「三ッ島の小鯨問題」★領地の問題について~諫早市・雲仙市
以前、「森山町民俗資料館」について書きましたが、一つ忘れていたので。館内に、「子鯨
の骨」が置いてあり、説明には
○昭和五十六年五月三十一日出土
○井牟田下名丁軒
町道北側路肩災害復旧工事の際、水田の下約1,5m付近から出土した。
「すさへごと竹は、干拓工事の基礎材料に使われていたもの」
○文献によれば、「安政六年(1859)三ッ島(旧山田村)の大島に、凡そ十米位の子鯨が
一頭漂着し、それの取得権をめぐって山田漁民と森山漁民が争い、結局半分ずつ分け合
った。」と、あります。
(注:山田村は町村合併で吾妻町となり、現在は雲仙市、森山町は現在は諫早市)
○その当時、現在の丁軒道あたりは大土井(でい)が築かれ、二反田川湖(えご)沿いの
船着場になっていた模様で、解体した骨を附近の海中に捨てたものと考えられる。
と書いてありますが、佐賀藩には海上の領海問題が多々あったようで、「諫早市史」の目
次にも、「島原との領海紛争」、「前海領海紛争」、「天領網場(あば)との紛争」、「大村領と
の海上紛争」とあり、この「子鯨の骨」も3番目の、山田村(島原藩)と、森山村(佐賀藩諫
早領)の領地の問題が感じられるのです。
いつものようにアバウトで言うと
赤い楕円の所が、佐賀藩諫早領と島原領の境あたり、愛野町には現在も、両藩の境石塚
が残っています。詳しくはこちらをクリック→「島原藩・諫早藩~藩境石塚」
黄色の矢印が、現在、開門かどうかの問題で揺れている、諫早干拓。
白の矢印が、今日の話の所です。
さて、この「子鯨」は、領海の問題も係わってくるようで・・・・
土地なら、領地の境を川とか、大きな石を目印にするとか、石塚を作るとか、方法はあり
ます。
ただ、現在も、はっきりしないところもあるらしく、某町と某町の、山の中の境が分からな
いという事で、両町で確認に行ったそうですが、結局分からなかったそうですから、まして、
昔の海の境といったら・・・・
森山町(佐賀藩諫早領・現在諫早市)は、有明海の潟海に面し、昔から、村々で小規模に
干拓が行われており、これが、次々に拡大したところ、島原藩と領地を接するところでは、
問題を起こすこともあったそうです。
元禄十六年、森山村杉谷村川筋に、「南端十間(約18m)、北の端十間、内六間半(約1
2m)を作った所、島原藩の境役から、新地(干拓地)ができると、近くに番所があり、入江
が狭くなり、隠れて出這入りする者に対し、目が届きにくくなるという申し入れ。
これに対し、一年ばかりして、「・・・そちらの番所近くにある、新搦みを、そのままして置か
れると、水の流れが悪くなり、こちらの方も差し支えるから、そちらの方こそ取り捨ててもら
いたい。それを捨てるという返事をもらえれば、こちらも取り捨てる。」というもの。
あとは、文書のやり取りになりますが、結局は立ち消えになります。
さて、次いで、正応四年(1714)、島原藩山田村から、森山庄屋の所に使いが来て、「森
山で新しいハジ(漁業のためガタに柵をたてること)を立てているが、そのハジは山田村漁
師の漁業に支障となるから抜き取ってもらいた」というもの。
庄屋の返事は、自分は知らない、村内に太郎介という漁夫がいるから、当人に聞いてくれ
と言うこと。
太郎介の所に行くと、ハジを立てるのは、一々役所へ願ったり、庄屋に尋ねるものではな
い、・・・・・近く新地を築くことになり、ガタも高くなるから魚は捕れなくなる。だから、ハジの
位置を直したまでの事で、別に何の意味も無いとのこと。使いはそのまま戻るが・・・
後日、山田村の庄屋の使いだと言うことで、森山の庄屋の所に、ハジを撤去するよう太郎
介に話をしてくれとの事だが、断られる。
今度は、山田庄屋の所に、使者が来てハジは、はやり、撤去できないとのこと。これに対
し、山田村から使いが来て、山田の漁師は、あのハジで迷惑するから、こちらで撤去する
と言い、森山で作ったハジを切り破ってしまい、あとは、まあ、新しく作ったり、壊したりの
泥仕合。
この事から、佐賀藩と島原藩を巻き込んでの争い。要するに、一歩でも譲歩すると、それ
が前例になるということ。
さて、これも泥沼合戦になりますが、結果は、五年目から、記録が見られないそうですか
ら、「両方とも根負けして、破壊(ハジの破壊)のやり合いは中止にしたのではないかとい
われている」そうです。
さて、やっと子鯨です。
時代は変わって、安政六年(1859)二月九日。三ツ島の大島付近で、鯨が打ち上げられ
ます。(地図の白の矢印附近)
諫早領の者が知った時は、すでに遅く、島原領山田村のものが来て、鯨を大網で島に引
き揚げていたところ、鯨が暴れ頭をガタに突っ込んで身動きできない状態。日が暮れてき
たので、番人を残し、引き上げるが、そこへ諫早領の漁民が、鯨を捕ろうと思って来くる
が、半分は切りとってあり、残りを捕りたいとの話。
これに対し、「ここは、島の付け根の所で漁事はされないから村で捕りに来たまでだ」との
返事。
諫早方は、「島のつけ根ならなにも申し上げないが見うけのとおり、ここはガタの上で、海
は諫早の海と心得ている。・・・・・・・」と言ったところ、山田側も、島のつけ根だと言い張り
譲らない。
諫早方は「明日は、諫早の海という明白な証拠を差し出すから。」という事で、引き上げ。
翌日、両方とも譲らずも、結局、役方同士で話し合い、半分ずつ分けると言うことで、交渉
成立。
以上、長々と書いて来ましたが、当時の領地問題が感じられる話です。ざっと書きました
が、実際は、文書のやり取りなども多くあり、もっと、長く複雑な問題です。たかが「子鯨」
にも、思わぬ歴史があるものです。詳しくは、「森山町郷土史」、「諫早市史」をお読みくだ
さい。当時の領地に関する考え方が、よく分かります。
(文引用・参考:「森山町郷土史」「諫早市史」より)
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