまでの間に

しなくてはいけないらしい」とあります。


今では、病院でやっているみたいですが、旦那さんによれば、「オレの頃はスンネット屋が

カバン一つで家にやってきて、麻酔もなく3人兄弟まとめて、ちょんちょーんと・・・」という事

らしかったです。


義理の姉(トルコ人)によれば、息子がスンネットをするとき、一月がかりでお祝いをしたそう

で、要約すれば、


①息子たちにスネットの衣装を(上の漫画の絵)着せて親戚の家を一軒づつ訪問。

②後日、親族一同、車を連ねてチャーミ(寺院)詣で。

③帰りに写真館で記念写真。

④後日、結婚式と同じ会場にて、お祝いパーティ。

⑤後日、病院にて手術

⑥術後一週間、スンネット用に飾り付けたベッドで養生。


ということで、息子さんも無事、スンネットが終了したそうで、「どういうことをしたのかを、日

本の家族の人たちに見てもらうために」ビデオまで撮ったそうです。


作者の息子さんは、スンネットをするのを、すんなり受け入れ、親戚一同集まって、ハデな

パーティーをおこなって、手術をしたそうですが、麻酔が切れてから、3日ばかり苦しんだ

そうです。


なお、包茎手術は、性感染症、エイズに対して、感染率が少ないという話もあります。

また、遅漏になるとか、あそこが大きくなるという話もあるようですが、経験者の女性によれ

ば、関係ないそうです。

あなたも、試しにやってみますか?ジッパーに皮を挟んだだけで、あんなに痛いのに・・・


なお、中国の宦官は、棒も玉も全部取ってしまいますが、この様子は、浅田次郎の「蒼穹の

昴」に書いてあります。もちろん、昔ですから、病院などはなく、麻酔薬代わりにアヘンを使

ってたそうで、命を亡くした人も少なくなかったそうです。


「割礼」については、ネットで画像がでていますが、見ない方が良いですね。具合悪くなりま

した。日本に生まれて良かった、というのが実感です。    (この項終了)


【おまけ】

どういうわけか、庭にコスモスの花が一輪。私と一緒で、少しボケたのかな?

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 (参考・文引用:「トルコで私も考えた」、ウィキペディア等より)





2014年6月23日 (月)

トルコで私も考えた:高橋由佳里著~トルコライスについて 其の一

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この本、買う予定ではなかったのですが、裏を見ると、

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赤の下線。「トルコライスはトルコにはない!?」。トルコライスは、ちゃんぽん、皿うどんと

並ぶ長崎の名物料理。ピラフにトンカツとスパゲティを、一皿に盛ったもの。これが、基本形

で、あとは店によってバリエーションがあります。


本は、ピニールで包まれていて、これでは長崎県人としては、買わないわけにもいかず。

「トルコライスはトルコにはない!?」。これは、既に知られていることですが、一時、新聞に

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この記事が載って、長崎としては、多少パニックになりましたが、「心づくし」さんのブログ

正しい休日の過ごし方」。その中で、紹介されている、ブログの「やまけんの出張食い倒

れ日記」を読むと、新聞が騒ぐほどの事もなく、新聞の一人相撲というとことで・・・


なお、心づくしさんのブログの「トルコライスの名の由来」に「長崎町人誌に」には、次のよう

に書いてあるそうで、私も確認をしましたが


昭和20年代の後半に、長崎万屋町角にあったレストラン・マルゼンのコック長が創製者と 

いう」とあり「スパゲッティ、炒飯、サラダの上にシシカバブが乗せてあったがその後、トンカ

ツがシシカバブに代って作られている」とあり、シシカバブはトルコ料理のひとつですから、

これは納得。さすが「心づくし」さん。


「トルコで私もかんがえた」には、

「私に考えられるのは、トルコの『シシケバブ・プレート』に似ているので、昔、長崎出身の人

がトルコに行って見たか食べたかしたシシケバ・ブレートが脳裏に焼けついて、それを身近

な料理で真似てみた説。または、東西ごちゃまぜのイメージから深く考えずに『トルコ』とつ

けた説」と書いてあります。


さて、「心ずくしさん」のブログに「T.斎藤さんの『土耳古めし』の記事」とあるので、調べてみ

たら、「知識の金曜日 福沢諭吉のトルコライス」ということで載っており、


「福澤諭吉が創刊した新聞「時事新報」に、『何にしようね』という料理コーナーが連載され

ていた。そこに、土耳古プレートの元になった『土耳古めし』のレシピが掲載されていたとい

う。日付は明治26年10月21日。」

土耳古めし
先づ鶏か牛肉にてソップを取り置き此ソップにあっさり鹽味(しほあぢ)を附け之を水に代用して飯を焚く可し、飯の焚ける前、別に鍋を掛け置きてバタをぢりぢりと底一面に煎り散らし、焚けると直ぐに飯を其中に入れて充分に掻廻はしバタのまんべんなく廻りたるを見て之を御鉢に移す可しバタ餘り多ければしつこき故其所らが手加減の肝要なる所なり少し鹽味を含む上に其味ひ云ふばかりなければ別におカヅが入らぬ程にて香の物か前號鳥めしに用ひしかけつゆ位にて事足るべし

 
(「知識の金曜日 福沢諭吉のトルコライス」より転記)


今で言う、ピラフの事だと思いますが・・・・・このブログの中に「また、明治時代の小説『食道

楽』(村井弦斎)にも土耳古めしの記述があるという。」ということで調べてみたら、ネットの

青空文庫にありました。「秋の部」の個所。


「第 二四八 ぺラオ飯」の所。「イイエ、パンは出しません。その代わり第五番目に手軽な

土耳古(とるこ)飯即ちペラオというお料理を出しましょう。それは米を二合先ずバターでよく

いためて、いまのプリスケを湯煮た汁がありますからその汁三合へ塩で味をつけて今のお

米と人参や玉葱の小さく刻んだのと一緒に入れてご飯のように炊きます。別に例の通りバ

ターでメリケン粉をいためてよく焦がして湯を少し注しますが万年スープならなお上等です。

それへ塩胡椒で味をつけてソースにして今のご飯へかけて食べますとなかなかけっこうで

す・・・・・・・」とあり、なお、「付録」の「西洋料理の部」にも


「第一 ペラオ飯」として

「第一 ペラオ飯 と申すは土耳古風の極くお手軽なお料理で我邦の上中流社会にもこの

頃大層流行します・・・・・・」

「第十 土耳古飯(とるこめし)」として、

「第十 土耳古飯 と申す料理には色々ありますがその手軽なものは前の通りにお米一合

をバターで入り付けた中へ牛肉四十目位を肉挽器械で挽くかあるは包丁で細かく叩いて加

えまして肉の色が変わるまで掻き混ぜながらよくいためます。それを深い鍋へ移してスープ

三合をさして塩胡椒で味をつけて煮ます。これには赤茄子ソースをかけると結構です。」と

書いてあり、現代のピラフとほぼ一緒の作り方です。


「我邦の上中流社会にもこの頃大層流行します・・・・・・」と書いてあることから推察すると、

「土耳古飯」というのは、かなり、知られた名前みたいですが、福沢諭吉の方は明治二六

年。「食道楽」は、初出が「報知新聞」で、明治三六年一月~十二月です。


トルコライスは、「土耳古飯」に誰かが、トンカツとスパゲティなどを加えて「トルコライス」と

言ったんではないでしょうか?しかし、他の所にも、少しあるみたいですが、「トルコライス」

のメニューが長崎だけ、なぜ多いのでしょう?


私は、あくまで以前書いた、「ソープランド」説をとりたいのですが・・・・こちらの方が、人間

の生活感があり、夢があるから。


ところで、新聞では、イスラム圏のトルコでは豚肉は食べない、と書いてありますが、なぜな

のか?ヒンドゥー教では、牛を聖なる動物みなし、食用にしませんが、イスラム教では、豚

を神聖な動物と聞いたこともなく、と思っていたら、この本に下のように書いてありました。


「イスラムでは豚は雑食で、他の動物の動物の肉やウンコまで食べるから、体内に細菌が

いて、それが人の健康に良くないと教えられているのだよ。だから豚は食べない。」

他に「コーラン」の教義とも関係があるようですが・・・・


余談ですが、NHKの「ごちそうさん」の、「脚本家×プロデューサースペシャル対談」で、岡

本幸江チーフ・プロデューサーはこう述べています。


「注目というか、他のキャストとは違う発想から生まれたキャラクターはいますね。一人は

『食道楽』の作者・村井弦斎さんにオマージをささげて誕生した、山中宗さんが演じる井村

幸斎。・・・・・・」


さて、この「トルコで私も考えた」、作者も後書きで言うように、山場は「オチンチン」に関する

ことです。


次回は「オチンチン」の話。お楽しみに、といっても、あなたや、あなたの御主人の、むくつけ

き「オチンチン」の事ではありませんから、御心配なく。


(参考・文引用:「トルコで私も考えた~高橋由佳里」「食道楽 秋の部~村井弦斎」「長崎町

人誌 第四巻 食の部Ⅱ~長崎文献社」。ブログ「正しい休日の過ごし方」「知識の金曜日」

「やまけんの出張食い倒れ日記」)





2014年6月21日 (土)

