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2014年5月 6日 (火)

しっぽもひと役★永井隆博士~長崎市・松江市

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永井隆博士が書かれた、色紙です。


説明には

「この世になんの用事もないものが生かされてるはずがありません。

どんな病人でも、何かこの世において働くことができるから

いかされておるのでありましょう。私は、命の最後の一瞬まで、

いろいろ工夫して、何か働くことをみつけて働こうと思います。<如己堂随筆>より」


永井博士は、長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士

となります。この間、満州事変。中日事変にも軍医として参加をし、受洗をし、クリスチャン

になり、結婚をしています。


当時、結核患者が多く、「出勤してみると朝早くから患者待合室や受付は、息も苦しくなる

ほどの雑踏であった。」という状態で、医療器具も充分でなかったためか、「このまま数年

続けるなら、恐ろしい原爆病の起こることは、日食を予報するのと同じ確実さでわかってい

た、わかっていながら、相変わらず私は働きつづけた。」と言う状態だったそうです。


昭和20年6月に白血病とされ、余命3年の診断を受けますが、その三ヶ月のち、8月9日

に原爆が落とされ、大学病院内で大けがを負いますが、救護活動にあったっています。


二人の子どもは疎開して無事でしたが、妻、緑さんは、家屋の下敷きになり、そのまま火

に焼かれ、亡くなりますが、永井博士が家にもどり、緑さんの骨を拾って埋葬したのが、3

日後の8月12日だったそうです。

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(「長崎市永井隆記念館」展示写真より)。「原爆野を歩く永井隆(米軍撮影)」との説明書

きがあります。


この後、三山町木場で救護班を作り、巡回回診を行い、また、元の浦上に帰り、一坪のバ

ラックに住み、学会等で発表もしますが、昭和21年、病床に伏し、昭和23年如己堂が建

ち、そちらに移り住みます。「如己堂」とは、「己の如く隣人を愛せよ」との意味です。


中は見学できますが、二畳少しの広さ、裏に便所という家で、ここで、永井博士と二人の

子どもの生活が始まりますが、この家で、「長崎の鐘」「ロザリオの鐘」「いとし子よ」「この

子を残して」などを書き続けます。この時は、永井博士は、病床に伏したままです。

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この日も、修学旅行生が訪れていましたが、永井博士の精神が分かると良いのですが・・

左の赤く囲んだ所が、「如己堂」です。写真を撮ろうとしていたら、ボランティアガイドさんの

話も聞かずに、私の方にピースサインをするのがいて、どこの学校やら。

右の写真、「永井隆記念館」の建物ですが、この建物にも歴史があって、

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昭和25年、永井博士は家を増築し、戦後すさんだ子供たちのために、「うちら(長崎弁

で、私たち、の意味)の本箱」作りますが、国内外の博士の友人知人から多くの本が贈ら

れてきたそうです。

当時の看板。写真は、大勢集まっているところを見ると、開館の時か?

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当時の「うちらの文庫」に掲げてあったそうです。説明には、「誤解を生じかねない表現が

含まれていますが当時の状況や博士がこの「おきて」に込めた子どもたちへの願いを伝え

るために、展示することとしました。」と書いてありますが、これを読むと戦後当時の状況

が感じられると思います。

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その後、昭和27年「永井図書館」として建て替えられます。私も、この近くの山里小学校

に通い、帰宅の途中、良く寄ったところです。「如己堂」はその当時から、全く変わらない姿

でした。


この、「永井図書館」は、佐世保出身のブラジル在留邦人、宮崎隆榮氏が博士の所を訪

れ「うちらの本箱」を見て、図書館建設について話をし、昭和26年~27年にかけて、ブラ

ジル在留邦人、471人の寄附金1,747,188円と市費で建てられたそうです。


昭和44年に「長崎市立永井記念館」として改称。平成12年に「長崎市永井隆記念館」とし

て改称し全面改築。


昔は、一階の平屋建てだったのですが、いまは、一階が記念館、二階が図書室になって

います。図書室は、全く変わっていました。

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さて、実は、私、大きな間違いをしていて、永井博士は長崎生まれ、長崎育ちだと思ってい

たのですが、実は、島根県松江市苧町(おまち)で生まれ、父の医院開業のため、飯石郡

飯石町(現・雲南市三刀屋町に移り住んだそうです。


現在、雲南市にも「雲南市永井隆記念館」が建てられ、長崎の記念館とは姉妹館だそう

ですが、「如己堂」も、そのまま複製して建ててあるそうです。


さて、この際、永井博士の本を読んでみましたが、厳しく、真摯な中にもユーモアがあった

みたいで、「この子を残して」の中、「子らに向かってもらした言葉」に、次のような事が書い

てあります


■有名になるな!名前なんてものは、茶の間で、あめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけ

のもの。

■本を読んでいるときに来る見舞客は決まったように、「お退屈でしょう」と言う。日本人が

本を読むのは退屈なときだけかェ?

■決心は一生に一度しかするものでない。毎年元日に新しい決心をする人があるが、あ

れは儀式サ。

■こうして寝ておれば、悪い遊びもできないが、善いこともせぬものよ。

■買い被られるのは、胴上げされるようなものだ。いつ落とされるか、気が気じゃないよ。


さて、雲南市三刀町に「天満屋」というお菓子屋さんがあって、永井博士の「しっぽもひと

役」というお菓子を作っていて、「当年とって43歳!」と書いてありますから、43年作って

いるのでしょう。


この、ホームページの中に、「筒井茅乃」さん(永井博士の娘さん、結婚して名前がかわっ

ています。)が、「しっぽもひと役」について、当時の様子を書いておられます。長いので概

略を書くと


永井博士が墨で絵を描いて、「かやちゃん、これはどうね。」と聞かれ、見ると、一匹のぶ

たの絵だが、お尻がツルツルしていてなんともおかしい絵。


「おかしかー」と言うと、笑っている娘をうれしそうにみて、「おかしかやろ」と言って、ブタの

お尻にくるりとした線を入れ、「これでどうね」「うん今度はよか。」


それから「しっぽもひと役」と、ぶたの上の余白に書いたそうです。

永井博士は、「しっぽもひと役。ぶたのしっぽだってね、なかったらおかしいだろう。何の役

にもたっていないように見えるしっぽでも、本当はとても役にたっている、なくてはならない

もんなんだよ。」とやさしく説明してくれたそうです。原文はこちらを→クリック


私、好奇心だけは旺盛ですから、「天満屋」さんから、お菓子をすぐに取り寄せて見まし

た。

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可愛いぶたさんのお尻に、ちゃんと尻尾がついていました、尻尾がついていなかったら、

本当に、ツルツルして、「おかしか」ですね。


私の祖父も原爆で亡くなり、回りにも被爆者の方が、沢山いましたが、永井博士の事を考

えながら、しみじみと食べました。


追伸です、

この、浦上には、潜伏キリシタンの組織があり、指導者の頭を「帳方」とよび、他に「水方」

「聞役」等がありますが、この組織を作った初代の帳方が、孫左右衛門で、子孫が帳方を

継承し、7代目吉蔵のとき、浦上三番崩れ(キリシタンが発覚し、検挙されること)で、入

牢、獄死殉教をしたそうですが、この、「長崎市永井隆記念館」がその屋敷跡で、永井博

士の妻、「緑」さんは、吉蔵の子孫にあたるそうです。


注:館内撮影については「永井隆記念館」の了承を得ています。

参考・文引用「この子を残して~永井隆著」「如己堂随筆~同)」「娘よ、ここが長崎です~

筒井茅乃著」「長崎市永井隆記念巻パンフレット」、他説明版より。







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