しっぽもひと役★永井隆博士~長崎市・松江市
永井隆博士が書かれた、色紙です。
説明には
「この世になんの用事もないものが生かされてるはずがありません。
どんな病人でも、何かこの世において働くことができるから
いかされておるのでありましょう。私は、命の最後の一瞬まで、
いろいろ工夫して、何か働くことをみつけて働こうと思います。<如己堂随筆>より」
永井博士は、長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士
となります。この間、満州事変。中日事変にも軍医として参加をし、受洗をし、クリスチャン
になり、結婚をしています。
当時、結核患者が多く、「出勤してみると朝早くから患者待合室や受付は、息も苦しくなる
ほどの雑踏であった。」という状態で、医療器具も充分でなかったためか、「このまま数年
続けるなら、恐ろしい原爆病の起こることは、日食を予報するのと同じ確実さでわかってい
た、わかっていながら、相変わらず私は働きつづけた。」と言う状態だったそうです。
昭和20年6月に白血病とされ、余命3年の診断を受けますが、その三ヶ月のち、8月9日
に原爆が落とされ、大学病院内で大けがを負いますが、救護活動にあったっています。
二人の子どもは疎開して無事でしたが、妻、緑さんは、家屋の下敷きになり、そのまま火
に焼かれ、亡くなりますが、永井博士が家にもどり、緑さんの骨を拾って埋葬したのが、3
日後の8月12日だったそうです。
(「長崎市永井隆記念館」展示写真より)。「原爆野を歩く永井隆(米軍撮影)」との説明書
きがあります。
この後、三山町木場で救護班を作り、巡回回診を行い、また、元の浦上に帰り、一坪のバ
ラックに住み、学会等で発表もしますが、昭和21年、病床に伏し、昭和23年如己堂が建
ち、そちらに移り住みます。「如己堂」とは、「己の如く隣人を愛せよ」との意味です。
中は見学できますが、二畳少しの広さ、裏に便所という家で、ここで、永井博士と二人の
子どもの生活が始まりますが、この家で、「長崎の鐘」「ロザリオの鐘」「いとし子よ」「この
子を残して」などを書き続けます。この時は、永井博士は、病床に伏したままです。
この日も、修学旅行生が訪れていましたが、永井博士の精神が分かると良いのですが・・
左の赤く囲んだ所が、「如己堂」です。写真を撮ろうとしていたら、ボランティアガイドさんの
話も聞かずに、私の方にピースサインをするのがいて、どこの学校やら。
右の写真、「永井隆記念館」の建物ですが、この建物にも歴史があって、
昭和25年、永井博士は家を増築し、戦後すさんだ子供たちのために、「うちら(長崎弁
で、私たち、の意味)の本箱」作りますが、国内外の博士の友人知人から多くの本が贈ら
れてきたそうです。
当時の看板。写真は、大勢集まっているところを見ると、開館の時か?
当時の「うちらの文庫」に掲げてあったそうです。説明には、「誤解を生じかねない表現が
含まれていますが当時の状況や博士がこの「おきて」に込めた子どもたちへの願いを伝え
るために、展示することとしました。」と書いてありますが、これを読むと戦後当時の状況
が感じられると思います。
その後、昭和27年「永井図書館」として建て替えられます。私も、この近くの山里小学校
に通い、帰宅の途中、良く寄ったところです。「如己堂」はその当時から、全く変わらない姿
でした。
この、「永井図書館」は、佐世保出身のブラジル在留邦人、宮崎隆榮氏が博士の所を訪
れ「うちらの本箱」を見て、図書館建設について話をし、昭和26年~27年にかけて、ブラ
ジル在留邦人、471人の寄附金1,747,188円と市費で建てられたそうです。
昭和44年に「長崎市立永井記念館」として改称。平成12年に「長崎市永井隆記念館」とし
て改称し全面改築。
昔は、一階の平屋建てだったのですが、いまは、一階が記念館、二階が図書室になって
います。図書室は、全く変わっていました。
さて、実は、私、大きな間違いをしていて、永井博士は長崎生まれ、長崎育ちだと思ってい
たのですが、実は、島根県松江市苧町(おまち)で生まれ、父の医院開業のため、飯石郡
飯石町(現・雲南市三刀屋町に移り住んだそうです。
現在、雲南市にも「雲南市永井隆記念館」が建てられ、長崎の記念館とは姉妹館だそう
ですが、「如己堂」も、そのまま複製して建ててあるそうです。
さて、この際、永井博士の本を読んでみましたが、厳しく、真摯な中にもユーモアがあった
みたいで、「この子を残して」の中、「子らに向かってもらした言葉」に、次のような事が書い
てあります
■有名になるな!名前なんてものは、茶の間で、あめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけ
のもの。
■本を読んでいるときに来る見舞客は決まったように、「お退屈でしょう」と言う。日本人が
本を読むのは退屈なときだけかェ?
■決心は一生に一度しかするものでない。毎年元日に新しい決心をする人があるが、あ
れは儀式サ。
■こうして寝ておれば、悪い遊びもできないが、善いこともせぬものよ。
■買い被られるのは、胴上げされるようなものだ。いつ落とされるか、気が気じゃないよ。
さて、雲南市三刀町に「天満屋」というお菓子屋さんがあって、永井博士の「しっぽもひと
役」というお菓子を作っていて、「当年とって43歳!」と書いてありますから、43年作って
いるのでしょう。
この、ホームページの中に、「筒井茅乃」さん(永井博士の娘さん、結婚して名前がかわっ
ています。)が、「しっぽもひと役」について、当時の様子を書いておられます。長いので概
略を書くと
永井博士が墨で絵を描いて、「かやちゃん、これはどうね。」と聞かれ、見ると、一匹のぶ
たの絵だが、お尻がツルツルしていてなんともおかしい絵。
「おかしかー」と言うと、笑っている娘をうれしそうにみて、「おかしかやろ」と言って、ブタの
お尻にくるりとした線を入れ、「これでどうね」「うん今度はよか。」
それから「しっぽもひと役」と、ぶたの上の余白に書いたそうです。
永井博士は、「しっぽもひと役。ぶたのしっぽだってね、なかったらおかしいだろう。何の役
にもたっていないように見えるしっぽでも、本当はとても役にたっている、なくてはならない
もんなんだよ。」とやさしく説明してくれたそうです。原文はこちらを→クリック
私、好奇心だけは旺盛ですから、「天満屋」さんから、お菓子をすぐに取り寄せて見まし
た。
可愛いぶたさんのお尻に、ちゃんと尻尾がついていました、尻尾がついていなかったら、
本当に、ツルツルして、「おかしか」ですね。
私の祖父も原爆で亡くなり、回りにも被爆者の方が、沢山いましたが、永井博士の事を考
えながら、しみじみと食べました。
追伸です、
この、浦上には、潜伏キリシタンの組織があり、指導者の頭を「帳方」とよび、他に「水方」
「聞役」等がありますが、この組織を作った初代の帳方が、孫左右衛門で、子孫が帳方を
継承し、7代目吉蔵のとき、浦上三番崩れ(キリシタンが発覚し、検挙されること)で、入
牢、獄死殉教をしたそうですが、この、「長崎市永井隆記念館」がその屋敷跡で、永井博
士の妻、「緑」さんは、吉蔵の子孫にあたるそうです。
注:館内撮影については「永井隆記念館」の了承を得ています。
参考・文引用「この子を残して~永井隆著」「如己堂随筆~同)」「娘よ、ここが長崎です~
筒井茅乃著」「長崎市永井隆記念巻パンフレット」、他説明版より。
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