今日は、サツマイモ植え

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女性の好きな、サツマイモさんです。


井原西鶴の一節に「とかく女の好むもの 芝居 浄瑠璃 芋蛸南瓜(なんきん)」とあるそう

で、関西地方の女性が、好むものらしいのですが。


サツマイモは、薩摩藩から持ち出し禁止の時代があったらしく、ウィキペディアによれば、

「1711年、薩摩を訪れた下見吉十郎が薩摩藩領からの持ち出しが禁止とされていたサツ

マイモを持ちだし、故郷の伊予国瀬戸内海の大三島での栽培を開始した。」と書いてありま

す。


長崎県対馬にも同じような話があり、対馬は耕作地が少なく、土地がやせており、食糧不

足のところがあり、上県町(現対馬市上県町)久原の原田三郎右衛門が、命がけで薩摩に

入り、種芋を持ち帰っています。40年ばかり前、ご子孫の方とお話をしたことがあります。


さて、この間、晩生のタマネギを収穫したので、少し土地が空き、「芋でも植えんね」という、

御領主様(カミサン)のお言葉。


カミサンは千々石育ちで、小さい時から、サツマイモばかり食べていて、兄弟集まれば、そ

の話を良く聞いていたので、「食い飽きてるから、いいだろう」と、反抗したかったが、抵抗し

ても無駄だから、「へい、へい」。


ということで、サツマイモの種類、いろいろあれど、紅あずまが人気があり、いつもの八重種

さんへ行ったら、売り切れ。「新品種でなんとか(なんとか、という名前ではなく、私が名前を

忘れたもの)が、人気ありますよ。紅あずまは、明日、又入荷します。」ということで、なんと

かを10株買って、次の日に、紅あずまを20株購入。


右がなんとか10株、左が紅あずま20株。

実は、私、中途半端な都会に育ったので、サツマイモは、ジャガイモとかサトイモと同じよう

に、種イモ自体を植えるのかと思っていたら、なんと、このツル(茎)を植えるんですネ。始

めての時は、ほんまかいナ、と思いましたが。

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ここ数日、雨が降っていたので、本来なら、管理機で耕した方が良いのですが、地面がジュ

ルケて(じゅくじゅくになっている)ので使えず、スコップと、鍬で耕作。サツマイモ専門の肥

料が売ってあったので、それをばらまいて、畝立て。本当は、もう少し深く畝を立てたいので

すが、なにしろ、「色男、金と力は無かりけり」で・・・・・


始めて、植えたときは、間隔を取りすぎて、プロのおばさんが通りかかって、「あら、もったい

なか、こげん間ば取って。」といわれましたが、今日は少し詰め過ぎたか?

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ツルの植え方にもいろいろあって、大きい芋を育てかったら、垂直気味に、たくさん取りたか

ったら、水平か、舟形に。葉は地面から出して。私は、舟形に植えました。

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これで、一時間程度の作業でしたが、プロの目から見たら、作業には入りませんネ。本当に

プロの作業は見ていてすごいもんです。おかげで、食料には困らないことを感謝です。輸入

野菜も多くありますが、やはり、メイドインジャパンが一番ですね。できれば、自分が作った

ものが・・・・・


【おまけ】

雨の中、庭のユリが、奇麗に咲いていました。雨にぬれるユリも、楚々として良いもんです

ね。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」。昔はウチのカミサンも、そんな感じで

したが、今では、見る影もありません・・・・

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2014年6月20日 (金)

TV局がやってきた

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TV局といっても、NHKとか、TBSとかではなく、地元ケーブルテレビ「ひまわりテレビ」さ

ん。地域密着のテレビです。

上の女性は、うちのカミサンではなく、インタビュアの方。カミサンより美人ですね。

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できたばかりの時は、流す番組が少なく、学校の運動会などを、最初から最後まで、取りっ

ぱなしで放送を流していただけでした。


最近は、番組の工夫が著しく、この間は、地質学者の村井先生を講師に、ジオパークの説

明シリーズをやっていて、見ていたら、島原半島の成り立ちが分かり、良い番組でした。


さて、ウチに、ひまわりテレビさんがやって来たのは、故障の修理、ではなく、取材。「ステキ

な趣味」という番組で、カミサンが油絵をやっているのでその取材。「ステキな趣味」というよ

り、「ヘタでもできる油絵」の方がピッタリなのですが・・・


カミサンは、カメラの陰になって見えません。(見せるほどのものではないので、そういう風

にカメラで写しました。)

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まあ、それは良いのですが、先日の打ち合わせの時、ついでに、私の皿回しの話が出て、

私にも、出演してくれとか。


以前、TV、ラジオなどにも、皿回し以外の事でも出演たことがあり、コンビニで、良いエ○本

があったので、買おうと思ったら、店員さんが、「この間、TVに出てた人じゃありません

か?」といわれ、おかげで、エ○本を買い損ねた経験があり、顔を知られるのはあまり、好

む所ではないのですが・・・・


美人のインタビュアの方には弱く、頼まれたので、「顔にモザイク入れてくれる」「ダメで

す!」という事で、素顔で私も出演。自分で、メークはしましたが。

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ということで、今日は皿回し。皿とか、おまけに、まな板とか、土鍋とか回してみたら、久しぶ

りだったので疲れた。


カミサンが7月、私のが8月放映だそうで、東京あたりの方は残念ながら見られません。ご

覧になりたい方は、島原半島の方へお越しいただくか、又は、ケーブルを東京まで、お引き

ください。


【おまけ】

昨日書こうと思ったら忘れたので・・・・・

昨日の昼食は、島原の「MANぷくMAN」。バイキング料理です。たしか、ここ、以前は地ビ

ール工場だった記憶があるのですが・・・・・・・現在は、このバイキングとカラオケボックスに

なっています。

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どうも、バイキングは食べすぎますね。ここの、特徴は、お寿司があること、但し、お一人3

桶(だったかな?)。

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2014年6月19日 (木)

D-51 蒸気機関車原寸ダンボール模型里帰り展~南島原市有家町

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会場へ入るなり、びっくりしました。これ、本当にダンボールで作ったの?


入場前に、切符を買って(もちろんタダ、無料)、鋏を入れてもらいます。この切符、21日の

特産品販売、ミニ蔵めぐりの割引券になるそうです。

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ダンボールとは言え、すごい迫力です。

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2階からの眺めです。

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ボルトの一つ一つ、部品の一つ一つまで精巧に作ってあります。

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右側、「架線注意」。ここまでやるの、という感じ。

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運転席ですが、この凝った文字。

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作者は、島英雄氏。東京生まれで、現在は南島原市在住。

6歳の時から、切符の蒐集を始め、15歳のときに思いをはせた、原寸の模型が50年の歳

月を経て、ようやく完成したそうです。


なお、今回は炭水車を含む、完全な形でのお披露目で、「全長 約20m(機関車・炭水

車)」「幅 約3m」「高さ 約4m」「重量 約1.5t」「使用したダンボール 約4000個」だそ

うです。なお、全国を巡って東京へ向かうそうです。


そのほか、子どものための迷路、写真展、懐かしの蒸気機関車の上映等がありますが、右

の写真は珍しいもの。島原鉄道の第1号機関車は、日本での1号機関車でもあり、鉄道博

物館へ収められますが(国の重要文化財)、その時の写真。


「1号機関車の惜別式 昭和5年7月3日島原駅構内にて鉄道博物館へ譲り渡すに際し惜

別式が行われた。病気の社長に代わり取締役塚島吉三郎氏が惜別の想いを代読した。」

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なお、会場は南島原市ありえコレジヨホール。期日は6月21日(土)までです。


【おまけ】

帰りがけ、島原の森岳商店街の酒蔵を通りかかったら、何やらやっているみたいで、入った

ら、四半的。


本格的な弓より弱い弓、4尺5寸を使い、弓と同じくらいの長さの矢を使い、正座をして、4,

5寸の的を狙います。どのサイズも、4.5ということで、四半的。


四半的は、昔、武将の酒席の余興としておこなわれ、焼酎などを酌み交わしながらの、娯

楽競技。鹿児島、宮崎方面で盛んです。


はるか昔、和弓とアーチーリーをやっていたので、自信はあったのですが、弓は和弓より短

いものの、矢は意外と長く、5本で300円。2本当たりで、まあまあでしょう。これ、どなたで

もでき、面白く、意外とはまりますよ。

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2014年6月18日 (水)

「アラサーちゃん」&「長崎県少年保護育成条例」

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アラサーとは、「around thirty」(アラウンド・サーティー)の略で、大体、27歳以上33歳以下

(30歳前後)の人のことで、主人公はもちろん、アラサーで独身。



この本、「TUTAYAブックス総合週刊ベストセラー」で12位です。先日までは、本棚に平積み

してあったのですが、すぐにベストセラーの所に並んで、これが最後の1冊。売れているみ

たいで、なにせ、あの壇蜜さんが主演でTV化になるそうですから。「無修正」という字も気に

なりますね。壇蜜さん、無修正でやるんですか?


さて、この本、立ち読みできないように、セロファン用紙で厳重にくるんであるんですが、そ

の上に、青の丸で囲んだところ、このレッテル、最初は張ってなかったみたいなんです

が・・・・読みにくいので、書いてみると、「成人向 長崎県少年保護育成条例により、十八

歳未満の方の購入、閲覧等をお断りします。」あと、「TUTAYA」のマークが印刷されていま

す。


長野県以外は、「青少年保護育成条例」とか「青少年健全育成条例」とか、制定されていま

す。


以前、ビニ本(懐かしいな)等、野放図になったので、青少年健全育成のため制定されたも

の。懐かしく、読んでみたら、制定が昭和53年、改定で一番新しいのが平成23年12月。


「有害図書の販売等の禁止」「広告物に対する措置命令」「有害がん具の販売等の禁止」

「不健全に使用されるおそれのある薬品等の販売の禁止」「自動販売機等の届出等」「「自

動販売機等による販売等の自主規制」「自動販売機等による販売等の制限」「物品質受及

び古物買受等の禁止」「深夜外出制限」「みだらな性行為及びわいせつな行為の禁止」「刺

青を施す行為等の禁止」・・・・すごいですね。これに新たに、インターネット関係、「インター

ネットの利用についての環境の整備」「携帯電話端末等による有害情報の閲覧防止措

置」。いわゆる、フィルタリングの問題ですが、保護者も少年(18歳以下)が、有害なものを

見ないように、フィルタリングをするよう、務めなければならないとしてあります。


有害図書については、「書籍又は雑誌で、全裸、半裸若しくはこれに近い状態での卑猥な

姿態又は性交若しくはこれに類する規則で定める内容を有するものを掲載する紙面(表

紙を含む。)のページ数が、該当書籍又はページ数の3分の1以上を占めるもの。」


要するに、この本が、3分の1以上、有害な個所があるかどうか?この本、暇な方は、調べ

てみてください。

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数十年前は、担当者が、それらしき本を買ってきて、一日中読んでチェックしていたのです

が、担当者に「良いですね」といったら、「飽きたよ」。


この本、かなりエロい会話、場面もあるのですが、アラカンの私には、会話等、分からない

所もあって、この本、やはりアラサーの女性の方向けですね。赤裸々な所もあって、アラサ

ーの方にとっては、身につまされるような所もありそうで・・・


TV放送になるそうですが、「青少年健全育成条例」には、TVの規制が書いてないようで、

後は、保護者の問題でしょうが、TVを一人一台持っている時代、見せないように努めるの

は、きついですね。最も、私、有害図書で健全に育ったのですが・・・・・


TVの場合はTVの放送コードがあるみたいですから、内容がかなり、漫画より薄められるで

しょう。でも、そうなったら、壇蜜さんが出てもあまり面白くないな。


確か、かすかな記憶によると、、「青少年保護育成条例」では、避妊具用具(コンドーム)の

自動販売機の設置について規制をし、某課では、高校生にエイズの防止のためコンドーム

を使うよう、啓蒙をおこなったとか。いや、どちらが良いんでしょう。


性教育も盛んにおこなっているようですが、一番必要なのは、小さい時から、男女同権の

考えを、学校、家庭でしっかり教えることなんですが・・・・残念ながら、ウチでは女尊男卑に

なっております。




2014年6月17日 (火)

石橋をつくるの図(中島川石橋群)★昼食は「アロゼ」で~長崎市

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「長崎は今日も雨だった」のとおり、雨でした。雨にもかかわらず、ここ中島川石橋群には観

光客、修学旅行の方が、大勢訪れていました。むこうに見えるのが「眼鏡橋」です。


中島川石橋群の案内図です。橋は赤の四角で囲んでみました。、説明図には描いてありま

すが、洪水で流失し、普通のコンクリー橋になった所もあります。

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一つ一つ見て行くと、本当に良く作ったもので、と思っていたら、長崎文献社から出版され

た「長崎文献叢書第二集第一巻 長崎古今集覧名勝図絵~注解・越中哲也」(昭和50年

刊)に、橋を作る様子が載っており、越中哲也氏が下記のように説明しておられます。


「長崎の石工の特技にアーチ型石橋がある、その代表的なものとして寛永十一年(1634)

唐僧・黙子如定(もくずにょうじょう)和尚が架築したという日本最初の石造の眼鏡橋があ

る。この眼鏡橋の構法を長崎の石工は学び、次々と中島川に橋を架けていった。その工法

を巧にとらえて画いているのが融思の本図である。この画図は日本橋梁史上貴重な資料と

して定評がある。」

四角の所が、橋を架かけているところ。近くで石材を刻み、並べている様子が分かります。

橋の下、木材でしかっり支えています。

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橋の下、がっちりと、木材が組んであるのがよく分かります。多分、最後の仕上げなのか?

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最後の要石をたたき込んで入るところでしょう、これ、はずすと橋が崩れますから、悪い子

の皆さんは、しないように。

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さて、一番上の図、造っている橋は、どこでしょう?眼鏡橋が見えているので、袋橋か、魚

市橋、ただし、魚市橋はコンクリー橋。左が袋橋、右が魚市橋。


ただし、魚市橋については説明版が有り、「中島川の第9橋。最初、石造りアーチ橋が元禄

十二年(1699)岡正恒によって架けられたが、享保6年(1721)閏7月の洪水で流失し

た、その後も木橋や石造アーチが架けられたが、すべて洪水によって流失した。現在のコ

ンクリート橋は大正14年に架けられたものである。・・・・・」と言うことで、魚市橋も昔は石造

りの橋と言うことで、魚市橋の可能性もあり、歩いて見たのですがどちらか分かりません。


矢印は、眼鏡橋です。魚市橋が上流にあたります。

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黙子如定和尚の像は、川のたもとにあります。

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さて、この中島川の石垣の中に、ハートストーンがあります。写真を載せておきますので、

彼氏、又は、彼女と一緒に捜して下さい。見つけたら、幸せになりますよ。

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【おまけ】

帰りがけ丁度昼になったので、いつも、気になっていたレストラン「アロゼ」。「和と洋の創作

フレンチ」。何となく高級そうな感じで、入れなかったのですが、入ったら、気楽なレストラン

でした。 

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有名なのか、入った時は少し余裕がありましたが、あっという間に、満員になりました。相変

わらず、女性の方ばかり。男一人というのは勇気がいりますヨ。旦那さん方は、いつも書い

ているように、コンビニの弁当を食べているんでしょうネ。

食後は、枇杷のジュースが出て、これは珍しもあり、美味しかった。ウエイターさんに言う

と、うれしそうにしていました。良いお店でした。今度は,二人で行くことに(カミサン以外)。


最後に、眼鏡橋の写真を。はやり、良い仕事してますね!

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(参考・文・図引用:「長崎文献叢書第二集第一巻 長崎古今集覧名勝図絵~注解・越中哲

 也 長崎文献社刊 説明版より)




2014年6月16日 (月)

2014 第9回小浜温泉ジャカランダフェスタ&ヤマボウシ・その他~雲仙市小浜町・雲仙

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6月半ばが、花の最盛期だということで、ちょっと見物に。



昨年と一緒で、花が咲く木と、咲いてない木があって、近所のお店屋さんと話をしたら、全

部一緒に咲かすことができないか、いろいろ試しているとか。桜みたいに、一斉に咲くと、き

れいなんですが・・・・


6月30日まで、「ジャカランダフェスタ」をしていますので、詳しくは→こちらをクリック

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最近、小浜に増えてきたのが、温泉の蒸気を利用した、蒸し料理。

「蒸気屋」と書いてありますが、ここ、最近までは普通の旅館だったのですが・・・

「小浜名物 地獄蒸しで自炊しよう」「自炊を楽しむ宿泊施設」の宣伝文句。1泊2,300円。蒸

し料理代が入っているかどうかは、分からないので、自分で問い合わせてください。

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最近できた、「蒸し釜や」。店の中で、魚とか、野菜とか買って、右の蒸し釜で蒸して、食べ

ます。材料によっては、お高いので、懐と相談してチョイスを。

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一番古い蒸し料理が、足湯「小浜温泉 ほとふっと105」横にあります。温泉の源泉の温度

が105度にちなんで、105メートル。日本一長い足湯です。右が蒸し釜です。

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さて、ここを写真撮りで、ウロウロしていると、TVのロケが。女優さんは分かるのですが、男

性の方は、あまり興味がないので・・・・見たことはあるのですが



「裸で男同士の触れ合いを」なんて、言っていましたから、あちら方面の方かと思ったら、2

人で一緒に風呂に入ろうということでした。

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観光協会前の、「チャンポンマン」と「オバマ」氏。

小浜は、「小浜ちゃんぽんと」いうことで売り出し中。「オバマ」氏は、もちろん「小浜」にかけ

たもの。先の選挙の時から、作って置いてあります。

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ついでに、公認のマラソンコースのスタート、ゴール地点で、このあたりを「石合(いしあい)」

といいます。


昔はこのあたりは、浜で、「隠れキリシタン」が捕らえられ、この浜に船から上陸し、右の建

物(老人ホーム)の後ろ側を通って、山道を登り、雲仙まで連れて行かれ、地獄の責め苦に

あっています。

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時間があったので、ヤマボウシが咲いてないか、雲仙まで登ってみたら、あちらこちら咲い

ていましたが、やはり、ヤマボウシは、山に登って、上から見るのがきれいですね。

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余談です。最近の車で、シティーエンマジェンシー(自動車会社で呼び方は違いますが)、

30キロくらいだったら、よそ見をしても、ブレーキが自動的にかかるやつ。


小浜の横道から、一時停止して、国道に出ようとしたら、ガックとして、停止。シティーエンマ

ジェンシーがかかっていました。


前を見ても、車、障害物、人影もなく、どうしてか、と考えたら、前の方の溝から、温泉の捨

て湯の蒸気が前も見えないくらい、モウモウと。多分、これを感知して、シティーエンマジェ

ンシーのシステムが働いたのかな?霧が深い所の方もご注意を。


 

2014年6月14日 (土)

センゴク一統記 第8巻~宮下英樹著

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やっと8巻目が出ました。


日本史を高校の時、一所懸命勉強された方は、結果は分かっていると思いますが、私、当

時は全然興味がなく、特に年号を覚えるのが不得意で、覚えているのは、昭和33年4月1

日、売春防止法の完全施された日、のみです。


さて、今になって、歴史を勉強していくのは、面白いもので、読み続けているのですが・・・

(歳で、字は読みにくいので、漫画を捜して読んでいます)。


今回は、信長亡き後、後継者をどうするか、領土、いわゆる国分けをどうするかの問題で

す。柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀、羽柴秀吉の家老により、話し合いが始まります。


この会議は清洲(清須)会議と呼ばれ、清州会議については、映画化された、三谷幸谷著

の「清須会議」の事を以前取り上げました。


三谷氏の本では、後継ぎを、次男の織田信雄にするか、三男の織田信孝にするかが主題

になり、結局は、嫡男の、まだ幼児の三法師が後継ぎとなり、三男の織田信孝が後見人に

なりますが、この「センゴク一統記」では、すんなりと、決まってしまします。資料の読み方、

考え方の違いでしょう・・・・


さて、あとは、国分けですが、駆け引きもありながら、意外と、順調に決まってしまいます。

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我が主人公の仙石権兵衛は、淡路を平定したものの、まだ、宛行状(あてがいじょう:主君

から家来に,知行の割り当てを示し、その権利を保障した文書。要するに、この領土を与え

る、ということを保証した文書)が、主君の秀吉から来ていません。正式には、淡路はまだ

権兵衛の領地ではないというです。


権兵衛は

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淡路にいますが、長宋我部が動き出します。その兵、二万三千。秀吉から黒田官兵衛が権

兵衛の所へ派遣され、淡路衆と共に四国に渡ることに。


最後に、気になる人物の登場です。長宗我部弥三郎、後の長宗我部元親です。さて、この

人物が何を考え、どう行動するのか?


本編には、TVドラマ「黒田官兵衛」に出てくる、毛利家の僧、恵瓊も登場します。あと、いろ

いろあるのですが、本を買ってお読みください。


【耳より情報】

千々石の商店街を通っていたら、ウォーキングの看板が。多分、旧鉄道跡のウォーキング

かなと思って、追いかけて見ましたが、終わった後でした。


小浜に来たついでに、久しぶりに、シェ・ダムールさんへ寄ったら、父の日用のクッキーが置

いてあり、どうせ、誰もくれないから、自分で買って、あちらこちら見ていたら、「切れはし」と

いうのが置いてあり、ケーキの切れはしが沢山入っていて、200円。お得ですよ。特に、子

供のおやつには、良いですね。もちろん生クリームです。

綺麗なケーキの方が良い?お腹に入って、ウンチになれば、一緒の事ですヨ


クッキーの方は、塩とカレー風味の、今までにはない味のクッキーでした。ビールにピッタ

リ。是非お父さんのプレゼントに。

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2014年6月13日 (金)

日本の棚田百選(清水棚田)~長崎県雲仙市千々石町岳地区

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昨年も書きましたが、岳地区は雲仙の麓にあり、上の方は下よりかなり涼しく、また、水が

良いので、良い米が取れます。ウチの米もここから買っています。


毎年、他の地区より田植えが早く、もう終わっているかなと思いながらも出かけて見ました。

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入口の所。右に雲仙に登る道路があります。この看板から左に行くと、岳地区になります。

岳地区の上の方から、雲仙に登る道路と合流します。


「日本棚田百選の地」「清流と石積みの里」のフレーズ。なお、この道を、どんどん上がって

いくと、ヤマメの里に行きます。


予想どうり、田植えは終わっていていましたが、「石積みの里」というだけあって、見事な石

積み。機械がない時代、石の一つ一つを手で積み上げた石垣。

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苗は大きく育ち始めて、左は岳地区の苗、右は、他の地区で今日植えた苗。

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途中、看板が2枚ほどあって、岳地区では、米作りのアイディアを出していますが、岳棚田

のオーナー制をとっているようで、オーナーの名前が書いてありました。

なお、長崎の調理師学校K学園と連携で、米で作った食品の開発もしているところです。


この地区は、千々石第二小学校が校区ですが、2011年といえば、東北地方太平洋沖地

震が起こったときですから、その時、石巻小学校に、義援米を送ったときの記念の看板でし

ょう。

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なお、雲仙に登る道の途中、展望台が作ってあります。

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手前の方の木がなかったら、もう少し広々見えるのですが、残念。

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途中崖下に、ヤマボウシが咲いていました。家のヤマボウシは散ってしまいましたが、ここ

あたりは、涼しいのでまだ咲いているのでしょう。ヤマボウシはやはり、上から見るもんです

ね。

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帰りがけ、田んぼを見たら、近くの小学校の体験学習でしょう、田植えをしていました。一番

上の写真です。

この地区も、後継ぎが、だんだん少なくなっていますが、この子たちが、あとを継いでくれる

と良いんですが・・・・





2014年6月12日 (木)

病院にて★今津神社~大村市

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あと、122日で長崎で国体が始まります。


きょうは、半年に一回の某総合病院に診察へ。9時40分ぐらいに行って、血液検査。結果が

出るまで一時間程度。これはどこの病院に行っても同じこと。


そのあと、お医者さんの検診。はやり、夏が暑く、ゴロゴロしていたのが原因か、肝臓の値

が上がっていて、半年後の検査によっては、外から針を刺し、細胞をとるとか。少し前、前

立腺に針を打ったばかりなのに・・・・・あと、半年は節制、節制。


あと、支払い。清算が終わった人の番号がでてきますが、なにか、高校の合格発表を見る

ようで、まだかまだか、ドキドキ。支払いは、自動支払機。慣れないと、多少面倒で、患者さ

んは高齢者の方が多く、ウロウロ。もちろんアシストの方がいて、困っていると、お手伝いし

てくれますが。

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ちょうど昼なので、いつもの、展望がいいレストランで、食べようと思ったのですが、たまに

は目先をかえて、一階のパンを焼いて、その場で食べられる、カフェエなんとかへ。左の所

へ焼きたてのパンがでてきますから、チョイスして、右のカウンターで支払いと、お飲物を。

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ピザパイ、どっこい薩摩、有機野菜のジュース。どっこい薩摩には、お芋さんが一杯。ゴマも

入っていて、おいしかったですよ。野菜繊維も取れるし。

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普通、大きな病院には売店があるのですが、なんと、ファミリーマートです。郵便局まであっ

て、使う予定があったので、80円切手を10枚ばかり。800円出したら、「820円ですよ。」

「え?」「消費税の関係です。」

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銀行のATM、これは、普通になりました。以前、2万円ばかり出そうと思ったら、200万円

出てきました。私の金額の押し間違いでした。(もちろん冗談)。あと、マッサージルームまで

あるんですね。ソー○○○ドはありませんでした。

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さて、まっすぐ帰っても面白くないので、どこか、ないかと思ったら、竹松駅の近くに神社が

あるとか。駅の近所で、「竹松神社はどこですか」ときくと、「はあ?」。竹松駅の近くだから

「竹松神社」と思ったら、「今津神社」でした。


鳥居が二つありますが、一の鳥居は新しく、奥の二の鳥居が昔のものでしょう。字は彫って

ありましたが、風化して読めません。二段継ぎですが、下の方は、後年、作りなおしたみた

いな感じ。

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私が見たかったのは、この石。「黒山権現腰掛石」と標柱、説明板が建ててあります。

天正二年、諫早の西郷純堯(すみたか)の先手として、大渡野弥三郎が萱瀬村に攻め入っ

た時に、手傷を負い今津海岸の黒山権現まで逃れ、石に腰を下ろして休息、さらに五十メ

ートルばかり下って、石に腰をおろして休息しているところを、百姓某が竹槍を突き出し、討

ち取ったという事で。これがその石だと云われています。

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話は、これだけに終わらず、すぐに今津村の集落に赤痢が流行り、集落は全滅の危機に

落ち入ったそうですが、長老の「百姓万五郎」に神のお告げが有り、「思い知ったか!我を

殺した祟りであるぞ、この疫病を鎮めたくば、我に詫び、神として祀るべし」とのお告げ。


村の者が供養をし、社を建て手厚く祀ったところ、赤痢も収まり、平和な村に戻ったそうで

す。これが、今津神社の起源だそうです。


この後、黒山の地名をとって黒山様として、疫病の神として近郷、近在から、たくさんの参拝

者が参りに来たそうです。


諫早史には、大村記として、同様な話が書かれてありますが、こちらは「尾和谷彌三郎」に

なっています。


母親がこの話を聞いて憤り、「直ちに萱瀬村に至り、禿小七(大渡野弥三郎を殺した百姓)

の近所に逗留して、境の尾の合戦など物語る。折しも小七其の席にあり、その時の模様を

委しく物語り、やがて其の折彌三郎を討ち取りたるものは自分なりし事まで告ぐ、彌三郎の

母一々之を聞き届け、其後小七に毒饅頭を食せて之を殺し、その身は尾和谷に歸けり。」 

とあります。名前、地名少しずつ違っているようですが・・・「尾和谷に歸けり。」と書いてある

のを見ると、「尾和谷彌三郎」が本当のような気もするのですが・・・・


神社の奥の方に、古びた標注があり、昔はこちらにあったような感じです。

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神社改修の寄進者の名を記銘した碑がありますが、地元のみならず、佐世保、長與村(長

与)、日見村、長崎市の名前まで刻んでありました。意外と遠くから信心をしに来たことが分

かります。


普通の神社に見えますが、調べるといろいろあるんですネ。

なお、この神社は明治23年神社改革(ママ)で祭神を、大渡野弥三郎、大山祇大神、少彦

名大神、大巳忌大神を合祀され、今津神社と改称。昭和34年海上自衛隊大村航空隊買収

になり、現在地に遷宮されたそうです。


なお、この腰掛石は、旧今津神社より山手に百メートル付近と、この石より八十メートル付

近にあったそうです。


さて、帰りがけ、高速をとおりパーキングに入ったら、売店はコンビニになっており、制服が

サッカームードになっておりました。クマモンが可愛かったので、買って来ましたが、なかな

かのお味でした。一緒に買った、「忍者めし」。ナンデショウ。まだ食べていません。

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長崎県立総合運動公園、通り通りかかったら、上のカウントダウンの表示がしてありまし

た。追い込みですね。

(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早市史第一巻」 説明版 より)



 




2014年6月11日 (水)

隠し十字入地蔵・即非筆の書「高岳山」及び同扁額~島原市青雲寺

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お地蔵さんが、潜伏キリシタンの信仰の対象として、細工をされ、作られるのは、あちらこち

らで、見聞される所です。私の家の近くにも、三体ばかり「キリシタン地蔵」といわれるもの

があります。


島原の青雲寺にも、あるということで、用事のついでに、寄ってみました。山門を入っても、

標柱と説明版はあるのですが、場所が良く分からず、右側を見たら、祠があり、その横にあ

りました。ガラスのケースに入れてありました。

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この地蔵さんの後ろ側、十字紋がはっきりと刻まれています。

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地蔵さんの前面は石がもろいせいか、かなり崩れていた感じです。説明版です。

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ここは、寺の土地の中でもあり、地蔵さんが、最初からここにあったのか、他から移設してき

たのか、書いてありません。どうだったのでしょう。


この寺にはもう一つ、明(中国)の即非の書と扁額があります。説明版を見ていただいた方

が早いので。

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山門の扁額と、書です

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      (「島原市の文化財」~島原市教育委員会刊より)

さて、この寺の参道には、ずらっと石仏が並んでいて、圧巻でした。

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青雲寺は曹洞宗で、禅宗のお寺です。


なお、青雲寺は、加藤清正臣下の庄林隼人が叔父、青雲真高居士の菩提を弔うため慶長

6年(1601)に肥後熊本に建立したそうです。


開山は一峰玄鉄和尚。庄林家が政変により没落。縁あって、島原に移転。当初は杉谷杉

山寺跡にあったそうですが、松倉重政から現在地に土地を賜り、玄鉄和尚自ら山野を開墾

し、青雲寺を再興したそうです。堂宇の完成は寛永5年(1628)。(広報しまばら平成25年

3月号~「ふるさと発見」より)




2014年6月10日 (火)

「季節を知らせる花」~白井明大・著 沙羅・絵

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本屋さんで、ふと気になって、手に取った本。


以前、印刷会社に勤務し、作者、編集者、装丁者等の方と打ち合わせをし、本作りをしたせ

いか、本を手に取ると、本を作った方々の思いが、強く感じられる本があります。この本もそ

の一冊です。


「春となりのふきのとう」「余寒の梅」「春宵の沈丁花」「葉守の馬酔草」「椿の言祝ぎ」「桃に

乙女」等々、五十種類の草花が取り上げられています。それぞれに、

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花の絵、詩、短歌、俳句が紹介され、花にまつわる話、植物学的な話等が、分かりやすく書

かれ、花の本性が明らかにされます。


「なかにはレンゲツツジといって、致死性の毒を持つつつじもあり、・・・・・つつじは漢字で躑

躅と書き、その字には足踏みする、たたずむといった意味があるそう。羊がつつじの花を食

べたら毒がまわって足踏みしてもがき、ふらふらしたことが名前の由来とか。・・・・・・また花

の美しさに思わず足踏みして留まり、見惚れてたたずむことから躑躅というとも、・・・・・・」


「宵待の月見草」の所。

竹下夢二の恋に触れながら、「月の出を待つことと、恋人を待つことはよく似ています。月

も、恋も、待つ身にとってはただ待つしかないところが。」落ち着いた、いい文章ですね。


どこから読んでも良く、、あわてて、いっぺんに読まず、思い出した時に、その季節の花の

所を、一年がかりで読めば良いでしょう。



たんぽぽ     川 崎 洋


たんぽぽが

たくさん とんで いく

ひとつ ひとつ

みんな 名まえが あるんだ

おーい たぽんぽ


おーい ぽぽんた

おーい ぽんたぽ

あーい ぽたぽん

川に おちるな



皆さんも、本棚の片隅に、如何でしょう。






2014年6月 9日 (月)

褌・フンドシ・ふんどし

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無理して、ご覧にならなくて結構ですが・・・・左が、越中褌、右が六尺褌。モデルは私。六尺

褌は、締めると横から、何かが少し覗くので、切りましたが。バックは、Tバックになりますか

ら、後ろ姿は見せません。六尺褌は祭り等では、下着ではなく、正式の衣裳扱いになりま

す。


さて、褌を着けてみようと思ったのは、先日のNHKテレビ「あさイチ」で、「女性の褌」を特集

していたこと。


考えれば、日本男子として数十年。褌を締めたことは、一度としてありません。親父は若い

頃、褌だったのですが、いつの間にか、パンツ派になっていました。


という事で、死ぬまで一回は締めて見ようと思ったのですが、近所のお店屋さんにはなく。

いつものAmazonから、越中褌と六尺褌を注文。待つこと3日。

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両方とも、木綿製です。


右の写真、上の方が越中褌、下の方が六尺褌、さすが、六尺褌は長いので、二つ折りにし

ましたが、鯨尺で六尺(約228㎝)。さすが、長いですね。私の身長以上。


で、六尺褌は、どうして締めるのか?とりあえず、本で調べようと、本屋に行ってもありませ

ん。ということで、何時もの某図書館へ、司書のお姉さんへ、恥ずかしかったけれど、「褌の

本はありませんか?」「え?」「フンドシの本、時代劇に出てくるフンドシ」。という事で、しばし

待っていたら、二冊の本を持って来ました。

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「こと典百科叢書 第九巻 褌」は、福富織部著「褌 増補改版」(香蘭社 昭和8年)を収録

したもの(これ、表紙には何も書いてありませんから、中扉です)。ほかに、福富氏が書いた

奇書として、「屁」「臍」があり、この「こと典百科叢書」にシリーズとしてあります。


さて、図書館からの帰りがけ、ふと思うと、あ~YouTubeがあったか、と。早速、帰って

YouTubeを調べると、ありました。


六尺褌は、難しいかなと思って、締めてみると、意外と簡単。締めてみると、なにかキリッと

しますネ。越中褌は簡単ですが、以外と風通しが良く、ゆったりした気分。


さて、せっかく借りてきた本ですから、本の紹介を少し。


「こと典百科叢書 第九巻 褌」に、「雲介(ママ)の典物(てんぶつ:注・質に入れること。そ

の品物)」の事が書いてあり、


「ふんどしを質に置くといふは雲介の事也、東海道筋の雲介はふんどしを一分(一兩の四

分の一)づヽに置きたり、その頃は切りたての晒し六尺の價は百文なるに、質屋は物言わ

ず一分づヽ貸したり、雲介は質受けせぬ間は何にても、ふんどしかくすことをせず、陽物を

露出せるまヽにて駕舁きて往來せし也、・・・・」「伊勢地方の雲介が、ふんどしを質に置き、

質受けの出來ぬうちは、竹の皮で的をつつみ、夏の炎天、丸裸體、平気な顔で、荷物や駕

籠を威勢良く舁て行くさまは實に滑稽なりしと・・・・・」


という事で、褌まで質草に、然も一分(一両の四分の一)で質草にしたとは、驚きです。その

間、陽物を露出していたといいますから、本当ですかね。この事実、映画で撮ったら面白い

だろうナ・・・最も、猥褻陳列罪で捕まるだろうけれど


「和の道具の使い方」より。

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(「和の道具の使い方~平山隆一著」より)


上が「割褌(わりふんどし)」。12世紀末から13世紀に描かれた、仏教の説話集に登場す

るそうで、最も古いタイプと考えられるそうです。

布を縦に切り、一度結びつけ、あとは越中褌と同じ要領で、締めます。


珍しいのが、下の褌、室町末期に登場した軍陣用褌(当時の呼び方は下帯)。


「軍用の小袴は尻の部分が割れて開くようになっているから、しゃがんで上体を屈めれば

褌は股間の覆いがゆるんで、横にずらして尻をすぐ出せる。排便後、立ち上がって体を伸

ばせば、輪が引かれて自然と褌は締まる。つまり、具足(甲冑)を身に付けたままで用便が

しやすかった」。また、寒い時期は、胸の所を二重にして、艾(もぐさ)等を入れて、保温剤と

し防寒に役立てたそうです。「黒田官兵衛」さんも、こんな事してたんですかね。TVにはこ

んな場面出て来ませんが・・・・・・・(「和の道具の使い方~平山隆一著」より)

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1600年頃、三尺手拭をつけた越中褌が登場するそうですが、越中褌は、活動のゆるやか

な老人等が着けたそうです。現在は、締めるやさしさから、越中褌が主流のようです。


越中褌を簡略させたのが「畚(もっこ)褌」だそうです。

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なお、先日紹介した、近世風俗志(二)にも、褌のことが載せてあり、「慶長以来、今製の六

尺褌を専用す」と説明書きがあり、本文には


「天正前は麻布等長さ四,五尺なるを、その半を二つに裂き分ち、これを腰に巡りらし前に

結び、股下を全幅の方を通して前に挟む、今の越中に似たり。」とあります。

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また、下記のような図が載せてあり、越中褌については


「松平越中守執政の時、倹約を専らとしてこれを製すと云うは非なり。大阪新町の妓、越中

と云う者、片袖を裁ちて鄙客に贈りて餞(はなむけ)とす。客これを褌に製して家に帰る。こ

れこの褌の始めとす。片端を筒に縫ひ、これに絎糸を通す。」

「もっこふんどし」については、「女形女優等にこれを用ふ由を聞く。」とあります。

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書物については、内容が少しづつ違う所があるようですが、これについては、各自、調べて

ください。


今日は着けたままにしていたら、意外と気持ち良いですね。「褌」、聞くところによると、以外

と着けている方が多いそうです。あなたもデスカ、失礼しました。


夜ですか?もちろん2,3年ほど前ご紹介した「脱パンツ健康法」実践です。


(参考・文引用:「こと典百科叢書第九巻 褌~福富織部著」「和の道具の使い方~平山隆

 一著」「近世風俗志~喜田川守貞著」から)




2014年6月 7日 (土)

今日は真面目にお勉強~雲仙市の歴史を学ぶ会・「キリシタンが弾圧に耐えて守り続けたのはキリスト教信仰だったのか」

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いつかも書きましたが、雲仙市は、国見町から南串山町までの7ヶ町の合併。昨年から、一

緒に勉強しようと、「雲仙市の歴史を学ぶ会」が発足。今日は定例会の講演会で、演題が

「キリシタンが弾圧に耐え守り続けてきたのはキリスト教信仰だったのか」。


講師は、長崎純心大学 宮崎賢太郎先生。自分でも、話されましたが、祖先はカクレキリシ

タンだったという事です。


普通、カクレキリシタンと言う言葉を使いますが、日本におけるキリシタンの流れです。宮崎

先生の資料からのコピーです

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1549年に、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸。1563年、大村藩の大村純忠が、日本

で初めてのキリシタン大名となり、各大名も洗礼を受けます。


高山右近は領地を捨て、キリシタンとして生きる道を選びますが、マニラに国外追放になり

ます。後の大名は棄教します。大名で、キリスト教を本当に信仰していたのは、高山右近だ

けのようです。


1644年、正式に叙階された日本人最後の司祭、小西マンショが殉死します。これ以後、

日本には、神父等がいない状態で、正式にキリスト教を教える者がいなくなり、キリスト教を

教える書物等も見つかると、刑罰が科せられますから、無くなり、キリスト教の教えなどは

ほとんど口伝になります。


1859年、米国聖公会からプロテスタントの宣教師、ジョンリ・リギンズ、チャニング・ウィリア

ムズが来日します。


1873年、明治6年、キリスト教が解禁されます。一概に「カクレキリシタン」と言いますが、

この間の事を「潜伏キリシタン」と言います。


この後、「潜伏キリシタン」の人々が、キリシタン教会に戻って、正式に受洗を受けた者、教

会に戻らず、先祖からの「キリシタン」の教えを守る者が出てきますが、この、後者を「カクレ

キリシタン」と言います。


さて、少し戻って、大名の大村純忠等がキリシタンになったのは、ポルトガルから期待され

る収益のためで(ヴァリアーノ「日本巡察記)、家臣、民衆はキリスト教に改宗されます。


大村領内、6万人の全領民がキリシタンになり、87の教会が存在したと言います。

現在、日本で、カソリックになる方は、洗礼を受けた方から亡くなった方を引くと、3000名

程度だそうで、この6万人と言う数字には驚きますが・・・・


1578年から36年間神父を務めた、アフォンソ・デ・ルセナは、以下のように書いているそ

うです。


「私が大村に来る2,3年前に、この殿は全民衆キリシタンになること、もしそれを希望しな

いならこの領地を出ていくことを通知し、命令した。・・・・・・・それだから私が大村にきたとき

にはすでに全領民がキリシタンであった。しかし、彼らはキリシタンの諸事については洗礼

を受けるのに必要なこと以外は何も知らなかった。」

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最近出版された宮崎先生の本と、長崎県教育委員会が調査した「長崎県のカクレキリシタ

ン」。宮崎先生が、主任調査委員になっています。


宮崎先生は、書物に出るような、キリシタン関係者ではなく、庶民のキリシタンがどうであっ

たかを書いています。すなわち、上に書いたように、「彼らはキリシタンの諸事については

洗礼を受けるのに必要なこと以外は何も知らなかった。」


庶民が本当に、キリシタンのことを理解していたかどうか。そして、カクレキリシタンの事に

ついて語られましたが、結論として、キリシタンにはキリシタンである事の定義があり、カク

レキリシタンは、その定義に当てはまるところがなく、本来のキリシタンではない、という事

でした。


さて、この考えと同じような本が、遠藤周作の本にもあります。

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「したがって日本切支丹たちがキリスト教の教義をどの程度まで学び、それを理解しえたの

かは私たちにとって大きな問題である。・・・・・教義書を日本人の一般の切支丹たちが充

分、理解しえたかはどうかはまた別問題である。」


教義書として作られた有名なもので「ドチリイナ=切支丹」があります。弟子と師の問答形

式ですが・・・


弟子  みいさ(ミサ)とは何事ぞ。

師    御主ぜず・きりしと(イエス・キリスト)の御色身と御血とともに、さきりひいしょ(犠

牲)としてでうす・ぱあでれ(父なる神)に生きたる人死したる人のために捧げ奉らるるさきり

ひしょ也。これ即ち御主ぜず・きりひとの御一生涯の御所作と御ばしょむ(受難)とを思ひ出

させ給わん為に、定めをき玉ふ者也。<(  )内の訳語は遠藤)(切支丹時代~遠藤周作

著より)

これ、分かりますか。まして、当時の庶民は。


「私は今日のかくれ切支丹の宗教は一見、基督教からその形を取っているが、内容におい

ては基督教とはあまり関係の無い土俗宗教だと言った。」しかし、この土俗宗教が興味と意

味があるのは、「宣教師や教会という肥料を絶たれると、どのように変形しているのかと言

った。」という事で、


「・・・・・その変形は日本的であり、日本人の宗教意識に即したものであったゆえにかくれ

切支丹の宗教は彼らにとって仮物ではなく本物となったものである。・・・・・神父も教会もな

い地の果てで彼等が守りつづけたこの宗教を基督教から批判するのはやさしいが、しか

し我々は彼等から学ぶ点があるのである。彼等は我々に基督教が土着化するためにはど

のような変形をするのかの良所と欠点を共に教えてくれたからである。」

遠藤周作氏の結論です。


さて、「潜伏キリシタン」が、解禁されたにもかかわらず、なぜ教会に戻らなかったのか、宮

崎先生は次のように書いています。要約すると


❶ 先祖が命をかけて守り続け、意味が分からなくとも、忠実に継承して行くことが、先祖の

供養になること。

❷ カクレをやめて他の宗教に変わりたくとも、従来からの人間関係を良好に保って行くた

め。(同地区の人々が、同じカクレキリシタンです)

❸ カクレキリシタンの役職者は高い地位を有しており、カトリックに改宗すれば、ただの信

徒になり、何らメリットがない。

❹ 潜伏時代にカクレであることを、知らぬふりをして助けてくれた仏教に対して大きな恩義

があるので縁をきることはできない。(だから、キリスト教会には戻れない。)

❺ カクレを止めたり、カクレの神様を捨てればタタリがある。


「最も本質的なものは、先祖崇拝、奇跡信仰、タタリ信仰にあるのではないかと考えていま

す。」と書いてあります。


質問の時間、カクレキリシタンで有名な所で、宴会に出た人からの話で(その人は、それま

で、カクレキリシタンの地域と知らなかったそうですが)、宴会前に仏壇に「アーメン」と祈る

ので、ビックリしたところ、仏壇の中から、十字架を取りだして見せたそうです。


「あんた方は、二つも信仰しているのか」と言ったところ、「あんたの家も、仏壇と神棚と、二

つ祀っているだろうが、同じ事だ」と言われたそうです。やはり。日本には八百万の神がい

る所ですかネ。


話が、どうも纏まりませんでしたが、詳しくは、上記の本をお読みください。




2014年6月 6日 (金)

島原「IHS」キリシタン墓碑~島原市

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やっと、という事で、見ることができました。


この墓碑は、個人のお宅の中にあり、二回ほど訪ねて行ったのですが、二回とも留守。一

応、外から標柱、看板は見えるようにしてはあるのですが・・・・・前は、行ったのは、冬でし

たから、草は生えてませんでした。

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多分、この看板の下あたりにあると思い、玄関のピンポーンを押し、「ごめん下さい」と大声

で言いながら、それとなく看板のあたりを見たのですが、無い。


今日、三回目。三度目の正直だと思って、ピンポーン、大声で「ごめん下さい、ごめん下さ

い」。又もや留守。庭を見ても、それらしきものは、はやり無し。


ヤケになって、「ごめん下さい」と言い続けながら(黙ってウロウロしては、泥棒と間違われ

るから)、裏に回ったら、ありました。感動の一瞬ですね。


さて、この墓碑の価値は、正面小口面(正面向かって左側)に「IHS」の文字が彫り込まれて

いること。

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「H」の横棒の所に縦線が入っていますが、「日本キリシタン墓碑総覧」によれば、熊本県天

草市正覚寺等で、同様なものが見られ、下の左側に見られるように「H」の上に、罪標十字

架(干十字)が、刻印されていた可能性が高いと書かれています。


また、この「IHS」を刻んだものとしては、全国で、十基ほどしか確認されていないそうです。

この、墓碑は、このお宅の横の排水側面工事中に排水溝の底から発見されたそうです。


上が欠けているのは、禁教時代に破壊され、また上面が抉られているのは、手水鉢等に転

用するため、後世に作りなおし、その後、廃棄され、側溝などの石垣に使われたのではな

いかと思われる、という事だそうです。

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  (左は天草の正覚寺墓碑~「日本キリシタン墓碑総覧より)


この文様は、右の「イエズス会」の紋章とほぼ同じで、イエスズ会のものと考えられます。


「IHS」とは、ギリシャ文字でのイエズス(イエスのこと)、「IHΣOYΣ(IESUS)」の最初の文字

をとったもの。イエズスの名の略号。または、「Iesus Hominum Salvator」(ラテン語:人類の

救主なるイエズス)の略語だと言われています。(キリスト教百科事典:ヘンデル代理店エン

デルレ書店刊より)

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なお、文字が彫られているのは、正面左の小口のみです。この、「IHS」の文字を刻んだも

のは、長崎県では唯一のものだそうです。


「日本キリシタン墓碑総覧」によれば、全長が60㎝で、非常に短いという事で、子供用の墓

碑の可能性があるということです。


この墓碑は、個人宅内にあるので、許可を得てからにして下さい。多分、土、日曜日なら、

おられると思います。私の真似はしないように。


【おまけ】海岸近くを散歩していたら、見慣れない、きれいな花が咲いていました。おばあさ

んが手入れをしていたので、花の名前を聞くと、北九州の母の所からもらってきて、名前は

知らないとのことでした。

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(参考・文引用:「日本キリシタン墓碑総覧~南島原市教育委員会企画・大石一久編集」

 「島原市の文化財~島原市教育委員会発行」 説明版 より)





2014年6月 5日 (木)

「大村彦右衛門」★大村家家老~大村市

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大村彦右衛門について、初めて名前を聞いたのは、坂口安吾の「島原の乱雑記」で、長崎

奉行所へ潜り込んだり、江戸城へ入り込んで、小姓をキリシタンにしたりという、金鍔次兵

衛と言う神父のことを読んだ時です。


この、金鍔次兵衛が大村領根村脇崎に潜り込んでいるとの情報があった時、なにせ、相手

が大物で、佐嘉(佐賀)藩、島原藩、大村藩、領民15歳から60歳までかり集め、一歩一人

で追い込みますが、結局は逃げられますが、「大村藩はここに総動員を行った。大村藩所

蔵の『見聞集』によれば、家老大村彦右衛門を大将に、少数の城内留守居を残し・・・」と言

うことで、これで、「大村彦右衛門」のことを覚えていたのですが、調べると、どうして、どうし

て・・・・

「金鍔次兵衛(トマス・デ・サン・アウグスチノ)神父~神出鬼没の男」は→こちらをクリック



大村史談会発行、編集責任者・木下義春氏の「大村史談」の、大村彦右衛門を読んでみる

と、仙台の伊達安芸、黒田の栗山大膳、大村の大村彦右衛門は天下の三大名家老とされ

たそうです。


以下、「大村史談」から引用しますが、

彦右衛門は14歳で元服し藩庁に出仕したそうですが、16歳の時に初陣。

長与村地頭が反旗を飜した時、本拠の浜城を攻めた時、皆のどが渇いて急坂を登れず、

敵の火器に苦しめられた時、彦江門は「梅干し、梅干し」と叫んで喉を潤させ、浜城を攻め

落としたそうで、それ以来浜城を「唾呑城」というようになったそうです。


この墓地は、大村彦右衛門家墓所になりますが、実に立派な墓所です。

Dsc_0115

さて、彦右衛門は、大村純忠、善前、純頼、純信の四代にわたる藩主に、家老として仕えま

す。


善前が48歳、純頼が28歳でなくなりますが、これにはキリシタンを弾圧したので毒殺され

たとの話が、大村家記等に見られるそうですが・・・・否定する説もあるそうですが・・・・


さて、純頼が28歳でなくなったとき、跡継ぎの問題が起こります。

純頼が亡くなった時、一子松千代がいたそうですが、この時2歳。幕府には誕生を届けてお

らず、生母は側室。


幕府の武家諸法度によれば、正室の子でないと、相続はできないそうで、お家断絶というこ

とになります・・・


彦右衛門は、純頼の死を世間に隠し、純頼の名で、老中に「自分は病気をしているが、平

癒の見込みがないから万一の時は、まだ届けていないが二歳の実子がいるから、跡目相

続のことをよろしく頼む」と述べた文書をしたためたそうです。


千代松と共に江戸に上がろうとした時、千代松は大病にかかりますが、彦右衛門は、娘の

命の代わりに、主君の病気が治るように祈願したそうです。


江戸で、老中に訴えるも、幕府の老中は突っぱねたそうで、おまけに、六万石以上の大名

しか賦役されない、大阪城の石垣の普請を命じられたそうで、跡継ぎ問題と、普請問題、ま

た、各老中へ手土産を持っての説得。


この費用の件には、「大村史話」には、次のように書いてあります。「彦右衛門の書き残した

『大串金山記』には、朝鮮の役から帰って来た喜前が開発した大串村加郷には金山があ

る。『右の山より度々、松千代様え丁金三百二十目三分八厘』を上納したと明記してあるか

ら、およそ検討がつく。」


彦右衛門の努力と熱意が実ったのか、老中から登城を命じられ、彦右衛門の必死の訴え。

願いはかなえられ、翌日、将軍謁見のうえ、直々に松千代に本領安堵の旨を告げたそうで

す。


なお、喜びの中、神仏に誓ったとおり、わずか三歳の愛児亀千代を刺殺したそうです。亀千

代の乳母は、無断で殺されたことを悲観して、投身自殺をし、杭出津に墓があるそうです

が、子どものための願仏とされているそうです。


墓地に入ると、すぐ左側に祠がありますが、後に、亀千代を祀るために、建てられたものだ

そうです。「身代り観音」です。

Dsc_0106

半分開いていたので拝んで、覗いて見たら、ふっくらとした木造の女性像がおいてありまし

た。説明版には、「正面の観音横の女像は、生母の姿を表しているといわれています。」

と書いてありました。


写真を撮ろうと思ったのですが、私如き平民が、畏れ多くとれませんでした。亀千代の墓

は、一番上の写真、彦右衛門の横にあるのですが、これも撮り忘れました。多分、説明板

の後あたりです。


【おまけ】キュウリがなり始めました。まだ、2㎝弱の長さです。

Dsc_0368_2

(参考:文引用:「大村史談・発行 大村史談会・編集責任者 木下義春」 説明版 より)


 




2014年6月 4日 (水)

「超高速!参勤交代」~土橋文宏著★映画が先か、読書が先か

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先日は少しシリアスな、「」を紹介しましたが、本日は、冒険時代活劇小説と言ったらいい

のか、「超高速!参勤交代」の本の紹介です。この本、6月21日から映画化、上映される

そうですが、本の出版が昨年の9月27日、本年5月23日が、第7刷りですから、意外と売

れてる本のようです。


主人公は、陸奥湯長谷(ゆながや)藩一万五千石藩主、内藤政醇(まさあつ)。

ご存じのように、江戸時代、各藩に財政負担をかけさせ、力を削ぎるためと、人質として、

江戸に妻と子を住まわせる、参勤交代の制度があり・・・・(皆さん、学校で習いましたね、以

下略)


とにかく、この参勤交代、金がかったそうで、なにしろ、大名行列ですから、威信をかけま

す。


ちなみに、ウィキペデアをみると、天保12年(1841)の紀州徳川11代藩主の時は、武士

1639名、人足2337名、馬103頭であったということで、これ、飯を食わせて、宿屋代、将

軍、幕臣への付け届け、諸経費を入れると、どれくらいかかるのか。なお、小説にも出て来

ますが、小藩においては、宿場町を通る時だけ、威厳を保つため、臨時雇いの家来を使っ

たそうです。


さて、小説の方ですが、主人公が参勤交代で、地元、湯長谷(アバウト、湯元の近く)に帰り

ますが、すぐに江戸より使いが来て、上様(徳川将軍)から、5日後の戌の刻(午後8時)ま

でに、江戸城に出仕せよとの命令。1年おきの参勤交代が、地元へ戻って、すぐ江戸へ出

仕とはあり得ないこと。


裏には、湯長谷藩を潰し、藩が試掘した金山を、かすめ取ろうという、老中松平信祝の陰

謀。江戸まで5日間で着けるか?着かなければ、廃藩になって、松平信祝の思うつぼ。(金

山については、どんでん返しがありますが・・・)

Img_20140604_0001

    (「超高速!参勤交代」より)


なにせ、赤丸印の所。しかも、大名行列で、馬でひたすら駆けるのみ、という訳にもいか

ず・・・・


なにはともあれ、一刻も早く出発という事で、普段は100名(小藩なので)ばかりの行列を、

わずか8名での大名行列。


後はどうなるか、凄い忍者まで登場し、活劇あり、ユーモアあり、人情有り、恋あり、といっ

た物語が展開しますが、あとは、皆さん映画で楽しむか、小説でたのしむか?自己責任で

選んでください。最後の裏もあるのですが、言ったら面白くないので・・・・


なお、悪役になる、松平信祝は延喜元年(1744)、病気により、老中辞職を願い出ます

が、許されず、4日後に死亡します。ここは、小説と史実は一緒です。

主人公の内藤政醇は寛保元年(1741)9月5日に死去します。享年31歳。


この小説で大活躍するのが、家老の相馬兼続(かねつぐ)。家老で有名といえば、思い出し

たのが、こちらの地方では、大村藩の大村彦右衛門。次は、この大村彦右衛門の話で

も・・・・・




2014年6月 3日 (火)

初夏の庭~我が家の家庭菜園

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え~、昨日、ターシャ・テューダさんの庭を紹介して、我が家の庭を紹介するのは、気が引

けるのですが・・・・今年は体調悪く、カミサンまかせ。どうなっているか、初夏の庭を一回

り。


上の写真は、昨年買ったミニバラ、鉢植えで、外にほって置いたら、いつの間にか、咲いて

いました。やはり、「ミニ」とは良いながら、バラは存在感がありますね。


下はミニトマトの花と、トマトの実。意外となってました。

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普通のバラですが、バラは病気になりやすく、難しいですね。

大根の花。少し多めに植えておいたら、食べきれず、花が咲いていました。「だいこんの花」

確か、TVドラマでもあったかな?

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パセリ、植えた時は、ほんの一房程度の大きさだったのですが、夫婦二人で、どうやって食

べましょう。

ポピーのつぼみです。花は綺麗ですが、こうして見ると、毛むくじゃらで、蕾なんか○玉を想

像しますね。

Dsc_0343 Dsc_0352

晩生のタマネギ。百本ばかり植えていたのですが、やっと食べられる大きさに育ちました。

あまり、大きくならないうちに収穫した方が、日持ちが良いそうです。プロからの助言です。

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キャベツは巻くかと思っていたら、巻きましたが、少し固い。

昨年、柿が良くなりましたが、柿は一年おきに、良くなる年と、ならない年があるそうで、今

年は,実の付き方が悪いようで、おまけに、先日の風のためか、ボトボト落ちていました。

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梅雨時は、あじさいの花ですね。まだ、十分色づいてはいませんが、・・・・・あまり、色づか

ない時が良いですね。女性も 失礼しました (。・ω・)ノ゙ コンメンチャイ♪

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南天の実がなり始めました。これ正月には、赤くなるのですが・・・・「難を転じる」で、「なん

てん」縁起物です。

ユリの蕾。あと2,3日すると咲くかな。

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かぼちゃに、キュウリ。葉が菌にやられやすく、酢と焼酎とニンニクをつけておいて、薄め

て、かけておけば良いと言われて、やって見ましたが、ダメでした。

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イチジク。どこへ植えても良く茂ります。女性の方の健康に良いとか。

植えた覚えがない花が。隣の畑を見たら、同じものが咲いていたので、種が飛んで来たも

のか。

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私の嫌いなピーマンではなく、パブリカ(黄色)の花と、まだ色変わりしていない、小さな実。

まだ、小指くらいもありません。

近所から頂いた、レタスの苗は順調に育っています。

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ナスビ。「親の意見と茄子の花は千に一つの徒(あだ、徒花、無駄な花)はない」。本当に

よく言ったもので、花には必ず実が付きます。

山から取ってきた、ツワブキ、初冬には黄色い花が綺麗で、夏は茂って庭のポイントにもな

り、春は新茎は食用にもなるし・・・ただ、皮をむく時、爪が黒くなって・・・一本庭に植えてお

くと、便利ですよ。水も肥料もやってません。

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まあ、花が少しと、野菜が少し、たいしたものは植えていませんが、年金暮らしとなると、家

計の一助になります。あと、ジャガとか、ブロッコリーとか、トウモロコシとか、魚は親戚が持

って来てくれるし。

これで、ステーキでも持ってきてくれる人がいれば、文句ないんですが・・・・・



2014年6月 2日 (月)

「乱」~矢野隆著★時代小説の難しさ

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「島原の乱」を描いた小説。ポイントは、赤で囲んだ「『島原の乱』新解釈、衝撃の歴史長

編!」。ここの所にひかれて読んでみました。


時代は江戸、関ヶ原から30余年、三代将軍家光の頃。徳川幕府の勢い盛んな時。そのよ

うな時、日本の西の端、島原、天草で、島原・天草の乱が起こりますが、この事について

は、いろいろな資料、小説に取り上げられ、さて、「新解釈」とは、何か?


時代小説を読んで、いつも思うのは、事実通りに書いたのでは、単なる資料。先日、紹介し

た「考証要集~大森洋平著」によれば、「『平賀源内が厳密に時代考証した忠臣蔵芝居を

上演したら、全然面白くなくて客がみんな寝ちゃった」という爆笑エピソードがありました」と

あり、やはり時代小説は、虚々実々の所がないと面白くないようで・・・・


さて、ネタバレすると面白くないので、「島原・天草の乱」の裏には、幕府の老中Mの思惑が

あったと言うのが「新解釈」になるのです。Mは誰か、本をお読みください。


乱の鎮圧で派遣されたのが、一万五千石余りの小藩、三河深溝藩主板倉重昌。この、板

倉重昌をある目的の下、派遣したのも老中M。


板倉重昌の派遣には、九州の大名の国替えがおこなわれた際、城引き渡しの大役を果た

した経験者であった事だそうです。


乱の鎮圧には、俗に島原七万石といわれる、島原の松倉藩、鍋島藩、佐賀藩、福岡藩等、

そうそうたる九州の諸侯が集まりますから、統率がとれるわけもなく、これも老中Mの思惑。


物語には、山中で野獣のように育った「虎」という少年。そして、天草四郎との関わり。四郎

と父、甚兵衛との関係。そして、なんと、柳生十兵衛まで登場。


柳生十兵衛が、島原まで来たかというと、家光の不興を買い、城を辞し各地を放浪します

が、裏では、各地の情報を集めていたとかいう話も。2006年、NHKテレビで「柳生十兵衛

七番勝負 島原の乱」というのが、あったみたいですから、来たことにしておきましょう。


さて、昭和44年発行の「南有馬郷土史」に、板倉重昌の派遣の事を、天下のご意見番、大

久保彦左が後で聞き、「切支丹は宗教じゃぞ、あがめる神の心は、人の心を一つにするも

のじゃぞ、百姓、土民などとあなどっているのが第一いかん、『原城』という地の利を得て、

団結して固めているのだ、それを板倉や石谷(副使)などのような少身者がいってあつかい

こなせると思うのか?」

「殊に九州諸侯を使うのには自分の軍は思うようにはできまい(ママ)、それがためには御

三家の一人を上史として、堀田か信綱のような老中が出るべきであった。」と書いてありま

すが、この言葉、大村家の家老、大村彦右衛門が言ったという事を、読んだ覚えがあるの

ですが・・・・「大村彦右衛門」と「大久保彦左衛門」。何となく似ているので、私のボケかな?


なお、同書には、「柳生但馬守宗矩」の事も書いてあり、板倉重昌が出発したことを聞き、

追いかけるが間に合わず、後日、家光に


「殿は一向一揆のことはいまだお忘れあるまい。・・・・・ましてや切支丹宗門の激しさは世に

も知られていると聞いていますが、板倉は位も低く、門閥でもなく、禄高も少ないので世人

から敬われていない。それがどうして西国諸侯の指揮ができましょう。・・・・・再び板倉より

位の高い者を派遣されたら、これはもう、板倉を死に追い込むようなもので面目問題であ

る。」とあり、事実、後日、松平信綱が派遣され、板倉は死に追い込まれるような戦いをして

して、戦死します。


さて、老中Mとは誰のことなのか?読んでみて、なるほどとは思いましたが、少々・・・・・ま

あ、小説として読めば、面白いでしょう。なお、時代小説については、事実とするところもあ

るので、参考図書、文献の名前は書いて欲しいですね。



(参考・文引用:昭和44年発行「南有馬郷土史」より)



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